ハーフェズの主、インドラを牽制する

 レオニダス傭兵団を伴い王都からアッバースへとやって来たファルジャードは、サラミスが用意した船に乗り込み海路で対岸へと渡り、ネジド公国へと急いだ。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 前回ネジド公国へと足を運びサラミスを引き入れた際「もう少し説得してみる」と言ったアサド。それを聞き引き下がったファルジャードだが ―― 引き下がったからといって、何もしていなかったわけではない。確実にアサドを手に入れ、イシュケリョートを捕らえるために、アッバース滞在中、策を巡らせた。
 まずファルジャードは破産し奴隷に落ちた商船主を購入する。

「お前は今日からシバという名の奴隷だ」

 商船主は自らも船に乗り貿易を行っていたこともあり、肌は日に焼けて褐色で、頭髪は元々色素の薄い茶色であったが、肌同様日に焼けた上に海風に晒された結果、磨いた銅貨のような色合いになっていた。
 体付きは船の男らしく逞しく、腕の筋肉の盛り上がりなどは目を見張るほど。

「シバ。貴様の任はネジド公国へと行き、ユィルマズ大公に仕えることだ」

 シバと名付けた奴隷に、ファルジャードは任を与える。

「どうやって」

 ペルセア王国の諸侯程度の領地しか持たないような国とは言え、相手はその国の首長の側に侍るなど、伝手もなにもない奴隷には不可能。

「お前は生まれてから今までずっと奴隷だったが、最近金が貯まったので自由民の身分を買うことができた、謂わば解放奴隷。シバ、それがお前の人生・・だ。商船を持ちペルセア湾岸沿いで商売をしていた貿易商……等という経歴はない。分かったな」
「……はい」
「奴隷廃止を宣言したあの国は、いま解放奴隷を重用することに心血を注いでいる。というわけで、少し読み書き計算ができる解放奴隷なら、中央にそれなりに食い込めるはずだ。今日から九十日以内に、ネジド大公ユィルマズの側に仕えろ。できなかったら、戻ってこい」
「九十日以内?」
「そうだ」
「仕えるだけでいいのか?」
「仕えることができたら、随時司令を送る。奴隷に手紙はおかしいが、ネジド大公ユィルマズの側仕えの解放奴隷宛ならば、さほど訝しがられないだろう」

 奴隷が主に逆らうことは許されない ―― 前日まで奴隷ではなかったシバには従順さはなく、反骨心旺盛であったが、他に就ける仕事もないので、ファルジャードの指示に従い、ペルセア湾を越え砂漠の半島へと渡り、駱駝を駆りネジド公国を目指し ―― 八十日後にはネジド大公ユィルマズの側仕えの一人に収まることができた。
 彼がその立場に収まることができたのは、商船主であり自分で船に乗り貿易をしていたシバの体験談が、海を見たことのないネジド大公ユィルマズに好評だったこともあるが、ネジド公国にろくな人間が残っていなかったことが大きな要因であった。
 国の中枢にいた軍人奴隷が、ネジド公国を去った ―― 彼らは自身の才を生かすべく軍人奴隷となったものたちである。才を生かすことができなくなった国には未練はないので、早々に立ち去った。
 賢い奴隷たち ―― ネジド大公ユィルマズの頭にあった解放され学び、その知性を発揮しそうな奴隷たちは、その賢さから、奴隷として売り買いされることを選び、ネジド公国を出ていった ―― 奴隷には移動の自由はないのだが、ネジド公国が奴隷を廃止し、国内に奴隷はいないといことになったので、自由に移動することが出来るようになった。
 こうして頼みにしていた賢い奴隷の多くは大国へと流れた。
 奴隷たちがもっとも多く流れ込んだのは、湾を挟んだ対岸にあるペルセア王国。サラミスも彼らの移動を手助けしたこともあり、優秀な奴隷が大勢やってきた ―― もちろんサラミスの尽力は、ファルジャードの命である。
 ネジド公国の貴族たちは、ほとんど残った。基本貴族というものは、土地に縛られた者たちゆえ、故郷を捨てるという決断ができなかったのだ。なにより財産を持って故郷を捨てたところで、行く当てがない者ばかり。財産を持って国外へと出られた貴族は、外国人の妻を娶った縁で、妻の実家を頼るか、もしくは娘が嫁いだ先に行くか程度。ただ沈み行く船に乗って、滅亡までの日を数えて過ごすことしか出来なかった。

