ハーフェズの主、と神の末裔たち

 ペルセア王国王都ナュスファハーン ―― 城壁で囲まれた大都市。
 東西南北にある城門を守る衛兵がいる。
 門の内側、すぐ側にる詰め所で、大勢の人の出入りを見張り、偶におかしな者を見かけたら声をかけ ―― 悪い衛兵は、通りたければ賄賂を寄越せなど……。
 門の開け閉めも衛兵の仕事で、夕方から朝まで城門は閉ざされるが、火急の際には門を開ける必要があるので夜勤もある。
 この時代は夜勤だから賃金が高くなることはなかったが、費用は衛兵を管理している衛所持ちで、夜朝の食事が付いていた。
 食事はかなりの人気で、夜勤を好む衛兵も多い。
 そんな詰め所の一つ、東の一門の衛兵たちの腹を満たしていた、所調理担当者が怪我をした。一週間ほどで治るのだが、その間の食事が問題になった。
 調理ができる男を急遽捜す必要があり ―― 件の東の詰め所で働いているカーヴェーが「明日、俺夜勤なんだよなあ」と愚痴を漏らしたところ、メフラーブが「キルス、一週間働いてきたらどうだ」と持ちかけた。
 ちょっと仕事は増えるが、大したことではなかったので、キルスは引き受け、一週間詰め所で二食を作った。

「キルスの飯が食えるのも、今日で最後か」

 夜勤明けの朝キルスは、米を炊き夜から仕込んでおいた、骨付き羊のすね肉の煮込みマーヒチェを仕上げ、器に両方を大盛りにして出してやる。

「キルスの料理は本当に美味いよなあ」
「そりゃあ、神の子がお気に召しているマリートさん仕込みだからな」

 キルスは「料理を覚えろ」とは言われていなかったが「宦官だから料理を覚えておけ」とメフラーブに言われ、マリートの手伝いをしながら、料理を学び、随分と上達していた。
 城門前に立つ衛兵二人が舌鼓を打っていると、見回りに出ていた衛兵二人が帰ってきた。

「戻ってきた……なに拾ってきてんだよ、お前等」

 器にご飯を持っていたキルスが、大声を上げる。

「いや、だって、落ちてたから」
「元の場所に返してこいよ、カーヴェー」
「なんだけどさあ」

 カーヴェーが拾って・・・きたのは人間。
 見るからに浮浪者。キルスは一人分には足りないあまり・・・を浮浪者に与え、カーヴェーたちと朝食を取りながら話を聞いた ―― 話そのものは、ごく簡単で、見回りをしていたら、道の片隅にこの浮浪者がおり、空腹で動けなさそうだったので、連れて帰ってきたというもの。

「で、どうするんだ? カーヴェー」

 カーヴェーと一緒に見回っていた衛兵、拾わないで通り過ぎようと言ったのだが、お人好しのカーヴェーは肩を貸し、詰め所まで連れてきてしまった。

「売りに行く……」
「売れると思ってるのか? カーヴェー」
「……」
「売れるなら、こいつ自身、自分で売り込んでるだろうよ」
「だよなあ」

 食うに困ったら自分を売る。これは誰もが幼い頃から、教えられていること。偶に教えてもらう前に親と別れてしまい、浮浪孤児として街中を徘徊している子供などもいるが、そういう子供は捕まえ、奴隷商のところへと連れて行かれる。
 ただし、条件がある。

「特技もなさそうな爺さんの上に、片足引きずってるんだぞ。誰が買うんだよ」

 浮浪者なので「健康」はともかく、若さは必要。
 カーヴェーが拾ってきた奴隷は、白髪で所々薄くなっており、髭は汚く伸び放題。顔は皺だらけで、肌はかさつき、右足を引きずっている上に、食事を口へと運ぶ匙を持つ手も微妙に震えている。

