ラズワルドとハーフェズ、縁談を潰す

 ラズワルドたちが王宮を探索していた頃、ハーキムはバスラ諸侯が運んできた献納品のより分け作業を手伝っていた。
 ラヒムの指示に従い、食糧品を指定の場所へと運び、仕事が一段落したところで、一人休憩を取る ―― 体力が優れている彼は、休憩など必要ないのだが『休憩時間を必ず取るように』とラズワルドから言い渡されているため、疲労を感じずとも休まねばならず、水筒とフィロ生地の間に胡桃を挟んで焼き、蜂蜜をかけたバクラヴァという菓子を手に、少し離れたところで腰を下ろした。
 離れたのは、作業している人を見ると、手伝いたくなる自分ハーキムの性分を理解してのこと。
 水筒に口をつけ、脇に置いたバクラヴァの塊を掴み、口へと運ぶ。
 胡桃の香ばしさと蜂蜜の甘さが口の中に広がる。

―― この甘さというのは、まさに至福だな

 元は自由民のハーキムだが、裕福さとは縁遠い環境にいたこともあり、甘みを口にしたことはなかった。むろん果物を口にし、甘みを感じることはあったが、蜂蜜や砂糖の甘みには及ばない ―― この時代、果物の品種改良などはされていないため、果物は現在と比べるとかなり酸味が強い。
 糖や蜜は高級品のため、奴隷などには普通振る舞われないのだが、そこはラズワルド。気軽に彼ら奴隷にも分け与えていた。

―― 美味いな。ラヒムは当たり前だと言うが……。誰か来たな? バスラの知り合いか?

 石畳を裸足で歩く音に、近づいてくるのが奴隷であることは分かった。
 もしかして自分ハーキム知り合い・・・・か? と、立ち上がり足音がする方を振り返る。

「ハーキムだよな」
「サブア? サブアか! 久しぶりだな。サマネアも元気そうだな」

 いきなり振り返られて、奴隷たちは驚いたようだが ―― 予想通り、ハーキム顔なじみの奴隷が立っていた。

「やっぱりハーキムだったか! 俺が言った通りだろ、サマネア」

 サブアが久しぶりの再会を喜び、サマネアはハーキムを見上げて、

「もともと大きかったが、更に大きくなったなあ」

 身長の伸びをやや呆れたように褒めた。
 二人に大きくなったと声を揃えて言われているハーキムだが、ここ一年はさほど身長は伸びてはいなかった。その代わり自分でも分かるほど、体の作りそのものが丈夫になっていくのが分かった ―― 体の内部が現在の身長に追いつくと、再び身長が伸び出すことになるのだが、そんなことはハーキムは知る余地もない。
 食べかけのバクラヴァを割って二人に渡し ―― 彼らは大喜びで食べ、そして良いところで働けているハーキムに、矢継ぎ早に話し掛ける。

「神殿付きの奴隷になったのか」

 二人は冬場の奴隷の格好の典型ともいえる、不織布フェルトの貫頭衣を着用している。この不織布フェルトは着衣用に作られたものではなく、天幕に用いられていたが、痛みが激しくなったため奴隷の服に下ろされた、色褪せ布も随分と草臥れた年季の入った品である。
 対するハーキムは、青の染色が美しい膝丈まである不織布フェルトの長上衣。下に着ているのは綿の服で、袖付き。
 ズボンの黒色は均一に染められており、黄色いサッシュベルトは絹製。肩口までの長さがある白いクーフィーヤには、勿論染み一つない。一目で神殿の奴隷だと分かる格好であった ―― 普通の神殿付きの奴隷は、ハーキムほど良い服は着せては貰えないのだが、その辺りのことは二人ははっきり分かっていない。

「作業している姿を見て、驚いたぞ。俺たちが三人掛かりで運んでいた壺を、お前一人で移動させるんだから。もともと力はあったが、ますます強くなったな」

 もう一人ハーキムが居なくなった後にやってきた奴隷と共に、二人は献納品の酒を荷台から下ろしていた。ハーキムはその壺の一つを両手で抱くようにして持ち上げ、ラヒムの指示のもと、移動させていた。

「ハーキムは体格がいいから、良いところに行けると思っていたよ」

 サブアはそう言いながら自分の腕を叩く。サブアはまったく貧相ではないのだが、ハーキムの体格は彼らとは根本的に違う。

「若いしな……若いって分かってもらえたか?」

 来た当初は自分と同い年だと思い声を掛けたところ、まだ十代ですらなかったことに驚き「嘘だろ? 嘘だろ? 嘘だよな?」と何度も聞き返した覚えのあるサマネアの問いに、買われた時のラズワルドの驚愕の声と、形のよい巴旦杏型の瞳を見開いて凝視してきたハーフェズ、そして書類と自分ハーキムを交互に見て、必死に確認していたバルディアーを思い出し ―― 早く体格に見合った年齢になりたいなと、明日には十五歳になるハーキムは改めて思った。

