ハーフェズと主、と火打ち石

 サブアとサマネアをラズワルドの邸に移した日、フラーテスが故郷へと帰り ―― それから四日後、ラズワルドは太陽の光が漏れ出す早朝、ハーフェズとバルディアーを連れて抜き打ち調査へと向かう。
 調査されるのはサブアとサマネア ―― 本来ならば、移動させた翌日、抜き打ちするつもりだったのだが、さすがに忙しくなり、四日後になったのだ。
 この抜き打ち調査は驚かせるものではなく、彼らが慣れぬ生活で不自由していないかどうか? 分からないで困っていることはないか? を、確認するためのもの。

「寝起きにラズワルドさま見るはめになるんで、驚くと思いますけど」
「わたしの顔が目に優しくないのは分かっているが、やらなくてはならないのだ!」

 かなり大声で宣言したラズワルドだが、邸はとても大きいので、奴隷二人の耳には届いていない。
 三人は足音を極力消しながら廊下を進み、まずはサマネアの部屋を覗いた。
 まだ薄暗い部屋の片隅で眠っているサマネアを見つけたのだが、

「寝台から落ちて転がったのか?」
「どうでしょう……」

 寝台から落ちて転がったには無理のある場所で寝ていた。
 ラズワルドはサマネアをそのままにし、隣のサブアの部屋を覗く。

「……寝台の使い方、教えたよな」

 何故かサブアも寝台から落ちて転がったにしては、かなり無理のある場所で眠っていた。

「見たところ、寝台は使っていないようですね」

 ハーフェズは寝台へと視線を向け、全く乱れていないところから、使っていないと判断を下す。

「なんで?」
「さあ……」
「一回じゃあ、使い方わからなかったのかも知れないな」

 ぼそぼそと話をしていると、サブアが目を覚まし、

「起こして悪かったな。まだ早い、二度寝しろ」

 神の子が自分を見ているのに気付き、

「ひぃぃ! ご主人さまより遅く起きてしまって、済みません!」

 叫ぶと同時に平伏するという、奴隷として当たり前の反応を見せた。

「すっかり目が覚めちゃったみたいですね、サブアさん」
「そうだな」

 それから一時間半後、ラズワルドたちは朝食を取りながら、

「寝慣れない……ということか」

 なぜ床に転がっていたのかを二人に尋ねた。
 二人は謝りながら、当人たちもはっきりと分からない、理由らしきものを必死に喋った。

「気にせずに食え。それと寝具も寝ていれば慣れるが……肌触り、慣れたものに変えるか」

 たどたどしい話を聞いたラズワルドは、寝具を絹製から綿紗ガーゼ製に変えることに決め、そして朝食後、ラズワルドは全員を連れて、サマネアの部屋へと向かった。

「ところで、この寝間着も着慣れないから着ないのか?」

 枕元に置かれている絹製の踝まである長上衣も、畳まれたまま。

「?」
「?」

 ただ言われた二人は、神の子ラズワルドの言葉の意味が、まったく分からなかった。
 暫し沈黙が続き ―― 寝台の枕元に置かれている服は、眠る際に着る服だということを教える。

「寝る時に着替えるのだ。まあ、面倒なら着替えんでもいいが」

 二人はなぜ眠るときに着替えるのか? まったく理解ができなかった。

「それは、そのように使うんですか」
「ハーキム?」

 そしてもう一人、寝台の枕元に置かれた服を理解していない男がいた。

「ハーキム、自由民だった頃、寝間着着なかったのか?」

 元は自由民なので、寝間着の存在を知っているだろうと、ラズワルドは教えはしなかった。

「いや、その貧乏でしたので、そういうものは、使ったことありませんでした」
「あー……ラヒムは分かってるんだよな?」
「それは、メフラーブさまの所で、寝間着というものを教えてもらいましたから。基本奴隷は、寝間着なんて持ってません」

 ラズワルドは腕を組み、大きな窓から見える青空を見つめる。

「ハーキム、ワーディがいつも寝る前に着替えさせられてるのを見て、気付かなかったか?」

 酒盛りをした日などは、そのまま寝てしまうが、ワーディは片腕なので、平素は寝る前には誰かが手伝い着替えさせてやっていた。

「……ラズワルド公の問いに嘘をつくわけにはいきませんので、正直に答えさせていただきますが、ワーディは片腕がないので、着替えて寝たほうが楽なのだろうと思っておりました」