「ほら、善行用に」
「問題解消にならないだろう」

 死にかけている金持ちが、天の国へと行くために、奴隷解放という善行を行う。その際に、解放しても惜しくない奴隷を買う。カーヴェーが拾ってきた老人は、そういう意図では買ってもらえるだろうが、小金を持たされすぐに解放されてしまい、結局はまた奴隷に戻るか、行き倒れるか ――

「だよなあ……爺さん、特技とかあるか?」
「……ない」

 カーヴェーの問いに答える老人の声は嗄れ、生気の欠片もなかった。

「奴隷商の所に売りに行くけど、それでいいか?」
「ああ」

 だが、当面の雨風と飢えを凌ぐためには、結局売られるしかなく、カーヴェーは奴隷商の所へ連れていってやることにした。

「まあ、乗れよ」

 食事の後片付けを終えたキルスは、いつも驢馬車で神殿へと行き公衆浴場ハンマームで体を洗い、物資などを受け取り帰るので時間がかかるのだが、老人の足が悪いこともあり、驢馬車の荷台にカーヴェーと老人を乗せた。
 カーヴェーは驢馬車の荷台で眠り ―― 陶器の器に入った葡萄酒など、割れ物注意な品を積むことも多いので、荷台には柔らかな綿が敷かれ、木綿が掛けられており、庶民にとっては自分の家の寝床より快適。
 入浴を終えたキルスは「今日はラズワルド公からの神書はないよ」と ―― 手紙を持って帰るのもキルスの仕事である。
 あとは羊肉と葡萄酒と麦酒、さらには蜂蜜酒ミードが入った瓶に、新しい石鹸を三つ。そして最近ラズワルドが気に入っている砂糖が詰められた壺を乗せて、メフラーブの元へと戻った。

「あー寝た、寝た」

 到着してからカーヴェーを起こすと、すっきりとした表情で起き上がった。
 その後、売る前に少しは老人を綺麗にしたほうが良いかもしれないと ―― 金はカーヴェー持ちで、キルスがメフラーブと共に公衆浴場ハンマームへと連れて行き、悪臭が漂っていた襤褸ようふくを洗濯に出す。襤褸ようふくは夏の日差しですぐに乾き ――

「みすぼらしいけど、なんとかなるだろう」

 老人を売った金はカーヴェーの懐へ ―― 詰め所で食べさせた食事に洗濯に公衆浴場ハンマーム代になるかどうか? 赤字になる可能性すらあるのだが、そこはカーヴェーが好きで、そして少しばかり余裕があるのでやっていること故、誰も文句は言わない。

「ほんと、あんたってお人好しよね」

 スィミンはそうは言うが、カーヴェーのこの優しさを好ましく思っているので、呆れたような素振りなどはなく、むしろ惚れ直したかのような感じですらあった。

「明日、朝一番に俺が売りに行ってくるな」
「頼む、キルス。手間賃も払うから」
「要らないな」

 老人には夕食を与え、今夜は驢馬車の荷台で休ませ、明日奴隷市場へと連れて行く ―― 老人はまったく反発することはなかった。
 ほとんど反応のない老人だったが、マリートが作った夕食を食べた時は、その美味さに驚いたようで、何度も手元の肉とマリートの顔を見比べていた。

「先触れ……なんだ?」

 夕食後に一息ついていると、メフラーブの元にヤーシャールから「今からそちらに伺います」なる先触れが届いた。

「なんでしょうね、メフラーブさま」
「さあなあ」

 神の子が来るからといって、部屋を片付けるわけでもなく、メフラーブは麦酒を杯に注ぎ、のんびりと書を読む。

「お久しぶりです、メフラーブ先生」

 先触れがやって来たから、一時間も経たぬうちに、ヤーシャールが最側近のカイヴァーン部隊と共にやってきた。
 何時もならばキルスは席を外すのだが、先触れには同席するよう書かれていたので、不思議に思いながらもメフラーブの後ろに立っていた。

