あとは海そのものをも楽しもうと、小さな漁船を借り、ジャバードに漕がせ釣りもした。ジャバードは申告通り一匹も釣ることができず、かつてハザール海のほとりにいたワーディは中々の釣果だった。
釣った魚はメティが捌き、ラヒムが調理する ――
「ワーディが住んでいたのは、この辺りか?」
「違います。この海の側なのは確かですが」
せっかくハザール海に立ち寄ったのだから、ワーディの生まれ故郷も……となったが、ハザール海は巨大な塩湖ゆえ、沿岸は長く、立ち寄った場所はワーディが生まれた村ではなかった。
「そっかー」
「それに、多分故郷に戻っても、俺が知っている人、俺を知っている人も、もういないと思います」
生まれた時から奴隷で、十歳を過ぎた辺りで売られ、解放され、再び奴隷商の元へと戻り、また売られる……を繰り返していたワーディ。
故郷を出てから十年以上 ―― 寿命が短いこの時代、十年も経てば知り合いが一人も居なくなっていることも珍しくはない。
特にワーディは奴隷で、知り合いもほとんど奴隷。富裕層の寿命は長いが、奴隷の寿命はそういった者たちの三分の一程度。
ワーディもラズワルドと出会わなければ、十年も経たぬうちに寿命を迎えていた。
この時代は貧富の差も激しいが、寿命の差も激しい。
唯一平等に近いのは、生まれ落ちてすぐの生死。
富裕層の子ですら、一歳を迎える前に(この時代では二歳に該当)半数近くが死亡する。貧困層はそれよりもやや多く六割ほど。富裕層と貧困層の乳児死亡率にさほど開きがないのは、そこに人買い、所謂奴隷商が介在し、買い取り食糧を与え、人的資源を確保しているからである。
「そうか……ワーディは何歳くらいまで生きたい?」
「よく分かりません。奴隷は四十まで生きれば、長生きし過ぎと言われるくらいでしたから」
とくに技能を持たない肉体労働専門の奴隷が四十を迎えるのは稀。三十半ばくらいで体の自由が利かなくなり、餓死に近い形で死んでしまう。
「へえー。マリートは四十半ばを過ぎているらしいから、奴隷としてはけっこう長生きなんだな。もっと長生きさせるけど」
ラズワルドが大好きなマリートは四十半ば過ぎ。ただマリートは都市部に住む、特殊な技能を持った奴隷ゆえ、長生きをしているという程でもない。
「ラズワルド公は、あと何年くらい地上にいるんですか?」
「そうだなあ……わたしは多分、そんなに長く地上には居られんよ」
ラズワルドは下町育ちだが、決して庶民育ちではない ―― 最富裕層に属し、
「なぜ?」
「理由は分からんが、そんな気がする。そしてこれは、外れないと思う……地上は大好きだけどな。多分大好きだから、去ることになるんだと思う」
ラズワルドはハザール海を見つめる。その横顔、そして眼差しは本当に愛しげであった。
「……ラズワルド公が帰るくらいまででいいです」
ラズワルドが地上や人間を好んでいるのは、ワーディも知っている。だからこそ、自分を助けてもくれた。
そんなラズワルドが、長く地上に居られないとは、何故なのだろうか ――
「なにがだ? ワーディ」
「俺が生きているのは、ラズワルド公が地上にいる間だけでいいです」
「いや、もっと長生きしろよ。わたしが持っている人間の寿命くれてやるつもりだしさ!」
「そ、そんなこと、できるんですか?」
「できるさ! わたしは
「ひゃく……さい」
数を確りと数えることのできないワーディにとって「百歳」など、訳が分からず、欲しいとも要らないですとも言うことはできなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「名残惜しいが、そろそろサマルカンドに行くとするか」
ラズワルドとしては遊び足りないが、そろそろフラーテスの元へと行かねば ―― 出立する当日の朝、ハザール海を最後に眺めようと向かったところ、波打ち際で見たことのない羽根のある生き物を見つけた。
「ハーフェズ、あれなんだ?」
「分かりません……鳥だとは思うんですけど」
辺りを飛んでいる鳥とは、随分と羽根や体のつくりが違う。だがおそらくは鳥 ――
「……いや、どこかで見たことがあるぞ」
「見たことがるんですか? ラズワルドさま」
「多分、あれそのものを見たことがあるんじゃなくて……なんかで見たことがる」
ほとんど何時も一緒にいるハーフェズが覚えていない……それを頼りにラズワルドは、二人でいない時のことを思い出し、目の前の鳥らしいものの正体を探ろうとする。
