改宗はラズワルドが担当し、アサドはハシュハラマーンと名を改めた。
「アサドと名乗って構わんぞ」
ラズワルドはサラミスたちを改名したときと同じく、元の名を使うことを許可した。
アサドが連れてきた部下たちの八割に、サマルカンドへ行ったことのあるサラミスの部下百名が、ファルジャードの代わりにサマルカンドを治めることとなる。
「アシュカーン殿が、恙なくサマルカンドを継げるよう、微力なら力を尽くさせていただきます」
出立を前にして
「アシュカーンが後を継ぐかどうかは分からんがな」
対する
「ファルジャード卿? それは……」
ファルジャードの答えに、アサドはアシュカーンに諸侯王位を継がせないのですか……と。むろん口に出すことはしなかった。
父親がここで要らないと明言してしまえば、幼い息子は易々と排除されてしまう。
「アシュカーンに王の素質がなければ、継がせんし、例え才があったとしても、本人が別の道に進みたいというのであれば、そちらに進ませてやる」
そして返ってきた答えは、アサドの頭脳を持ってしても、理解出来ないものであった。
「王の子ですぞ」
諸侯王の男長子に跡を継がせず、好きなことを自由にさせるなど ―― アサドのような人間には、理解ができないこと。
王の男児は跡継ぎであり、跡継ぎ以外に生きる道はない。それは、世界の常識である。
部下を送るために共に挨拶の席にいたサラミスは、随分とファルジャードの言動に慣れてはいたが、この考えには久しぶりに面食らった。
ファルジャードは二人の驚きなど我関せずとばかり。
「たしかに俺の子だが、相応しい者が統治者になるべきだ。俺は近々子供を十人くらい作り、成長したら長子を含め跡取りとして相応しいかどうか試験して、ふるいに掛けるつもりだ。もちろんなりたくないものは、試験を受けなくともよい。やる気があり、試験でもっとも成績が良かったものに、サマルカンド諸侯王の地位を譲るつもりだ」
「それは……また……」
驚きで口もきけなくなっているアサドの代わりに、サラミスが会話の相づちを打つ。
「ただ一つだけ、問題がある」
「なんで御座いましょう?」
「娘が成績最優秀者だった場合、いかにしてサマルカンド諸侯王の地位を譲ってやるかという
返ってきたのは、この時代どころか千年以上先でも、驚かれるものであった。
「ご令嬢にも、その権利をお与えになると?」
「そうだ。娘も息子同様に教育する」
女が男と同様の教育を受ける ―― これはこの時代では、革新を遙かに通り越し、最早狂気の沙汰とも取れる考え。
完全に言葉を失っている二人に、ファルジャードは淡々と語る。
「元々、跡継ぎを明確な試験により、資格を与えてよい者と、そうではない者に分けるつもりはあった。だがそれは男児のみのつもりであった。その考えを変更したのは、御主等のかつての主、ネジド大公がおこなった奴隷廃止宣言し、解放した奴隷たちに教育を施すという施策だ。俺はそのことを、メフラーブ先生に手紙で伝え、なにか意見などがあったら是非とも……と頼んだのだ。そして返ってきた返事が”解放奴隷に教育と言っているが、女の元奴隷にも教育を施すのか? それなら正しい廃止だと俺は思う”短い一文であったが、俺は衝撃を受けた。ネジド大公が奴隷制を廃止し、教育を施すと言った時、誰か女奴隷にも教育を施すのだなと、考えたものがあっただろうか?」
今は亡きネジド大公ユィルマズとイシュケリョートは、当然ながら男の奴隷にしか教育を施すことはなかった。
「俺はこの時、初めて気付いた。女に教育を授けてもよいのだと。そして己の愚かさに思わず、声を出して笑ってしまった。サラミス殿、文字を覚えたナスリーンからの手紙を喜んだあなたでも、女の解放奴隷に教育を施し官吏にするなど、思いもつかなかったであろう?」
ファルジャードはナスリーンから「
サラミスもナスリーン直筆の手紙に、わざわざ文字を覚えて書いてくれて幸せだと、アサドもその手紙の存在は知っている
だが彼らは、誰一人として解放された女奴隷に、教育を施そうなどとは考えもしなかった ――
「俺は驚いた。久しぶりに心底驚いた。ラズワルド公に、その手紙をお見せしたところ、メフラーブ先生が変わり者と言われる理由の一つに”女性にも私塾の門戸を開放していること”があるのだと教えられた。聞けば昔、メフラーブ先生の所に学問を学びに来た女が何名かおり、先生は彼女らに四則演算を、簿記を、そして薫絹語を教え、近所でも有名な変わり者となったのだそうだ。そしてラズワルド公は
