ハーフェズ、神の奴隷としていつかその奇跡の後始末をする

―― アシュカーンの瞳の色だな!

 ラズワルドは初めて海を見た時に感じたことを、アシュカーン宛ての手紙に書かなかった。

「本人が来た時に、教えてやる」

 自分アシュカーンの瞳に似ていると書かれていても、精巧な鏡のないこの時代では、自分の瞳の色を鏡で判断するのは難しい。

「そうですねえ。王子たち早く来るといいですね。見てくださいよ、このバームダードからの手紙」
「ん?」

 笑いながらハーフェズが広げたバームダードからの手紙。
 そこにはウルク時代からの仲間の名前と、容姿が記されていたのだが、

「ジアーは黒髪で翠目、ボルズーは黒髪で翠目、アミルは黒髪で翠目、ホルモズは黒髪で翠目、全員同じ色彩。まったく特徴になりません」

 詩的な才能を持っていなかったバームダードは、同僚たちの容姿の特徴を見たまま記した。結果、ハーフェズの中でこの四名はほぼ同じ顔になってしまう。

「もっと目立つ特徴が欲しいですよね。初めて会っても一目で分かるような」
「そうだな。ハーフェズは黄金髪で黄金瞳で褐色だから、その四人も一目で分かるだろうがな」
「まあ、俺はすぐに分かりますよ。大体ラズワルドさまと一緒ですから」
「たしかにわたしは特徴としては、最大かもしれないな」
「俺の最大の特徴ですとも!」

―― ハーフェズなみに容姿に特徴のある人なんて、そういないよ。あとラズワルド公……

 聞いていたバルディアーはそう思ったが、もちろん言いはしなかった。

「お話中、済みませんラズワルド公。早馬でアルダヴァーン公の神書が届きました」
 会話に割って入るような真似は滅多にしないバルディアーだが、差出人が神の息子アルダヴァーンだったので、中断させてもらうことにした。

「アルダヴァーンから? 開けて巻子を寄越せ、バルディアー」

 箱を包んでいた青い布の結び目を解き、象牙の文箱の蓋を開けて巻子を取り出して手渡す。ラズワルドは巻子を握ったまま止まった。

「どうしたんですか? ラズワルドさま」
「悪い知らせだ」
「え……読まなくても分かるんですか」
「分かろうとしたわけじゃない。分かってしまった……いや、手紙を読む前に心構えをするよう、分からせるようにした……のかも知れない」

 ラズワルドは巻子を止めている紐を解き開く。手紙の内容はほんの数行で、余計なことはほとんど書かれていなかった。

「アシュカーンが戦死したそうだ。首だけ帰ってきたって。最後まで一緒にいたと思われる、アシュカーンの護衛五名と乳兄弟は遺体すら見つからないが、戦死した模様だとさ……王子、戦争とか向いてなかったもんな」

 ラズワルドは手紙をハーフェズのほうへと放り投げ、露台バルコニーへと出て、手すりに肘をつき海を眺める。
 二人は巻子に目を通し、バルディアーはそれを巻き直して象牙の箱にしまう。

「らじゅわるよさ……」

 ぼろぼろと涙をこぼしているハーフェズに”こっちに来い”と、ラズワルドは手で招き寄せる。
 近づいたハーフェズは、背後からラズワルドに抱きつき、深藍の長い髪に顔を埋める。

「ナスリーンはサラミスと二年くらいしか一緒にいなかったのに、ずっと好きだったこと、不思議に思ってたんだけど……今ならなんとなく分かる。一緒にいた時間じゃないんだなあ」

 泣いているハーフェズを背に、ラズワルドは目を閉じ勇敢に戦ったであろう彼らの死を悼む。邸や隣接している海まで輝き祈りで満たされ、その輝きは空へと昇ってゆく。

―― ん……誰か生き残った……ようだな

 七名の死を悼んだのだが、六名分しか主神に届かず。

―― アシュカーン以外の誰かが生き延びたのか
 
「らじゅわるよさま……」

 ただ首だけ戻ってきたアシュカーンは該当しない。

「アシュカーン宛ての手紙に”お前の瞳の色、海とそっくりだ”って、書いておけば良かった」

 生き延びた誰かの無事を祈った。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 奇跡とは時に人の身には余ることもある ――

「……ごほっ! ……ごほっ!」

 息苦しさに目を覚まし咳き込む。体の上に乗っているものを押しのける。
 地面に落ちたそれは弾力ない塊であった。
 夕暮れ時の大地は朱に染まっている。体の上に乗っていたものに手を伸ばす。
 それは青年の死体であった。目は見開いたまま ―― 翠色をしていた瞳は、白濁している。
 あちらこちらにこびりついた血は、夕日に照らされ黒々としていた。