 ネジド大公ユィルマズの側仕えになったシバの元に手紙が届いたのは、九十一日目のこと ―― その日が九十一日目だとは気付いていなかったシバは、ネジド公国の国境付近に来ているという妓楼へと足を伸ばした。
 娼婦は奴隷という認識のこの時代、奴隷を解放してしまっては売春業は立ちゆかない。そこで彼らは国境線沿いで商売を続けることにした。
 ネジド公国から脱出した妓楼の他、ペルセア王国からも海を渡り、店を開いたものがいた。

「カームビズ……」
「おお、久しぶりだな……いまはシバか」

 ペルセアから渡り開いた妓楼の責任者の名はカームビズ ―― アッバースの奴隷商人インドラの腹心。シバとは家が近く同い年だったこともあり、昔はよく話をした仲であった。独立後は家を出て各々の道を進み ―― 残虐な行為に手を染めていると噂されるようになったカームビズとシバが話すことはなかった。

「……」
「良い女が揃っているぜ。ペルセア兵が来たら、一般人は後回しになるから、今のうちに買って楽しんでおけよ」

 不快感を覚えたシバが別の店を選ぼうとすると、腕を乱暴に捕まれ引き寄せられ耳打ちされる。

「お前さんの主から、手紙を預かってきてるんだ」

 不健康に見えるカームビズの白い顔を凝視し ―― シバは頷き女を買うと返した。破産して買われて改名された翌日アッバースを発った自分のことを、カームビズが「シバ」と呼んだ理由を理解してのこと。

「時間をおいて女を寄越す」

 粗末で小さな天幕に通されたシバは腰を降ろし、紙を丸め紐で縛っただけの手紙を手に取り読む。
 読み終わったら手紙に「かつての名」で署名するよう書かれており ―― 手紙を縛っていた紐に括られていた蝋石を手に取り名を記す。
 手紙はそのままにし、女を抱いてそこを立ち去った。

 ファルジャードからの司令は「イシュケリョートが妓楼通いをしているという噂を流せ」というものであった。
 この噂がなんの役にたつのか、シバには分からなかったが命令通り、それとなく噂を広める
 あまりしつこく話してもおかしいだろうと折を見て ―― そして噂の信憑性を高めるべく、週に一度妓楼が開かれている国境へと向かい、そこで見てもいないのに「またイシュケリョートさまを見た」という嘘をつく。
 そのうちイシュケリョートの妓楼通いは誰もが一度は聞いたことがある話となり、何時しかそれが彼らにとって真実となっていった。
 実際のイシュケリョートは妓楼通いはしていない。
 彼は王宮近くの与えられた邸に「持つ者の責務として」と嘯きながら、大勢の男女を囲い楽しんでいた。
 イシュケリョートやネジド大公ユィルマズがなにを考えているのか、シバには分からないが、言われた仕事をし、カームビズが経営している妓楼へと足を運び、偶に指令書を受け取りを繰り返していた。
 そのうちサマルカンド王が死去し、ファルジャードがサマルカンド諸侯王になるべくアッバースを離れる。発つ前に認められた命令書には「噂はもう流さなくても良い。あとはその日がくるまで、恙なく過ごすように。読み終えた手紙はカームビズに渡せ」と書かれており、シバはその通りにした。

 海の町で生まれ育ち、破産はしたが自ら船に乗り貿易を行っていたシバは、海に面さぬネジド公国で、海に焦がれながら日々を過ごす。

「なあ間諜にならないか?」

 ある日、女を抱き妓楼を後にしようとしていたシバに、カームビズが「酒を飲もうじゃないか」と誘ってきた。
 ファルジャードからの命令でも届いたのかと、シバはその誘いに乗ったのだが ―― 唐突にカームビズから間諜の誘いを持ちかけられた。

「俺は今、命令を受けて仕事をしている。なにより俺は奴隷だ。自由は利かない」

 船乗りだった頃の自分ならば、欲しいという情報をできる限り集めることはできるが、今はそんな伝手も自由もない。

「そのお前の主の動向を探って欲しいのさ」

 だがカームビズが欲している情報は船乗りでは集められないものであった。

「俺はここネジドで、俺の主は遙か北にいるんだぞ。どうやって動向を探れと?」
「今じゃない。奴が帰ってきてからの話だ」

 カームビズがここで妓楼を開いているのは、ファルジャードの命であった。妓楼を開くための女を買い付けにインドラのもとを訪れたファルジャードは、序でに妓楼の経営ができる輩を数名借りたいと依頼してきた。

