実際ラズワルドは三日後には神殿へと行き、ファリドから詫びられ ――
「
久しぶりに帰ってきたラズワルドの為の宴が開かれた。
王都にいる神の子全員が参加した。
「そう言えばさ、ファルナーズは
祖廟にいる神の娘カターユーンの他に、ファルナーズもその席には居なかった。それについて、ニネヴェを目指している最中、突如ファルナーズの気配が消えたことを察知していたので、おかしいとは思わなかった。
「いいえ。ファルナーズは人間になりました」
「そうなのか」
ラズワルドがそれ以上ファルナーズについて聞くことはなかった。薄情なのではなく、ファルナーズなりの考えがあって人間になったのだろうと ―― ラズワルドは外国を見てみたいと常々思っているが、人間になろうと思ったことはない。
誰に教えられたわけでもないが、鼻梁まで掛かる文様を持った神の子は、神を捨てることはができないのを知っている。
またあり得ない過程だが、ラズワルドが神の子ではなくなった瞬間に、精霊王に拐かされる ―― 神の子ではなくなったラズワルドを、精霊王がそのまま迎え入れるかどうかは定かではないが、ラズワルドが地上にいるためには、神の子である必要がある。
神の子たちの宴が行われている頃、ハーフェズとバルディアーは真神殿のラズワルドが住む宮で、手紙や書物を整理していた。
「王子の手紙にはペルセア数字を、バルディアーが書いた控えにはラティーナ数字をふろう」
ペルセア数字というのは「1,2,3,……12,13,14,……49,50,51,……」と比較的簡単なのだが、ラティーナ数字になると「T,U,V,……XI,XII,XIII,……XLIX,L,LI,……」と難しいような難しくないような、単純なような複雑なような数字で、ペルセアでは計算式に使われないので、覚える必要性は高くない。
「ラティーナ数字書けないから、ハーフェズに任せていい?」
ハーフェズは子どもの頃から、ラティーナ帝国の書に触れていたのでそちらの数字にも通じていた。
「うん! 任せておいて!」
旅をしているラズワルドと一定の場所にいるアシュカーンの手紙のやり取りは、かなり変則的なものであった。
ラズワルドが手紙を書き、その手紙をバルディアーが写し、その両方を王都の真神殿へと送る。そこでジャバードが一度受け取り、ラズワルドが書いた手紙をウルクへと送り、写しの入った文箱に番号をふり保管する。
アシュカーンからの返信が届くと、送った手紙の写しと同じ番号をふり隣に置く ―― を繰り返した。
一年弱の間にラズワルドがアシュカーンへ送った手紙は三十二通。移動しながらという状況では、かなり頻繁と言える。
そしてアシュカーンからラズワルドへの手紙は三十一通。王都間近で送った手紙の返信がまだ届いていないだけで、実にアシュカーンもまめに返信をしていた。
とくにアシュカーンは読まれていないことを知りながら ―― もしかしたら読まれないかもしれないということを分かっていながら、彼はひたすらラズワルドの身を案じ、手紙を認めた。
ラズワルドはというと「二、三通くらいは返信あるかもな」くらいの軽さ。ただ軽かったが、この時は雑さがなりを潜め「返信を読んでも、送った手紙の内容を忘れている可能性があるな」と、手紙の写しを保管することにした。
当初はラズワルド本人が写していたのだが、ある日、橙花水が注がれた瑠璃色硝子の杯を持ってきたバルディアーに「ジャバードに手紙でも書いたらどうだ」と、なにも書かれていない巻子を差し出したところ、「読むのは人並みになったのですが、書くのはまだ自信がなくて……」と言われた。
実際ハーフェズと共に、アシュカーンの側近ウセルカフ宛の手紙を出した際には、脇で喋っていたり、黒板に単語を幾つか並べただけで、ハーフェズがそれらを文章に仕立てて送っていた。
「ならば書いて練習しろ。書かずに頭で考えただけで文章が書けるようになるのは、ファルジャードだけ」
それならばと、ラズワルドは教材として、アシュカーン宛の手紙をバルディアーに写させることにした ―― まだ単語などがあやふやなのに、神の子直筆の書を写すという、大事を任せられたバルディアーは、頑張って写した。そして写し間違いがないかどうかをハーフェズやカスラーに確認してもらうなどもした。
そのおかげというべきか、バルディアーは文章を書くことに、ある程度自信を持つことができるようになったのだ。
「手紙に直接数字を書き込むんだよね、ハーフェズ」
「そう。でも箱にも同じ数字書いておいてね。片付ける時のためように」
「うん、分かった」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
人間は長時間水に潜っていると死ぬ ―― 溺死なるものを知らなかったラズワルドは、大河フラートで大はしゃぎし、流されて水中を漂った結果、火に手を突っ込んだ時と同じようにカスラーを慌てさせたり、手紙の写しの確認をしてもらったりと、
