ハーフェズと主、吹き出す

 サータヴァーハナ王国の西、シュールパラカ。
 貿易港を抱える町に、最近話題になっていた品がやっと届いた。
 ペルセア王国の港町アッバースで、洗浄液を固めた石鹸というものが作られた。それは香りも豊かで、泡立ちも良く ――

「ほおー。これが石鹸というものか、ラーダグプタ」

 盆に積み上げられ、恭しく総督に献上された橄欖色で四角い石鹸。
 総督は一つ手に取り、興味深く持ち上げ眺める。

「はい。そうでございます、シュールパラカ殿下・・

 ラーダグプタが手を叩くと、水を張った銅桶を持った奴隷が現れ、献上品ではない石鹸を泡立てて見せた。

「泡立つと、さらに香りが立つな。ところでそこの商人、石鹸を作った人物について、なにか知っているか?」

 奴隷たちは泡立った銅桶を持ち部屋を出て行き、献上した商人が石鹸を作った人物について、知っていることを総督シュールパラカ王子に話した。
 石鹸を作り上げたのは、サマルカンド諸侯王の息子で、元は王都でその知性を知られた若い男……など。

「王都にいた時、神の子が住む家の隣を借りて住んでいた?」

 シュールパラカはその家に覚えがあった。
 六年前、旅芸人一座の一人としてペルセア王国の首都ナュスファハーンに行った際、借りた下宿。
 その下宿の主で隣りに住んでいた「神の娘」
 顔のほぼ半分が群青で覆われ、で神の文様が描かれていた闊達ながら、どこか達観したところもある娘。

「はい。ペルセア王国内では、それなりに知られた話のようです」

 その娘の乳兄弟は、泣き虫で迷子になった後、神の娘直々に額に所有者ラズワルドの名を書いてもらい笑っていた奴隷の少年。

「その神の子とはラズワルドか」

 『ジャラウカ! ジャラウカ! なんか美味しいもの食わせろ! サータヴァーハナの美味しいものを食わせろ!』 ―― 偽名を名乗っていた頃に出会った下宿の大家。
 十歳ちかく年上の自分・・に遊べとよく声を掛けてきた神の娘ラズワルド

「はい。現在ラズワルドは、アッバースに滞在しております」
「ラズワルドの姿を見たか?」
「遠くから見ましたが……あれ・・は、人間ではありませぬな。さすが空をも裂く存在」

 ラズワルドが空を割ったことは、近隣諸国にも異様な光景とともに伝わっていることもあり、異教を奉じる者は、その力を恐れて近づきたがらない。

まあな・・・。ところで、石鹸は随分と人気がある故、あまり数が手に入らないと聞いていたのだが、お前はかなりの量を手に入れているな。どうしてだ?」
「それは、石鹸を作った男の腹心となられたチャンドラさまと、当商会は顔なじみでして。昔のよしみで融通していただきました」
「チャンドラ……ああ、ネジドのサラミスか」
「ネジド大公の奴隷解放宣言を受けて、ネジドを出てファルジャードに下りました」
「そうだったな。チャンドラならば、我が部下に迎えたいが……資金力ではファルジャードという男には、到底勝てぬであろうな」
「金もそうですが、アッバースでご子息と再会し、親子でそれは楽しく過ごしておられますので、殿下がサータヴァーハナに誘っても頷いては下さらぬかと」
「チャンドラの息子は、メルカルトの忠実な僕にして神の子の側近だものな。絶対にサータヴァーハナには来ないであろう……となると、無理か」
「おや? シュールパラカ殿下はチャンドラさまのご子息が、神の子の側近だとご存じでいらっしゃいましたか」
よく知っている・・・・・・・

 商人を下げ、シュールパラカは綺麗に積み上げられた石鹸を眺める。

「ラズワルドは元気そうだな、ラーダグプタ」
「そのようですな。ハーフェズのほうも、元気でやっているようで」

 かつて「ジャラウカ」と名乗っていた、奴隷を母に持つ現国王の息子シュールパラカ。ラズワルドたちと出会ってから六年、彼は王子としては一都市の太守を務めている。
 奴隷腹として蔑まれていた彼は、ここに至るまで、並々ならぬ苦労があった。
 そしてこの先も、苦労せねばならぬ ―― サータヴァーハナの王になるために。

