暇に関してだが、アッバースで乗馬訓練をおこなった甲斐もあり、全旅程とはいかないが、三分の二程度は馬で踏破したため、それに悩まされることはなかった。
その他にも吟遊詩人であるアーラマーンを伴ったため、休憩毎にバルバットが奏でる音楽を楽しみ、初めて聞く四行詩に、ラズワルドは黄金が散っている瞳を輝かせ聞き入った。
武術の鍛錬と仕事の合間に葦笛の練習をしていたハーフェズが、バルディアーが舞うラクス・バラディーの伴奏を務め ―― 日が沈む地平線を背に踊ることもあれば、月明かりがあたりを白く染める夜に舞って、ラズワルドを楽しませた。
精霊使いになるために買われたが、いまだ精霊使いになれていないハーキムはラヒムの指示に従い竈を作り、水を汲んで湯を沸かしたり、ワーディと共に肉を解体したりあど。
そのワーディは道中、体調を崩し、ラズワルドが精霊の力を使い空飛ぶ絨毯に乗せ、移動したりもした。
馬車よりも遙かに揺れのない絨毯で、三日ほど横になって、ワーディの復調する。
「買った時より丈夫になっているし、旅もあの時より楽な筈なのに」
前回のサマルカンド行きの途中で購入し「肉も卵も乳製品も駄目です」だったワーディだが、王都にたどり着くまで体調を崩したことは一度もなかった。
現在は大量に食べることができるとは言わないが、ゴフラーブの所で働いていたアルサランの協力を得て、与える食事を管理し、肉団子を毎食二つ食べても腹痛を起こすようなことはなくなり、蜂蜜をなめさせることも出来るようになった。
旅そのものも、移動速度が速いということはなく、楽な筈なのだが ――
「カスラーさんの管理が行き届いていたんですよ。俺やラズワルドさまが見ていないところで、ワーディさんすら気付かぬような配慮を色々として下さったんでしょう。ラズワルドさまも配慮していますけど、ほら、ラズワルドさま雑ですし、俺は隊を率いるので精一杯でワーディさんの体調管理ができず」
雑と言われたラズワルド。
だが、それに関して言い返す言葉はなかった。自分自身、雑だという自覚がある ―― だからといって、治すという気持ちがないのがラズワルドである。
「……思えば凄いな、カスラー」
隊を維持したまま、最短時間で疲弊させず目的地まで移動させる ―― 戦いにおいて、これがもっとも難しいことである。
「凄いですよ。俺なんてシャープールさんの補佐ありで、隊五十名を率いる真似事をしているだけで手一杯。カスラーさんはあの時、千名率いてましたからね。それも専門外な上に、危険極まりない任務だったのにもかかわらず、一人の脱落者も出さないうえに、ラズワルドさまのお世話まで」
ハーフェズが一応指示を出している部隊は、シャープールの部隊で、どの隊員もハーフェズが生まれる前から武装神官であり経験があるため、移動が厳しいからなどという理由で脱落者が出ることもない。
また経験が浅いものに従うのは嫌だ……等と言うような者はいない。それは彼らが人格者だからという訳ではなく、ハーフェズの額に”神の子の奴隷”と書かれているのが大きな理由。彼ら武装神官の信仰心は篤かった ―― ハーフェズにとっては、完成された部隊がラズワルドの力で従ってくれている状態。
それを重々理解しているハーフェズは、脱落者なく規律ただしいまま進んでいる隊に関して、自分の力だと過信せず、バルディアーやハーキムと共にこつこつと経験を積んでいた。
「ますますもって、お供をさせて悪かったな。なにもせずとも、大将軍になれただろうに」
「でもあれ、ちゃんと聞いたら、大将軍になるには必要なことらしいですよ。力量があっても神の子の随伴をしたことがないと、能力的に劣る相手に地位を奪われることもあるらしいので、あれで良かったんですよ」
「そうか」
中将軍凄いな ―― そんな話をしながらひたすら進み、サマルカンド侯領へと入った。そこで軍の使う宿営地で野営の準備に取りかかっていると、ラズワルドたちがやってきたのとは違う方向から、砂埃を上げ馬蹄を響かせ、大軍がこちらに向かってやってくるのが見えた。
「旗からして、ペルセア王国軍のようですね」
ハーフェズが砂煙の中にペルセアの騎兵旗を見つけた。
「味方だと思わせるために、ペルセアの旗を掲げてやってきた奴らだったらどうするんだ?」
竈に薪をくべ、火力を上げている最中だったラヒムは「そんなに簡単に信用していいのかよ」と ―― 言われたらハーフェズは、大きく形の良い瞳を見開き、
「そんなこと、思いつきもしませんでした……けど、当然疑うべきですよねえ。あの大軍は東側から来てますもんね」
サマルカンド侯領の西側はハザール海を挟んでいるため異国とは接していないが、東側は異国と接している。どちらも異国から攻められる可能性はあるが、ハザール海を挟んだ向こう側はアラン王国というかなり貧しい国で、海軍を仕立ててペルセア王国に攻め込むような余裕はない。
対する東側はマッサゲタイ王国の他に、アンチオキア王国とも国境を接している。
「ペルセア人は混血が多いから、顔見ただけじゃ分からないしな」
道路が舗装され、人の行き来が盛ん。またその豊かさに旅人が住み着いてしまうことが多々あるペルセア王国では、混血は珍しいものではない。混血がいないのは貧しい村か辺境くらいのもの。
そして軍というものは、貧しさとは正反対。
ゆえに多種多様な人種が所属しているので、見た目だけで判断するのは難しい ―― もっともこれほど多種多様な人種が混ざっている大軍というのは、豊かさで劣る近隣諸国が、侵略作戦として用意するとしても難しい。
