ラズワルドと鷹の王《シャバーズ》

「生活も落ち着いたようですから、わたしは帰りますね、ラズワルド」
「わざわざありがとうな、ファリド」

 ファリドはパルハームに、封印の贄に関しラズワルドになにも語らぬよう命じ、アッバースから去った。
 そしてラズワルドはパルハームに神の力の使い方を習い始め、アッバースで遭遇したことを手紙に認めアシュカーンに送り、街中を散策したり海で泳いだり ――

 ラズワルドの生活は順調であった。だがアルデシールに問題が浮上した。

 ラズワルドたちに同行しアッバースへとやってきたアルデシール。
 彼が王都を離れ港町へとやってきたのは、国外に出るためである。いまだ父王が生きているため魔王の僕に狙われている彼は、魔王の僕が易々と追っては来られないペルセア国外へと脱出し、国内が落ち着いてから帰国する運びとなっていた。

 国内が落ち着くというのは、父王ゴシュターブス四世が死に王弟エスファンデルが三世として即位し、アシュカーンが封印の贄として葬られることを意味する。

 魔王の僕から身を隠すために彼が向かおうとしているのは、隣接国のダマスカス王国。当然陸路で行くことができる。だが彼は神官たちの勧めで、海路でダマスカス王国へと向かうことになり、そのためラズワルドたちに同行させてもらい、港町アッバースへとやってきた。
 海路を使うのは、魔王の僕の追跡をかわすため。
 送り届けるのは海将ザーミヤードが選んだ部下たちが乗り込んだ商船に乗り、ペルセア湾を挟んだ向かい側ジャズィーラを西へと進み、エリュトゥラー海を北上してミスラ王国に上陸し、陸路でダマスカス王国へと入国する ―― 計画ではそうだったのだが、海軍を指揮する海将ザーミヤードに対する不信が持ち上がった。

 不信の原因であり発端は、ラズワルドが連れてきたジャバード。

 ラズワルドは街中を颯爽と駆け抜け散歩をする神の子。人に話し掛けることはするが、人が話し掛けることは許されない存在である。
 アッバースだけではなく、ペルセア王国内で最も高貴な存在 ―― 人間ではないので、高貴という言葉も不適切なのだが、人の世において人の言葉で表すしかできないので「最も高貴」と呼ばれる。
 そのラズワルドに仕えるハーフェズ。神の子手ずから「神の子の奴隷」と額に所有を刻んでいる奴隷も、ペルセア王国内では王族を凌ぐ地位で、アッバースを預かっている総督などは会うことが出来ない立場の人間である。

 ラズワルドが家を買った際、総督がハーフェズに話し掛けたのは、思わぬ好機に浮かれてのこと。

 ファルナーズが去ったあと、部隊ごとラズワルドの配下に入ったシャープール。彼の立場は以前よりは少し落ちたが、それでも総督から面会希望を受けるような低い地位ではない。
 そういった仕事を受け持つのは彼らの部下。
 ラズワルドを配下では、ジャバードとメティがそれにあたり、彼らは世俗の対応を任された。結果として世俗 ―― 国軍や司法機関、総督府などに出向き、アッバース在住の武装神官とも接することになる。
 とくに問題を起こしたわけでもなく、単にジャバードを信じて去ったメティはまだしも、海将の怒りを買って飛ばされた筈のジャバードが、三、四年で神の子の直臣として戻って来たことに、彼らは驚きを隠せなかった。
 武装神官たちは色々と言いたいことはあったが、ラズワルドが散歩に連れ歩いているのを見て、ジャバードの過去に関して全てなかったことにした。