 両腕のある自分は着替える必要などないと、解釈していたのだ。

「根本的なことだが、ハーキムは枕元に置かれた寝間着を、なんだと思っていたんだ?」
「……飾りかな……と、思っておりました」

 耳を真っ赤にして、自分の勘違いを正直に告白するハーキムに、これといった援護はしなかったが、

―― たしかに机に布かけたり、花瓶に下敷き布があったり、壺に飾り布が掛かってたりするもんな……勘違いしても仕方ないか

 聞けば納得の理由だと、話を続ける。

「なるほど。……というわけで、これは寝間着といい、寝る時に着る服だ。面倒な場合は着なくてもいいが、たまには着替えて寝てみろ。で、二人とも寝間着に着替えてみろ」

 これは一度目の前で着替えさせねば……と。
 寝間着は着やすいものだったので、すぐに着替えることができ、さらに外へと出る用の服に着替える。

「……」
「……」

 そしてラズワルドから「寝間着は畳んでおけ」という命が飛び、サブアとサマネアは寝間着を持って硬直する。

「二人とも、俺が教えるから、そんな顔をするな」

 ハーキムがサブアの寝間着を手に取り「畳む」とは何かを教えてやる。
 彼らは服を畳むことができない。
 理由は、彼らは服を一着しか与えられていないので、服を脱ぐこともなければ、洗うこともなく、ぼろぼろになるまで着倒すので、服を畳む機会を得ることができない。

「元の形にするのか」
「凄いな、ハーキム。邸仕えの召使いだな」

 ハーキムに教えられた通り畳んでいる彼らと、三歳頃の自分よりも、なにもできない彼らに驚き、黄金を散らした瑠璃色の瞳を大きく見開き、口を開くラズワルド。

「外を見て下さい、その顔は見せちゃ駄目です。まあ二人とも、見ないと思いますけど、神の子にあるまじきお顔になってます」

 ハーフェズにそう言われたラズワルドは水平線を見つめ、意識は海を越えた先にある砂漠の半島の、滅びた国ネジド公国へと向けられた。

―― 奴隷廃止に巻き込まれた奴隷たちは、苦労しただろうなあ

 生まれた時から農園や牧場、土木作業現場で働いてきた奴隷たちは、教育を施す以前に、物事を知らないし、考えるということができない。

「畳み終わったか……初めてにしては上出来だ。次に明かりについてだが、あれ・・は使えているか?」

 ラズワルドは手の平大の球体を浮かせる。

「それは、使ってます」
「寝る時に、消してます」

 球体は明かり取り用で、精霊の力を使っている。
 油や高級品の蝋燭でも良いのだが、火事を起こしたり、火傷をしたら可哀想だと、ラズワルドはそれら心配のない、精霊の光を与えていた。
 ラズワルドの手の平大の大きさの球体は、持ち運び可能で「明かりを下さい」で点灯し「おやすみなさい」で消えるように作っている。
 一応声で持ち主が分かるよう ―― 与えた当人以外の声以外では、反応しないようになっている。

「これ、なんだろう? と思ったら、すぐに聞け。そして慣れないところがあったら、すぐに言え。分かったな」

 人間が好きで地上に降りてきたラズワルドは、主神メルカルトの言いつけを少しばかり無視しており、それが数日後の騒ぎに繋がる ――

「昼はショレ・ガラムカールを温めてなおして食え。弱火で丁寧にかき混ぜるんだぞ」

 ラズワルドから許可を事前に取っていたファルジャードから「ちょっと俺の仕事を手伝ってくれないか」とラヒムが頼まれ ―― 依頼が学問関係で非常に面白そうだったため、その誘いに乗り、ラヒムは日中隣家で試行錯誤することになった。
 彼はもともとラズワルドの食事を作るために雇われているので、ワーディやサブア、サマネアの昼食を作ってやる必要はないのだが、

「残ったら、ハーキムの夜食にするしな」
「俺の飯を食って、味に酔いしれろと言ってまーす」
「言ってねえよ」

 一緒に暮らしている面々の食事を作るのは苦ではないと、しっかりとした汁物を一品作った。
 ショレ・ガラムカール ―― 香草ハーブと豆の少し辛みのある汁物。
 水に浸しておいた扁豆レンズまめ雛豆ひよこまめ、隠元豆を、分量の五倍ほどの水を入れ火に掛け、沸騰したら弱火にしてしばらく茹でる。
 羊のすね肉は、玉葱に粉末の唐辛子、鬱金ターメリックと塩を入れた水で茹で、柔らかくなったら、鍋から取り出し骨を取り除き肉を潰す。
 茹でていた豆が柔らかくなったところで、米と塩を加えて火を通し、頃合いを見てそれらを潰し、先ほど茹でて潰した肉と、大量の生香草ハーブ ―― 薄荷ミント目箒バジル香菜コリアンダー丸葉大黄ルバーブ和蘭芹パセリを加えて弱火で煮て出来上がる。
 とろりした舌触りが特徴の汁物で、器に盛ったあと乾燥薄荷ミントを散らす。

