ハーフェズと主、小舟で遊ぶ

 偵察斥候の隊長になるようにと告げられたハーキムは、いままで通り駱駝を操る技術はメティから習い、斥候として必要な知識は、軍事ににもっとも詳しいハーフェズの父サラミスや、その腹心であるハスドルバルから教えられ、夜は時間を作って復習をする日々を送っていた。

―― 夜に読み書きの練習が出来るとは

 ラズワルドの実家で塾生に使っている黒板と白墨チョークで、書き取りをしていたハーキムは顔を上げる。
 透かし彫りされた窓の向こう側は、星が瞬く夜空。
 以前ならばこんな時間に起きていることはなかった。奴隷の生活が厳しく、体が持たない ―― そのような奴隷はハーキムの周囲に大勢いたが、体躯と体力に優れたハーキムは、疲れ果てて眠りに落ちるということはほとんどなかった。
 彼が周りの奴隷たちと同じく早くに眠っていたのは、明かりがないから ―― 明かりを灯すのは金が掛かるので、当然のことでもある。
 月明か煌々と照る夜もあるが、あったところで、夜にすることなどないので寝るしかないのだ。
 夜に書物を読んだり、黒板で書き取りしたりすることができるほどの明るさ ―― それは贅沢の証。

「入るぞ、ハーキム」
「…………どうぞ」

 白墨チョークを机に置き振り返る。
 そこには銀の盆に軽食を乗せたラヒムがいる。
 こうして夜に慣れぬ勉強をしていると、ラヒムが菓子などを持ってきてくれる。今日の献立は、半日ほどマーストヨーグルトに浸した干しハルボゼメロンに、ピスタチオ入りのハルヴァ、そして冷えた橙花水。マーストヨーグルトに浸した干しハルボゼメロンはハーキムの好物でもある。
 それらが乗った銀の盆を、ラヒムは机に置く。ここまではハーキムとしても、非常にありがたいのだが ――

「楽しいか? ラヒム」
「楽しいわけじゃない、ハーキム。言葉で言い表すのは難しい。強いて言うなら愛おしい」

 軽食を持ってきたラヒムは、必ずハーキムのズボンを下ろし、陰茎に触れる。嬉しそうに、そして楽しそうに、だが悲しそうでもある。
 手で触れるだけでは飽き足らず、頬ずりまでする ―― このような状況になったのは、先日ハーキムの全裸をラヒムが見てから。
 その日の夜に「もう一回見たい」と言ってきたラヒムの勢いに負けて、ハーキムはまだ精霊との契約の証が刻まれていない男性器を露わにした。
 男同士なので恥ずかしくはない ―― 筈だったのだが、なんとも表現し辛い表情でハーキムの男性器を見つめ、手を伸ばしかけ「触ってもいいか?」と聞かれ ―― 幼少期に陰茎を失っているラヒムにとって、それは未知であり羨望であった。

「触り心地いいなあ。固くなってきたが」
「そんなに頬ずりされたら、固くもなる」

 ハーキムはラヒムの性器近辺を見たことはないが、不完全な宦官ハーディムだとは聞いていることと、元来の優しさから、触るなとも言えず、ある程度好きにさせていた。
 ただ最初は触るだけだったのだが、徐々に擦ったり柔らかく握ったり、そして頬ずりしたりと進化していた。

「バルディアーが言ってた口淫ってどんなもんだろうな」
「さあな」

 自分の陰茎に頬を寄せ、舌を出しているラヒムを見下ろす形になっているハーキムは、近い将来ラヒムに「してみたい」と言われるのだろうなと、そしてその時も自分は拒否しないだろうなと ――

「橙花水飲むから、変なことするなよ」
「しねえよ。つか、もう充分変なことしてるだろ」
「そうだな……男性器に興味があるなら、他の奴らのも触ってみたらどうだ? ハーフェズ以外なら、問題にはならんだろう」
「今はお前のだけでいい、ハーキム」
「そうか」
「でもさ、ここに精霊との契約の証が刻まれるんだよな」
「らしいな。ここに証を刻まなくてはならない精霊が、若干不憫だが」

―― 刻まれる俺も不憫だが……そうも言っては要られぬしなあ

「ここに証を刻んで使役する精霊は、雄の方がいいな」
「……そこまで精霊を選べるかどうか」
「牝の精霊だと、取り合いになりそうだしな」
「ならんだろ……できる限り配慮はするが」

―― なんと言えばいいのか分からんが、俺のもので気が晴れるのなら、遊ばせるのはいいんだが……妙に気持ちよくなる瞬間があるのが困る

 波の音を聞きながら、ハーキムは固くなりつつある自分のそれに、内心「落ち着け、落ち着け」と声を掛ける ―― 効き目は皆無だが。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 ラズワルドの身辺を守る武装神官。そのほとんどは昔からの知り合いである ―― 武装神官側は知り合いなどとは、もちろん思ってはいないが、ラズワルドにとってはそう・・なっている。
 生まれた時から一緒にいるハーフェズ、ラズワルドが生まれた時には既にファルナーズいなくなった神の娘付きだったシャープールとその部下のほとんど。
 バルディアーはまだ二年ほどの付き合いだが、一緒に一年に及ぶ旅をしたことで、かなり仲良くはなっている。もちろんこちらもラズワルドの一方的な「仲良し」で、バルディアーは「神の子というより神なのでは……」と畏敬の念が強くなっているが、かつてよりは話はできるようになっていた。
 そんな部隊の中で浮いているのが、サマルカンド侯領のソグディアナ地方で助けられたジャバードたち三人。