「若さは、一応は分かってもらえた。たしかに体格の良さで買われた。神殿付きの奴隷というか……」

 神殿が買った奴隷ではなく、ラズワルド自ら購入した奴隷なので、彼らが思っているより随分と地位の高い奴隷なのだが、上手く説明できないので、適当に濁した。奴隷の二人もそこを追求することはなく、初めて食べた甘い菓子を喜び、自分たちの近況を語り出す。ハーキムがバスラにいたのは一年ほどだったが、かつての仲間たちのことを聞くと、少しばかり懐かしさが湧いてきた。

「そういや、ハーキムは神の子の奴隷ハーフェズってのは、見たことあるのか」
「神の子の奴隷?」

 神の子が所有している奴隷は無数 ―― なによりハーキムも一応神の子の奴隷である。

「黄金みたいな髪と目で、俺たちと肌の色が違う奴だって」

 外での作業が多いので、日焼けしているが、奴隷二人はペルセアに多い肌の色。

「ああハーフェズか。見たことあるのか? とは」
神の子の奴隷ハーフェズなんて、見ちゃ駄目なもんだろ」
「俺たちフォルーハルさまに、絶対に見ないよう言われたけど、そこで仕事をしているお前なら、見たことあるのかなと思ってさ」 
「綺麗な顔した奴隷だって、アリさんから聞いた」

 ”フォルーハルさま”と”アリさん”が誰なのか、ハーキムには分からなかったが、

―― そう言えば代替わりしたんだったなあ

 荷を運んでいる時に小耳に挟んだことを思い出し、諸侯が代替わりしてからやってきた、邸の使用人なのだろうと。

「ハーフェズは、顔も良ければ体型もいいぞ」
「見たことあるのか」
「どんな顔してるんだろうな」

「こういう顔でーす」

 いきなりハーキムの背後から声がし ―― 神の子の奴隷ことハーフェズが姿を現した。奴隷たちは驚きハーキムも当然驚く。

「いきなりなんだ! ハーフェズ」
「疑問は解消すべきかなと思いました。どうです、サブアさん、サマネアさん。綺麗な顔ですか?」

 奴隷二人はがくがくと首を振る。

「ご期待に添える容姿で良かったです。アリさんとかいう人のご期待にも、添えるといいですねー。ところでハーキムとサブアさん、サマネアさんは知り合いなんですか?」
「俺は以前バスラで働いていた」
「ハーキムってバスラ出身なんですか」
「出身は違う。奴隷になって、バスラに買われた」
「では出身は?」
「どこかは覚えていない」

 大陸貿易の中心地とも言われるナュスファハーンならば、外から人がやってきて「ここがナュスファハーンか」と話すこともあるが、ハーキムが生まれ育った場所は、寂れてはいないが、行路からは少し離れており、偶に旅人が訪れることがある程度。
 旅人もハーキムが生まれ育った場所を目的としてやってきた訳ではなく、どこかへ向かう途中、偶々見つけて立ち寄ってみたのが大半で、ハーキムの故郷の名を知ろうとする者はいなかった ―― 名を知っている旅人が訪れたことがあったかもしれないが、彼らとハーキムが会って話す機会はなかった。

「そこからバスラまでの距離はどのくらいでした?」
「大した距離じゃなかった……と思う」
「ハーキムは体力ありますからねえ。多分買われた当時ですら、サマルカンドまで連れていかれたとしても、平気で踏破しそうですからね」
「否定はしないが……領主の名はオーランだ」
「ほうほう。他に手がかりになりそうなことは?」
「手がかりというか、葡萄の栽培が盛んだった。覚えているのはそのくらいだな」
「そうですか。サブアさん、サマネアさん、お話中失礼しました。ラズワルドさまー!」