変わり者のメフラーブは、ラズワルドが知りたいと言えば教え、実験をしてみたいといえばさせてやった。人間の女にそれをさせていたときは、変わり者であったが、神の娘が学んでいる姿は「神の子の御心に沿うことができて良かった」と受け取られていた。
「変わり者ですが……まあ……学べぬわけではない……のですな」
「そうだ。それを聞いて、娘にも機会を与えてみることにした」
「然様で。ですが、女の諸侯王は難しいかと」
「傑出していれば良いのでは? と、ハーフェズに言われ、俺もそう考える」
「傑出とはどれほどですか?」
「国境を接しているマッサゲタイには、たしかにトミュという女王がいた。あれは馬術と弓術を尊ぶ民族において、誰もがこれ以上の使い手はいないと認めた結果。まあ、娘が俺くらい頭が良ければ、諸侯王になれるのではないかと考えている」
類い稀な頭脳で、諸侯王の座に収まったファルジャードの一言 ――
アサドは挨拶を終え、サラミスに「才あり過ぎて家臣として仕えるのは大変な御方だが、あの御方を家臣として従えなくてはならない
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「お前もそろそろ結婚しろ」
ラズワルドの邸近くの護衛隊の詰め所で、ジャバードが部下というよりは娘のような存在であるターラーに、結婚を勧めた。
平凡な顔だちのターラーは十六歳、結婚適齢期である。
「えー、やだー」
ターラーとジャバードは、アッバース近くの漁村の生まれ ―― 漁に出てそのままアッバースに魚を売り、そこで得た金や物々交換で生活必需品を仕入れて村へと帰るのが、彼らの生まれた村の生活だった。
ジャバードは村で一番多い職業・漁師の息子で、幼い頃から体格もよく、船を漕ぐのも、泳ぎも得意で、力もあったのだが、何故か彼は釣果というものに恵まれなかった。洒落にならないほど魚が釣れず ―― 漁師以外で生きる道を捜したほうが良いだろうと言われていた。親の跡を継ぎ漁師になるつもりだったジャバードは、どうしようかと思っていた所、小さい魔物と遭遇し、戦って魔物を殺害した。
それを見ていた大人たちが「武装神官になれるな」と ―― 村を出てアッバースへと行き、そこで武装神官となった。
ターラーが武装神官になった経緯も同じなのだが、
「お前も十六だ、結婚しろよ」
「ジャバード結婚してないよね」
ターラーは若い娘で、ジャバードは中年間近 ―― そうは言っても男はまだまだ結婚できる年齢である。
「俺はいいんだよ」
「そりゃあ、ジャバードは良いよね。もっと年取っても、若い娘を大勢抱えられるような立場になったんだから」
親子ほど年が離れ、元は隊長と隊員という間柄なのにもかかわらず、ターラーが非常に馴れ馴れしいのは、ターラーの母親とジャバードの姉が友人同士なので、昔から知っているというのが理由。
「嫁なんて貰わないっての」
「やっぱり、側仕えとしては若い男の子?」
「俺のことはどうでもいい。ターラー」
「折角ラズワルド公の側仕えになれたのに、辞めるのは嫌なのよ」
「分かるが」
女性の武装神官は、結婚したら引退するのが慣習となっている。
「どこかに結婚しても、仕事を続けさせてくれる男性いないかな。できれば、お金持ち。でも年寄りは嫌」
「お前、何言ってるんだ」
”言いたいことは分かるがな”と言う言葉を飲み込んで、ジャバードは結婚を勧める。ただしジャバードの脳裏に、これと言った人物は挙がっていない。
「ファルジャードの奥さんになります?」
「ハーフェズ!」
「
いつの間にかやってきて、二人の会話を聞いていたハーフェズが”良い相手いますよ”と、
「え……」
「あ、いや。ターラーを嫁って、無理だろ」
ファルジャードはターラーが挙げた条件に合致するが、結婚したい相手かと聞かれるとターラーは口ごもるし、ジャバードもお勧めはしない。
「大丈夫かと。聞いてきますねー」
二人の困惑を余所に、ハーフェズは何時もの如く、風のように彼らの前を去り、馬に飛び乗りファルジャードの邸へ。そして ――
「別に構わんが」
ハーフェズと共にやってきたファルジャードは、ターラーの条件を聞き結婚しても良いぞと告げる。