「そもそも、ラズワルド公の護衛隊なんて、名門の子弟かよほど能力に長けている物でもない限り、お呼びじゃないからなあ」

 ハーキムに駱駝に乗る訓練をつけているメティと、有力者たちとの調整を行う任務を任せられたが、根が庶民なのでできず、パルハームの部下トゥーラジに任せ、雑事に担当に替えてもらったジャバードが、護衛たちに与えられた邸の一室で麦酒を酌み交わしていた。
 彼らが住んでいる邸は、当然のことながらラズワルドが買った邸の近くにあり、なにかあった場合でもすぐ駆けつけることができる。
 もっともラズワルドが彼らを呼びつけることは、まずない。

「そりゃまあな。俺たちを伴ったのは、あそこで放置しておくのは哀れだと思われたからだろう」
「そ……ん? 誰か来たようだな」

 ジャバードと会話していたメティは、麦酒が半分ほど残っている杯を置く。
 やってきたのは召使いで、ラズワルドからの使者が訪れたと告げた。

何方どなただ?」
「ワーディ卿に御座います」

 二人は顔を見合わせて、客人を通す部屋へと急いだ。

「船を漕げるか?」

 ワーディはやってきた二人に深々とお辞儀をし ―― ラズワルドからの使者にそのようなことをされると困ると、二人は「要らない、要らない」と必死にワーディを起こす。

「ジャバードさまは漁師の息子だから、船を漕げるんじゃないかと」
「二、三人乗りの漁船程度ならば漕げるが」
「良かった。これから船を漕ぐよう命じられても、大丈夫?」
「構わんが、ラズワルド公が船を漕ぐことをお望みなのか?」
「はい。漁船を手に入れたので、乗りたいって」

 外はすっかりと闇の帷が降り、慣れぬものは恐怖を感じるほど海も同じように染まっているが、漁師は夜の漁などもするので、これに関して恐怖はない。

「では直ちに向かうとするか。メティはどうする?」
「一緒に行くさ」
「良かった、ありがとう御座います」

 ジャバードとメティはワーディの言葉を急いで否定する。

「ラズワルド公の命を受けるのは当然のことだ。そしてワーディはラズワルド公から直接命を受けてやってきた。この場合、ラズワルド公のから直接命じられたのと何ら変わらんから、ありがとうなどとは言う必要はない。むしろ、俺たちが非礼になってしまう」
「あ、済みま……」

 メティの説明に、失敗を詫びようとしたワーディだったのだが、

「いまワーディはラズワルド公の命を持っているから謝るな。神の子が直接遣わした使者というのは、途轍もなく偉いんだ。本当は俺たち、ワーディ卿って呼ばなけりゃならないくらい、今のお前は偉いんだ。分かるな? 分かってくれ! なっ! ワーディ卿」

 それも止めてくれと ――

「……」

 二人に必死に止められたことで、喋ってはいけない気がしはじめたワーディは沈黙し、二人と一緒に騎馬で邸へと戻った。ちなみにワーディが使者に選ばれたのは「乗馬で用事を足す練習」の一環である。

「いきなり呼びつけて悪かったな、ジャバード。お、メティも来たか」

 邸の船着き場でジャバードの到着を待っていたラズワルドは、やってきた二人に夜呼び出して悪かったなと、まずは詫びた。

―― 悪かったなんて言っちゃ駄目ですよ、ラズワルドさま

「お呼びいただき光栄に御座います」
「光栄なあ……そうか。あのな、ジャバード。この小舟、漕げるか」

 ラズワルドが指さす、係留されている船にジャバードは近づく。そこには古びた漁船が波に揺られていた。

「櫂は?」
「この変な形の棒のことですよね」

 ハーフェズとバルディアーが一本ずつ櫂を持ってやってきた。こちらも漁船同様、古びたものであった。

「ああ、これだ。あのなハーフェズ、船はともかく、櫂は新しいものにした方がいいぞ」
「分かりました。あ、ということは今日は漕げませんか?」
「今日、明日に壊れるもんじゃないが、念のためにな」
「分かりました。じゃあ、早く漕ぎだして下さい」

 話をしていたジャバードが振り返ると、船にはラズワルドが既に乗っていた。ハーフェズも船に飛び乗り、ジャバードは櫂を持ち船に乗り込み、メティが縄を外す。
 そして古びた漁船は滑らかに海へと漕ぎ出て、かなりの速さで沖へと進む。海岸沿いに建つ邸はどこも煌びやかな明かりが灯っており、海から夜景を楽しむことができた。
 ある程度沖に出たところで、ジャバードは櫂を漕ぐ手を止める。