「…………アミル……アミル!」

 胸元を押さえながら、青年を揺するが、もちろん答えはなかった。
 痛む体で立ち上がる。足を引きずりながら、別の死体に近づき膝を折り、先ほどと同じように死体を揺する。

「ジアー! しっかりしろ、ジアー! ラーメシュどうするんだよ!」

 故郷の恋人の名を呼びながら、目を覚ませと叫ぶが、大量に吐き出した血の跡が残る口から返事が返ってくることはない。
 近くに敵兵と差し違えて死んでいるホルモズがいた。彼も目を見開いたまま死んでいた。そしてもう声を掛けることはせず、必死にその目を閉じてやる。
 ボルズーは落馬の際に首を折ったらしく、背中側に顔があった。
 頭を抱えてしゃがみ込む。
 そしてホルモズに殺された、偽装サータヴァーハナ兵に近づき兜を取り外す。
 肌は褐色だったが、よくよく見ればサータヴァーハナ人ではなく、アビシニア王国などがあるアフェリア大陸の顔だちであった。
 痛む胸を押さえる。息苦しくなる。体中はどこもかしこも悲鳴を上げている。
 夕日に照らし出される長い影。その場で動けるのはだけのはず ―― 長い影が揺らめき動いた。

「あ……ああああ!」

 首に矢が突き刺さったウセルカフが立ち上がっていた。ウセルカフは落馬した時に足の骨を折っており、骨が肉を突き破り、おかしな歩き方で、近づいてくる。
 正しき祈りを捧げられなかった死体は屍食鬼になる。魔を屠る力がない者しかいない場合は、死者の首を切り落とさなくてはならない。

「ああああああ!」

 バームダード・・・・・・は絶叫し、血と脂にまみれた剣を拾い、骨が突き出ているウセルカフの足を切る。僅かな筋肉でしか繋がっていなかった右足は簡単に切り落とされそのまま崩れ落ちるた。夕日すら映さぬ濁った瞳のまま、ウセルカフは這いずり近づこうとする。
 バームダードは叫びながら、自分の体の痛みなど忘れ、まだ屍食鬼となっていない仲間の首を切り落とす。
 ホルモズと相打ちになった偽装兵は、両手足に槍を突き刺し地面に縫い付けた。
 そして這い回るウセルカフを背中から槍を突き刺し、もうじき新月を迎える細い月の明かりと、星の明かりを頼りに、首を切り落とす。
 それでもウセルカフの体は動く。

「どうしたら……どうしたら……」

 ウセルカフと偽装兵の呻きを聞きながら、バームダードは意識を失い ―― 日の光で目覚める。辺りは昨日バームダードが見たのと変わらぬ風景であった。
 バームダードは自分の腕を切ってみた。
 痛みと共に赤い血が流れ出す。

「俺は屍食鬼じゃない。屍食鬼じゃない」

 血が固まっていないことを確認したバームダードは、水を求めて歩き出し、程なくして小川を見つけ顔を突っ込んで水を飲む。
 人心地ついたバームダードは川縁に座り込み、空を見上げ ―― 胸の痛みに顔をしかめる。川をのぞき込み、自分の姿を確認すると、鎧は血まみれで中心部に穴が開いていた。指で穴を確かめ ―― 槍に突かれて落馬し、さらにその槍が別の箇所を刺したことを思い出す。
 深い傷だった。衝撃と痛みで意識を失うほど。そして敵は皆殺しにするつもりだったのだから、確かに手応えはあったのだろう。
 だがバームダードは生きている。

「ラズワルド公……」

 バームダードは近所に住んでいた神の子を思い出す。
 神の子が口を付けた料理を分けて貰うと、幸運が訪れると ―― 偶にその料理にありついていたレイラですら効果があったのだ。
 一緒に遊び「マリートが作ったおやつ、分けてやる」と、頻繁に貰っていたバームダードにその効果が出るのは当然のこと。
 その奇跡は神の子が意図したものではなく、人の子が欲したものではない。

 神の子は奇跡を起こした。だが奇跡は人の子バームダードには過ぎたるものであった。

 胸元に手を当てたまま、バームダードは仰向けになり、神に感謝しながら眠りに落ちる。次ぎ目覚められるかどうか、自信はなかったが、仲間が屍食鬼になる前に葬ることができたことに感謝し。そして、どうかウセルカフを解放してくださいと ――