「チャンドラを介して、サマルカンド諸侯王の息子とよしみを通じることはできないかな、ラーダグプタ」
「失礼ながら。ペルセアの現人神の覚え目出度く、独力で巨万の富を得て、次期サマルカンド諸侯王の座を約束されている男に、シュールパラカさまは、なにが出来ますか?」

 ファルジャード側に利益がなければ、手を組んではもらえない。

「ないな」

 王位を狙っているシュールパラカだが、国内に味方は少ない。
 もちろん全くいないわけではなく、たしかに味方はいるのだが、それは庶民だったり奴隷だったりで、国王になるために必要な味方はほとんどいない。

「それではチャンドラさまとて、交渉のしようもありますまい」
「そうだな。もう少し力を付けて……か」

 ファルジャードを味方につけることができたら ―― そんなことを考えながら、シュールパラカは、父王マツーラに石鹸を献上すべくサータヴァーハナ王都プラティシュターナへと赴いた。
 サータヴァーハナ国王マツーラは、二人の息子を平等に愛しており、総督としてラーシュトラ地方に赴任している息子シュールパラカが、久しぶりに王宮にやってきたことを喜ぶ。
 最近すっかりと逞しくなった息子の成長を喜んでいる国王とは反対に、不快感を隠そうともしない男がいた ―― ダンジョール王子である。

「なぜ、あいつの港独占なのだ」

 石鹸の輸出先はファルジャードの意思が優先され、サータヴァーハナ王国で石鹸が到着するのはシュールパラカが治めるラーシュトラ地方の港と決められた。
 作り方を知っているのはファルジャードだけの状態ゆえ、どの業者もそれに素直に従う。特にこの石鹸というものは「作り主の言いつけを守らないと、泡立たないどころか肌が爛れてしまう」ため、どの業者も言いつけを守るしかなかった。逆に言いつけを守りさえすれば、稼ぎは約束されたものである。

「殿下がお断りになられたからです」

 シュールパラカの元に金が集まることに不快感を示したダンジョールに、舅でもある宰相ヤシュパルが答えた。

「断った……だと?」
「以前殿下に、打診がありました」
「宰相よ、何故わたしは、それを断ったのだ?」
「ファルジャード、石鹸を作った男の名ですが、その男が奴隷腹でありながら、次期サマルカンド諸侯王だと聞かれたあと”そのような卑しい者が作った商品など要らぬ”と、命じられました。殿下からの断りがあったあと、シュールパラカ殿下に持ちかけたようです」

 昔から気に食わず、最近何かと目につく弟のシュールパラカ。弟に対する不満を、直接ぶつけることができないダンジョールは、奴隷全体に対してその苛立ちをぶつけており、その流れで「変わった品を作ったのは、奴隷腹の男」と知った時、そんなものは要らぬと拒否したのだ。

「あ、……あれだったのか。……今から話を持ちかけても」
「無理でしょうな。ペルセアの国王も欲し、輸出するより国内流通量を増やせと命じるほどの品。一度断られた相手に売るような余裕はないでしょう」
「そうか……」

 ダンジョールは肩を落とし、そして憂さ晴らしをするために、奴隷を鞭打つための部屋へと向かい、それを知っている宰相ヤシュパルは、ため息などはつかなかったが、なんともやるせない表情を浮かべた。
 奴隷を気分で鞭打つのは、咎められることではない。
 宰相のヤシュパルも、奴隷に対しては厳しい罰を与えるが、それはあくまでも失態に対してであり、気分で殴り付けるような真似はしない。「奴隷に対して厳しい主というのは、悪いことではないのだが、不必要に奴隷を虐げるとなると話は違う」ヤシュパルは先代宰相である父から厳しく躾けられていた。

