諸侯王となったファルジャードは、サラミスたちをアッバースへと帰すことにした。自分の身辺を守るのはバフマンが連れてきた国軍の半分。もう半分は最果ての砦を守っていた兵士たちと共に「内通者の手引きにより」攻めてきたマッサゲタイ軍と交戦している。
内通者は諸侯王一族の円筒印章でマッサゲタイ側を信用させていた ―― その印章の持ち主が誰なのか? 証拠品はファルジャードの叔父の一人を指し示しているので、彼が犯人とされたが、あまりにもファルジャードに都合のよい機会に攻め込んできたところから、ファルジャード自身が手引きしたのではないかと誰もが疑ったが、ファルジャードに繋がる証拠は一つもない。
そしてマッサゲタイ王国を招き入れた証拠を残した叔父の残り僅かだった一族は、幼子も女も構わず皆殺しにされた。
ラズワルドはサラミスたちと共にサマルカンドを後にし、
「ナスリーンのこと、よろしく頼むぞサラミス!」
「アッバースでお待ちしております、ラズワルド公」
「おう!」
途中で別れ王都へと向かった。
久しぶりに見る夕暮れの中の巨大な城壁。閉門の時間に間に合わず、城壁側で野宿をし、翌朝門が開くと馬を走らせ、北の下町にある実家へと直行した。
朝の下町に似つかわしくない、軍馬の馬蹄が響き、異国人の武装集団が続く。
「ただいま! メフラーブ。風呂入ってるか!」
白馬に乗って現れた娘に、起きたばかりのメフラーブは、無精髭が生えている顎を撫でながら返事をする。
「今日、風呂に行ってくる」
「そうか……だが、そんなに薄汚くなってないな!」
「キルスが頑張ってくれてるからな」
家奴隷のキルスは、いきなり帰ってきたラズワルドたちの為に、往来で焚き火を起こし水を沸かして、お茶を淹れる準備をする。
ラズワルドは古びた家の二階の、色褪せた絨毯に座り、ファルジャードが無事、諸侯王になったことをメフラーブに教えた。
「諸侯王になったか」
「ああ。セリームは一緒に居るっていったから、置いてきた。危険はあるらしいけど、ダリュシュも戻ってきたし、バフマンもいるから大丈夫だろう」
「バフマンもダリュシュも、俺もは知らんがな」
「メフラーブだもんな! ダリュシュは有名な武装神官で、バフマンは中将軍の一人だぞ」
「ほー。やはり知らんな」
キルスが運んできた茶を飲み ―― メフラーブから今日は午前と午後の二回教室を開くと聞いたラズワルドは、マリートに夕食に希望する献立を告げ、真神殿に一度顔を出すことにした。
「夕方、帰ってくるから!」
再び馬に跨がり、風のように下町を去っていったラズワルドたちを見送ったメフラーブは、何時も通り教室を開く。
午前の教室が終わり、キルスが入れてくれた茶を飲み一息ついていると、姪のスィミンがやってきた。
「メフラーブ伯父さん、ラズワルド公、帰ってきたって聞いたんだけど」
「真神殿に行ったが、夕方には帰ってくるって言ってたぞ」
「そうなんだ。その時、来ても大丈夫かな?」
「大丈夫に決まってるだろ。お前が生理じゃなければ」
子供の頃はいつでも一緒にラズワルドと遊ぶことができたスィミンだが、年頃になり月の物が訪れるようになり ―― その期間は当然ながら会うことが出来ない。
「そんなときに、会いたいなんて言わないよ、メフラーブ伯父さん」
無神経極まりない発言だが、
「じゃあ、問題ないだろう」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
真神殿へと繋がる道を抜けたラズワルドは、
「ファリド! ファルジャードからの献納品!」
サマルカンドから運んできた、新たな固形石鹸を神の子たちに見せた。固形石鹸は原材料の関係から
「これは、ファルジャードが作ったのですか?」
月に一度、アッバースから石鹸の献上を受けている神の子たちも、初めて見るものであった。
「ああ! 神の子用に作ったんだって。白いやつは
群青色の石鹸を手に取ったファリドは、顔に近づけてみる。
「たしかに
ファリドが楽しげに笑う。
「だろー。群青色の石鹸を作る時、ファルジャードからどんな香りが良いか聞かれてさ。ファリド、
白い石鹸に
「それは嬉しいですね。この石鹸、もらっていいのですか?」