「奴は”ネジドはペルセアによって滅ぼされる。ならば、そのために様々な手を打っておくのは、諸侯王の息子としては当然のこと”と言ったそうだ。うちのご主人さまインドラも戦いが避けられないのは分かっていたので、先に場所を取ってしまったほうが良いだろうと、六対四の取り分で、こうしてネジド国境で簡易の妓楼を開くことになった。うちのご主人さまインドラは、これは奴の動向を知る好機だと、俺たち・・を、妓楼管理に送り込んだ。奴はアッバースで奴隷を買ったことがないから、こっちから間諜を放つのが難しくてな」
俺の主ファルジャードの動向を、どうしてそんなに知りたいんだ?」
「そりゃあ、知りたいさ。賄賂を受け付けてくれるかどうか? 癒着を見逃してくれるかどうか? うちのご主人さまインドラにとっちゃあ、気がかりでしようがないのさ」
「若いから賄賂や癒着には拒否感を露わにしそうだが」
「そういうことだ。賄賂や癒着を嫌う清廉な青年だった場合は、好きなものや興味あるものを贈るなどして、徐々に懐柔しようとな」
「……なんでそんなに俺の主ファルジャードのことを警戒する? 諸侯王は権力者だが、サマルカンドは遠いぞ。これがカルデアやクテシフォンの諸侯王だというのなら」
「奴は神の子が付いてるから、暴力じゃあ排除できない」
「神の子?」
「ラズワルド公だ」
「ラズワルド公柱がアッバースに滞在しているのは知っているが、俺の主ファルジャードはただの諸侯王……の息子だろ?」

 シバが破産のごたごたの最中、ラズワルドはアッバースに到着し、その噂を聞く余裕すらなく手続きを行い、奴隷に落ちるとすぐに、サラミスを連れてネジド公国から帰ってきたファルジャードに買われ、すぐさまネジド公国へと送られた。
 以降、ペルセア王国に関して ―― アッバース周辺のことだけだが、隊商が立ち寄るわけでもないネジド公国にいて、故郷の噂を聞けるの妓楼の女と閨を共にしたときか、現在目の前で酒杯を空けているカームビズから聞ける程度。

「奴は王都にいた時から、ラズワルド公の覚えがめでたいんだよ」
「そんなにか?」
「今回も奴が発ってすぐに、ラズワルド公もサマルカンドに向かわれた。真の理由は分からないが」
「……」
「大体、家も隣同士だ。王都にいた時も、隣同士だったそうだが」

 ラズワルドが市井の私塾経営の錬金術師の男の養女として育ったことは、ペルセア王国の辺境に住んでいる者以外は、誰でも知っていること ―― ただ家が本当に庶民が住む家だということを知っているものは、王都在住の者以外は知らない。
 市井にあっても大理石張りの邸に住んでいたのだろうと勘違いされているが ―― そういった噂がラズワルドの耳に入ることはない。

「そんな神の子の覚えめでたい男に、不義理を働けと?」

 ファルジャードも諸侯王の息子という肩書きがあり、豪遊に豪遊を重ねている姿しかアッバースでは見せていないので、王都でもラズワルドの家の隣の豪邸に住んでいたのだろうと、勝手に思われている。まさか数年前まで、自由民の身分を質に入れて金を借りていたなど、誰も思もしない。

「不義理を働けと言っているわけではない。奴の嗜好を掴んで欲しい」
「そっちで掴んだ嗜好は?」
「ほとんどないんだな、これが」
「アッバースの高級妓楼で、高級娼婦をあてがって商談とかするんだろ?」

 そういった接待が頻繁に行われていることは、多くの者が聞き及んでいる。実際総督フーシャング酒と女の接待を受け続け、インドラに飼い慣らされた。
 海将ザーミヤードは小姓のキュベレー以外には心を奪われることはないが ―― インドラはキュベレーのほうを懐柔し、便宜を払ってくれるよう頼み成功している。この二人を押さえていることで、インドラはアッバースにおいて、四割ほどの権力を手中に収めている。この二者を上手く操っていながら四割なのは、残りの六割は宗教が所有しているからである。
 まだそこかしこに神が居た痕跡が残っているこの時代、宗教の権力は絶大。とくにアッバースの神殿長は元神の子にして、元カルデア諸侯王だったパルハーム。彼は町の人々から絶大な尊敬と集め、文様は失ったが滅魔の力は当時と変わらず、畏怖の念をいだかせる偉大な存在。
 かつて・・・神の子がらみ・・・・・・で死にかけ、全てを失ったことのあるインドラとしては、決して権力を争いたくはない相手。故に人間が手中に収めてよい権力のみで大人しくしていた。それとパルハームはどの権力者とも特に親しくなることはなく、同じ距離感で付き合ってくれていることもあり、インドラとしてはありがたかったのだが ―― そこにファルジャードとラズワルドが現れた。
 アッバース近辺には地縁や血縁がほとんどいないファルジャード。その彼がアッバースで大成したのは、当人の才能もあるが、ラズワルドの庇護が大きい。
 いままで世俗の権力者に肩入れしなかったパルハームも、ラズワルドが「あれを重用」と言えば、それに従う。
 その結果、アッバースに新勢力が生まれることとなり、インドラとしては面白くないのだが、背後にいるの相手が恐い。だが手をこまねいるわけにもいかない ――

