ハーフェズと主、金に呆然とする

「金を使い果たした」

 ネジド公国からサラミスたちを連れて帰ってきたファルジャードが、細々とした雑事を終えて放った第一声である。

「使い果たしたって……」

 ファルジャードは混乱に乗じてネジド公国から奴隷の彼らを連れ出したのだが、その際後々面倒にならぬようと雇用契約を結び金を支払った。
 普通の奴隷は満額支払うことはできたのだが、サラミスなどの軍人奴隷には「手持ちがないので、今はこれで契約を。後日支払う」という条件で契約を結んでもらった。

「手元には金貨三枚しかない」

 言葉を失っているセリームに”ほら”と、絨毯の上に放り投げられたペルセア金貨三枚 ――

「三年分の生活費……全部使い切ったの」

 ファルジャードがアッバースにやってくる際、三年分の生活費を一括で受け取っていた。
 アッバースとサマルカンドは距離があり、妨害してくる輩も多い。
 そこで「滞在期間三年」と決めてアルデシールたちと共にサマルカンドを出立する際、一括で必要経費を受け取ったのだ。
 かなりの額を生活費を持ち出した。それこそファルジャードが不自由一つなく暮らすに充分な額 ―― だが奴隷五百名、うち百名が軍人奴隷という高級奴隷で、二百名は騎馬戦のできる戦闘奴隷。そんな彼らと邸を一気に買い、生活を維持するとなると金はかなりかかる。

「豪快に使い切った」

 セリームに向かってはっきりと言い切るファルジャード。

「ああー! どうするの、ファルジャード! 金貨三枚じゃ、明日の夕食の材料を買うことができないよ!」

 本日の夜と明日の朝の材料はあるのでしのげるが、その先の食糧はない。

「セリームはラズワルド公のところで食べてこい。ナスリーンとアルサランも一緒に」
「俺の食事はどうでもいいんだよ! ナスリーンさんとアルサランさんにファルジャードの食事分くらいは俺が稼ぐ! でも五百人の食事をどうするの!」

 セリームはその気になれば四人分の食い扶持くらい、日雇い労働で稼ぐことはできるが、五百人分の食糧と数百頭の馬の餌を稼ぎ出すことは、到底不可能。

「金を借りてくる」
「誰に?」
「分からんが、諸侯王の息子だということは知られているから、貸してくれるやつはいるだろう。返すとは言わないが」
「ファルジャード!」

 セリームはファルジャードの襟首を掴むと、隣家を目指した ――

「金を使い切ったと」

 ラズワルドは珈琲カフェヴェと薔薇の香りのする米粉の焼き菓子で隣人を出迎え、そして顔色の悪いセリームから事情を聞き出した。

「はい」
「そうか。それで、わたしになにを頼みたいのだ、セリーム」
「金を工面してまいりますので、その間お金を貸してください」
「どこで用立ててくるんだ?」
「サマルカンドまで行ってきます」
「サマルカンドの諸侯王から貰って来るということか」
「はい」

 神の子に金を借りるなどしたくはないのだが、サマルカンド諸侯王から金を引き出すためには『神の子に金を借りたので、返さなくてはならない』くらいの状況がなければ難しい。その金をアッバースまで運ぶのも然り。

「ふむ。ならばわざわざセリームが行かなくてもいいだろう」

 名前を貸すのはラズワルドとしてはなんの問題もないのだが、セリームがわざわざサマルカンドまで行かなくても良い方法を知っているので、そちらの策を使おうと持ちかける。

「ですが……」
「人間はしがらみがあるらしいが、このような事態に陥った場合、どうしたらいいのか? フラーテスが教えてくれた」
「教えていただけますか」
「もちろんだ、セリーム。いいか、こういう場合にすることは”わたしがサマルカンド諸侯王の献納を許可した”とサマルカンド諸侯王に伝えればいい。フラーテスの近くにいるのはダリュシュで、フラーテスへの献納は向こうの一族が独占しているとか。そこで、サマルカンドから遙か遠いアッバースのわたしに献納するというわけだ。献納された品々はそのままファルジャードに渡す」

 この頃はどの国でも、神殿に献納を行うのはごく当たり前のことであった。即位など慶事の際の献納はもちろん、それ以外の時でも献納は行われる。
 基本人間が献納できるのはその宗教に対してのみ。神の子への直接の献納となると、神の子の許可が必要となるのだが、世俗に興味のない神の子が直接許可を出すことは珍しい。
 神の子個人宛に毎年献納が許されているのは、ペルセア国王シャーハーン・シャーくらいのもの。それと現在はファリドの父がクテシフォン諸侯王ということもあり、その縁でクテシフォンも毎年献納することが許されている。
 ラズワルドが言う通り、サマルカンドのフラーテスにはダリュシュの一族が個人宛ての献納を独占している状態。
 故に「ラズワルドに直接献納できる」と言われたら、サマルカンド諸侯王とその一族は喜んで献納する。またファルジャードのことをよく思っていない親族であろうが、ダリュシュの一族だろうが、神の子の献納品に手を出すことはない。
 後者が妨害しそうではあるが、そんなことを行えば、一族でもっとも神の子に近い所に居る信仰心の篤いダリュシュが許しはしないし、下手をすればダリュシュが一族を見限り兼ねない。