「お金持ちですし、仕事を続けても構わないそうですし、もちろん抱いたりもしないそうです」
「毎月金貨三十枚の出費は許す。稼ぎも自由にしていい」
金銭面は充分。見た目も鋭く精悍な顔つきが好まれるペルセアでは、美男子の範疇には入らないが、整った優男という分類属し、その枠内では最上位に位置する顔だち。その顔だちの
ラズワルドの側仕えにとって最大の問題である、夫婦の交わりに関しては、女奴隷を大勢所有しているので、わざわざターラーを抱く必要はなく、いままで通り生理の時以外はラズワルドの呼びだしに応えることが可能。
「とても、ありがたいのですが、ターラーにはごくごく普通の相手と結婚して幸せになって欲しいので」
ジャバードが代わりに断るが、
「結婚しても仕事を続けたいという条件を呑める男は、俺くらいしかいないと思うぞ」
ファルジャードから返ってきたのは、もっともな答え。
「あー……。そうなんですが」
「夫人が嫌なら妾でどうです?」
この時代、妾というのは卑下される存在ではない。ましてや王の妾ともなれば、貧乏な男に嫁ぐのとは、比べものにならない良縁である。
「いや、あの……お金稼げるから、妾にはならない! あの、その……もしも、子連れで旦那と死に別れたら、その時は諸侯王さまのお妾にしてもらえたら、嬉しいかなあ」
富裕層の男が女を大勢侍らせるのは、夫と死に別れ、子供を抱えて困り果てている女を救済するという面もある ―― 別の男の種の子ごと女を囲い、育ててやることも珍しくはない。
「了承した。そういう事がないといいがな」
「あ、ありがとうございます」
「ところで、ターラー。具体的にはどういう男がいいんだ? 捜してやるぞ」
「いや、あの……」
そんな話をしていると、いつの間にか居なくなっていたハーフェズが、
「シャープールさんでどうですか! 若くて美形でお金持ちで、良いところの出で、性格もファルジャードなんかより、ずっと良いですよー!」
シャープールの腕を引いてやってきた。
性格が良い方の貴公子こと、事情を聞かされず連れてこられたシャープールは、話を聞いて、
「わたしの妻になると、厄介だぞ。実家に母がいるのでな。結構煩い姑になっていると、兄から聞いている。ファルジャード卿は姑も舅もいないから、非常に楽であろう。妻になること自体は問題はない。聞けば条件は、わたしとしても願ったりだ」
ラズワルドの側に侍られぬ日を一日たりとも作りたくないシャープールとしては、ターラーのような考えの女は妻として迎えても構わなかった。
「両親がいない適齢期の男性で、良い人いませんか?」
「……キュアクサレスか」
「誰ですか、その人」
「ファルナケスの弟の一人だ。ファルナケスの両親であれば、わたしの言うことは聞くから、ターラーを悪く扱うようなことはせぬだろう」
「たしかそのファルナケス殿は、フリギア王家縁の人であろう。ああそうだ、たしかパルハーム殿のご子息でカルデア諸侯王ベルシャザルも妻が欲しいとか言っていたな」
ジャバードが「庶民に王家筋の人は無理です」と必死に抗い ――
「結婚したい相手ができたら、結婚すりゃあいいだろ。まあ相手の気持ちもあるから、それらを考えて親交を深めて、納得できたら結婚すりゃあいい」
最終的にラズワルドの「好きにすりゃあいいだろ」との言葉で、一旦は収拾がついた。
その後、ターラーはジャバードとメティに謝る。
「昔、外回りしていた時は、ああいうこと言っても、夢見過ぎだろうで終わってたけど、いまはそうじゃないのよね。王さまがあちらこちらにいるのよね。理解してなかった」
軽い冗談込みで希望を話したのに、その条件に見合う男性が、次から次へと現れたこと ―― ただ悪いことだけでもなかった。
「そうだな」
「でもさ、適齢期を大幅に過ぎちゃったら、
ターラーは自分の結婚に前向きに、そして真剣になった。
「お前の言葉、全く否定できないぞターラー」
「ファルジャード卿も”構わんぞ”で済ましそうだな……ターラー、真面目に結婚相手探すぞ」
「分かったメティ! ジャバードも協力してね」
「もちろんだ。お前にはサマルカンドの諸侯王だとか、メディアの貴公子だとかは分が過ぎる」
メティとジャバードは、ターラーの身の丈にあった結婚相手を見つけようと、決意を新たにする。
