ラズワルドとハーフェズ、再会する

 ファリドは上手にラズワルドを遊ばせながら旅を続け、何事もなくアッバースの町へと入った。
 出迎えたアッバース総督フーシャングの対応はアルデシールが受け持ち、ラズワルドはファリドの馬に一緒に乗り桟橋へと向かった。
 ラズワルドは初めて聞く音と、そして見たことのないものが、桟橋の両脇にて縄で繋がれ揺れているのに、きょろきょろと辺りを見回す。ファリドはさらに馬を進め、船が係留されていない地点で止まる。
 ラズワルドの眼前に広がる青い海。それを初めて見た時、ラズワルドは、

―― アシュカーンの瞳の色だな!

 まっさきにアシュカーンが思い浮かんだ。
 
「海ですよ、ラズワルド」
「うーみー!」

 生まれて初めて見る海に向かって叫ぶ。
 海に興奮しているラズワルドを、ファリドは手綱を握ったまま抱きかかえるように体を固定し、いきなり馬を走らせる。

「お?」

 何事か? と思っていると、ファリドが手綱を握っている白馬は、主の指示通り桟橋を駆け抜け海に向かって跳んだ。
 大きな水しぶきを上げて着水した馬は、何事もなかったかのように、二柱を乗せたまま泳ぎ始めた。

「驚きましたか、ラズワルド」

 水を被ったファリドが、濡れた金髪をかき上げて尋ねる。

「はははは! 驚いた、驚いた! 馬って泳げるんだな、ファリド!」

 生まれて初めてみた海に、気付けば飛び込んでいたラズワルドは、飲み込んだ海水を吐き出してから、太陽の光を反射し眩しいほど輝いている水面を手で叩いて笑う。

「ええ。馬は元来泳げますし、戦となれば川を越えなくてはならないこともありますから、軍馬には更に泳ぎを仕込むのですよ」
「へえ、そうなんだ。でさ、ファリド。あれはなに? 木製だから高そうだよな!」

 胸の上辺りまで海水に浸かりながら、ラズワルドは桟橋の両脇に係留されているあれ・・について尋ねた。

あれ・・は船ですよ。もっと大きな船もありますよ」
「あれが船なのか! そっか! 本で読んだことあったけど、あれが船なのか! 総木製なんだよな」
「そのようです」

 ラズワルドが住んでいる一帯は乾燥していることもあり、大木などを見かける機会は少ない。

「あの船一隻作るのに、木は何本くらい必要なんだろうな」
「それは分かりませんね。造船業者に聞いてみてはどうですか? アッバースには、造船を生業にする者は大勢いますので」
「そうだなー。せっかくアッバースに来たんだもんなー。海楽しい」

 ファリドは手綱を操り、頃合いを見計らい馬首を飛び込んだ桟橋のほうへと向けた。桟橋には取り残された護衛の面々が叫んでいる。

「ファリド公!」
「ラズワルドさま! 楽しいですか?」

 上記二者の表情と声の差は、語るまでもない。
 桟橋近くにたどり着いたところで、

「ジャバード。ラズワルドを」

 ラズワルドは細い子どもではあるが、着衣が水を吸い重みがかなり増している。だがファリドはラズワルドの片手で易々と持ち上げ、ジャバード目がけて投げた。濡れた深藍の髪はやや紫を帯びて深縹こきはなだに変わり、うみそらの境で弧を描き桟橋へ。
 こういうことには慣れているジャバードが、見事にラズワルドを受け止めた。