だが中々正体にたどり着けず ―― そうしていると鳥は、翼を大きく動かすが飛ぼうとせず歩き出した。
「意外と足が長いな、鳥」
「足がなんか、鷹とかに似ているような……」
「でも鷹じゃないよな」
「違いますね。頭が大きいというか、なんか違います。でも似てます」
気になったラズワルドは、その生き物の後ろを付けて行く。当然相手は動物なので、すぐに気付き後ろを見る。体を動かさず、首だけで。
「ぎゃあああ! ぐるっと回ったぁ! ぐるぐる回る! 首! くび!」
アッバースで海老を見た時以来のラズワルドの絶叫が、ハザール海に木霊する。
「これは
生まれも育ちもペルセア王国で、国外に出たことのない者たちは、ぐるりと首を回した鳥に驚いたが、レオニダス傭兵団とアルサランは、見たことがあるので驚くこともなく。
「普通の鳥です」
「こんな首回る鳥、見たことないぞ! アルサラン」
「そうですね。でも鳥の一種なのです、ラズワルド公」
アルサランが「普通の生き物なんです」と言ってもラズワルドは聞かず ――
「ラヒムも見たことあるの?」
ラズワルドと一緒に驚いていたバルディアーが、全く驚かなかったラヒムに尋ねる。
「ある。生まれ故郷で唯一覚えているのが、あの鳥だ」
鬱蒼と木々が生い茂る、原始の深い森の中、雪を被った木の枝にとまっている白い梟。それがラヒムの最古の思い出。
「そうなんだ……どの梟でも、首はあんなに回るの?」
「梟はみんな首回る……首が回るから梟だ」
「…………そうなんだ」
首が後ろを向く生き物を見たことのなかったバルディアーの表情は渋い。
その渋さの原因は、梟が何故か彼らに付いて来ることにある。衝撃的な
走って逃げようにも、梟が翼をはためかせ追ってくる ―― 当初なんとか振り切ったのだが、夜の間に近づかれ、翌日には朝日を背に天幕の支柱に、我が物顔でとまっている。
ラズワルドは無用な殺生を好まないので殺害せよとは言わないが、
「なぜ首をぐるぐる回す」
「なんででしょうね、ラズワルドさま」
首が回るのがどうしても慣れなかった。
「ヘレネスでは梟は賢さの象徴ですよ」
テオドロスにそう言われ、ラヒムが夕食の後片付け後に肉の欠片を放り投げておいたりするのを見て ―― 首が回る以外は害がなさそうだと、同行させることにした。
「お前は夜行性なんだな」
人に飼われていたのかどうかは不明だが、ラズワルドが両手で掴み持ち上げても暴れることはなく、尋ねられると首を回して答える。
「いったいお前の首はどうなっているのだ」
非常に動的な返事の仕方だが、テオドロスが言った通り頭は良かった ―― 夜行性と聞かされたので、日中移動する際は馬車に突っ込み寝かせておき、夜は餌を与えたあと自由にさせる。
たまに「お世話になっている証」なのか「臣下としての礼」なのかは不明だが、小動物を仕留め天幕の支柱に刺し、その上に立って朝を迎えたり ―― もちろん折角仕留めてきてくれた獲物だが、調理されることはなく、そのまま梟の夜の食事となる。
梟の回る首にも慣れた頃、一行はサマルカンドに到着し ――
「凄いだろ、これ」
侯都に到着してすぐ、ファルジャードの寝室に押し入ろうとしたのは、梟を見せたかったためである。
半勃ち状態だったが、急ぎ体を洗い濡れた髪のままやってきたファルジャードは、書物では知っていたが初めて見る梟 ―― の首の動きに驚く。
「首が回るとは知っておりましたが、このような……」
白と焦げ茶の羽根を持つ梟に、興味津々とばかりに手を伸ばす。梟は身じろぎもせず、黙ってファルジャードに頭を触らせる。
「回せ、回せ、いいぞ! イニス」
最初からやたらと懐いてくる梟に、ラズワルドはイニスという名をつけた。
そして ――
「ヘレネスからの輸入品である壺かなにかに、梟の絵が描かれていたのでしょう」
ラズワルドが「どこかで見たことがあるのだが、どうにも思い出せない。どこで見たと思う?」とファルジャードに尋ねた所、ヘレネスでは梟はよく画題にされるので、神殿かどこかで飾られているのを見たのでは? そう言われたラズワルドは「そうかも知れない」と納得した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ファルジャードに梟を見せ、自分の疑問も解消され、満足したところで、ラズワルドはハーフェズとアルサランを連れ、フラーテスに会いにいった。