「残れば夜食にするが、気にせず全部食っていいからな」

 言い残してラヒムは邸を出ていった。
 残った三人は、洗濯物を集め驢馬者で神殿へと運び、洗い上がった洗濯物とラヒムが書いた補給食糧の紙を担当者に渡し、用意された品を積み込んで、紙を受け取って邸へと戻り、指示された通りに食糧品を片付け、噴水に落ちているゴミを拾い、厩の馬の世話をし、荷物運びに役立つ驢馬にも飼料を与え、指示された通りに厩近くの井戸で、教えられた通りに石鹸を使い顔や手足を洗い調理場へと向かった。

 ファルジャードの邸で試行錯誤していたラヒムと手伝っているアルサランに、

「すこし休憩入れたほうがいいよ。頭使うと疲れるだろ」

 セリームが焼きたてのナンとマストキヤを出し、休憩するよう促す。
 マストキヤはヨーグルトに皮を剥いた胡瓜を生薄荷ミントを刻んだものと塩胡椒を入れて混ぜたもの。

「……ナン、まだあるか?」
「あるよ」
「マストキヤ食ったら、ナンを持って一度様子を見にいってくる。あいつら、ショレ・ガラムカールをちゃんと温められているかどうか」
「分かった。三枚? それとも六枚?」
「ワーディはまだ一枚しか食えないだろうが……できれば六枚」
「わかった、用意してくる」
「ではわたしも一緒に」

 アルサランもラヒムと同じくマストキヤにだけ口をつけ、出されたナンと、新たに焼いてくれたナンを持ち、ラズワルドの邸へと戻った。

「あいつら、食ってねえのかなあ」

 調理場に近づいているのだが、料理を温め直した時に立つ匂いがしない。

「奴隷に昼も満足に食えというのは、慣れないのかもしれない」
「そうだけど……って、どうした?」

 香り立つ温かいナンを抱えて帰ってきた二人が見たのは、調理場で膝を抱えて途方のくれている三人だった ――

「火を扱えない?」

 ラヒムが調理場にたどり着いた頃、邸の門をくぐったラズワルド。
 ラヒム同様、今日初めて三人だけで昼食を取るので、しっかりと食事を取っているかどうかを確認すべく、馬を駆り神殿から戻ってきてた所、ワーディ、サブア、サマネアの三人に泣きながら謝られた。
 その理由はラズワルドから直接昼食を取るよう命じられていたのにも関わらず、とっていなかった事に対する恐怖・・

「神命を履行できなかったから、神罰が下ると考えたんでしょう。まあ、仕方ないですよ、だってラズワルドさま直々の司令ですから」
「……」
「ラズワルドさま、神の子らしからぬお顔になってます」

 混じりけなしの善意で食事を取るよう指示したのだが、それが彼らの負担になっていることに、不服よりも驚きが遙かに勝った。
 そして、食べていないことに対して、罰はないこと、食べようとしていたのだが、温められなかったのだということを、ショレ・ガラムカールとナンをつまみながら聞き、

「こいつらが飯食えなかったのは、俺の責任です。こいつら、火を扱ったことなかったんですよ」

 ラヒムからも詫びられた。

「火を扱えないって……え?」

 物心ついた頃には、炎を自在に操ることができ、毎日の食事の際に「はやく煮えろ、はやく焼けろ」と炎を見て、肉汁の跳ねる音を聞き、焼き上がりを待ち遠しく待ち、錬金術実験で蒸溜のために液体を火にかけたりと、火のある日常を過ごしてきたラズワルドにとって、自分より年上の彼らが火を扱えないというのは、驚きだった。

「ラズワルド公柱、よろしいでしょうか?」
「なんだ? アルサラン」
「三人がなぜ火を扱えないか? それは火を使う仕事をしてこなかったからです」
「……いや、でも火って、いつの間にか使うもんだろ?」
「ラズワルド公柱、火を燃やすには燃料が必要です。そして燃料は無料ではありません」
「たしかに燃料は無料じゃないな」

 ラズワルドが調理場に視線を移すと、そこには形が整えられた薪が大量に積まれている。

「薪を燃やすのは、相当な金持ちなのです、ラズワルド公柱」
「あーそう言えば、共同炊事場は乾燥した馬糞とかだったな」

 メフラーブの家には薪が届けられていたが、共同炊事場は安い燃料である馬糞が使われていた。

「薪を燃やすのには慣れが必要です」
「ふーん。じゃあ三人とも、乾燥の馬糞とか牛糞が燃料なら出来るのか?」
「いえいえ、出来ません」
「なんで?」
「本当に彼らは火を扱ったことがないのです。ラズワルド公柱には信じられないことかも知れませんが、奴隷の中には火を一度も見たことないまま死ぬものも大勢います」
「はあ……へえ……」