「よろしいのですか?」
「構わんぞ、セリーム。金は神殿に積んでおくものではないだろ。あと当面の生活費はやるよ。そうだな……みんなで神殿に行くか。欲しいものあったら、持ち帰っていいぞ」

 思い立ったら即実行と、ラズワルドは邸にいる全員とファルジャード、セリーム、アルサランを連れて神殿へと足を伸ばす。
 神殿で雑務を教えていたシャープールと習っていたジャバードとメティ、いきなり戻ってきたラズワルドを出迎えるために祈祷室から大急ぎで駆けつけたパルハームも連れ、神殿の献納品が置かれている部屋へと入る。

「……あれ? 硬貨は?」

 元気よく部屋に踏み込んだのだが、目の前に広がるのは宝石や彫刻、陶磁器などの品ばかり。
 すぐに使える硬貨は見当たらなかった。

「金貨は隣の部屋に御座います」
「そうなのか、シャープール」

 ”行くぞ!”と全員連れて隣の部屋 ―― 一室が30mソロヤ四方もあるので、隣室まで距離がある。

「必要だと思う分、持っていっていいぞ」

 金貨と大金貨、そして金塊が積まれている部屋に入ったラズワルドは、輝く金貨の山を叩きながら、好きにしろ! と ――

「こんだけあると、ありがたみがなくなるな」

 ラヒムが手近にあった大金貨を手の平の上で弄びながら、しみじみと呟く。見渡す限りの黄金。圧巻という言葉が相応しい室内であった ―― もっとも先ほど入った宝飾品と芸術品が積まれた部屋も、圧巻ではあったが。

「まぶしさに目が潰れそうだ」

 ハーキムは金貨に触ることすらせず、目を閉じて目頭を揉む。
 ワーディにメティ、ジャバードは口を開けてただその部屋を眺めているだけ。

「この位で足りるのファルジャード」
「足りるに決まってるだろうハーフェズ」
「真神殿はこの倍以上あるよ。きっと四倍か五倍くらいはあるね! ですよね、シャープールさん」

 この部屋にある金貨はラズワルドの生活費として真神殿や、各地から運び込まれたもの、そして神殿への寄進の幾らかが収められたものである。

「真神殿のラズワルド公の献納品庫はまだ見ていないから分からんが、ハーフェズがそう言うのだからそうなのだろう」

 シャープールはファルナーズが神性を失ったあと、ラズワルドの護衛部隊になるよう命じられると共に、元の主の後片付けなども任されたので、ラズワルドの献納品庫には触れていない。

「好きなだけ持っていけ、ファルジャード。硬貨は使えとファリドに常々言われているからな!」

 宝石や芸術品などの献納品は、神殿に留めて眺め、愛でていても良いが、硬貨の類いはため込んでいては駄目だと ―― 神殿に入る前「遊びにいらっしゃい」と言われて訪れた真神殿の一角で、金貨の山を登って滑り降りるという遊びを満足するまでしたあと、ファリドにそのように言われ、自宅に帰ってメフラーブに「こんなこと言われたんだ」と教えたところ、硬貨で生活を送る人々にとって、ため込まれると困るということを教えられ ―― 一度では分からなかったが、何度も繰り返し聞き「金は貯めるだけでは駄目だ」ということを理解したラズワルド。
 だがいざ使うとなると「寄進いたします」「お代を取るなど、恐れ多い」「是非献納させて下さい」と拒まれてしまう。
 そうしている間にも、神殿には献納品が届き、部屋は財宝で埋まってゆく。
 金貨は一番簡単な献納品なので、見る見る金貨の山が高くなるも、ハーフェズと共に滑り降りて遊ぶ程度のことしかできず ―― 故に「使いたい」という信頼できる人間がいたら、くれてやるのはラズワルドとしては、渡りに船であった。

「人手を借りてもいいですかな、ラズワルド公」
「いいぞ」
「それと生活費の他に、少しばかりやりたいことがあるので、その実験費用も借りてよろしいでしょうか」
「実験……構わんぞ。ただこれは貸すわけではない。お前にくれてやるんだ。ま、献納は受けてやるからな」
「ありがたき幸せ」

 こうしてファルジャードは当面の生活費と、兼ねてから考えていた商品の実験費用を手に入れた。

 ファルジャード、彼は元々この地アッバースで、忠実な部下を手に入れるつもりであった。それを得るために必要なのは金であることも充分理解していた。
 三年間の生活費程度では足りないことも、もちろん分かっており ―― 金を自分で稼ぐつもりであった。その算段もついていたのだが、自分の稼ぎが安定する前に、サラミスたちを手に入れられる機会があったので、そちらを優先した。

