「待ってないと思いますけど、楽しみですねー」
「ワーディも一粒くらいは食おうな」
「はい、ラズワルド公」
ラズワルドたちは進路を西に変え、キャビアを求めてハザール海へ ―― 国王よりファルジャードを諸侯王の座に必ずや就けよという命を賜ったバフマンは侯都を目指して進んだ。
バフマンが派遣された表向きの理由は、亡きサマルカンド諸侯王一族へ弔慰を示すために国王が遣わした使者。もちろんバフマンには別の任務があることは、今にも争いを起こしかねない者たちは、誰もが分かっている。
「それにしても、なぜバフマンさまが選ばれたのでしょう」
日に日にきな臭くなる土地を横断する中、護衛の若い兵士が馬上でそう呟いた。若い兵士の疑問は、誰もが持つものであった。
それというのも、バフマンは自由民出身。両親はこれといった部族の一員ではなく、都市部で生活していた、本当の意味での自由民で、バフマンも一族というものになんら興味がない。
都市部で育ったバフマンは、自分には職人や商売人は向かないだろうと考え兵になった。下級兵士の頃は、気にくわない上官も多かったが、手柄をあげて徐々に地位を上げるとそういった類いは減り、五年ほど前、三十二歳で中将軍の地位に就いた。
「下手に調整できる地縁や血縁を持った将を派遣したら、
「え……」
「国王は最初、俺と
「はい。俺もカスラー卿が適任だと思います」
これといった後ろ盾なく、戦功だけで今の地位についたバフマン。彼は戦場での戦いぶりには定評がある。当人に言わせれば「勘」の一言で済ませられてしまうが、大人数を率いて戦う才能があり、それ以上に個人の技量が優れていた。
だが都市部育ちの自由民ゆえ、土地に縛られた貴族や、血縁関係による柵などに関しては疎い。彼は一軍の将となっても、自由気まま ―― こういった貴族同士の揉めごとを
「ところが、国王から直々に任命されたカスラーの奴が、自分を派遣するのは辞めたほうが良いと言い出したんだそうだ。カスラーの奴曰く、
カスラーもむざむざと殺されるつもりはないが、協力のつもりが、まったく協力にならず、下手をしたら新たなサマルカンド諸侯王が
これは非常に危険な説得であった。なにせその地位に就く前に、反乱の可能性があると、国王が信頼している部下が言い出したのだ。
そんな奴は殺してしまえ! と、なりかねない。
だが、彼らには殺せない理由があった。それが
エスファンデル三世は、誰が良いのだとカスラーに尋ねた。
国王からの問いに、カスラーはバフマンを推薦した。貴族社会も部族社会にも馴染まない、戦争の達人を派遣するのかと、国王は最初難色を示したが『ファルジャード卿は、四年ほど前までは自由民でした。彼の考えに合うのは中将軍唯一の自由民バフマン卿以外おりませぬ』。それを主軸にカスラーの説明を聞いた国王は、バフマンを派遣することに決め、彼をアンチオキア国境付近から呼び出し、警備のためにつれていた兵士二千に、用意した八千の兵を合流させ、率いてサマルカンドに向かうよう命じた。
その命と兵士を連れていったのはカスラー。
バフマンはカスラーからファルジャードの気質と、しようとしている事の一環を直接聞いた。
「三百程の兵で何ができるか……と思う反面、三百の兵で勝算があるのかと思うと……ぞっとする話だな」
彼らが更に進むと、最果ての砦を預かっていた将とその兵たちと遭遇した。
突然ファルジャードたちがやってきて、砦を奪われたと ――
「三百の兵にしてやられたのか」
「なぜご存じで」
三千ほど駐留しているのにもかかわらず、十分の一ほどの兵力に奪われてしまったことを恥じて、将は実数を言わなかった。
バフマンもそれ以上は追求しなかった。そして彼らに、国王からの命令書を見せ、
「ラズワルド公柱がファルジャード卿を諸侯王にせよと、陛下に命じられたのだそうだ。道中で奇しくもお目にかかることができたラズワルド公柱より、直接そのことを聞いた」
ラズワルドの意思であると告げ ―― 彼らに侯都へ向かい、治安を守るようバフマンは指示を出した。
「よろしいのですか?」
三百の兵に砦を取られてしまうような将を信頼していいのかと、遠回しに聞かれたバフマンだが、
「治安を守れてもよし。守れずともよしだ。あとはファルジャード卿が判断を下すだろう。さて、援軍になるかどうかは分からんが、まずは最果ての砦を目指すとするか」
ファルジャードが侯都にまったく心がないことだけは分かっているので、暴動が起きようが略奪されようが問題なかろうと、さほど気にせず砦を追い出された一団を侯都へと向かわせた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