「ですよねー。
ただそれに関してハーフェズはあまり良く知らない。
ただラヒムとハーフェズがそんな話をしていると、隊の戦闘が宿営地に到着した。
彼らは一応警戒し、テオドロスたちも何時でも戦えるよう体勢を整える。
到着した軍隊は、先に宿営地を使っていた一団に視線を向け、青い旗を確認して急ぎ馬から降りる。
「ペルセア王国軍のようですね」
「あそこまでなら、誰でも出来るだろ」
「疑い深いですね、ラヒム。でもそういうとこ、嫌いじゃないです。ファルジャードみたいとも言いますけど」
「別に俺は、あの
「やっぱり似てます……でもまあ、大丈夫のようですね」
下馬した数名が膝をつき両手の平を空に向けて、祈りを捧げ始めた。その作法の正しさから、敵ではないだろうと ――
「使わせて下さいって、頼んできますね」
「俺も一緒に行こう」
「頼みます、テオドロスさん」
ここは軍隊に優先権があるため、普通は立ち去らなくてはならないのだが「せっかく竈を作って火をおこしたのだから」という軽い理由で、ハーフェズは青地に金でラズワルドを表す図案と、メルカルト文様が描かれた旗を持ち、
「初めまして。神の子ラズワルド公の奴隷、ハーフェズと言います。責任者の方にお願いがあって参りました」
ハーフェズは初めてみる兵士ににこにこと笑って声を掛けた。
話し掛けられた方は、額に名前が書かれた褐色の肌と黄金色の髪を持つ美少年を見たことはなかったが、噂だけは聞いていたので、誰なのかすぐに分かり、この隊を預かる中将軍バフマンの元へと連れていった。
「神の子の奴隷か。噂通りの美少年だな」
部下が連れてきたハーフェズを見て、バフマンはそう言い馬から降りる。
「ありがとうございます」
美少年と言われ慣れているハーフェズは、その辺りはさらりと流し、宿営地の一角を使わせて欲しいことを告げた。
「あの傭兵団は?」
「レオニダス傭兵団と言いまして、我々が雇った者です。ちなみにここに居るのは、団長さんです」
神の子の身辺に侍るにはいささか雑多な部隊が、まとわりついていることが気になったバフマンが尋ねた。
「異国人が中核の部隊か」
「はい。神の子の部隊としては、同じ神を信じる者たちを叛いたわけでもないのに、容赦なく殺害するのは少しばかり良心が咎めますので」
異教徒で構成された傭兵団を雇ったは、これが理由であった。
「サマルカンドの後継問題か」
ラズワルドとサマルカンドの後継者ファルジャードの関係は、国の中枢にいる者ならば誰でも知っている。
「巻き込まれたら困るかなー……といった所です。ラズワルドさまの真の目的は、フラーテス公と精霊王を会わせることですので」
「そうか」
そしてバフマンが率いるこの部隊がやってきたのも、サマルカンドの後継者問題が理由であった。
「ご迷惑かもしれませんが、少しだけ使わせてもらっていいですか? 駄目なら駄目でも良いんですけど」
「我々は邪魔かな? ハーフェズ卿」
「?」
「お邪魔であれば、我々は別の所へと向かう」
「この近くに、こんな大軍用の宿営地はないですよ」
「野宿でも構わんよ」
「…………あっ! ラズワルドさまに気を使って下さったんですね! ああ、そういうことならご心配なく。むしろ”ちょっと中将軍連れて来い、話がしたい”と言われるくらいです」
「……それはそれで、ちょっとな」
バフマンが率いた隊は、ラズワルドたちと同じ宿営地に泊まることになった。そして案の定、ラズワルドから呼び出しを食らった。
「お前がバフマンか」
ラズワルドの天幕に呼ばれたバフマンは平伏しているが、臆している気配はまるでなかった。
「ご存じで?」
「先王……じゃなくて、先々代ファルナケスの葬儀の際、バーミーンから聞いた。十二名いる中将軍の中で、唯一の自由民がお前だとな」
「たしかに自由民に御座います」
「ふーん。まあ、それはいい。ところで、お前はこれから何処へ行くのだ」
「サマルカンドに御座います」
「なんで?」
「国王よりファルジャード卿を、必ずやサマルカンド諸侯王にせよとの命が下されました」
国王が諸侯王の後継者争いに口を挟み、部隊を派遣するのは珍しい ―― もちろん、離反しそうな者や、敵国と通じそうな者がその座に就きそうになれば軍を派遣するが、今回はどちらが諸侯王になったとしても、その信仰心の厚さからペルセア王国からの離反はないと言い切れる。
話を聞いていたシャープールは、なぜそのような状況なのに
「もしかして、ペルセア王家はわたしが言ったこと、覚えていたのかな」
「なにを言ったんですか? ラズワルドさま」
「ファルナケスに”葬儀の際、柩に乗ってやる。代わりにファルジャードをサマルカンド諸侯王にしろ”みたいなことを言ったような覚えがある」
「うわ、それじゃあ守らなかったらペルセア王、罰せられるじゃないですか」
「罰せられはせんが、
「それ大事です、ラズワルドさま」
「だがよく二代前に喋ったこと、伝わってたなあ」
「みんなラズワルドさまほど雑ではないので。なによりそれは、王家の死活問題ですから」
バフマンが一万の兵を率いてファルジャードが諸侯王になれるよう協力しに行くのだと聞き ―― 行き先が同じなのでという理由で、同行になってしまうと、世俗の慣習問題が厄介だと考え、バフマンに全てを任せて、
「少しばかり遠回りをする……まずは、キャビア食いに行くぞ!」
進路をサマルカンド侯都からハザール海へと替えた。