 ハーフェズは「褒めて下さい!」とばかりに両手を掲げてラズワルドの元へと駆け戻る。

「ラズワルド……」
「ラズワルドって神の子の?」
「ああ、多分そこに隠れておいでなんだろう。さすがに頭を下げていたほうがいい」

 ラズワルドたちが立ち去ったあと、幾つかの話をし二人は戻り、ハーキムも休憩を終えて戻った。

「かつての知り合いに会ったんだって?」

 煉瓦を積んで作った竈前、大鍋で羊肉を下茹でしているラヒムから声をかけられ、ハーキムは思わず肩をすくめた。

「もう知られているのか」
「ハーフェズがきゃっきゃとはしゃいで言いにきた。ついでに次に立ち寄るのがホッラムシャフルだということも教えてくれた」
「ホッラムシャフル?」
「ハーフェズは、お前の出身地だって言ってたぞ? 違うのか」
「違うのではなく、俺は自分の出身地名を覚えていなくてな。そうかホッラムシャフルか」
「じゃあ、なんでそんな地名が出てきたんだ?」
「領主の名前は覚えていた。多分そこから手繰ったのだろう……だが、本当に寄るのか」
「嫌なのか? 故郷になにか悪い思い出があるとか、殺したいほど嫌な奴がいるとか?」
「そんなものはない。ただ本当に出身がホッラムシャフルかどうか、自信がなくてな」
「そこは気にする必要はないだろう。ラズワルド公がホッラムシャフルを見たいと思われた、お前の話はその切欠でしか過ぎない」
「たしかに……ところで何を作っているんだ?」

 ペルセアの料理に羊肉は欠かせないため、肉を茹でているだけでは、なにを作ろうとしているのか、全く分からない。
 また側には細かく切られた玉葱もあるが、これもまた料理には欠かせないものなので、いつもラヒムの料理を手伝っているハーキムだが、なにを作るのか予想もつかなかった。

すね肉の煮込みマーヒチェだ。晩飯はこれに米と豆の煮物、鶏の香草焼きでいいな」
「充分だ。手伝おう」

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 新年の神事も無事に終わり、旅立つ前に、縄ばしごで避難経路の井戸に入ろうとしたところ、縄ばしごの作りが甘く結び目が解けて、

「うわあああああ!」

 縄を伝って降りるだけになったりと、

「さらばかつて異国であった大地よ」

 ラズワルドは思うがままに過ごしたエリドゥを後にし、ホッラムシャフルへと足を伸ばす ――
 ホッラムシャフルはペルセア王国に繁栄をもたらす、貿易路から少々離れているため、華やかさはないものの、豊かな葡萄畑が何処までも続く大地は、貧しさとは無縁。
 ラズワルドが来ると連絡を受けたホッラムシャフルの領主オーランは、長女と共に大急ぎで迎える準備を整えていた。
 防衛上重要な場所でもなく、貿易上重要な地点でもなく、重要な穀倉地帯でもない。

これ・・と言ってなにがある訳ではないが、全てが良い邸だ」

 華美ではないが、手入れが行き届いた邸に設えられた壇に腰を下ろしたラズワルドが、開口一番に発した言葉。
 雑で無頓着な性格のラズワルドが発する言葉としては、かなり珍しい。
 槍を持ち隣りに控えていたハーフェズも、驚いたといった風にラズワルドを凝視する。

「珍品が飾られている訳でもなし、目を見張るような豪奢な邸でもなし、土地も風光明媚な訳でもなし。だが居心地のよい邸だ。これは主の人徳がなせる業か」
「ラズワルドさまがそこまで褒めるとは、珍しいですね」

 ラズワルドに「人徳がある」と言われた邸の主であるオーランは、壇から離れた場所で平伏している。

「そうかも知れないな。だがそう思わないか、ハーフェズ」

 用意された薔薇水入りの水差しをバルディアーが受け取り、瑠璃色の小さな杯に注ぎ差し出す。ラズワルドはバルディアーに整えヘナを塗ってもらった指でつまむように掴み、口元へと運んだ。

「感覚がラズワルドさまに合っているんでしょう。俺も好きですけれどね。室内の飾りは誰が?」

 ハーフェズの問いにオーランは「娘が整えました」と、非常にくぐもった声で答えた ―― 床に顔がつきかかっているため、声がとても聞き取りづらい状態になっているのだ。
 ラズワルドが頷くと、

「ではその娘さんを、ここへ。お声をかけてやりたいとのこと」

 ハーフェズが意を汲んで、娘を連れてくるよう命じたのだが ―― ”邸内はご自由に”と言われたラズワルドたちは、細部にいたるまで行き届いた邸を見学していた。

「でも残念でしたねー。ラズワルドさま」
「月のものが来ているのなら、仕方がない」

 残念ながら娘は月経のため、会うことは出来なかった。

「でも領主のお嬢さん、どこに居るんでしょう? 邸内を自由に見て良いのですから、月のものが来ているお嬢さんはここには居ないんですよね」

 バルディアーの問いは当然であった。

「そうなるな」
「少し離れた邸に隔離されてるんだと思いますよ。母さんもその間はゴフラーブさまの家で、過ごしていましたから」

 普通の神の子の乳母の場合は、大金持ちなので、敷地内で隔離できるのだが、メフラーブは極々普通の自由民。そのため、ラズワルドの乳母であるナスリーンは、その間はゴフラーブの邸で過ごしていた。