「久しぶり……地下神殿の最下層に行ったのか?」
「はい。ラズワルドのように、髪の色が変わったりはしませんでしたが」

 ヤーシャールの文様は元々額の全てを覆い隠していたが、耳までは覆っていなかった。だが今はその耳が青で覆われ、袖からのぞいている両手の平から、肩付近にかけてもメルカルト文様で覆われた。
 これは彼が最下層までたどり着いた証 ――

「それで、なんだ?」
「メフラーブ先生はフラーテスが帰ったこと、ご存じで?」
「さすがに知っている。一週間ほど前に、残された品を運ぶ隊列を見かけた」
「その品の中に、ラズワルドにすぐに渡して欲しいという品が幾つかありまして。そこでわたしとシャーローンが、アッバースに向かうことになったのです」
「そうか」
「メフラーブ先生、なにか届けるものは御座いますか?」
「俺はない。……で、わざわざヤーシャール公が来たのは、それだけじゃないだろう?」
「ええ。キルスをラズワルドの所へ連れて行きたいのです」

 話を聞いていたキルスは驚き ――

「連れて行くのは構わんぞ。こいつは、もともとラズワルドの奴隷だからな」

 メフラーブは特に驚くことはなく。

「キルスを帯同させる間、神殿から人を寄越しますので、是非とも一日おきでよろしいので、ご入浴下さい」
「いや、まあ……お袋がなあ」
「いいではありませんか」

 ラズワルドがメフラーブを入浴させるのは、養祖母から「うちの息子メフラーブが、ちゃんと公衆浴場ハンマームに通うようになって嬉しいわ。神の子が来て下さったおかげです」と言われたのが原因である。ラズワルドはメフラーブの母親も大好きで、そう言われたらと ――

「そうだ、キルス。売りに行こうとしていたあの男、あれを雇うか」
「ええ! あの爺さんを?」
「そんなに難しい仕事を頼むわけじゃないから、本当はうちで雇うのはあの老人くらいでいいんだ。お前はここで働くような器量スペックじゃない」
「いや……でも……」
「ところで、どうしてキルスを?」
「最下層までたどり着いたところ、海神に泣きつかれたのです」
「海神? 海はたしか主神メルカルトが」
我らが父神メルカルトではなく、別の宗教の海神でして……やはり、心当たりはあるか、キルス」
「えあの……本当にすんません……あいつ、なにして……」

 事情の説明を受けたキルスは、ヤーシャールたちと共にアッバースへと向かうことになり、老人は下町の神殿に寝泊まりし、メフラーブの家へと通うことになった。
 多少足が不自由でも、準備を調えメフラーブを公衆浴場ハンマームに連れて行くことはできるし、驢馬車を牽いて荷物を運ぶこともできる。
 ほんとんど何も語らぬ老人は、賃金を求めることもなく、夕方にはメフラーブの家で食事を取り神殿へと帰る ―― しばらくして慣れた頃、老人がぽつりぽつりと語る身の上をメフラーブは聞いたりもした。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 ハーキムと共に購入された奴隷キルス。ラヒムを連れて行くにあたり、家の雑用をこなす人間が必要だと考えたラズワルドが直接買った、かなりの値が付いていた宦官奴隷である。

 キルスの生まれはヘレネス王国 ―― らしい。
 幼い頃に別の国に連れて行かれたので、キルスは断言できないのだが、顔だちが「まさにヘレネス人」であり、以前ラズワルドの依頼を受けるべく王都に滞在していたレオニダス傭兵団の面々が「間違いなくヘレネス人だ」と ―― キルスにとって、自分の生まれた国がどこなのかなど、大した問題ではなかった。