青で統一された広い部屋に、ただ一人祈りを捧げながら過ごしていたフラーテスは、ラズワルドの訪問を歓迎した。
「……ところでフラーテス」
歓談し
「そろそろ地上を後にするフラーテスに聞きたい。フラーテス、何故お前は魔王を倒さなかったのだ」
黄金が散りばめられている瑠璃の瞳は、答えずに終わらせることを許さないとする、強い意志があった。
フラーテスは「神の子」だが「王の子」でもある。
故に彼は魔王を討つ義務を負うことが
だが彼は魔王を討つことなく、神の子としてだけ生き、地上から去る。
「何故だと思う、ラズワルド」
「討ちたくなかったから」
間髪入れずに返ってきた答えに、フラーテスは面食らう。
「……その通りだが」
「その理由を教えろ、フラーテス。言わずに帰るな……言わないなら帰さないぞ。そのための精霊王だ。答えによっては、精霊王に精霊界へと連れ去らせる」
ラズワルドが楽しげに笑いかける。その表情を見たフラーテスは、これは本気だと ―― 魔王を討とうと考えていた若き日、そして討たなかった理由を正直に答えた。
「まさかこの年になって脅されることになるとは……そうだな、儂が魔王を討たなかったのは、王都ナュスファハーンの水が涸れるからだ」
「王都の水が涸れる? 魔王を討つと?」
「そうだ。魔王は魔の山の地下に封じられておる」
「らしいな」
「魔王を討つと、魔王は
魔王が復活しかけた際、自由民の墓地へと向かい ―― 井戸にラーミンの気配があったことをラズワルドは思い出す。あの墓地は王都から馬で一日もしない距離にある。あの水脈にラーミンが影響を及ぼすのだから、王都に繋がる水脈にもラーミンがなんらかの影響を持っていたとしてもおかしくはない。
「空洞を空洞として維持することはできないのか」
「無理だ」
「なるほど。なんでそうなることを知ったんだ? わざわざラーミンが教えに来でもしたのか?」
「そうだ」
冗談で聞いたラズワルドは、それが正答だと返されて目を見開き、フラーテスの顔を凝視する。
「……そんなことがあったのか。でもなんで、信用したんだ? ラーミンだぞ、ラーミン。あれの言うことを、なんでそんなにも素直に信じたんだ?」
「何故信じたかと言われると困るのだが、ラーミンが嘘を言っていことは分かる。ラズワルドもそうであろう?」
「……」
神の子の中でも、とくに耳朶も神の子の文様で覆われているフラーテスやラズワルドは、魔物の讒言など聞こえない。それは精霊でも同じ事 ――
「ラーミンは狡猾だ。故に嘘ではなく、本当にしたのであろう」
自分たちがフラーテスやラズワルドを欺けぬことを知っているラーミンは、二人が地上にやってくるより、もっと昔にからその時が来た際に取引条件にしようと、地下水脈を変えていた。
「それで引いたのか」
「儂には王都を干涸らびさせる勇気はなかった……儂はペルセアの王子だからな」
行路が交差する大都市の衰退と引き替えに、魔王を討つという決心をすることが、フラーテスにはどうしてもできなかった。
彼は人間に、それも王家に近すぎた。故に魔王を討つ力はあったが、討つことができなかった。
「地下水脈の話、ファリドたちは知っているのか?」
「知っておる」
「そうか」
「イマーンに調査させたが、魔王を倒さねば、ナュスファハーンの水は涸れることはないそうだ」
砂漠の国であるペルセアにとって水はなによりも重要。それを盾にされては ――
「そうか。ところでフラーテス。アルデシール王子とエスファンデル、魔王を討たせるとしたらどちらだ?」
だがラズワルドはフラーテスとは違う。
「アルデシールじゃろうな。エスファンデルも悪くはないが、アルデシールのほうが向いているであろう」
若すぎる神の娘は、年老いた神の子を前に、魔王を討つ決意をした。
「……フラーテス、悪いが王都は十年か二十年の間に渇くことになるだろう」
「王都の民を、全て干涸らびさせるつもりか?」
理由はただ一つ。今でなければ討つことができない ――
「そんな気は毛頭ない。フラーテス、人類には今、ファルジャードがいる。そして王家はファルジャードが存在する時代でなければ、魔王は倒せまい。フラーテスが悪かったわけではない。フラーテスが若かった頃、ファルジャードがいなかった。魔王を討てなかった理由はそれだ」
ラズワルドは言い切り、フラーテスの元を去った。
「ラズワルドと
また一人きりになった部屋で、フラーテスはそう呟いた。