「ラズワルド公、痛むところなどは御座いませんか?」
「平気だ、ジャバード。降ろしていいぞ。ファリドに手を貸すんだろ」

 受け止められたラズワルドずぶ濡れで桟橋に立ち、海を見るとファリドの姿がなかった。
 どうしたのだろう? と眺めていると、馬が突如海面から飛び上がった。

「え?」

 桟橋が揺れるような振動が響き ―― 馬を肩に乗せたファリドがラズワルドの目の前に立っていた。
 ファリドは膝をつくようにして体を屈めて馬を降ろし、

「ラズワルド、馬と一緒に泳ぎたかったら、あちらの砂浜から入りなさい。わたしが居る時は、どこからでも構いませんけれど」

 水を滴らせたままファリドはそう言った。人間には到底不可能なことなのだが、ファリドは海中で馬を肩に乗せ、そのまま飛び上がり桟橋に降り立ったのだ。

―― 相変わらず、顔に似合わず豪快といいますか……さすがラズワルドさまの、お兄さまといいますか。ジャバード卿のこと、少しだけ考えてあげて欲しいような、ジャバード卿もそろそろ楽しんじゃえばいいのにー

 幼少期より感じ、最近になってそれを表す言葉顔に似合わぬを手に入れたハーフェズは、慌てふためくジャバードを脇目に、

「このまま神殿の浴場に行きましょうか、ラズワルドさま」
「そうだな」

 ずぶ濡れのラズワルドを自分の馬に乗せた。

「先に神殿に行ってますね、ファリド公」
「わたしもすぐに行きますから。ラズワルドのこと、頼みましたよハーフェズ、バルディアー」
「はい、お任せください!」

 優雅に馬を走らせた ―― までは良かったのだが、

「神殿までの道、分かるのか? ハーフェズ」

 初めて訪れた町なうえに、ファリドが悠々と路地などを通り抜けて桟橋へ向かったのを、必死に追いかけていたため周囲に目を配る余裕もなく。

「分かりません。建物は大きいので、見えているんですけどねー。ジャバード、案内お願いします」

 かつてここに住んでいたジャバードに案内を頼み、神殿に無事到着した。
 神殿前では、到着の先触れを貰っていたパルハームが待っており、ずぶ濡れのラズワルドの姿を見て、

「ファリド公の仕業かな」

 儚い見た目とは裏腹に、豪快な男の子であったファリドの姿を思い出し苦笑する。

「おう、ファリドの仕業だ。そしてお前はパルハームだな。わたしはラズワルドだ、よろしくな」

 白髪のほうが多い髪を、しっかりと撫でつけているが、年齢よりも若く見える、かつて兄だった男に、ラズワルドは濡れ鼠のまま自己紹介をした。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 アッバース到着当日ラズワルドたちは神殿に泊まり、翌日はファルジャードから頼まれた邸を捜すため、総督と業者を連れて、一等地の住宅街へと馬を走らせた。
 アッバースで一等地の住宅街と言えば海に面した土地を指す。
 暑さを海風が和らげてくれ、自分の船まで小舟ですぐに行くことができるため ―― アッバースの一等地に住宅を構えられる者は、ほぼ海運業で身を立ており、船を所有しているので、陸路を通らず船と自宅を行き来できるのは、色々と都合がよいとも言える。

 ラズワルドがファルジャードのために買ったのは、召使いを含め八百人程度ならば余裕を持って住めるような白亜の豪邸。築浅で家具付き、とくに海の面する広々とした露台バルコニーは、緑が溢れており見事の一言に尽きる。
 この白亜の豪邸の隣も売り出されており、こちらも築浅。建物や敷地の大きさは、白亜の豪邸の四分の一ほど。金持ちの証拠とも言える、庭が緑で溢れかえっているのは当然のことだが、建物が薄紅色の花崗岩で作られており、緑の木々の隙間から覗くと、一層美しさを増す。
 室内も花崗岩の薄紅が生かされ、また飾りは全て珊瑚コーラル石榴石ガーネット。この邸は薔薇の邸宅と呼ばれていた。