「何となく、少し迷惑かけたような気がするんだよな」
その他カスラーに護衛任務以外のことも、多数させた自覚はあった。
「人間でしたら大迷惑でしょうが、ラズワルドさまは神の子ですから、カスラー卿はまったく迷惑だとは思っていませんでしょうねえ」
だがカスラーはハーフェズが言う通り、それらを迷惑だなどとは微塵も思わなかった。 ―― そもそも、ラズワルドはなにをしても神の子。そんなことはしないが、例えば人の家に勝手に入って金を持ち出そうが「寄進させていただいた」と捉えられるような存在。
「人間だったら大迷惑かあ」
「多分そうなんじゃないかな……と。俺もよく分かりませんけど」
「なんで?」
「俺もラズワルドさまが、なにをなさっても迷惑だとは思いませんから」
「……なるほど。だがカスラーには世話は掛けたな。吃驚もさせたしな」
色々と世話になったカスラーに、なにか贈り物をしようと考え ―― 寄進された数々の財宝を与えるのは違うように思えた。武人ゆえ特別な力が宿った武器とも考えたが、それは六年前の礼としてシャムシール・エ・ゾモロドネガルを与えたので、同じようなものを贈るのも芸がなさ過ぎるだろうと却下した。
そのように何を贈ったらいいだろうと考えていた時、
『あれは、素晴らしかった。いつまでも見ていたかった』
最果ての砦で、上空からマッサゲタイの軍隊を、精霊の視点で見渡し感動していたのを思い出した。
そして「あれが使えたら、戦いは楽になる」と言っていたことも。
精霊使いというのはかなり実力の差が激しく、箸にも棒にもかからないような精霊使いならば山ほどいるが、精霊を使いこなし成果を出せる者は数えるほどしかいない。
そして後者のような一流の精霊使いは、どの国でも王家付きとなる ―― 一流の精霊使いが一流になれる素質を持った弟子を捜し教え、その地位を引き継がせるため、そのようになる。
故に一将軍の直属で腕の立つ精霊使いというのは全くといって言いほどいない。
そこでラズワルドは「自分があの技を精霊使いに教えて、カスラーに贈ろう」という発想にいたり、才能ある奴隷を買いに行き、無事に手に入れ、王家付きの精霊使いたちに「俯瞰」をするために必要な精霊と契約を結び、使えるようにしてくれと ――
「申し訳御座いませぬ、ラズワルド公柱」
頼んだところ、王宮勤めの精霊使いの長老であるファルディンが深々と頭を下げて、無理だと告げた。
ラズワルドが連れてきた奴隷は、精霊使いとしての才はたしかにあったのだが「俯瞰」ができる精霊使いはいなかった。
ラズワルドが「俯瞰」を実際に見せたところ ―― 人間には無理ですと返された。
それでは! とばかりに、ラズワルドは絨毯に座り、その絨毯ごと浮かび、移動してみせた。こちらも精霊の力なのだが、
「それは精霊を使っていらっしゃるのではなく、精霊の力そのもので御座いまする」
根本的にラズワルドは人間の精霊使いとは違う。
精霊使いは精霊たちと心を通わ契約するなどして、その力を精霊に使ってもらうのだが、ラズワルドの場合は精霊の力そのものを所持し使っている。
「精霊の力をハーキムに与えれば、出来るようになるのか?」
カスラーに贈るために買ってきた精霊使いの素質がある少年ハーキムに、自分を封印して負けて消え去った
神の力とはまるで違うが、人間にとっては所持することなどできない圧倒される力を前に、ファルディンは老体をさらに床に押しつけるように平伏し、無理ですと ――
ラズワルドが考えていたよりも、偵察、斥候に使える精霊使いにするのは難しいことを知った。
「敵も親征の場合は、精霊使いを連れてきて、情報を奪われぬよう妨害してきます。もちろん我らも敵が使う精霊を妨害して、情報を守ります」
シャーラームという若い男の精霊使いは、王家付きの中で偵察や情報収集を得意とする精霊と契約しているため、前もって事情を聞かされていた長老たるファルディンが連れてきていた。
「シャーラームにも、あの上からの視界を他者に見せることはできないのか?」
「無理で御座いまする。あれは人の身には無理に御座いまする」
「そうか。じゃあシャーラームが契約している精霊と同種の精霊と、ハーキムを契約させてくれ」
俯瞰が無理ならば、偵察が得意なシャーラームと同じ精霊と契約して、修行を積めばどうにかなるだろうと考えたのだが、精霊使いは「精霊と契約」するところが、もっとも難しいのだと言われた。
「精霊というのは気まぐれでして。意中の精霊と契約を結ぶのは、なかなか骨が折れます。そして自力で契約を結ばぬ限り、使うことはできませぬ」
ラズワルドは舌で上顎にある精霊王の妃の証をなぞる。物心つかぬうちに精霊王と契約したラズワルドにとって、まさか契約がそんなにも難しいものだとは、思いもしなかった。
「そうか」
