邸に住むのはラズワルドに直臣のハーフェズとバルディアー。
召使いとしてラヒムとワーディ、それと精霊使いになるために買われたハーキムもこまめに働いている。
あとはアルサラン、ファルジャード、セリームの三人が家を行き来している ―― アルサランは現在セリームの護衛としてファルジャードが雇っていた。
ファルジャード用に買った邸に比べれば小さいが、それでも召使いを五十人くらい抱えるような大きな邸に、ラズワルドを含め常時六名、最大九名しか住んでいない。
召使いを手配すればいいのだが、今のところラズワルドはまったく必要としていなかった。
ラズワルドは不自由も楽しめる性格故、不便があっても特に気にはしない。
生活の不便さは「こういうものか」とすぐに納得してしまう。
これが片腕のワーディにとって不自由な場合などは、すぐに対処しようとするが、自分の不自由に対しては寛容である。
さらに邸を任されたラヒムが非常に有能だった。
美味い料理に風呂、そして清潔な寝床が整えられていれば、生きて行くのに充分である。
ラヒムは家の片付けをワーディとハーキム、たまにやってくるセリームやアルサランなどに上手に割り振り、外注できる仕事は全てそちらに任せ、厄介な事柄はシャープールやファルジャードに助言を求め、それらを元に対処し、なによりも大事な仕事である、ラズワルドの食事を完璧に作っていた。
もともと宦官は裏方の差配などを担当することが多い。むろん才能が必要となるが、ラヒムは充分持ち合わせていた。
そもそもメフラーブが「ファルジャードに会ってなかったら、頭の良さに驚いただろう」といった程の奴隷である。
その差配能力は見事なものであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ラヒムたち使用人は、ラズワルドより早くに起きる ―― 偶にラズワルドのほうが先に起きて、小舟で海にこぎ出したりしていることもあるが、基本は召使いのほうが先に起き、朝食の用意に取りかかる。
一般家庭は燃料代の関係で、朝から温かいものを食べるということは、ほとんどない。朝から温かいものを食べられるのは裕福な家庭であり、ラズワルドの邸もそうであった。
「ワーディ。小麦を挽いてくれ」
ラズワルドのために収められた小麦を手ですくい、ワーディに渡す。
「分かった」
ワーディは小麦専用の臼で挽き、製粉する。
羊肉を切りラヒムが配合した
羊肉の香草焼きは、朝食だけではなく、彼らの昼食にもなるので、かなり多めに焼く。
むろん昼食を取るという習慣はこの時代にはないが、バルディアーとワーディを頑丈にする計画を遂行中のラズワルドにとって、昼食は欠かせないので、作らせていた。
ラヒムは
鍋にたっぷりの
卵を焼き終わると、ワーディが挽いた小麦で、ラズワルドのナンを作る。
他の者が食べるナンは、前日のうちに焼いたもので、食べる前に炙り温め直すが、ラズワルドのナンだけは挽きたてで焼きたてである。
ハーキムは最初に焼いた肉を皿に積む ―― これらは昼食に回され、朝食は温かいほうを食べる。
この位になるとラズワルドも起き、朝食の良い香りに腹を空かせながら、顔を洗い髪を梳き着替え寝具を片付ける。
寝具は自分たちのものだけではなく、ラヒムたちのものも片付けを行う。
そして食布を敷き、囲むようクッションを置き匙や器、杯を並べる。
ナンを焼いている間に、ラヒムはデザートを用意する。本日は薔薇水の香りが食欲をそそる
さらに平行して野菜を盛りつけ、様々な
小麦を挽き終えたワーディは、今度は珈琲豆を挽き淹れ、ラズワルドのナンが焼き上がれば、朝食が始まる。
「神殿に居れば、朝からもっといいもの食えるだろうに」
ラヒムはそんなことを言いながら、焼きたてのナンをラズワルドの前に置く。
「食いたくなったら、神殿に行くから、心配するなラヒム」
「ラヒム、今日も美味しいですよ」
「当たり前だろうが、ハーフェズ。神の子に出す食事を俺が作ってるんだぞ」
「まあ、そうなんですけど、本当に美味しいんで。ねえバルディアー」
「うん。本当に美味しい」