テオドロス傭兵団が運んできた石鹸の数は、両方とも百個を超える。
「うん! 幾つかはメフラーブの所に持っていったりするけれど、あとは好きに使うと良いぞ!」
「そうですか。それにしても、美しい色の石鹸ですね」
固形石鹸の大きさは、成人男性の手の平ほどある。ファリドは群青色の固形石鹸を、光にかざすかのように掲げて眺める。
「欲しい色があったら、言ってくれって。出来るかどうかは分からないが、石鹸の効果を損なわず綺麗な色を付ける努力をしてみるって」
ラズワルドも色の付け方は知らないが ―― 群青色の石鹸は、白い石鹸に
「ファルジャードならば、どんな色でもつけてくれそうですね」
「香りのほうも、希望があったら聞くってさ」
「本当に、素晴らしい男ですね。そうだ、香りと言えばラズワルド、あなたに献納品があるのです」
「わたし個人宛にか?」
ラズワルドは自分宛の献納をほとんど許可していない。そのことはファリドも知っているので、ラズワルドに許可を取らず献納を受ける筈はないのだが ――
「はい。アシュカーンが初陣の前に、
「……ああ、手紙に書いたんだ。アッバースで
「ええ。あなたがそう綴った手紙も持ってきて”ですので、これを献納させて下さい”とね。だから受けました」
「そっかー。アシュカーン、どこで手に入れたんだろう?」
「エリドゥの遺品だそうです。アシュカーンの父親がエリドゥを滅ぼし、財宝を持ち帰りました。財宝は国王に収められたのですが、褒美として幾つか下賜され、その一つに
「へえー。そっか……ファリド、
ラズワルドは同い年の神の娘イェガーネフとは、手紙のやり取りをしており、その中で
「今朝、祖廟へ向かいましたよ。すれ違いませんでしたか?」
祖廟は王都からみて北の方角にあるので、北の門を通って向かう。ラズワルドの実家は北にあるので、こちらも北の門を通って入って来るのだから、すれ違う可能性はあったのだが ―― 門が開いてすぐに町に飛び込み、実家に向かって馬を走らせたラズワルドと、ゆっくりと準備を整えて馬車で出ていったイェガーネフは、顔を合わせることはなかった。
「すれ違わなかったなあ」
「そうですか」
「祖廟にいってもいいか? ファリド」
「もちろん構いませんけれど、三ヶ月ほど王都に滞在していれば、帰ってきますよ」
「アッバースに戻るし」
「すぐに戻ってしまうのですか?」
ファリドが残念そうにため息をつき、瞳を潤ませる。
「……まあ、ちょっとやることがあるから、二ヶ月くらいは滞在するよ」
「では、その間い一緒に遠乗りしましょうね」
「おう。でも祖廟には行く。イェガーネフに
アシュカーンが
一緒に過ごしたのはほんの数日だが、思い出深い場所であり、アシュカーンが眠る場所 ――
「アシュカーンは祖廟に埋葬はされていませんよ」
「え? なんで」
王子なので祖廟に葬られていると信じて疑っていなかったラズワルドは、ファリドの言葉に群青と金で覆われた中にある、煌めく瞳を見開いた。
「王家のしきたりだそうです」
「しきたり……」
アシュカーンは戦死ではなく、封印の贄として屠られた ―― ペルセア王家では、封印に使われた者のために葬儀を執り行うことはしていない。
封印に使われた者のほとんどは、胴体も首も祭壇のある洞窟内に捨てられたまま。
「存在しない王族」はそれで問題はないのだが、アシュカーンは立太式を執り行った、れっきとした後継者だったため「行方不明」で終わらせるわけにはいかず、首だけは帰ってきた。だが、その首を祖廟に埋葬することを王家はしなかった。
「首は王宮の神殿の一角にあるそうですよ」
折を見て捨てられる首 ―― それが未だ捨てられていないのは、アシュカーンの遺品を扱い倦ねているためであった。
「ずっとそこに置いておくのか?」
冷遇されていた王子ゆえ、財産らしい財産はない。黄金も宝石もほとんどない ―― だがアシュカーンは百通近い、神からの手紙を持っていた。これを勝手に破棄するなど、人間である
神書に関し王家は神殿に引き取りを依頼したのだが「ラズワルド公のご指示を待ちましょう」となった。
アシュカーンの首が戻ってきたことはラズワルドも知っていると伝えられた王家は、神書が引き取られてから首を破棄することにし、故に首は王宮の神殿の一角で、神書と共にひっそりと安置されていた。