そしてハーキムを王宮の精霊使いに預け、一人前に仕立てるのを諦めた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
使い物にならなかった奴隷は返却されることもある。ラズワルドの希望にことごとく沿うことができなかったハーキムは自身の返却を覚悟した。
―― もともと、条件は過分だったからな
ラズワルドが求めたのは精霊使いの才がある若い男。
今回も若い男に限定したのだが、これにも訳がある ―― 将来の精霊使いは、用途の関係上、前線に赴くことになる。となれば、女は不適。
そして若さだが、覚えることが色々とあるので、体が動いた方がいいためである。精霊使いの技もそうだが、戦場で敵兵の動向を窺うのだから、馬に乗れたほうが良く、身を守る武術の一つくらいは授けたい。そして
読み書きや武術ができる上に精霊使いの才を持っていれば、これ以上ないのだが、それらを身につけているような男となると、かつてどこかに仕官していた可能性があり、裏切ることも考えられるので、結局読み書きがおぼつかなくてもいいので、精霊使いの要素がある若い男を買うことにした。
購入に際してラズワルドは「読み書きも教える、馬術も武術も教える。将来はカスラー中将軍付」ということを明言した。
奴隷にとっては、これは過分な条件であった。
そして選ばれたハーキムは、幸運を喜ぶ前に、少しばかり恐れ ―― 返却されるのは悲しいが、少しだけ安堵もしていた。
ちなみに普通は勝手に奴隷を将軍付になどできないのだが、そこは
一流の精霊使いとの面会し、なにも得ぬまま ―― ラズワルドの実家の隣、一時期下宿として貸し出し、今はラヒムやマリートが住んでいる家に連れて来られたハーキムは、ラヒムが作ったジャグール・バグールを、少しずつ口に運んでいた。
鍋に油を敷いて熱し、輪切りの玉葱を色づくまで炒め、そこに潰した大蒜と羊の
あとは蓋をしてほどよくなるまで、弱火に掛けておく。こうしてジャグール・バグールが完成する ――
「おい、ハーキム。口に合わないのか」
俺の料理に文句でもあるのかと、かなり喧嘩腰にラヒムが詰問すると、ハーキムはあまり生気の感じられない表情のまま首を振る。
「そんなことはない。今まで食べたことがないくらいに美味い」
それは偽らざる気持ちなのだが、返却を控えている身ゆえ、表情は冴えない。
「なら、もっと美味そうに食え」
「済まない」
「済まないと思うなら、美味そうに食え。……まあ、もともと、そんな感じの表情だったが、更に表情固くなってないか?」
そう言いさまざまな香草とともに炊き込んだご飯を皿に装い渡す。
受け取ったハーキムは、匙を手に取り ――
「精霊使いになるために買われたのだが、使い物にならなかったのでな……」
「返却されることになったのか?」
仕事をさせるためではなく、救済目的で買われたワーディとは違い、ハーキムは明確な目的があり買われたのだから、それに応えられない場合返却されるのは、奴隷社会では珍しくはない。
「いや……」
「なんだ、言えよ」
一緒に食事をしているワーディと、ラヒムの後にメフラーブの家で家事や雑事、マリートの手伝いをするために買われたキルスは、二人のやり取りをはらはらしながら見守っていた。
ラヒムが喧嘩腰というのもあるが、折角買ってもらえたのに返却されたら可哀想だな……という気持ちが大きい。
「……公柱は”ファルジャードに案を出させる”と言っていた」
ハーキムはファルジャードが誰なのかは知らないが、「誰ですか」と聞くこともできない。
「あーファルジャードか。俺も会ったことはないが、数年前までまさにこの家に一人の奴隷と一緒に住み、学術院に通っていた天才だそうだ。アッバースに行けば会えるだろう」
「精霊使いじゃないんだよな」
「精霊使いだとは聞いていないが、メフラーブさまは、頭
「……」
性格についてなんと言えばいいのだろう……と、ハーキムは目を伏せた。ハーキムとラヒムの付き合いはまだ四日程で、悪い性格ではないのは分かるが、だからといって良いといっていいものか?
「あ、ああ。大丈夫、ファルジャードさまは優しいお人だったよ。心配しなくていいよ」
唯一ファルジャードに会ったことのあるワーディが、ハーキムを励ました。何故励ましてしまったのかは、ワーディ自身分からない。
ラズワルドと「王都で会おう」と別れの言葉を交わしたファルジャードだが、いざラズワルドが王都に到着すると、すでにセリームと共にどこぞへと旅立っていた。
真神殿に「今は詳しい事情は言えませんが、所用ができたので先に出ます。用事が済み次第アッバースに向かうので、家を買っておいてください。一等地でかなり大きめな家をお願いします。金はあとで払います。そこを使っていて結構です」と書いた手紙を預けて。
更に
もっともラズワルドはアルデシールのことを、まったく認識はしていなかったが。