「しかし残念だ」
「じゃあ、結婚したら祝福してあげるから、アッバースまで来るよう命じたらいかがですか?」
「ここの娘、近々結婚するのか?」
「知りませんが、多分近々結婚するんじゃないんでしょうか? 貴族の娘さんですから、多く見積もっても十六歳。邸の手入れを領主が任せたということは、領主夫人は病気か亡くなられているかで、娘さんは夫人に代わって邸を切り盛りしている。そのようなことが出来て、嫁には行っておらず、尚且つ月のものが来ている。となると、十四、五歳と推察されるので、そろそろ結婚かなと……どうしました? ラズワルドさま、バルディアー」

 一人と一柱は滑らかに語るハーフェズを凝視する。

「ファルジャードみたい」
「ファルジャード卿のようだ」

 感心されたハーフェズは、照れながら、

「いやあ、ファルジャードならきっと、年齢は確実に当てると思いますよ」

 奴ならきっと出来る! と ―― ファルジャードはともかく、ラズワルドはハーフェズの推測を聞き、娘の年齢が気になったので、聞いてくるよう命じた。

「十八歳?」

 ハーフェズの年齢予想は少しばかり外れていた。ただ貴族の娘が十八になっても嫁いでいないというのは、かなり珍しいことなので、ハーフェズが予想を外したとしても不思議ではなかった。

「差し支えなければ、なぜ十八でまだ嫁いでいないのか、教えていただければ」

 ラズワルドが突っ込んで聞きたがるかどうか? までは分からなかったが、小分けで聞くのは相手にとって手間だろうと、ハーフェズは娘について一通り聞いておくことにした。
 娘の名はヌーシャーファリンで、七人兄弟の長子。跡取りである長男は八歳年下で、やっと十歳になったばかり。母親は四年ほど前に流行病で亡くなり、以降忙しい領主オーランの補佐を務め、邸をしっかりと守っていた。

「忙しさにかまけ、娘に邸を任せきりにし、気付いたら娘は適齢期が過ぎておりましてな」
「あー。これから捜すところですか」

 この時代、余程の変わり者か、体に何らかの事情を抱えて居ない限り、結婚するもの。貴族の娘ともなれば、結婚しないという選択肢はありえない。

「急ぎ縁談を捜しておりました所、バスラ諸侯から打診がありましてな」
「ダードベフでしたっけ?」

 ラズワルドがエリドゥで会ったバスラ諸侯の名はダードベフ。年は二十三歳で、諸侯になる前は神官 ―― 先代諸侯の妾の子で、神殿に預けられていたのだが、領主が死亡し跡を継ぐために神官を辞めた。ファルジャードと似た経緯を持つ男であった。もっとも先代バスラ諸侯には歴とした跡取りがいたのだが、彼も先代バスラ諸侯と共に事故で死亡している。

「ええ」
「あまりお勧めしません」
「ハーフェズ卿?」
「実はですね、エリドゥに滞在していた間、仲間の一人がダードベフによるフォルーハル殺害計画を聞くことになりました。フォルーハルはダードベフの神官仲間です」
「それは」

 仮眠を取っていたメティが「これ」を聞き、

「俺たちもフォルーハルが悪い神官で、ダードベフが諸侯の責務として殺害しようとしているのか……と考えていたところ、別の仲間がフォルーハルによるダードベフ殺害計画を小耳に挟みました」

 珈琲豆を挽いていたワーディが「これ」を聞き、二人はすぐにラヒムに事情を説明した ―― ラヒムは羊肉を焼きながら「なんで俺に報告すんだよ」と思ったが、殺害名簿にハーキムの知り合いである奴隷も含まれていたので、調理をしながら考え少しばかり手を打った。

「なんと……」
「どちらがどちらを殺害しようとも、俺としてはどうでも良いのですが、あまりお勧めいたしません。フォルーハルを殺害しようとしたのか、フォルーハルに殺害されるようなことをしでかしたのか。はたまた、第三の人物がバスラにいて、糸を引いているのか……まあ、あくまでも俺の個人的な意見ですので。貴族の責務とか、氏族の関係とかそういう柵がある場合は、仕方ないと思います」

 ハーフェズは言いたいことを言い終えると、ヌーシャーファリンがどこに居るのか? また会っても良いかを聞き、許可を貰いオーランのもとをいつも通り風の如く去っっていった。
 残されたオーランの苦悩は軽く置き去りである。
 ハーフェズは「邸に籠もっていて暇だろうから、行ってこい」とラズワルドから命じられ ―― 吟遊詩人であるアーラマーンを連れて、本邸の女たちが集められている別邸へと行き、そこで音楽を奏で詩を吟じ、多いに彼女たちを楽しませた。

 その後、ハーキムがかつて住んでいた町を見たラズワルドは満足し、ホッラムシャフルを去った ―― 領主のオーランは考えた末にヌーシャーファリンの年齢を理由に、バスラ諸侯との縁談を断った。