 キルスの最も古い記憶は、ラヒムと同じく陰茎が切除された時のもの。
 数名の同い年くらいの奴隷と共に、医者の家へと連れていかれ、そこの弟子に陰茎だけを切除する不完全去勢手術を施された ―― 人の命が安い時代、奴隷を買って医療技術を試すなど、良くあることだった。またキルスが連れて行かれたのは、奴隷商と繋がりのある医者の家。
 宦官は値が付くので、奴隷商は医者に切除を依頼していた。
 医者のほうも、報酬がもらえる上に、色々な実験が出来るので、よく引き受ける。
 処置に慣れている医者と、そこの出来の良い弟子によって手術されたキルスは、苦しい思いをしたが、命を落とすことはなく、傷が治るとすぐに国外へと輸出された。
 ヘレネス王国も、ペルセア王国と同じく自国の民を去勢するのは、罰金刑に処されるためだ。
 キルスは船で多島海を東に進み、リュディア王国の神殿に売られた。
 リュディア王国には聖なる儀式により、完全去勢しその後、女装し女性神官として女神キュベレーに仕えるという宗教があり ―― キルスは不完全去勢の上に、儀式に則った去勢ではなかったので女装を許されなかったが、去勢はされていない男性奴隷よりも扱いは良く、神殿で学ぶことができた。

「おーい、おーい……本当に聞こえなくなったな」

 キルスは幼い頃から、不思議な声が聞こえていた。なんだろう? と思っていたキルスだが、ある日その声は「神だ」と名乗った。
 その頃のキルスは「神」というものを理解していなかったため「?」と ―― 声はキルスが陰茎を切り落とされた後、耳元で鬱陶しいほど泣いた。

『わたしの血は、ここで途絶えるのか』

 痛みに呻き熱に魘されていた、幼いキルスには、神の声は聞こえていたがまったく記憶に残らなかった。
 激痛が引くと、声が久しぶりに話し掛けてきた。

『大丈夫か?』
「痛い」
『そうだよな』

 多島海を船で渡っている時、キルスには声が非常に近くに感じられた。

『わたしは海神だ』
「かいじん? なにそれ」

 当時のキルスは、海神というものが分からず ―― リュディア王国の中心、海から離れた高地に連れて行かれた。

『これ以上海から離れると、わたしの声は届かない』

 そう言われたが、数名の奴隷と足首を縄で繋がれ、驢馬車の荷台に乗せられていたキルスにはどうすることもできない。

『頑張って見守るからな。わたしのただ一人の末裔クレオパスキルスよ』

 海で聞いた時よりも、随分と遠くなった声を聞きながら、キルスは荷台で揺られ、神殿に売られた。
 以来、幼い頃から聞こえていた声は聞こえなくなり、キルスは神殿でそれなりに頭角を現した。

クレオパスキルス! 逃げるんだ!』

 ある夜、数年ぶりに声を聞き、キルスは飛び起きる。
 辺りを見回すが、誰も起きてはおらず、悪ふざけされたのでもない ―― キルスは外の空気を吸うために大部屋から出た。
 満月の月明かりが眩しい夜だった。

クレオパスキルス!』
「……なんだっけ? 海神だったっけ?」

 神殿で学び「海神」を理解したキルスが声を掛ける。

『そうだ! クレオパスキルス! お前、男性器を完全に失う危機が迫っているぞ!』
「……は?」
『お前の優秀さを、キュベレーの神官たちが買って、お前を完全な神官に仕立て上げるために、残っている男性器を切除するつもりだ』
「待て! 待て! 待て! そんな話聞いてない!」
『とにかく逃げろ、クレオパスキルス!』
「逃げろって言われても、俺奴隷だぞ?」
『そこにいたら、また痛い目に遭うぞ』

 海神の声に、陰茎を切られてから過ごした日々を思い出し ―― キルスは声に従い逃げることにした。

「どこに逃げりゃあいいんだよ!」
『東以外ならどこでもいい』
「東以外?」
『東以外の三方向は、海にたどり着く。海の側まで来てくれたら』
「……ところで海が近くにないのに、どうして話ができるんだ?」
『別の神の力を借りている』
「なんの神だ」
『月の神だ』

