そして息子アシュカーンが王太子になる。
王家にほとんど興味のないラズワルドは、王弟が王位を継いだ事情に関し、なんら興味を持たなかった。アシュカーンが王太子になることについては関心が湧き、それに関する手紙を認める程度。
だが庶民は違った。
火災が元で死亡したゴシュターブス四世。そして同じく火傷を負い、療養のために王都ではないどこかで過ごしているとされるアルデシール。だがアルデシールの行方を知っている者はおらず、もしかしたら既に亡くなっているのでは ―― エスファンデルが簒奪のために兄とその子を焼き殺したのではないかという噂が立っていた。
ラズワルドの耳にその種の噂が届くことはなく、届いたとしても「
即位したエスファンデル三世は、慣習に則り神殿への献納を行った。特に魔の山を鎮め、甥で次のペルセア国王となる
王都の真神殿に収められたそれらの品々は、アッバースに住むラズワルドの元へと届けられる。
その任を負ったのは武装神官団を統括するフェルドーズ。
赤毛で三十を過ぎたばかりの男は、部下たちと大将軍から頼まれた
「ラフシャーンさま!」
「セリームか」
アッバースの町でもっとも格の高い門を背にして、ラフシャーンを待っていたのはセリームと彼の護衛であるアルサラン。
ラフシャーンはそこで別行動となり ―― ファルジャードの邸へまっすぐ向かった。
「待っていたぞ、ラフシャーン」
アルサランに馬を預け、セリームの案内でファルジャードが待つ部屋へ。白く汚れ一つない美しい大理石に部屋、その床には数字が乱雑に書き込まれた紙や、
「酷い有様だな、ファルジャード。御主らしいと言えば、御主らしいが」
客を迎えるのにまこと相応しくない部屋だが、ラフシャーンは気にせず、紙を少しばかり脇に寄せて腰を下ろす。
「三年ぶりになるか、ラフシャーン」
ファルジャードは紙の下に埋まっていたクッションを取り出し、ラフシャーンに向かって放り投げる。
「そうだな」
「顔の傷はどうした? ラフシャーン」
クッションに座り直したラフシャーン。彼の顔には三年前にはなかった、大きな傷があった。
医術を学んでいるファルジャードは、その傷に手を伸ばす。
「刀創とは違うのは分かるが、どのような武器で傷つけられたのだ」
「魔物に付けられた傷だ」
右の額から頬にかけての、縦長の大きな傷跡。それはアルデシールを守る際についたものである。
「こんな傷が残るのか」
「そのようだ。これでも大分薄くなったのだがな」
「御主はもともと精悍な顔だちだったが、その傷でより一層精悍さが増しているぞ」
「伯父上にも言われた」
「俺の顔にも、そのような傷が付けば、少しは精悍さが生じるであろうか」
「御主の顔だちに傷は合わぬであろう。なにより
「
「ファルジャード! ファルジャード!」
そんな会話をしていると、外から聞き覚えのある少女の声。顔を見合わせた二人は、海を望む
「隣の部屋に移動する」
この部屋の窓を開けると、風で紙が飛び困ったことになるのでと、ファルジャードはラフシャーンと共に隣の部屋へと駆け込み
「ファルジャード! 干し
ジャバードが漕ぐ古びたかつての漁船に立っているラズワルドが、海から邸に向かって声を張り上げる。
「ラズワルド公! お飲み物は!」
「薔薇水持ってきた!」
「畏まりました!」
ファルジャードとラフシャーンは顔を見合わせてから、邸にある船着き場を目指して駆け出す。途中で二人の元に酒を運んでいたセリームと会い「ラズワルド公がお越しだ」と告げる。
セリームは急いでラズワルドがやって来た際に通す部屋へと急いだ。
広い邸を駆け抜け、海に面している小舟の六艘くらいならば、余裕で収容できる船着き場へと飛び込んだ。
「ファルジャード、干し
小舟から桟橋へと飛び移ったラズワルドは、干し
ラズワルドにとってファルジャードの邸は、しょっちゅう遊びに来ているので、勝手知ったる邸なのだが、案内がいないということはない ―― 船着き場を出たラズワルドは、いつも通される部屋へと向かう。
その途中、
「ファルジャード卿。お客人がありましたか?」
ジャバードが薔薇水の入っている器を床に置き、ラズワルドとファルジャードの間に割って入り、メルカルト文様が鮮やかな新調され剣の柄に手を伸ばす。
「ああ、確かに客は居る。どうした?」
「その者、微かながら魔物に触れた気配が」