「さあ。滅多にないことらしいのですが……ラズワルド、彼を埋葬してあげたらどうです?」
「祖廟にか?」
「祖廟は使えないようですから、どこか良いところを見つけて葬ってあげたらどうです」
王家にしきたりに関して、ラズワルドは興味もなければ覚えるつもりもないので、深くは聞かなかった。なにより、ファリドも知らないだろうと ――
「いいのか?」
「王族の首ですので、一応エスファンデルに話くらいはしておいてやりましょう。雑事が終わるまで数日かかりますが、しばらくは王都に滞在するので問題はないでしょう?」
「ああ! 首の持ち出しについては、ファリドに任せていいか?」
「構いませんよ」
「じゃあ、アシュカーンに会いに行ってみる!」
ラズワルドは白と群青色の石鹸を一つずつ手に取ると、真神殿を駆け出し、新しくなった王宮の神殿目指して ――
「走ったほうが早いと思うのだが」
「ラズワルドさま、神の子ですから、ここは我慢ですよ」
十二人で担ぐ輿に乗せられ、仰々しい行列を従え、王宮内の召使いや貴族たちの跪拝を受けながら、神殿へと連れて行かれた。
―― ががっ! って走っていって、ががっ! って帰ってくるつもりだったんだけどなあ
握っていると解けてしまうので、石鹸を脇に置き、遠くで跪拝している者たちの後頭部を眺めつつ ―― ラズワルドが神殿に到着すると、当然神官たちが出迎える。
その中に、艶やかな黒髪で背が高く、
―― あれは……もしかして
そのまま輿で神殿内を進み、アシュカーンの遺品と遺体が置かれている部屋までやってきた。そこで輿を担いでいる者たちが膝を折り、シャープールに抱えて下ろしてもらうと、彼を連れてくるよう命じた。
「神殿の入り口にいた
「御意に御座りまする」
ラズワルドは呼んだ人物を待つことなく ―― ハーフェズが扉を開き、ラズワルドは身の丈よりも長い、青いクーフィーヤを翻し、遺品が置かれている部屋を通り抜け、遺体がある部屋へと足を踏み入れた。
遺体のある部屋は高い所に明かり取り用の窓がある、とても小さな部屋であった。アシュカーンの首は、その部屋に置かれた箱に乗せられた黄金の盆におかれていた。
ラズワルドは首の側まで近づき、床に腰を降ろし、できるだけ視線の高さを合わせるようにして話し掛けた。
「久しぶり、アシュカーン。干涸らびてしまったからじゃないけど、最後に会った時と随分と変わったな。成長したっていうか」
ラズワルドが祖廟で会った時、アシュカーンの柔らかい灰色の髪は、肩口ほどまでの長さであった。いま目の前にある首はもっと長く、胴体があったなら、背中の中程くらいまではありそうであった。
海を思わせる深い青色の瞳は閉じられたまま ―― 開いたところで、そこには感情がよく分かる、透き通った瞳ははない。
熱い汁物を吹き出したり、楽しげに笑っていた唇ももうない。
白かった肌も茶に変色し、所々に首を切られた際に飛び散った、黒い染みがある。
ラズワルドは持ってきた石鹸を、首が置かれている盆の両脇に置いた。
「それは新しい石鹸だ。
遺品が置かれている部屋を通り過ぎる際、以前サマルカンドで買って送りつけた大量のナンが目に入った。どれも円で ―― 食べられた形跡はなかった。
「ラズワルド公、連れて参りました」
渇いた頭に話し掛けていると、シャープールが仮面を付けた男を連れてやってきた。
「
ラズワルドは平伏している男に声を掛けた。
「公柱のお好きなように」
アシュカーンと全く違う低めの声。
王宮の神殿にいたのは
「ではアシュカーンに会いに来たのか。それは良かった。アシュカーンは、会ってみたいと言っていたからな」
なぜ神殿にいたのか? という話になり ―― 帰国し王に挨拶をした後、アシュカーンに会いに来たのだという返事を聞き、ラズワルドはアシュカーンの方を向いて「良かったな」と声を掛けた。
「ところで、シャバーズは暇か?」
「暇……とは」
「明日、祖廟に向かうのだが、一緒に行かないか? お前今、シャバーズだろ? 王の玄室を参るなら、わたしと一緒のほうが良かろう?」
神の子直々の申し出を断る筈もなく、また