強姦されたあげく吊されて死んでいる妊婦を見て ―― ファルジャードは
その横顔を見たサラミスは、全てが計画通りに進んでいることを理解する。
「
ファルジャードはかつて住んでいたゼラフシャン川近くの土地を、ネジドの民に与えると約束していた。
川があり砂金も取れる。そんな土地に人が住み着いていないはずがない。サラミスがそれについて尋ねると、ファルジャードは「後継者争いが始まれば、その近辺にいる部族は居なくなるさ」そう言った。
敵対部族の一味なのだろうかと考えたサラミスだが、殺害した部族と殺害された部族は、着衣や髪型などから完全に違う部族であることがはっきりと分かった。
もっとも殺害されている側は、男性の着衣しか分からなかったが、戦争には男性しか出てこないので、それだけで充分でもあった。
「良き土地を本当にいただけるのだな」
「ああ、嘘はつかん。俺は一切嘘をついてはいない」
彼らの目の前にいるのはダリュシュの部族。彼らはファルジャードが「世話になった村」を襲い村人を攫い、期日までに諸侯王の権利を自分たちの部族に譲らねば、世話になった村人たちを殺害すると脅した。
それを聞いたファルジャードは無視し、叔父たちが治める土地へと赴き、彼らの家屋敷を襲い、叔父の娘たちを攫い、最果ての砦へと向かい、防衛にあたっている国軍から砦をかすめ取り、叔父たちの娘を監禁した。
ファルジャードが侯都にやってくると考え、侯都近辺で待ち構えていた叔父たちは慌てて治めている土地へと引き返し、娘たちが軒並み誘拐されたことを目の当たりにし、最果ての砦へと急いだ。
前回訪れた際に、砦の全てを把握したファルジャードは、抜け道を一箇所だけ残し、後は土嚢で塞ぎ、残した箇所に兵を置き、抜けてやってきた叔父たちの兵を次々と殺害し、死体を次々と外へと捨てた。
ここに来る前に砦の全容を教えられていたサラミスは、自分たちの八倍ちかい兵相手に籠城戦を繰り広げる。ただ本来、籠城戦というのは、援軍が来ることを前提としているもの。だがファルジャードにはそういった当てはなかった。
だが叔父たちにも援軍はなかった ―― 叔父たちは兵を失い、半分ほどになったところで退散した。その頃には監禁していた娘たちも飢えと乾きで半数ほどが死んでいたが、ファルジャードにとってはどうでも良いことであった。
「ファルジャード卿。
さて砦を捨てて、ダリュシュの一族が占拠しているであろうゼラフシャン川近辺へと向かおうとした所、ペルセア国軍がやって来たと聞き、その将であるバフマンと砦で面談をした。
バフマンは国王から賜った命令書と諸侯王の地位を安堵する書面の他に、カスラーから預かった手紙と、ラズワルドから託された神書を手渡した。
それらに目を通したファルジャードは ―― 国王が諸侯王の地位を保証した手紙は表情を変えず一瞥しただけで、隣のサラミスに手渡した。
次ぎにカスラーからの手紙を読み、やや苦笑を浮かべ国王からの手紙よりは長く読み、そしてサラミスへ。
最後にラズワルドからの手紙が入った箱を開けると ―― 室内に甘い香りが漂った。文箱には手紙の他に、ぱんぱんに
手紙を取り出すためには、その袋を取り出す必要があり、ファルジャードはセリームを呼び、二人で必死に箱の中から袋を取り出す。
「誰だ、こんなに詰めやがったの」
「力からいったら、ハーキムかアルサランさんかな。でも指示を出したのはきっと……」
「それ以上言うな、セリーム」
ぱんぱんの袋を文箱に押し込んだのは彼らだろうが、ぱんぱんの袋を作り、文箱に無理矢理詰めるよう指示を出したのは、間違いなくラズワルド。
「言わないけど、それに関して俺はなにも言わないけれど! きっと、きっと”文箱壊せばいいだろ”とは仰る」
「まあな。神の子直筆の書が収められている文箱を破壊するなど、出来ないことをご存じないからな!」
そんなことを言いながら、二人は必死に袋を取り出し、やっと手紙を手にすることができた。
手紙の内容は「サマルカンドに向かっていたが、バフマンの軍と遭遇したので、行路を一時変更してハザール海へ行きキャビアを食べてから、サマルカンドに向かう」こと、また合流したバフマンについて一言、小分けにして詰めた
「さすがラズワルド公、何時もと変わらん」
内容に関してファルジャードは笑い、セリームにラズワルドの手紙一式を別室へと運ぶよう指示した。
「ではバフマン卿。兵を半数に分けて、一つには最果ての砦を守っていただきます。もう一つは同行願いましょう」
「よろしいのかな」
「最初は
軍を分けることは褒められたことではないが ―― ファルジャードは殲滅しやすいように敢えて軍を分けた。そしてそのことを隠さずバフマンに告げる。