三十半ばで特に目立った武功もなければ、武装神官としての評価が高いわけでもない男が放った意外な言葉にファルジャードは足を止め、自分よりも背の高い男に視線を合わせる。
「魔物によって顔に傷を負ったが、もう治ったと聞いたが」
「そうですか。それならば」
同じく足を止めたラズワルドが、
「死んだ?」
無意識のうちに払ってしまったのではと、眉をひそめる ―― もちろんラズワルドには眉はないが。
「それは大丈夫ではないかと」
「わたしの所につれて来い」
部屋の場所は分かっているから、そいつを連れて来いと言い駆け出す。ジャバードは器を持ち直しラズワルドを追う。
何処に何があるのか分かっている部屋で、食布を敷いて杯を取り出し、干し
「……ラフシャーンか!」
ラフシャーンであることに気付いたラズワルドは喜び、声を掛ける。
「はっ!」
ラフシャーンは部屋の前までやって来て平伏し、部屋に入ろうとはしなかった。顔を上げろと命じられ ―― 顔の傷を見たラズワルドは、ジャバードに尋ねた。
「さっきお前が感じたのは、あの傷か」
「はい」
「ふーん。わたしが視る分には、ないもないが……良く感じ取れたな。まあ、わたしは感知ができないから、普通であれば感知できる類いのものかもしれないが」
アッバースにやってきて力の使い方などを習っているが、ラズワルドは自身の力が強すぎて、魔物の僅かな残り香などというものは、一切感じることができない。ラズワルドが今習っているのは、無意識のまま周囲に放っている滅魔の能力の制御だが、上手くはいっていない。なにせ範囲を狭めると人間や動物なども被害が及ぶほど、滅魔の能力が濃くなる。ただ意識的に範囲を広げても、無意識で放っている滅魔の力と変わりなく ―― 持っている能力が強すぎて、黙っているのが最良状態。
対するジャバードは武装神官としての能力は並程度。ただし彼はハーフェズに匹敵するくらい、魔物を察知する能力に長けていた。
「大体はこれで、魔物に気付かれぬよう背後に回って闇討ちで任務を果たしてきました」
久しぶりなのだから話をしよう ―― ラズワルドの希望により、部屋へと入り食布を囲みラフシャーンも会話に混ざることになった。
「たしかに。正面からあたる必要はないものな」
ジャバードの話を聞き、後世、奇襲の軍師と呼ばれるファルジャードは、その考えの正しさを肯定する。
「そんなに遠くの魔物も察知できるのに、
「はい、ラズワルド公。走ってくるような魔物相手ならば逃げ切れますが、飛んで来る魔物は感知した時点でもう追いつかれたも同然です。飛んでくる魔物に関しては、あの時初めて遭遇しましたが」
ラズワルドの俯瞰を共有したファルジャードには「飛行」の速さは充分理解できた。
―― あれで迫られたら、馬如きでは逃げ切れんな
「なるほどなー。ラフシャーン、その傷に残ってる魔物の残り香も全て払ってやるよ!」
それほどの速さを持つ、魔王直属の僕の翼を持ってしても、逃げ切ることができないのがラズワルドの力。
「わたしめのような者にそのような」
「消えたぞ! あとで違う場所でジャバードに確認してもらうといいぞ」
特にラズワルドは動くわけでもなく、ラフシャーンは頬に痛みや痒みを感じるわけでもなく ―― いつの間にか消え去った。
「ラズワルド公。我が友人ラフシャーンから魔の気配を消して下さったこと感謝いたします」
「ラフシャーンはわたしの友人でもあるしな」
「人の身には過ぎたる御言葉」
友人と言われたラフシャーンと、友人を治してもらった形になったファルジャードも平伏し ―― 彼はある質問をした。
「ラズワルド公、一つお聞きしたいことが」
「なんだ? ファルジャード」
「魔物の気配が残っていたラフシャーンが、なぜラズワルド公のお力に触れても消えずに済んだのか。お教えいただきたい」
「許容範囲内だから」
「許容範囲?」
「人間である以上”魔”は誰でも持っているものだが、個人差はある。分かりやすく言えば生まれたての赤子と、悪徳役人として数十年務めた男が、同量の”魔”を持っているとは誰も思わないだろう? これは極端な例だがな。それで、いま例としてあげた後者の悪徳役人だが、悪徳であろうとも人ではある。それは魔が人として許される範囲であるからだ。ある一定の線を越えると魔物になる。それでラフシャーンの顔には魔物の痕跡が残ったが、ごくごく僅かで”ラフシャーンという人間を形作る上で、許容できる範囲内に収まっていた”ので、吹き飛ばなかった。だが人間が内に持つ魔と、外側に付着した魔は、匂いが違うらしい。わたしは分からないが、武装神官なら違いが分かる」