波の音を聞きながらそんな話を、のんびりと朝食を取る。
しっかりと食事を取り終えると、ラズワルドは迎えにきたシャープール隊と共に神殿へと向かい、ハーキムはハーフェズとバルディアーと共に出かける。
ラヒムは再びナンを焼き始め、その間ワーディは邸を掃除し、洗濯が必要な衣類などをまとめて馬車に乗せる。
ナンを焼き終えると、ハーキムが焼いておいた肉と、
他に
まずはハーフェズとバルディアー、ハーキムがいる鍛錬所。そこで一緒に鍛錬をしているシャープール隊の一員に食事を預ける。
実はハーフェズとバルディア、二人は未だ見習い武装神官 ―― 同期はすでに「見習い」の文字は取れているのだが、この二人は訓練し一人前になる前に、任務を与えられ満足な訓練が行われなかったため、いまだ「見習い」が付いており「見習い」を外すため、毎日努力していた。
ハーキムが混ざっているのは購入時の条件「身を守るための武術」を教えるため、彼らの中に入って鍛錬を積まされていた。
「あの体躯で精霊使いとか、笑えるよな、ワーディ」
年上のバルディアーより遙かに優れた体格のハーキムを眺め、ラヒムがしみじみと言う。
「笑うというか……精霊使いって感じはしないのは確か」
ワーディは一流の精霊使いなど見たことがないので、はっきりとした事は言えないが、精霊使いよりは騎士のほうがしっくりくる体型であることは、同意であった。
もっともハーキムは乗馬をしたことがなかったので、馬を操るのも一苦労だが。
一流の武装神官と精霊使いになるために、鍛錬をしている三人に昼食を渡した二人は神殿へと向かい、今日の洗濯物を預け、洗濯が終わった衣類を受け取る。そしてラズワルドのために収められた食糧品から、夕食と朝食用の食材を選び馬車に積み込む。
「ワーディは晩飯、なにが食いたい?」
献立を決めるより先に馬車に積み込むのは羊肉。これはペルセアの食卓には欠かせないものである。
次ぎに献立が決まっていなくとも積むのが脱穀されたての小麦 ―― ナンの材料であり、これも羊肉と同じくらいペルセアの食卓には欠かすことができない。
この時間にラヒムたちが取りにくるのは分かっているので、その刻限に合わせて神殿にいるラズワルドの奴隷たちが脱穀している。
「……
「分かった。じゃあ石榴と玉葱と大蒜、あとは木豆と米か。調味料と
「あとは特には……」
「そうか。じゃあ後は
ラヒムは材料をさらに追加し、明日の朝食分の食材も選ぶ。
その後、寄進された乾燥果物や酒、また菓子なども積んで邸へと戻り、それらを降ろすと、
「飯食いに行くぞ。付き合え」
ワーディを連れて食堂へと向かう。
マリートは内陸部生まれの内陸部育ちだった為、海の魚料理は知らない。だが折角港町にいるのだから、ラズワルドとしては海魚料理を気軽に食べたい ―― という希望から、ラヒムが昼にあちらこちらの食堂に足を運び、海産物の料理を食べ、調理方法を聞くなどして試行錯誤している。
今日も海魚料理の味を確かなものにするべく、町で食事をするのだ。
ラヒムは昼食を食べても平気なのだが、あまり食事をしてこなかったワーディは、昼はほとんど食べることができない。
ラヒムが注文した魚の煮込みや、鯖と
「本当に小食だな。まあいい、帰って昼寝するぞ」
二人は邸に帰り、風通しの良い部屋で午睡し、日が昇っている間、一時間おきに鳴る鐘の音で目を覚ますと、ラヒムは夕食の準備に取りかかる。
ワーディは食材を降ろし、洗濯物を片付け、風呂掃除を終えると、自習をする ―― ワーディはラズワルドが直々に読み書きを教えており、ワーディは覚えるべく努力をしていた。
目を見張るような進歩などはないが、一緒に住んでいる者たちの名前や、食品、そして料理の名などは読め、そして随分と書けるようになった。
下拵えを終えたラヒムも、部屋じゅうに転がっている巻子本を拾い読書の時間にあてる。
しばらくすると、ラズワルドがハーフェズたちと共に帰ってきて、邸はまた活気付く。
ハーフェズが馬の世話をし、ハーキムは風呂を沸かすために火をおこす。
燃料を無駄にしないため、風呂を沸かし始めると、夕食の準備が始まる ―― ラズワルドは裕福だが、燃料を無駄にする必要もないし、なにより丁度良い機会なので、夕食の支度が始まる。