 夜空に輝く月を見上げ、

『満月以外は、声を届けることはできない。要するに、話せるのは今夜だけだ』
「役立たず!」

 キルスは必死に逃げ ―― 世に言う逃亡奴隷となった。
 ただ服とも言えないような襤褸を纏い、文字を書くこともできなければ、計算もできない、見るからに……な奴隷とは違い、キルスは読み書きができて、神殿で与えられていた服もみすぼらしくはなかったため、逃亡奴隷として見とがめられることはなく、

―― 声がまた聞こえるまで二十八日……よし、声を無視して東に向かおう

 逃亡初日に東のダマスカス王国へと向かう隊商を見つけ、そこに運良く奴隷商がいたので「盗賊に襲われ、逃げている間に、主人とはぐれてしまった」と近づき、宦官で読み書きができる事を見せて売り物になることを証明して、無事リュディア王国を脱出し、ダマスカス王国まで連れていってもらうことに成功した。

「お前、出来がいいから、神殿に売ってやるぞ、ガラシモス」

 念のためにクレオパスからガラシモスに名を変えていたキルスは、奴隷商に気に入られ、良いところに売ってやると ―― 神殿に掛かっている旗に覚えがあり、奴隷商に尋ねると「主神はキュベレー」と教えられた。
 旅の間、キルスは出来の良さを奴隷商に散々披露した。
 良いところに売られるためには、当然のことなのだが ―― リュディア王国の隣国ダマスカス王国もキュベレーを奉じているとは知らず。
 神殿に売られたら、馬鹿なふりをしようか? と、一瞬思ったが、愚鈍な奴隷に対する扱いの悪さは、目の当たりにしてきたので、それも出来ず。

―― 声に従っておけば良かった……

 後悔していたキルスだったが、

クレオパスキルス!』
「海神か。あのな」
『分かっている。神殿に売られそうなんだろ。だが安心しろ。ペルセア王が死んだ』
「ペルセア王?」
『ペルセアの神はメルカルト。優秀者の男性器を切って神官にするという教義はない』
「……よし、俺はそこ行きの奴隷になればいんだな!」

 ペルセア国王シャーハーン・シャーファルナケス二世死去。これがキルスの光明となった。
 大国の王の死去は奴隷商たちの耳にも入り、多くの奴隷が入り用になることを理解した彼らは、手持ちの奴隷をペルセア王国まで持って行くことにした。
 キルスは神殿でペルセア語も、少しだけだが習っており ―― 奴隷商に大陸の共通語たるペルセア語を話せることも披露して、自分を売り込んでいたので、

「ガラシモスはペルセア語、理解できたな。……ペルセアで売ったほうが、高値がつくか」
「是非、ペルセアで売って下さい」

 ペルセア王国でも高く売れるだろうと判断され、キルスは無事ペルセア王国へと逃れた。
 ここまで連れてきて、しっかりとした相手に売ってくれた隊商の奴隷商に感謝し、買われたアルダヴァーンの出身地である神聖都市で、睾丸を切られる不安なく暮らしていた。
 海からは離れてしまったので、海神の声が届くのは満月の夜だけ ―― それから魔王の復活未遂に強い魔物の襲来などが発生する。
 それらを排除してくれた神の子たちに対して、国王だけはなく各地の有力部族も献納を行った。
 キルスがいた神聖都市からも献納が行われ、キルスはその一品として王都へと送られた。ただ献納品奴隷が多すぎたので、神殿側は奴隷商に売ることにし、キルスは奴隷市場に並んだ。その場には王都一の奴隷商ゴフラーブもおり、キルスの瞳に宿る知性の光と、

「こいつは、ハーフェズに似ているところがある」

 キルスの知らない誰かと似ているのが幸いし、買われた。

『ぐがが……神の子いっぱい……わたしの力……弱い』
「だから忘れられるんだよ、海神」

 キルスの祖先である海神は、海から離れている上に、神の子が大勢いる王都にはどうすることもできず ―― 月の神の力を借りても、かろうじてしか声が届かなくなった。

 そしてラズワルドに買われ ――

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「まさかボウルーネーセーヌスの奴、キルスのこと探せなくなっているとは、思わなかった」