ちなみにメティとジャバードは、結婚するつもりはない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「
ファルジャードの新作、
「明日、爪を塗りましょう」
「頼むな、バルディアー」
入浴の介添えをしてくれているバルディアーに髪を拭いてもらいながら、ラズワルドは脱衣所を後にする。
「どうした? ハーフェズ」
ラズワルドは駆け寄り、床に膝をつきハーフェズの顔をのぞき込む。右頬を床に預けているハーフェズは、魂が抜けかけているような表情で、涙を流していた。
ラズワルドはハーフェズが泣いているので、いつものように黄金の髪をぐしゃぐしゃにしながら、頭を撫でてやる。
するとハーフェズは鼻を啜りながら、
「街の人に嫌われているみたいなんです」
そんなことを言いだした。
「なんだ? 嫌いだって言われたのか?」
「そうじゃないんですけど、大通りを歩いていたらゴミを投げつけられるんです。それも複数の人が、笑って。投げつげたあと、すぐに踵を返して逃げてしまうんです」
ぐずぐずと泣いているハーフェズの頭をラズワルドは撫で続ける。
「ゴミか……石とかじゃないんだな?」
なんでわたしのハーフェズに、そんなことをするのだろう? と、思っていると、奇妙なものを投げつけられているのだと ――
「はい。色とりどりなものを」
「…………色とりどり?」
この時代、色は高級品。染料が発達していないため、服とて貴族や金持ちが着るものは、色がはっきりしているが、貧乏人は糸や生地を晒さない、そのままの色合いの服を着ている。それらは日常品にも言えること。
「ひゃい……ずび……」
「大通りで、ハーフェズにものを投げつけてきたのは、庶民か?」
「庶民ですね……ぐしゅ……。それほど貧乏ではなさそうですが、生成りの服に、ずび……ぼやっとした色の糸で刺繍してましたから」
聞けば聞くほど、ハーフェズの言い分はおかしく、また
ラズワルドは髪を拭いている
「具体的に、何を投げつけられたんだ?」
「花でふゅ……」
「花? ……ハーフェズ、それは嫌われているんじゃなくて、好かれてる証だ」
薔薇色の花崗岩製の床に涙の水たまりを作っていたハーフェズは、「え?」と目を見開いた。
「若い娘が憧れの男に花を放り投げる……という習慣が、
「ラズワルドさま、なんでそんなこと、知ってるんですか? そういうの、俺より疎いのに」
「ここに来たばかりのアルサランも、その花攻撃食らったんだそうだ。それで聞いた。今でも食らっているらしいが……バルディアーは食らったことはないのか?」
ラズワルドは泣き止んだハーフェズの腕を掴み、引き起こす。
「それは俳優や吟遊詩人などの、憧れの人に対して行う行為です。ただの武装神官に、そのようなことをする人はいません」
「ハーフェズやアルサランは、憧れの対象になるのか?」
「まあ、端的に言いますと、容姿が優れている人が、一番憧れられますね」
ラズワルドはハーフェズの顔をのぞき込む。
「若い娘受けする顔なのか? そうなんだろうな……」
故郷では泣き虫と知られているので、まったく同い年の女の子から人気がなかったハーフェズだが、アッバースではそんなことは知られていないので ―― 数年後、故郷に帰ると、昔のこと知っている乙女たちからも、うっとりと眺められることになるが、ラズワルドにとってハーフェズの顔は子供の頃から同じにしか映らない。
「嫌われてないなら、良かったです!」
先ほどまで泣いていたのが嘘のように、身軽に立ち上がり、笑顔を浮かべる。
「でもハーフェズが、人に嫌われて泣くとは思わなかった」
ハーフェズはおよそ他人のことなど、気にならない性格だと思っていたバルディアーは、泣いていた理由を聞き、思ったことをそのまま口にする。
「それですか? それは、ものを投げつけられたからです。この先も出歩いてものを投げつけられたら、危ないからラズワルドさまと一緒にお出かけできなくなるじゃないですか」
「……あ、そういうことか。それならハーフェズが泣くのも分かる」
廊下で思わぬ立ち往生をしてしまったラズワルドたちに、調理場から「冷めるぞ!」とラヒムの声が聞こえたので駆け出した。
ちなみにハーフェズに投げつけられていた花は
「花より球根を投げつけてくれたほうがいいのにー。そうしたら、拾い集めて庭に植えて咲いたらラズワルドさまと楽しめるのにー」
そんなことを言いながら、茎の長さもまちまちな