「これ、買ってもいいか」

 普段「青」に囲まれているラズワルドは、薄紅色の邸が気に入った。

「いいと思いますよ、ラズワルドさま」
「じゃあ、隣の邸とこの邸を買う……買うとは言ってみたが、どうやって買えばいいんだ、シャープール」

 側近中の側近であるハーフェズとバルディアーは、この手のことは無理だろうと、新たに部隊ごとラズワルドに仕えることになったシャープールに声を掛けた。

「このシャープールめに一任して下されば、あとは公柱のお望みのままに」
「そりゃ、お前に任せたら完璧だよな。どこかで契約とかするのか?」
「総督府で契約書類のやり取りをいたします」
「そうか、ではシャープール、お前に任せた。わたしとワーディとジャバード隊はここに残る。ハーフェズ、バルディアー、ラヒム、ハーキムはシャープールと一緒に行って、契約や金のやり取りの仕方を見て覚えてこい」
「分かりました、ラズワルドさま。ワーディ、ジャバード、ラズワルドさまのことよろしくお願いします。ラズワルドさま、あまり困らせるようなことしないで下さいね」
「困らせるようなことって何だ、ハーフェズ」
「いきなり海に飛び込むとか」
「…………」
「しようと思ってたでしょ! 駄目ですからね! まだ燃料買ってませんから、風呂を準備することができないんですから。絶対駄目ですからね」

 ラズワルドは溺死などしないので、海に飛び込むこと自体は問題ないのだが、飛び込んだあと、体を洗う必要がある。

「分かった。大人しくしておく」

 ハーフェズたち一行はラズワルドを邸に残して総督府へ急いだ。

「邸を買ったら、ラヒムとハーキムはすぐに邸に戻ってメティさんと一緒に市場に行って、燃料と食材を買って下さい。バルディアーは簡単に食べられるものを買ってラズワルドさまと一緒に居てください。俺とシャープールさんで神殿に運んだ荷物を、邸の方へ移動させましょう」
「そうだな。公柱の御屋敷に控える神官たちの勤務表も作らねば」

 そんな会話をしながら、シャープールは総督と王子立ち会いのもと、業者とやり取りし契約を交わした。

「豪邸って、こんなにするんですね、シャープールさん」

 契約書に書かれた額を指さしハーフェズは、驚きと納得が混ざったような声を上げる。

「たしかに高いが、築年数が少なく、邸の管理も行き届いていたから、良心的な値段でもある。まあ、神の御子に吹っ掛けるような愚か者はいないであろうが」

 名家の息子であるシャープールとしては、大きい額だとは思うが、驚くような数字でもなかった。

「築年数が少ないのに売りに出される邸が結構ありましたよね」

 あの邸に向かう途中にも、何件か売りに出されている邸があったのを、ハーフェズは確認していた。

「あの並びの邸は、ほぼ海運業を営んでいる。海運業というのは儲けは大きいが、その分、船が外洋で嵐に遭遇したりなどで積荷を失うと、一夜にして全てを失うことも多い。結果この町では、商人の浮沈が激しいのだ」
「あーなるほど」

 その後、宝石を取り扱う業者が数名、金を抱えてやってきた。
 シャープールは手付金用に持ってきていた宝石を、大理石の机に並べる。紅石ルビー翠玉エメラルド蒼玉サファイア琥珀アンバー黄玉トパーズの一級品。

「大体どの程度の額で取引されるかは、分かっている」

 名門の子息で神の子の側近でもある男の圧力を、痛いほど感じながら彼らは鑑定し、買い取り大金貨を差し出す。
 その宝石だが、全て買い取られはしなかった。宝石の質の良さもそうだが、ラズワルドに献上された石であるというお墨付きがあり、通常の宝石よりも高値が付くため、宝石商たちが持ってきた金では、全て買い取ることができなかった。

「手付金はこれで良いな。足りない分は、神殿に取りに来るように」

 買い取られなかった宝石を袋に戻したシャープールがそう言い ―― 今度は邸を売った業者が大金貨の枚数を数え、足りない分を計算し紙に書き記し差し出す。

 契約の一部始終を見届けたラヒムとハーキムは、バルディアーと共に薄紅の邸へと向う。
 邸のやり取りが終わってから、総督フーシャングはファルジャードの邸の召使いを、自分の馴染みの奴隷商で買ってはどうかと。よくあることだが、この総督とその奴隷商は通じており、互いに持ちつ持たれつの関係で、こんなに美味しい条件が目の前にあるのだから、それを逃す手はない ――