―― 殿下。下級兵士のほとんどは、奴隷に御座います……

 立場が悪かったシュールパラカが、頭角を現すことができたのは、ダンジョールの奴隷に対する冷酷、虐待が大きく関係していた。
 気分で奴隷を虐待するダンジョールに対し、母親が奴隷のシュールパラカは彼らと仲良くする。奴隷といえども人 ―― この当時は、そう思わない王侯貴族は大勢いたが、シュールパラカは奴隷と言えども人という認識で彼らと接し、彼らの中に溶け込んだ。
 自分たちを虐げるいけ好かない王子より、自分たちのことを分かってくれる王子に人気が出るのは、ごく当たり前のこと。
 結果として初陣で、貴族の協力はほとんど得られなかったが、奴隷で構成される下級兵士たちの部隊がシュールパラカの指示に従い奮戦し、見事勝利を収めた。
 シュールパラカが無様に負けるよう、指揮官を買収したダンジョールの策は、見事に失敗し、シュールパラカは総督の座を射止めた。

―― ダンジョール王子の優位は覆らないが……陛下のお心によっては……

 マツーラ王は未だ後継者を定めていない。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 シュールパラカには「自分の出自を伝えず取引を」
 ダンジョールには「自分の出自を伝え取引できず」
 二人の王子に対して、ファルジャードは同じ行動を取らなかった。これに関してファルジャードは「最初失敗したので、次ぎはどうしても取引をしたかったので、やり方を変えた」と言い、誰もが納得したが、本当は最初からダンジョールと貿易するつもりはなく、わざと自分の出自を知らせた。

 なぜファルジャードがそのようなことをしたのか?

 それはファルジャードが「実験場」としてサータヴァーハナ王国を選び、その一環としての行動だったからに他ならない。
 ファルジャードは「情報、流言、印象操作のみで国内を不安定にできるかどうか」 ―― これを試してみたいと考え、そのために国を選ぶ。
 まずは軍事力で滅ぼそうとした場合、ペルセア王国にも多大な被害が及ぶこと。これは実際に流言飛語で国を混乱させ、敵を弱体化させた後に戦闘に及びたいと考えていたためである。ペルセア王国の軍事力で簡単にひねり潰せるような国では、どの程度の流言飛語が必要かがはっきりと分からないので、まともにぶつかることの出来る大国を選んだ。
 次ぎに現在ファルジャードがきょとしているアッバースと海路で結ばれていること。
 これは国の情報偵察部隊などを通さず、直接見聞きし、情報を取捨選択したいと考えて ―― 情報を手に入れるのは、この時代なかなかに難しい。
 またサータヴァーハナ王国の上流社会に詳しい部下・サラミスを手に入れることができたことも大きかった。
 そのサラミスから、サータヴァーハナ王国では妾腹、とくに奴隷を母に持つ王子は王位に就くことは難しいことを知る。
 そのような国の構造の中、正妻腹王子ダンジョール妾腹王子シュールパラカという、分かりやすい対立する王子の存在があったこと。
 あとは、マツーラ王は優秀な王であり、現在の統治にはなんら問題のないこと ―― 愚王が治めている国を相手にやっても、ファルジャードとしては面白くない・・・・・
 さらにはそのマツーラ王が王妃が産んだ王子を未だ王太子と定めていないこと。これらから、ファルジャードはサータヴァーハナ王国をの実験場として選んだ。

 ファルジャードがいま実験場でやろうとしているのは正妻腹王子ダンジョール妾腹王子シュールパラカはっきりとした・・・・・・・対立である。

 前もって言っておくと、ファルジャードは妾腹王子シュールパラカをサータヴァーハナの王にしようと考えている訳ではない。彼がしようとしているのは、王子同士の不和を大きくし、国内の状況を不安定にし、国力を低下させることができるかどうか? を、試すことであって、結果がどうなろうが、ほとんど興味はない。

 今現在正妻腹王子ダンジョールが圧倒的に優位。だが妾腹王子シュールパラカにも野心はある。その妾腹王子シュールパラカに少しばかり金を流したらどうなるか? 怠惰を欺瞞して、一気に攻勢に出るか。それとも怠惰の海に溺れるか。
はたまた正妻腹王子ダンジョールに下るか、或いはその牙を隠さず正妻腹王子ダンジョールと敵対するか。