 奴隷には火を焚く自由はない ―― アルサランが説明したように、燃料は無料ではない。街中の奴隷が運良く乾燥した馬糞を見つけたら、自分で使うより燃料店に売りに行き銅貨に変える。
 農園や牧場で働いている奴隷は、そこらの生えている木を折ることも、落ちている枝を拾うことも許されず、家畜の糞は飼料にされたり燃料にされたり、彼らが手出しできるものではない。
 火を使う主な場面は明かり取りと料理だが、奴隷は暗くなったら寝るので明かり取りは無関係に生き、料理は調理が出来る者が行い、時間に奴隷たちが所定の場所へと向かい、置かれている器を手に並んで一杯の麦粥を与えられ、それを手を使って食べる ―― 調理過程などを見たことのある者はいない。

「彼らは火をおこす術もありません。火打ち石などを持っているのなら別ですが」
「あー」

 ショレ・ガラムカールとナンを食べ終えたラズワルドに、ラヒムが作り置きしていた馬芹クミン入りの甘みある焼き菓子と、淹れたての紅茶を出しながら、

「種火は”そこにあるからな”って雑な説明しかしなかったもんで」

 自分の説明の不味さを謝罪する。

「ラヒムは賢いから、それで分かっちゃうんでしょうけどね」

 調理場には灯芯が大量の橄欖油オリーブオイルに浸され、燃え続けている器があった。

「賢いってか……まあ……きっと賢い……って、言わせるな! ハーフェズ」
「照れないでラーヒームー」
「多分ワーディさんたちは、あそこから火を移すってことが分からなかったんだと思います。俺も昔、いきなり店の雑用を与えられ、あかりを各部屋に持っていけって言われた時、なにをしていいのか? 分からなかったという記憶があります」

 ラヒムとハーフェズがじゃれ合っている側で、夜も明かりが絶えない男娼楼で働いていたバルディアーが、炎を移動させる方法が分からなかったと ――

「今回の全ての責任は、わたしにあるな」

 話を聞き終えたラズワルドは、彼らが火を扱えなかった原因は自分だと断言する。

「危ないからと、普通の人間は使わない明かりを用意したのが間違いだった。部屋の明かりは、普通の炎・・・・にすべきだった。危ないからとなんでも取り上げるのは間違い……メルカルトにも注意されていたんだが、ついついなあ」
主神メルカルトに?」
「そうだ。あまり過保護にすると、人間の発達、社会の発展が遅れるから、ほどほどに……と言われたいたんだが、ついつい」

 火を扱える人間を三人増やしたところで、なにが発達するのだと言われそうだが、道具の使い方を覚える人間が増えるというのは、それだけで人間社会の発展である。

―― やっぱり、神の子は早くに地上から去るべきだよな

 そしてラズワルドが自分を最後の神の子にしたい理由でもあった。
 意識せず、ついつい人間を甘やかしてしまう。結果として人間が考えて、作り上げるもの・・を善意で邪魔してしまう。
 ラズワルドは額に手をあて、心から反省する ―― その反省は光祈となり、室内は眩い光の欠片が舞う。

「ラズワルドさまの反省って、一目で分かりますよね」
「反省してないのも、一目でばれるけどな……よし、今日から火を使う練習だ! ところで、ハーフェズは火をおこせるのか?」

 ラズワルドはハーフェズが火を起こしている姿を見たことはない。

「任せて下さい。実は、俺持ってるんです! 火打ち石」

 ハーフェズは拳で胸を叩くと、腰に下げている小袋から火打ち石を取り出した。

「使えるのか?」
「はい! 武装神官になるためには、火をおこせなくてはなりません。武人は習うもんなんですよ」

 武人といえば野営はつきもの。身分の高い者は家臣が火の用意をするが、出来ないのは命に関わる ――

「そりゃあ、知らなかった」
「いっつもラズワルドさまが点けてくれますから……もしかしたら、腕がなまって点けられなくなってるかも!」
「……」

 ラズワルドは一番大切な人間の成長をも阻害していることに気付き、

「ラズワルドさま! なに祈ってらっしゃるんですか! 光過ぎて見えない! ちょっと! ラズワルドさま!」

 これからはあまり・・・人間を甘やかさないようにすると、天の国の父神に誓った。

―― 甘やかさにように気を付ける。ハーフェズは泣き虫だけど少し厳しくする。でもあんまり厳しくすると泣くから……でもワーディは腕がないからこのまま、サブアとサマネアは来たばかりだからもうちょっと優しく……気を付けるようにするが、まあ見ていてくれ、きっと厳しく、多分厳しく、まあ、あんまり厳しくすると泣くから、泣かない範囲で

「よし、火打ち石を買いに行くぞ! そして、習うぞ!」
「教えるんじゃなくて?」
「わたしも火打ち石の使い方は分からん!」

 彼らは火の扱い方を、ラズワルドと共に習うことになった。