「生き延びた者がいるとはな」

 バームダードはその声に目を開く。
 少し離れた所に、嫌な空気を纏った男がいた。年の頃は二十半ばか、三十くらい ―― に見えるのだが、まったく違うようにも見えた。

「何者だ」

 血と脂でなまくらになった剣を握り、立ち上がる。

「名乗るつもりはないが……そうだ、なぜお前たちが殺され、王子が連れ去られたのか教えてやろう」

 バームダードの返事を聞かずに、男はアシュカーンが封印の贄にされたこと、その理由などを話し始めた。

「……」
「サータヴァーハナ兵に扮していたのは、不死隊アタナイトだ。奴らは異国人も多いからな」

 語るだけ語った男は、人に不快感を与える笑みを浮かべ、そこから立ち去ろうとする。

「待て」

 再び辺りは夕日に包まれていた。

「なんだ?」
「殿下が贄にされたのは、何者かが王女を入れ替えたからだ……では、入れ替えたのは誰だ?」

 まるで見て来たように語るその男に、バームダードは声を荒げて問いただす。

「……わたしだと言ったらどうする?」
「殺す!」

 駆け出し剣を振り下ろすが、男は魔術で身を躱す。

「お前にわたしを殺すことはできないよ」
「死ね!」

 男の言葉など聞こえぬと、バームダードは再び剣を構えて襲い掛かる。

「厄介な人間だ」

 男はバームダードに絶望を与えようと、魔術を放った。それはバームダードの体に届き、痛みで足を止めさせたが、男が意図したものよりも遙かに小さな痛みであった。

「なに?」

 激痛に悶え苦しむ様を見ようとしていた男は、足を止めただけのバームダードを凝視する。

「ああ、神の子の力だなあ」

 バームダードが喉を潤した川から、声が聞こえてきた。
 目の前の人の皮を被ったなにかには恐怖を感じなかったバームダードだが、背後からの声には振り返ることすらできなかった。

「お前は本当に無駄なことばかりするな、テイムール」
大厄災ラーミンさま」

 魔王に付いた水の精霊 ―― 怒りに我を忘れていたバームダードだが、大厄災ラーミンの名を聞き冷静さを取り戻す。

「ラズワルド公の旧知に手を出すなど、お前は愚かだなあテイムール。下がれ」

 非常に醜い表情を浮かべたテイムールだが、さすがに大厄災ラーミンには勝てぬので、黙って引き下がった。

「水と食糧を与えてやるから、サータヴァーハナにでも行くがよい。故郷に帰ろうとはするな。王家としては生き証人などいては困るのだ……どうして助けるのか? 助けたい訳ではない、単に殺しづらいだけだ。神の子の力が宿っているものを殺害すると、精霊王に知られてしまうのでな。この地上の全ての生き物を殺すことができるわたしだが、精霊王には勝てん。もしもお前を殺したとしたら、それを掴んだ精霊王が喜んでわたしを殺害し、ラズワルド公の歓心を買うであろう……そんなこと、させるつもりはない。そして忠告もせずに故郷の地を踏ませて、殺害されても困る。理由は同じだ。その奇跡に感謝し、生きるがいい」
「さっきの奴……俺に殺せるか」

 未だ恐怖に包まれている掠れた声で、テイムールを殺害できるかどうかを背後の大厄災ラーミンに尋ねる。

「お前の力では無理だろう。あれは、魔人としては優秀な魔道師だ」
「どうやったら、殺せる」
「ラズワルド公にでも頼めば一撃だろうなあ。このわたしとて、勝てぬ」
「俺がこの手で殺すのだ!」
「ならばお前も魔人になってみるか? 同じ主・・・に仕えれば動向も探りやすい」
「……」
「人ならざる者にならねば、無理であろうなあ。あれでも元は優秀な神官だったからなあ」

 胸元の傷に手をあてる。ラズワルドやハーフェズ、カーヴェーにスィミンなどの笑顔が浮かぶが、それらが苦悶の表情を浮かべて死んだ仲間たちと置き換わる。

「殿下はもう贄になったのか」
「まだだ。新月の夜に捧げられる。ああ、助けようとは考えるなよ。わたしとしては、いま魔王が復活しては困るのだ。精霊王の后たる神の娘にはどうやっても勝てん。あれが神の国に帰るか精霊王に連れ去られるかしない限り、打つ手はない」
「そうか……あんたが本当のことを言っているのかどうかは知らないが……俺は殿下が贄となる原因を作った男を殺したい。そのために力を貸してくれ」
「良かろう」

 死ぬべき時に死ぬことができなかったバームダードは、奇跡を与えてくれた神の子ラズワルドに謝罪し、王の子アシュカーンの仇を取るため、人ではない別の道を歩み始めた ―― 奇跡とは慈悲ではない。

第二章完