「行きたくねえな、メティ」
「そうだな、ジャバード」

 その日彼らは、ファルジャードと共に海軍府へと出向き、アルデシールの移動に関して海将と会談しなくてはならなかった。
 彼らが出向く理由は、海路で隣国へと向かうアルデシールに、念のためアッバースの武装神官を数名付けることになっていた。
 それらの選定を任された上に、移動方法についてのアルデシールとファルジャードに説明をする大任を仰せつかった ―― シャープールのほうが適任に思えるが、彼は内陸部の名家の出身で十歳でファルナーズ付きになったため、海が近い町に武人として駐留したことがないゆえ「海に関しては、この辺りで生まれ育った卿らのほうが詳しかろう」とジャバードに仕事を振った。
 ジャバードはシャープールに、海将といざこざがあったことを伝えたが、シャープールは既に事情を知っていながら彼に同行するよう指示を出したことを伝え、彼らは分かりましたと頷くしなかなかった。
 説明に関してだが、アルデシールとファルジャードも内陸部育ちで、海に関しては詳しくはない。
 むろんファルジャードは書物で膨大な知識を得て、ネジド公国の民とともに僅かな距離ながら船旅をしたことはあるが、それでも海を知っているとは言えないことは分かっていた。
 王子アルデシール御曹司ファルジャードに迷惑を掛けたくないな……と願ったジャバードであったが、残念ながら彼の願いは叶わなかった。
 軍港を背にした石造りで長方形、そしてほぼ飾り気のない、籠城可能なように設計された建物が海軍府である。門まで出向き、王子アルデシール御曹司ファルジャードを出迎えた海将ザーミヤード追放した男ジャバードに気付き、貴人を出迎えていたのにもかかわらず声を荒らげて、ジャバードの襟首を掴み怒鳴りつける。
 ジャバードと海将の間のいざこざを、ジャバードから聞いていたファルジャードは、二人の間に割って入った。

―― いやはや、噂で聞いてはいたが。小姓さえ絡まなければいい人らしいが……

 少しは節度を持って対応してくれるのではと思っていたファルジャードは、まるで子どものようなザーミヤードの態度に、内心で舌打ちをする。
 だがファルジャードはこのような状態になった場合も想定、しっかりと対処方法を用意していた。

「ザーミヤード卿。ラズワルド公はジャバードのことを信じているそうです」

 ファルジャードは神の子の名を出した。
 海将と共に王子アルデシール御曹司ファルジャードの出迎えにあがっていた参謀や護衛たちは、キュベレーのことになると自身を見失う海将がなんと答えるか、固唾を飲んで見守った。
 これで引かなければ、海将は更迭だけでは済まない。だがキュベレーのことに関して、引く海将を見たこともない。

 海将ザーミヤードが更迭されることはなかった。

 海将は神の子の信頼を得たジャバードに詫びた。彼はもともとキュベレーが嘘をついているのは、分かっているのだとも言った。分かっていながら、キュベレーへの愛故に、愚かな判断をしてしまうことも自覚しているのだという。

「自らの奴隷の奴隷になっている海将はどうでもいいのです」

 海将の小姓に対する愛にまつわる話を聞いたファルジャードは、アルデシールが海路を使って移動することに反対した。

「では、なにが心配だというのだファルジャード」
「海賊が商船にまぎれ込んでいたら危険です」
「海賊ごとき、敵ではない」
「殿下の武術が優れているのは存じておりますが、そういう話ではありません。殿下の乗っている船がジャズィーラ外洋で破壊されたらどうするのですか……ということです。まあ殿下がラズワルド公のように、海流を自在に操ったり、絨毯で空を飛べるのでしたら問題は御座いませんが」

 ラズワルドのそれらは神の力ではなく精霊の力なのだが、人間には使えぬ力であり、人々はさすがは神の子だと、畏敬の念を更に深めていた。

「さすがにそれは無理だが、商船が壊されぬようにするのが、海軍であろう」
「海軍兵の全てが規律正しく、汚職になど一切手を染めていない者ばかりだとでもお思いですか? 海賊と海軍の一部には間違いなく繋がりがあります。それを捕らえたりするのは、わたしの仕事ではありません。問題なのは海将が殿下の乗る船に、海賊と繋がっている者を派遣した場合です。船の安全と引き替えに、人質になって身代金と交換されたくはないでしょう」
「それは分かるが、海将となにか関係あるのだ」
「海将の人を見る目は確かかもしれませんが、小姓がなにか言ったら、自分が選んだ兵士ではない者を送り込む可能性は否定できません……いいえ、確実に小姓の意見を尊重するでしょう」

 自分を弄ぶ小姓キュベレーへの愛を狂ったように叫び、止めなくてはと分かっていながら止めることができず苦しんでいる、中年の海将の姿を思い出し、アルデシールはため息を吐き出した。

「なるほど。だが海路を諦めると簡単には言えんぞ。陸路が危険だから海路にしたのだからな」
「魔物に関しては、わたしは専門ではありません。そこで詳しい方に、助言をいただこうと思います」
「まさか、ラズワルド公にか?」
「いいえ。ラズワルド公に魔物の対処は不可能です。なにせ公柱は、その気になれば地上のあらゆる魔を根こそぎ屠ることができる御方。魔王の僕の目を盗んで移動するなどという矮小な行為に助言を求められても、お困りになるだけかと」
「では誰に聞くのだ?」
「元神の子、パルハーム卿に」