「不信心な俺すら救って下さるとは、神の子は寛大でいらっしゃる」
ラズワルドの手紙を読んでいた時とは全く違うその雰囲気に、歴戦の強者であるバフマンだが悪寒を覚えた。
―― ラズワルド公の神書を手にしているのを、この目で見たから人間だと分かるが……そうでなければ、魔物の類いではないかと思うぞ、この男の雰囲気
それは戦場で出会うようなものではなく、全く以て未知のものであった。
だが未知の存在であろうが、命令には従わねばならぬ ―― バフマンは隊を二つに分けて、部下に最果ての砦を任せ、自分はファルジャードに付き従うことにした。
そしてゼラフシャン川沿いの平原で、ダリュシュの部族と遭遇した。彼らはファルジャードが世話になった村を襲い ―― 期日までやってこなかったので、女も男も犯し拷問を加えて殺害した。
吊されている腹の膨らんでいる女の死体。戦場に赴くことの多いバフマンにとっては、あまり珍しい光景ではない。ただ不快感はある。
「カミル、まだ生きていたのか!」
吊された妊婦の死体を見て笑っていたファルジャードが、楽しげにまだ生きている村人の一人に声をかけた。
左目が見えなくなるほど顔が腫れ上がり、指が変色している男 ―― カミルは、馬上の榛色の髪の男を見て愕然とした。
「ファ……ルジャード……」
「その腹の膨らんでいる女、お前の妻らしいなあ。ということは、ロクサーナーか。村一番の美少女も、そうなってしまうと、分からんもんだなあ」
ファルジャードの異様に楽しげな声に、楽しみを兼ねて弄んだ男たちは、顔を見合わせ始める。彼らとしてはファルジャードはもっと苦しむ筈だった。
だが目の前の男は笑っている。それは強がりや怒りを秘めているようなものではなく ―― カミルの殴られ切れて腫れた唇から、うめき声が漏れる。
その声はとてもファルジャードに希望を見いだしているようなものではなかった。むしろ、はっきりとした絶望。
「悪いことをしたな、カミル。どうもその部族、俺の話を間違って解釈したらしい。お前たちには世話になった。お前たちのおかげで、俺は神の子に出会うことができた……嘘は言っていないのだ。ただな、俺たちはお前たち村人が手引きした山賊に襲われ、命からがら逃げ出したとまでは言っていなかったせいで、
ファルジャードは吊された妊婦は分からないと言ったが、本当は誰なのか分かっていた。口から泡を吹き目を剥きだし、股から血を流し死んでいる女たちの名は全て分かっている。顔の形が変わるほど拷問された男たちも、体付きから名前を推測することはできた。精々分からないのは、彼らが逃げてから生まれた子供たちだが、それらの死体を見て胸が痛むようなことはない。
「たしかにお前たちがそんな非道なことをしなければ、俺は道中でシャーローン公に会うこともなかったし、王都でラズワルド公の知己を得ることもなかった。そういう意味では感謝はしているが、砂金一粒ほども許してはいない。だがな、この話をフラーテス公にした所、許せずとも殺害してはならぬという御言葉をいただいてな……お前等一族を俺は殺してはならんのだよ。残念だ、とても残念だ。だが俺は神の僕であり、神の子には多大なる忠誠心を持っている。よって殺したりはしない」
ファルジャードは殺したいなどとは一言も言わなかった。
ただ彼らには世話になったとしか言わなかった。それもあまり大声では言わず ―― 山賊を案内した村人たちは、ファルジャードのことを聞かれても言葉を濁す。なにせ山賊と通じていると知られたら、官吏に罰せられてしまう。そう考えて真実を言うことはなかった。
「だが、代わりに殺してくれた一族がいた。殺すだけではなく、拷問してくれて本当に感謝しているが……一体誰からこの話を聞いたのだ? フラーテス公には話したが、公は周りにいた者たちにも口外せぬよう命じられていたのだがなあ。誰だ?」
その時フラーテスの周囲にいたのは、ダリュシュとその親族。いま目の前で村人たちを虐殺した部族の一員 ―― ダリュシュの部族は、口からの出任せだと騒ぎ始めたが、ファルジャードは戦いもせず彼らに背を向けて侯都へと向かった。
そして入れ違いにやってきたダリュシュは、武装神官団を率い ―― 一人の男の首を長い棒の先に吊していた。
男は彼らの一族の者であり、ファルジャードが身の上を話した際フラーテスの側にいた神官の一人。
フラーテスの命に叛いたとして、ダリュシュはゼラフシャン川近くの村を襲った者たちを皆殺しにし、土地へと帰り襲った者の家族も皆殺しにし神に詫びた。
最初からファルジャードは、ダリュシュの一族と戦うつもりはなかった。サマルカンドで権力を握る彼らを、神罰を下される側と下す側に分け戦わせる。もちろん勝つのは