「一二度誘って接待したが、まあ全く上手くいかなかったな。最初は女を数名あてがったが、次の朝には二人殺されていた」
「なぜ?」
「女に命を狙われたから、殺される前に殺したそうだ。こっち・・・には覚えのない、毒薬や女物の短剣が見つかった。……証拠があるんでこっち・・・は引き下がるしかなかった」
「本当に命を狙ってはいなかったのか?」
「……多分な。うちのご主人さまインドラの本心は分からないからな。だが俺はその女たちに毒薬を手渡していなかったから、あれは持ち込みだろう。かといって”その毒はうちの店の毒ではありません”とも言えないしな。次の女を宛がう時は、全裸にして渡したから殺されはしなかったが、その前の酒を飲みながらの話し合いで、うちで飼っているヘレネスの詭弁家ソフィスト連中とやり合って、一対六ながら詭弁家ソフィスト連中を論破しやがった。最後のほう自分が垂らした涙と鼻水で無様な顔になっている詭弁家ソフィスト連中を、さらに潰しにかかる奴の姿は、まあ……化け物だな。王都の学術院でもそうばけもの呼ばれていたらしいが、呼ばれるのも分かる」
「……」
「奴は頭が良いとは言われていたが、俺たちの想像以上というか、桁違いっていうか……仲良くなれたら、なりたい相手だし、仲良くできなきゃアッバースでは生きづらい」
「……好き嫌い程度ならば、教えることはできるかもしれない」
「そうか」

 シバがカームビズの依頼を受けたのは ―― あの場で断るのは得策ではないどころか、自分の身が危険であることを理解してのこと。
 断ったら、あの場でシバは殺されていた ―― ファルジャードはいま、アッバースにいないので、シバを殺害して処分するのは簡単なこと。そしてカームビズは、それらを躊躇うことはない、危険で残虐な男である。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「あの男、サマルカンド諸侯王になったそうだ。番狂わせもなにもなくて、つまらん」

 変わらない日々を送っていたシバが妓楼を訪れると、カームビズからそう伝えられると共に、命令書が手渡された。

ネジド大公ユィルマズの元を離れ、軟禁されているアサド卿に仕えるように。ネジド大公ユィルマズには”解放奴隷である自分が、アサド卿に解放された喜びを伝えてきます。きっとアサド卿も分かってくれるはずです”と言え。アサドの邸に移動できたら、なにもしなくていい。手紙はいつも通り、元の名で署名し店の置いていけ』

 シバは命令に従いアサドが監禁されている邸へと移った。

 ある日シバが国境付近に天幕を張って経営されている妓楼へと向かうと、大勢の兵士がいた ―― ペルセア王国軍の先遣隊が到着した。
 隊を率いているのは中将軍のカスラー。隊を預かっている彼は、妓楼へは足を運ばず ―― 妓楼のほうが何人か見繕い、隊へと送り届けていた。
 シバはアッバースに戻るまで、カスラーを見ることはなかった。
 そしてアサドが軟禁されている邸に、サラミスを伴ったファルジャードが訪れ ―― シバは他のアサド邸に仕えていた奴隷たちと共にアッバースへ送られ、ペルセア軍の大勝とネジド公国の滅亡、そしてイシュケリョートの逃亡を知る。

 シバの次の仕事は、インドラとの連絡要員であり、連絡相手はカームビズ。情報をやり取りするのには、丁度良い立場だと ―― ほどよくインドラ側に懐柔され、持ち出して欲しい情報を持ち出すシバを、ファルジャードは良い笑顔で眺める。

「ファルジャード、すっごい悪い顔してますよ」
「そうか? ハーフェズ」
「はい。企み通り! って顔です。まあ、ファルジャードは大体企み成功するんで、いつもその顔ですけどね!」
「ほとんどの奴には分からんから、いいだろ」
「セリームに叱られますよ」
「……」
「あと、俺のお父上さんも分かるようです」
「お前のおやじさん、賢いもんな」
「ファルジャードのお父さんは、馬鹿だったらしいですね」
「まあな。俺もあいつは、掛け値なしの馬鹿だったと思う」
「シバもファルジャードのお父さんなみに馬鹿ですか?」
「あれよりはマシだ。そうじゃなけりゃ、使えない」
「なるほど。長生きできるといいですねー、シバ」
「それはカームビズ・・・・・次第だ」

 破産したシバがインドラの腹心カームビズと知り合いでなければ、ファルジャードはシバを買うことはなかった。