 アッバースの神殿を預かるパルハーム。今年五十歳になる彼は、元は神の息子であった。
 パルハームはカルデア諸侯王の長男であった。無論神の子であったので、諸侯王の跡を継ぐことなく十歳の時には神殿に入った。
 その頃はまだ王都にフラーテスがおり、彼に魔を屠る力の使い方を習う。パルハームは当時、魔を屠る力がフラーテスに次いで高かった。
 パルハームが神殿に入ってから十数年後、カルデア諸侯王を継いだ弟が跡取りを設けぬまま死去した。その後、親族間の争いが起こり ―― パルハームは仕方なしに神の子から諸侯王となり、一年後に跡を継げる息子が誕生したので、信頼できる者たちに任せて神殿へと戻った。
 主神の慈悲かどうかは不明だが、パルハームは魔に対する絶対的な防御は失ったが、魔を屠る能力は以前と変わらず使うことができた ―― かなりの力を自在に操るパルハーム。これはフラーテスに教えられたものだが、彼はもう高齢で神の子にそれらを教えることはできない。故にラズワルドは彼の元に習いにやって来たのだ。

「……というわけです」

 そのパルハームの元にファルジャードとアルデシールはやって来て、事情を説明する。海将の現状を詳らかにしたジャバードと、好んでとばっちりを食らっているメティは、アルデシールに従う武装神官を選んでいる。

「小姓さえ絡まなければ……だがファルジャード殿が仰りたいことは分かる。そして大きな声では言えないが、海軍と海賊には繋がりがある。両者を繋いでいるのは総督だ」

 パルハームによると、海の治安を守る海軍が、偶に海賊を見逃し、商船が襲われ積荷が奪われる。それらの一部を海賊は、見逃している海軍兵や総督に収めている ―― 古来よりどこにでもある、癒着の図式であった。

「王に請願せぬのか?」

 総督の就任・解任など人事はすべて王にある。だが神の子に近いパルハームが、現状を伝え更迭を願えば国王はすぐにそれに応じる。

「殿下の仰りたいことは分かりますが、総督を更迭しても変わらないでしょう」
「殿下。あの愚鈍そうな総督一人では、海将の裏をかくのは無理かと。小姓さえ絡まなければ、海将はそれは優秀な人ですので。きっと総督の近くに、裏の仕事を取り仕切っている輩がいるのでしょう? パルハーム卿」
「その通り。インドラという名の奴隷商、彼が裏で糸を引いているようですが、これがまた巧妙な男でしてね……この話については、後回しにして。殿下を陸路でダマスカスへ。それは勿論可能です」
「そうなのか? 神殿では、海路を使うしかないと」
「神官に出来るのは、殿下に海路を勧めることくらいでしょうな。ですが神の子でしたら、殿下を陸路でダマスカスまで行かせることができます」
「ラズワルド公にお頼みするのか」
「ええ。ラズワルド公のお力は見事なものです」

 パルハームにそうは言われたが、アルデシールはすぐに頷くことはできなかった。

「だが……」

 メルカルト神の僕たる神官たちも思いついていたではあろうが、おいそれと出すことができなかった案。それに考えなしに飛びつくようなことは ――

「ラズワルド公を頼りましょう」

 ファルジャードは言い切った。

「神の子に、頼むなど恐れ多い」
「殿下の気持ちは分かりますが、殿下には生き延びてもらわねば困ります。俺がこうして殿下の身の安全を図っているのは殿下の為ではありません。殿下は公柱がお気に召した人の子を犠牲にして生き延びるのです。だから、あなたは生きねばならない、どんなことをしても。そして俺たちは、あなたを生かす、なんとしても。それが大恩あるラズワルド公にできる、唯一のことです」

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 ファルジャードに連れられアルデシールがラズワルドの邸を訪れた頃、邸の主ラズワルドと奴隷たちは夕食を取っていた。
 この日の夕食は、ラヒムが初めて作った、魚の煮込みが主役であった。
 魚を食べやすい大きさに切り塩をふり、少しばかり置く。
 その間に薄切りにした玉葱を、たっぷりの油で炒め、色が変わったところで小麦粉を加えて少し炒める。それに鬱金ターメリック、粉末唐辛子、塩に大蒜を投入してさらに炒める。加える際、大蒜は潰しておく必要がある。
 そこにみじん切りにした香草 ―― 薄荷ミント茴香フェンネル姫茴香キャラウェイ香菜コリアンダー龍艾タラゴン刺草ネトルなどを大量に加え、水分が出てくるまでさらに炒める。
 水を加えて煮立たせ、塩を振っておいた魚を水で洗い入れる。魚が入った鍋が煮立つより先に酸豆醤タマリンドペーストを加えて弱火で煮込んで完成する。
 他にはレンズ豆の炊き込みご飯アダス・ポロにナン、もちろん羊肉の香草焼きも並んでいる。食後は色とりどりの果物と、漬けた乾燥無花果のうまみが溶け出している羊乳。