「もっと沖へ進みますか?」
「ここで良い。それにしても、お前漕ぐの上手いな」

 船を手に入れたラズワルドたちは、その船に乗り邸まで漕ぎ手を雇い漕がせたのだが、その漕ぎ手よりもずっと早く、また力強かった。

「船を漕ぐのだけ・・ですがね」
だけ・・とは?」
「漁の腕はからきしでして」
「漁師の息子なのにか」
「はい。子供の頃から漁に出ていたのに、数えるくらいしか魚を釣ったことはないんです」
「魔を屠る力があって良かったですね、ジャバード」
「自分でもそう思っている、ハーフェズ」

 その後、ラズワルドとハーフェズは櫂を一本ずつ持ち、ジャバードがしているようにしてみるが、水面をかする程度のことしかできず。

「剣の修行のように、手を掴んで動かしてくれますか」

 手を取り教えてくれというハーフェズの希望を聞き、ハーフェズを膝に乗せて動きを教える。

「思ってるより、力が要るもんなんですね」

 ハーフェズの手を握る手の平の大きさといい、水に入った櫂を動かす力といい ――

「わたしにも、同じように教えろ」

 楽しそうとばかりに、ラズワルドがそう言うと、ハーフェズは軽やかに立ち上がり、ラズワルドにその場所を変わった。
 ジャバードの返事など聞かず膝に座り、櫂を掴む。

「さあ!」

 断ることなどできないジャバードは、ラズワルドの手を掴むようにし、軽く櫂を動かす。

「なんか、動きが遅いぞ」
「あまり力を込めておりませんので」
「全力の力を感じたい」
「かなり力が入るので、もしかしたら痛みを」
「いいからやれー!」

 沖でぐるぐると周りながら船遊びをし ―― 邸の船着き場に戻ると、ワーディとメティが待っていた。
 ワーディは上手に船を掴み引き寄せ、メティは杭に巻かれている縄を持ち船へと飛び乗り、しっかりとそれで結ぶ。
 櫂を持って船から下りたジャバードが、

「ワーディは船を扱えるのか?」

 先ほどの引き寄せの動きに、経験があるのだろうかと尋ねた。

「生まれは漁村だったんで。腕はこれだから、漕ぐことはできないけど、網を引き上げたり、こうやって船を掴むことは出来る」
「ワーディ、アルサケスの生まれじゃないのか」

 話を聞いていたラズワルドが、ワーディが漁村の生まれだと聞き驚く。

「はい。海の近くでした」
「海? あの辺りだと……ハザール海か?」

 脳裏に地図を描き出し、ラズワルドが尋ねると「そうです」と返事が返ってきたのだが ――

「結構な距離を、移動してきたんだな」
「そうかも、知れません」
「ハザール海の近くで生まれ育ったってことは、キャビア食ったことあるのか?」

 海ではキャビアを食べることができると聞いていたラズワルドは、アッバースでキャビアを食べようとした所、それはハザール海でなくては獲れないものだと聞かされ、サマルカンド帰りに立ち寄れば良かったと後悔した。

「キャビアは貴族さまの食べものなんで、食べたことないです」
「そうか」
「サッタールさん、美味しいって言ってましたよね」

 シャーローンの側近であるサッタールもハザール海のほとりの町の出で、キャビアについては彼から聞いていた ―― 当然サッタールは貴族である。

「そうか……じゃあ、今度一緒に食いに行こうな、ワーディ」
「は、はい」
「どうした? ワーディ」
「ラズワルド公は、離れているとか近いとか、すぐに分かるんですね」
「……ああ、それか。あの辺りは地図を見て、覚えていたからな」
「地図?」

 奴隷は地図などというものは知らない。

「ワーディは地図を知らんか。地図は口でいっても分からんから、見せてやる。ついて来い。メティやジャバードも見たいか? 結構良い地図だぞ」

 武装神官の二人は、もちろん地図は知っているし、少しは読むことも出来るが、下っ端は精巧な地図を目にする機会はない。

「ここがハザール海で、その東側にあるのがアルサケス城。さっき言ったサッタールの実家は、ハザール海の南側ラーヒージャーン」

 ラズワルドは部屋で地図を広げて、ハザール海の場所などを指さして教えてやる。ワーディは初めて見る地図に興味津々で、地図に関する事情を知っている二人は、その精巧さに感動するが同時に腰が引けた。

「ハーフェズ、あの地図は?」
前の国王・・・・ファルナケス二世が使ってたものです。死後寄進されたのをラズワルドさまが気に入って、アッバースまで持ってきたんです」
「陛下が使われた地図か……」

 機密そのものじゃないかと、年嵩の二人は遠ざかる。飲み物や食事を運んできたラヒムやハーキムたちも呼ばれ ――

「ハーキムは偵察斥候になるんだから、地図も読めないとな」
「そうですよ、ハーキム」
「……」

 ハーキムは何が描かれているのか、全く分からなかった ―― ハーキムも地図というものを知らなかった。