 サマルカンドに献納が出来ることを伝える手紙を送ったあと、ファルジャードは商品の開発を行う。
 ほとんど頭の中では完成していたそれを、材料を集めて実際に作り ――  ファルジャードは早々に作り上げた伝手で犯罪奴隷殺しても良いを手に入れ、橄欖油オリーブオイルと苛性ソーダによる固形の石鹸が完成する。

「洗浄液を固めるとか、相変わらず化け物ですね! ファルジャード」

 泡だらけのハーフェズが、ファルジャードを褒める。

「ありがとうな、ハーフェズ」

 完成した石鹸を貰ったラズワルドたちは、意味もなく泡立たせて遊んでいた。

「石鹸が小さくなってゆく!」
「まだまだありますよ、ラズワルド公」

 泡に埋もれながらも泡を立てて遊び続け ―― 満足したラズワルドに、ファルジャードが申し出る。

「固形石鹸の稼ぎの三分の一をラズワルド公に献納させてください。残りの三分の一は俺のもので、残り三分の一は神殿へ」
「自分の取り分三分の一でいいのか?」
「俺の手元にはあまりないほうが良いので」
「金は使いたかったら、何時でも神殿から持ち出して使っていいぞ」
「ありがとうございます。それで他にも頼みがあるのですが」
「なんだ?」

 ファルジャードが言うには、いずれ石鹸の作り方は人々に分け与えるが、現在は自分の身を守るため金が欲しいので独占したい。
 そのために色々と策を講じるのだが、その一つにラズワルドを使いたいというもの。

「固形石鹸の作り方を教えようが教えまいが、それは見つけたお前の自由だが……わたしを使う策とは?」
「実はこの石鹸、作ってからしばらく寝かせて、熟成させなくてはならないのです」
「苛性ソーダ自体、危険だものな。しばらく放置することで、危険性がなくなる……のか?」

 錬金術師の娘ラズワルド台所実験室で「絶対に触るなよ」とメフラーブに言われた品々の一つに苛性ソーダがあったこと、サマルカンド帰りのお土産として持ち帰る際、やはりカスラーが「危険ですので……人間には危険なのでございます」と、注意深く取り扱っていたことを思い出し頷く。

「ご明察の通りにございます。この熟成を神殿の一角で行いたいのです。できればラズワルド公の住まうお部屋で」

 もともとラズワルドは邸ではなく、神殿の一角に住む予定であり、現在も何時でも住めるよう整えられており、偶に泊まりに行くこともある。

「ふむ……」
「俺も大して良い人ではありませんが、盗むとなると売りに出す前ですから、当然熟成しておりません。そうなると肌に被害が及び、こうなると治す手立てがありません。もちろんラズワルド公にお収めした石鹸となれば付加価値が付きますが、それ以上に安全性が増します。もっとも被害の全てを防げるとは思っておりませんし、防ぐつもりもありません」
「そうか。分かった神殿の一角を使えるようにしておこう」

 ファルジャードは石鹸の半分を輸出用にした。国内で使われる石鹸は、神殿にて熟成し、国外行きは輸送中に熟成させるようにした。神殿に収められていない石鹸はよく盗まれたが、盗んだ者の肌はひどく荒れた。

 この固形石鹸は高値ながら飛ぶように売れ ―― 

「ラズワルドさま! 献納品庫が金塊で埋まりそうなので、どうにかしていただけませんでしょうかって、パルハーム卿から悲鳴のようなお願いが届きました」

 連絡を受けて神殿の献納品庫へと向かい、部屋を覗いたラズワルドは、眉間に皺を寄せて首を振った。

金塊これ、まだまだ増えるんだよな」
「飛ぶように売れてますし、作り方はまだ秘匿されてますから、きっと増える一方です」
「献納していい額を、売り上げの十分の一に減らすか……」

 金をファルジャードに使わせるつもりだったのに、気付けば貯まる一方となり、困り果てたラズワルドは、金塊を王都にいる神の子たちに「ファルジャードからの贈り物」と送りつけた。

「少しは隙間ができたな」
「そうですね」

 ハーフェズと一緒に、大理石の床がやっと見えるようになった献納品庫で「ふう」と安堵のため息をついたのだが、

「あの、ラズワルド公……金貨が」

 神殿に献納品を運ぶ仕事も担当しているジャバードが、申し訳なさそうに金貨がぱんぱんに詰まった袋を担ぐ男八名とともにやって来た。

「……金貨って、煮ても焼いても食えないよな、ハーフェズ」
「食べられるかもしれませんけど、羊肉ほど美味しくないと思いますよ、ラズワルドさま。持って帰ってアドヴィーエミックススパイス掛けて炙ってみます?」
「……マリートが作ろうが、ラヒムが作ろうが不味そうだ」

 ファルジャードはこの金を元手に海運業にも手を出し、富は更に増えていった。