「それは要りません」

 だがハーフェズが必要ないと告げた。

「だが、これほどの邸となると、召使いの手配は早いほうが……」

 太ってはいないが弛んだ体付きの中年フーシャングの話が終わらぬうちに、ハーフェズは言葉を被せる。

サマルカンドの御曹司ファルジャードの手紙には、邸を買って欲しいと書いていましたが、召使いの手配に関しては触れていませんので。書き忘れ? ああ、サマルカンドの御曹司ファルジャードに限ってはありません。これからしばらくラズワルドさまがここに滞在なさるので、俺としては総督とは良い関係を築きたいと考えております。ですから一つ忠告しておきます。サマルカンドの御曹司ファルジャードに限って”漏れ”はありません。なんらかの”漏れ”があった場合、それは”罠”です。もっとも、俺がこうして語ったところで、サマルカンドの御曹司ファルジャードが本気ではめようとしたら、為す術はありませんけれどね。”危険な罠”を華麗に回避した先が”即死、致死、破滅の罠”ということも、ありえます。まあ、頭の片隅で覚えていていたほうがいいぞ、フーシャング・・・・・・

 そしてにっこりとハーフェズは笑った。その笑顔は、美少年そのもので、毒もなにもなかった気圧されるもので、総督は顔色を失った。

「差し出がましいことをいたしました、ハーフェズ卿」
「嫌だなあ、総督。ご厚意、ありがとうございます」

 ハーフェズは契約書を持ち、軽やかな足取りで総督の執務室を後にする。

「総督。あれをただの少年と侮ると痛い目を見ますよ……と注意したかったのですが、する必要もなくなりましたな。それでは失礼、王子、総督」

 シャープールも総督の執務室から立ち去った。

 ラズワルドが気に入って買った薄紅の邸に、アッバースに滞在しているファリドも招待し、街を知らねばとあちらこちら供を連れて散歩し ――

「ラズワルドさまの旗を掲げた船?」

 一週間もするとラズワルドの旗はアッバースの町にもある程度認知された。その旗を掲げた商船が港に到着したのだが、少々問題があるのでお付きの方に確認を……と早馬が来た。
 全く心辺りがなかったハーフェズだが、

「わたしも一緒に行こう」
「分かりました。行きましょう、ラズワルドさま」

 ラズワルドの旗が掲げられているのであれば、確認せねばと ―― 皆で馬を走らせ港へと向かった。
 特定の神の子ラズワルドを表す石榴の枝と花と実が錦糸で刺繍されている、青い旗が掲げられている船へと案内されたラズワルドたちは、海風にあおられる灰褐色の髪を手で押さえている、柔らかな顔だちの男と再会する。

「ラズワルド公、ご足労おかけ致しました」
「ファルジャード!」

 その男がラズワルドと知り合いだと確認した海岸の警備兵は、積荷・・を降ろす許可を出す。
 ぞろぞろと降りてきたのは

「お帰りファルジャ……え? なんで? 母さん! ハスドルバルおじさん! ……サラミスお父……うえ……」

 ファルジャードの声をかけたハーフェズは、降りてきた人の中に、見知った顔があることに驚き声を失う。

「久しぶりだな、ハーフェズ。元気そうでなによりだ」

 ネジド公国で暮らしている筈の彼らが、なぜかファルジャードと共にペルセアの港町、アッバースへとやってきた。それも降ろされる積荷は、軍馬であったり家財道具であったり。どうみても、遊びに来たとは思えない荷物ばかり。

「なにがあったんですか? サラミスさ……おちちうえ」
「色々あって国を出ることになり、ファルジャード卿の配下に入った」
「……一体なにが!」

 話せば長くかもしれないので ―― と、一行は白亜の豪邸へと入り、そこで事情の説明が始まった。