「我が友人ラフシャーンが、愚直な男で良かった」
「かもしれぬな。……ラフシャーン、お前の力量ならば、魔物を倒せなくとも深手を負わせることは出来るかも知れん。そしてお前が仕える相手のことを考えると、魔物から傷を負わされることが、この先もあるだろうから、少しばかりお前の中にある魔を抜いておく。
「……ラズワルド公、もうラフシャーンの魔は抜けたのですか?」
「うん、抜けた……ああ! 手を掲げたり、光を散らしたりしたほうが良かったか? そうだよな、お前たちには見えないんだもんな。っても、魔はラフシャーンの体内にあるのがそのまま消えただけだからなあ」
息をするように奇跡を起こすが、起こしている当人はまったくそれを奇跡とは思わず ――
「ラズワルド公。ハーフェズが武装神官団団長を連れて参りました」
神の御業に圧倒され言葉を失っている彼らの元にアルサランがやってきて、そう告げた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
アッバースの入り口でラフシャーンと別れたフェルドーズは、急ぎ旅の垢を落としてから、献納品の数々をそのまま神殿へと運び入れた。
「まあ、一応仕事ですからね」
「そうだね、ハーフェズ」
受け取りに立ち会ったのは、ハーフェズとバルディアー。側近の仕事なので、数日前からシャープールやパルハームからすることを聞き、ぎこちないながらフェルドーズとやり取りをする。
「驢馬が三十頭、羊が百頭、駱駝が五十頭で奴隷が三百人で、どれも雄雌半々……生き物はこれだけですね」
「そうです、ハーフェズ卿」
年上の中将軍から卿付けで呼ばれる ―― 普段であれば「ハーフェズでいいです」と言うのだが、このフェルドーズは昔馴染みでもなんでもなく、神殿に入って初めて会った相手のため、そこまで軽く話をすることができなかった。
―― 丁寧に話さなくてもいいんですけどねー
「数を数えておいてください。俺たちはラズワルドさまの所に、ご報告に上がりますので」
フェルドーズが献納品を横領しているとは思わないが、数を確かめるのは必要な作業。それらをシャープールたちに任せ、ハーフェズとバルディアーはフェルドーズを伴い邸へと馬を走らせた。
邸内で必ず人が居る場所である、台所近辺まで馬を走らせると、血抜きされた羊の解体を行っていたラヒムとワーディがおり、二人からラズワルドは「干し
「ラズワルドさまったら! 家に居て下さいって言ったのにー! まあラズワルドさまが黙って家に居るなんて、思わなかったけどさ!」
フェルドーズには叩けぬ軽口をラズワルド相手には叩き ―― いまのハーフェズの態度と口調に、驚きで目をむいているフェルドーズ。
彼を見る形になったラヒムは、
―― そうもなるよな
フェルドーズの心中を理解はしたが触れはしなかった。
驚いたフェルドーズだが「ハーフェズはそういう子だが、ラズワルド公がお許しになっているので、人間如きが
「ラズワルドさまを呼んでくるか、全員でラズワルドさまの所へ行くか。どっちがいいかな? バルディアー」
「ちょっと待ってくれ、ハーフェズ卿」
「はい? なんでしょう、フェルドーズ卿」
「ラズワルド公柱を呼びつけるなど、恐れ多いどころか、不敬極まりなく、人として取ってはならぬ行動だ」
神の子に「戻って来て下さい」等と言うのは不敬も不敬。また神の子が出かけている先に、許可なく訪れるのも不敬。このような場合は、黙って待つの人として正しい態度である。
「フェルドーズ卿って、パルヴィスさまっぽい」
「きっとジャバードさまだって、そう言うよ」
当たり前の心得を珍しく聞かされた二人は「ほー」となったのだが ―― 直後、フェルドーズが平伏し、
「まことに申し訳ございませぬ、ハーフェズ卿。神の子の奴隷たるハーフェズ卿に、小生如きが異議を唱えるなど許されぬこと。そのことを忘れた小生、いかなるお叱りをも受けます!」
武装神官の首座たるパルヴィズと、それに次ぐジャバードから「人間如きが
―― ラズワルドさま、今なら気持ちがよく分かります。三十過ぎた地位ある男が、なりふり構わず平伏して謝罪してくると、困るというのが、よく分かります。ラズワルドさまの場合は困るじゃなくて、面倒の一言ですけど……ラズワルドさま、面倒だから
ハーフェズはフェルドーズを立たせ、三人でファルジャード邸を訪れた。