「庶民や奴隷を味方に付ける道を選んでいる以上、シュールパラカは韜晦とうかいはしないだろうしな」

 自分の母親が何者なのか分からないのを良いことに、正妻腹王子ダンジョール側に出自を奴隷腹だと伝え、思い通りにことを運ぶことに成功したファルジャードは、次ぎにどのような手を打とうかを考える。

「ファルジャード、ご飯……。ファルジャード、なにしてるの? 凄い悪い顔してるよ」

 思索にふけっていたファルジャードは、セリームに声を掛けられてあたりを見回すと、沈みゆく夕日を望める窓の向こうには、光を失った空と海が広がるだけ。セリームが持ってきた明かりが、室内を薄暗く照らす。

「いや、セリーム。なんでもない……いや地顔だ」

 ファルジャードの前に料理が乗せられている盆を置き、持ってきた明かりを手に部屋にある燭台の蝋燭に火と灯してゆく。

「親族殺害計画を練ってる時と、あんまり変わらないよ。優しい顔だちなんだから、そんな表情しない。そうそう、今日のマーストヨーグルトはみんなで作ったんだよ」

 目の前に並ぶ、マーストヨーグルトが掛かっている香草ハーブの炊き込みご飯を、ファルジャードは口へと運ぶ。

「それとね、明日はラズワルド公から、夕食へのご招待を受けたから行くよ」
「分かった」
「なんでもね、本場サータヴァーハナ料理を食べるんだって」
「……たしか、子供の頃、食えなくて吹き出したって言ってなかったか」
「もう六年も経ったので、味覚も大人になったから、食べられる気がするから試すんだって」
「そうか」

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「本場サータヴァーハナ料理……ですか?」

 ラズワルドは信頼がおけるハーフェズの父サラミスに、サータヴァーハナ王国の料理を食べたいと言い出した。

「子供の頃、本場サータヴァーハナ料理だと食べたことがあったのだが……どうしても、あいつは胡散臭いので」

 ジャラウカに勧められて本場の料理を口に運んだのだが……

「その当時はお口に合わなかったが、今ならば合うかもしれないということですか。そうですな、食べ慣れないと少々刺激が強いでしょう」

 子供だったハーフェズとラズワルドの口には全く合わなかった ―― 料理を勧めたのがジャラウカで、料理を作ってくれたのが旅の一座の料理人だったこともあり、いまだにラズワルドはあの味・・・を信用していなかった。

「畏まりました」

 各国の船がやってくる大きな港を抱えるアッバースには、異国の料理を出す店もたくさんある。そこは故郷の味を欲している客がほとんどなので、味は本国が基準となる。
 食材や調味料は、それが輸出品であり、輸入品であるゆえ、手に入らないということはない。
 サラミスはハスドルバルと共に、懐かしの故郷の味を食べ歩き ―― サータヴァーハナからの貨物船の料理人が作る、香辛料を使った魚の煮込みが、もっとも故郷の味に近いとなり、成長したラズワルドとハーフェズはそれを食べさせてもらうことにした。

「かつてを思い出しますね、ラズワルドさま」

 香りが目に届くと、その刺激で涙が浮かんでくる。

「そうだな」

 かつて旅芸人一座の料理人が作ってくれた料理。本場の味だと言われて、米にかけられた煮込み料理を、なにも疑わず一口放り込んだあと、訪れた悲劇。
 きっとあんな失敗はもうしないと、気を引き締めて二人はサータヴァーハナの魚の煮込みを食べたのだが、かつてと同じようにすぐに吹き出した。

「からい、からい! からいー!」
「痛い! 痛いです! ラズワルドさま」

 六年前食べた時、あまりの辛さに吹き出し、見ていたジャラウカに笑われた過去。負けず嫌いでもあるラズワルドは「ジャラウカが辛めに作らせたのではないか」と疑っていたのだが ――

「せっかく作ってもらったのに、食えん。悪いな、サラミス」
「いえいえ、お気になさらずに」

 ジャラウカがわざと辛い料理を出したわけではないことが分かって良かった ―― 息を吐き出しながら、疑っていたジャラウカに少しだけ詫びた。
 ちなみに招待されて食べることになったファルジャードは、涙目で噎せており、セリームが背中をさすっている。