風呂に最初に入るのはバルディアー。
彼は体を清めてから、次ぎに入って来るラズワルドの体を綺麗に洗い上げる。
その間にラヒムは本日の夕食を仕上げてゆく。
「今日はどうだったんだ? ハーキム」
ラヒムは話し掛けながら
セロリのコレシュは、みじん切りにし炒めた玉葱に、小さく切った羊肉を加えて炒め、じっくりと煮て、塩、胡椒、すり潰した
それとは別の鍋で、刻んだ
これらの下準備が終わっているので、柔らかくなった羊肉に炒めた
「乗馬の訓練と、読み書きの練習で一日が終わった」
石榴スープと羊のすね肉の煮込みは既に完成しているので、温め直すだけで充分。
「おい、お前精霊使いになるんだろ」
「……精霊使いになれるかどうか、不安で仕方ない」
「なれなかったら、良い召使いになるからってラズワルド公に嘆願してやるよ。なあ、ワーディ」
「うん。もちろん。ラズワルド公のところに、薔薇水をお届けする」
「ああ。そろそろ、米が炊きあがると、ラズワルド公にお伝えしてくれ」
「分かった」
ワーディは薔薇水を用意し、脱衣所へと向かう。脱衣所はソファーがおかれており、そこで汗が引くまで過ごす。
ワーディが薔薇水が入った大きめな器と、杯二つ乗せた盆を片腕で器用に持ち脱衣所に入ると、バルディアーは腰に布を巻き、ラズワルドはガウンを着て布で髪を巻て座っていた。
「…………」
ラズワルドが髪を上げると、普段は隠れている項から
「ありがとうございます、ワーディさん」
「あ、あい、いや。そうだ、そろそろ米が炊きあがります……って、ラヒムが言ってました」
「そうか。じゃあ、これ飲んだらすぐに行くな」
薔薇水が注がれた夜光杯を掲げて、ラズワルドはそう言う。戻ったワーディは食布を敷き、食器類を並べる。
そうしていると馬の世話と、馬具の整備を終えたハーフェズが戻ってくる。
「お腹空きました」
「だったら、ラズワルド公をお呼びしろ」
「分かりました、ラヒム。ラズワルドさまー!」
大皿に料理を盛りつけると、ハーキムがそれらを隣の部屋へと運び、着替えたラズワルドとバルディアーが席に付き、夕食が始まる ――
ラヒムの作った料理に舌鼓を打ち、会話に花を咲かせる。
昨日も今日も、そして明日もその会話の内容は平凡であり、平凡であるべきである。
「
「それは良かった、ラズワルド公。ほら、ワーディ。食いたかったんだろ、もっと食えよ」
そう言いラヒムは肉団子をワーディの器に足す ―― 満足いくまで料理を堪能し、食後の片付けを全員で終えると、ラズワルドとラヒム以外の全員が一緒に風呂に入る。
「火の番は任せろ」
ラズワルドは精霊を使い、一定の火力で薪を燃やし続ける。
「ラズワルド公、明日はドルメを作る。他に食いたい物はあるか」
ラヒムは明日の朝用のナンを作りながら、希望の献立を尋ねる。こうして食後、調理場で一人と一柱はよく話をしていた。
「
「即答とは、さすがラズワルド公」
練り上がり一塊になったナンを切り分けて丸め、その生地を一つ一つ手で伸ばして、
「明後日の夕食は、外食にする」
「どこかの邸に招待でもされたのか?」
「いいや。メティの親族のおばさん姉妹、食堂を営んでいると聞いたから行くことにした」
「普通の食堂?」
「普通なんじゃないのか。あ、少し小さいと言っていたなあ。でもわたしたちくらいなら、全員入れるだろう。だから明後日はのんびり過ごせ」
「今でも充分のんびりと過ごしているが」
「そうか。でもまあ、家事は重労働だからなー。奴隷増やさないでいいか?」
「要らないな」
焼き上がったナンを皿に乗せ、そこに溢れる程の
「最高に美味い」
頬張ったラズワルドから漏れる言葉は、いつも褒め言葉。
「不味くなりようがないからな」
「そうでもないぞ。微妙に不味いナンを焼き上げるやつは結構いる」
指についた蜂蜜や
全員が風呂から上がると、ラヒムが一人で入浴し、その間に全員で寝床を用意し、ラヒムが風呂から上がってきたら、寝具に横になり波の音を聞きながら話をし眠りに落ちる。
何もない日はこうして過ぎてゆく ――