 アッバースにやって来たシャーローンとヤーシャールを出迎えたラズワルドは、キルスを連れてきた理由を聞かされた。
 その理由は、改宗により改名したことで、海神がキルスをまったく感知できなくなったこと ―― ラズワルドが名前を与えれば、魔王の僕マジュヌーンたちは、国内にいてもアルデシールを見つけることができない程。
 キルスに新たな名を授けたのは、当然ラズワルドで、忘れ去られた海神ボウルーネーセーヌスは、遠く離れた末裔との僅かな繋がりクレオパスを、ラズワルドの力により断たれてしまった。

「ザフォン(メルカルト神話、海神の一柱)の所に頼みにきていた」

 だが最後の一人を見守りたいのだと、わざわざ他の神に頼み込み、丁度良く地下神殿最下層にやってきたヤーシャールが話を聞き、キルスを連れてきたのだ。

「本当にご迷惑をおかけいたしました」
「とりあえず、会いに行くか。ジャバード、船を出せ」

 ラズワルドはキルスを連れて小舟に乗り、海に漕ぎだしてから、ザフォンを通して忘れ去られた海神ボウルーネーセーヌスに声を掛けてやり、

「ばーか! ばーか! 今のご主人さまに迷惑かけるな、ばか祖先!」
『久しぶりだな! クレオパスキルス! 会いたかったぞ!』

 かみ合わない感動の再会となった。
 もっともかみ合わなさを理解できるのはラズワルドだけで、櫂を持っているジャバードには、キルスが一人大声で叫んでいるようにしかみえなかった。
 キルスはヤーシャールとシャーローンの用事が終わるまで、当然アッバースで過ごし”ここに残ってもいいんだぞ”という誘いを断る。

「ありがたいのですが、ここに居ると、海神あいつ煩くて。偶に話す程度でいいんですよ」
「お前がそれで良いなら」
「ラズワルド公、一つお聞きしてもいいですか?」
「何でも聞け」

 キルスはゴフラーブに買われた時、ハーフェズに似ていると言われたことを思い出し ―― 艶やかな黒い巻き毛に象牙の肌、青い瞳で分類としては文官な自分と、褐色で黄金髪、金色の瞳の武官ハーフェズ、どこか似ているところがあるのか? と聞いたところ、

「ハーフェズも神の末裔だからな。ゴフラーブなら、神の末裔なんて何十人も見てるだろうよ」

 神の血を引く末裔たちというところだろうと、こともなげに答えられた。

「へ……」
「ハーフェズはサータヴァーハナ王国の月神チャンドラの末裔、ソーマ族の血を引いている。お前キルスと違うのは、チャンドラはいまだサータヴァーハナ王国で信仰されているし、ソーマ族は大勢いるということだな」
「あ、わあああ。そうなんですか」

 意外と神の末裔同士でも気付かないものなんだな ―― キルスが驚いている後ろで、ハーキムたちも驚いていた。

「ええ、まあ、そうなんですよ。別にどうでも良いことなんですけど」

 ハーフェズ本人は知っているが、彼にとっては異国の神の血などどうでもよく ―― 聞かれでもしない限り答えることはない。

『たまには声を掛けてくれ、クレオパスキルス。……元気でなあ、クレオパスキルス。頼みますぞ、メルカルトの子たち! その子は……その子は……』 

 海神の泣きながらの別れの声は、丸二日間追いかけてきた。

「祖先に愛されているね、キルス」
「は、はい……恥ずかしい限りです」

 当然神の声を聞くことのできるシャーローンに声を掛けられ「もう黙れ」と内心で叫びながら帰途に就いた。
 キルスが王都へと戻ると、老人は亡くなっており、またメフラーブを公衆浴場ハンマームへ連れて行く仕事へと戻った。