「この魚の煮込み、店で食べたのと同じだな」

 王都ではほとんど魚は出回らないので、マリートの手料理に「魚料理」はない。だが港町では、魚が市場に並び、魚料理が作られる。

「それは、店から作り方を教えてもらったからな。好きな味に調整するから、気にくわない部分は、なんでも言ってくれ、ラズワルド公」

 ラヒムはラズワルドがいつでも魚料理を食べられるようにと、アッバースに来てから新たな料理に精進していた。
 食後の無花果味の羊乳を手にラズワルドは海に面している露台バルコニーへと出て、ラヒムたちは食器を下げる。

「失礼いたします、ラズワルド公」
「なんだファルジャード」
「お話をしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「構わんよ。おお、パルハームと……」

 ファルジャードとパルハームと「一緒に旅をしていたが、名前が分からない貴人」。 ラズワルドは杯を手に向き直って露台バルコニーの手すりに寄りかかり、彼らは入り口近くで平伏する。

―― え、アルデシール王子?

 ファルジャードの紹介でラズワルドは、顔の右半分を青い布で覆い隠している、目つきの鋭い貴人が、現国王の息子だと知った。

「王子を国外に出すために、協力して欲しいということか」
「はい」
「じゃあ、ダマスカスの国境まで一緒に行けばいいんだな!」

 旅することが苦ではないラズワルドは、一緒に行くぞと高らかに告げたのだが、

「それですと、余計に目立ってしまいます」
「?」

 パルハームがそれは避けたほうが良いと。パルハームが言うには、魔王の僕マジュヌーンはアルデシールの気配を掴むことができない故、敵は王子アルデシールが王都、サマルカンド、祖廟、アッバース、この四地点にいることは分かっている。
 魔王の僕マジュヌーンの追跡を阻止できるのは、神の子の力のみ。

「ラズワルド公がダマスカス王国国境近辺まで行かれますと魔王の僕マジュヌーンたちは、王子が国外に出たと考え半魔を送り込むことでしょう」

 ラズワルドには近づけないが、魔王の僕マジュヌーンにとって、神の子の動きは比喩ではなく「痛いほど分かる」。

「ほう! なるほどなあ。ではどうするのだ? パルハーム」
「王子に名を授けて下さいませ」
「名前を付けるだけでいいのか?」
「神の子より名を授けられることにより、アルデシール王子は別人となります」
「別人になったら、困るんじゃないのか?」
「ラズワルド公がアルデシール王子と認めてくだされば、戻ることができます」
「…………分かった・・・・

 ラズワルドは露台バルコニーの手すりに杯を置き、大股で平伏しているアルデシールに近づく。

「顔を上げろ、王子」

 命に従いアルデシールが顔を上げる。ラズワルドは青い布に手を伸ばして解く。焼かれた顔は、左側同様秀麗であったが黒みを帯びた紫色に染まり ―― 人目に晒すのは憚られる状態であった。
 ラズワルドは黒みを帯びた紫の顔に、ヘナで爪を染めた人差し指で触れる。

シャバーズ・・・・・

 ラズワルドはアルデシールをそう呼んだ。

「公柱、お初にお目に掛かります。本来でしたらばメルカルト神に忠実なハミルカルる僕と名乗るべき、卑しい者でございますが……わたしめの名は鷹の王シャバーズ。神の御子に仕える人に御座います」

 アルデシールは悪い名ではないが、シャバーズほど彼を表す名はなかった。

「それでは改めて。シャバーズ、わたしの名はラズワルド。メフラーブの娘で神の子でもある」

 ラズワルドより新たな名を貰ったアルデシールシャバーズは、陸路でダマスカス王国へと向かった。
 アッバースを発つ際にラズワルドから「帰ってきたら、アシュカーンに会いにいこう。従兄に会いたいって言ってたからさ」なる言葉をかけられて ――