ラズワルド、神に祈る

 ワーディは自分はちょっと不幸な奴隷だとは思ったが、その程度であった。
 欠損ある奴隷を見慣れている奴隷商は「これはこれで、売り物になる」と、ワーディに食事を与えてくれた。
 金持ちの善行用に買われ、解放され、行くあてなく奴隷に戻りを繰り返す。
 奴隷商のところに居る時は、牧場や農場に派遣されて働いてもいた。
 片腕で器用にズボンを穿き、ベルト代わりの紐で縛るが、ずば抜けて器用というわけでもない。
 売られて解放されてまた奴隷になってを繰り返し。片腕なので嫁はもらえそうになかったが ―― とくに人生に不服はなかった。

 ある日ふらふらと歩いていたら、突然捕まり、やってもいない窃盗の罪で裁かれ、腕を切り落とされそうになった。
 右腕がなくなったら、生きてはいけないので、助けてくれと叫んだ。
 必死になって叫んだが、心のどこかで助けはこないとも思っていた。きっと腕を切られて、血が流れそのまま冷たくなってしまうのだろうとも。

「済みません! その人、助けます!」

 少年の声が聞こえた。ワーディは自分の空耳だと思ったのだが、

「もう一回言います。その人、神の子が助けろと言いました! だからやめて下さい!」

 少年はたしかにそこにいて、自身の額を指さしていた ―― ワーディは文字が読めなかったので、少年の額に「メフラーブの娘で神の子でもあるラズワルドの奴隷ハーフェズ」と書かれていることは分からなかった。

 その後現れた神の子に、辺りは騒然となり、後のことはワーディは知らない。ワーディは右腕が切り落とされなかったことに安堵し、自分を助けてくれた神の子に感謝した。
 そのままワーディはアルサケス城に連れていかれ、蒸し風呂に入れてもらえたばかりか、三助ケセジまで付けられ、体を隅々まで洗ってもらえた。風呂から出ると真新しい木綿の服が用意されており、着せてくれるものまでいた。
 古着にしか袖を通したことのなかったワーディは着慣れなかったが、これも神の子からのご慈悲なのだと素直に喜んだ。
 ワーディはそのままラズワルドの元へと連れて行かれた。
 室内はまずワーディが嗅いだことのない匂いがした。それは乳香オリバナムの甘さを含んだ木々の香りなのだが、甘いものに接したことのないワーディには、まず「甘い香り」などという言葉は浮かんでこなかった。
 そして精巧な模様が描かれた絨毯が敷き詰められ、大きな食布にはワーディが見たこともない料理が並べられ、光沢のあるクッションに体を預けるようにして座っている神の子ラズワルド
 ワーディはなにも教えられてはこなかったが偉い人がいる場合は、頭を下げることくらいは分かっていたので、膝を折って頭を下げた。

「構わん。連れてこい、カスラー」

 彼を連れてきた軍人カスラー神の子ラズワルドが声を掛ける。

「御意」

 軍人カスラーはワーディの腰に腕を通し、立ち上がらせるた。その時の腕の逞しさに、ワーディは少しばかり驚いた。
 促され食事を囲む席に付く。
 目の前の色とりどりの料理 ――

「ラズワルド公。これをあの奴隷に食べさせるおつもりですか?」

 ワーディを助け現れた褐色の肌に金髪の少年の隣にいる、黒髪の少年バルディアーが神の子に問う。

―― これは神の子の食事だもんな

 目の前でお預けを食らっても、ワーディには不満はなかった。こんな料理を見られただけで幸せで仕方がなかった。

「そうだが」

 だが神の子は、これらをいつも通り分け与えようとした。

「ラズワルド公……あの奴隷は……この食事を食べさせたら死んでしまいます」

 神の子の意思に刃向かうことになるが黒髪の少年バルディアーは、覚悟を決めてそう告げた。

「死ぬ? なんで」
「えっとですね……食べたことがないものを、大量に食べるとお腹を壊して、最悪死んでしまうのです」

 ワーディは「へえー」と、目の前に並んでいる料理を眺め、卑しい奴隷は神の子が口にする料理を食べてはいけないのだと、妙に感心してしまった。

「……は?」

 ラズワルドはバルディアーが言ったことの意味が分からず、説明せよとばかりに見つめる。

「食べたことのない料理を一度にたくさん食べると、腹を壊してしまうのです……上手く説明できないのですが、そうなんです」
「じゃあ少しずつ食べればいいんじゃないのか」
「こんなご馳走を、少しだけ……なんて無理です。それにきっと、少しでもお腹を壊すと思います」
「じゃあバルディアーがジャバードの所に引き取られた際、腹を壊したのか?」
「いいえ。ジャバードさまは、俺のような育ちの奴隷に、豪華な食事を与えてはいけないことをご存じでしたし、他の召使いの方々も承知していたので。俺はジャバードさまから説明を受け、徐々に食事を増やしました」
「そうなのか……」
「ラズワルドさま、いま”ゴフラーブの所で買ったラヒムは、連れて帰ったその日のうちに普通に飯食えたぞ”って思ってるでしょう」
「よく分かったな、ハーフェズ」

 当時ロルフだったラヒムを連れ帰った日、バームダードのお祝いに顔を出した際、ラヒムも連れていった。その席で「好きに食っていいぞ」とラズワルドが言うと、ラヒムは羊肉と香草のピラフポロウを勢いよくかき込んだ。あまりの食べっぷりのよさに、ラズワルドは追加で二皿ほどピラフポロウを注文したほど。
 ラヒムはその時ピラフポロウだけではなく、鳥肉の檸檬香草焼きも、勢いよく食べていた姿が脳裏に浮かぶ。

「分かります。で、分かるついでに、奴隷が欲しいと連絡してから、揃うまで時間が掛かるじゃないですか。あの間に、食事を与えて普通に食べることができるようにしてから、ラズワルドさまに連絡して売ったんだと思いますよ」

 ハーフェズの答えは正解であった。
 普通は奴隷を売るだけで、食事があわなくて死んでも、奴隷商には関係ないのだが、神の子に献上する奴隷となれば話は違う。
 普通の食事をしても腹を壊さぬように豪華な食事を与え、さらに前もって腹を壊しやすい食材を多めに取らせて、下さなかったものを選び並べる。
 とくにあの時は「料理を作らせる男奴隷」という条件だったため、どのような食材を口にしても大丈夫である必要があり、並べられた去勢された男奴隷たちは、みな、乳や蜂蜜にかなりの耐性を持っていた。

「そっか。じゃあ、奴隷が死なない食事となると……バルディアー、選べるか?」

 細いというよりガリガリと表現したほうがしっくりくるワーディに、バルディアーを成長させた時と同じように、たくさん食べさせようとしたラズワルドは、どうしたものかと ―― かつて同じような立場だったらしい・・・バルディアーに意見を求めたのだが、

「多分……」

 バルディアーはその時、そのように説明を受け、あとは運ばれてきた食事を大人しく取っていただけで、それほど詳細は覚えてはいない。
 ”ああ、どうしよう”と必死に記憶を手繰っているバルディアーを、カスラーが助けた。

「わたしめも奴隷を幾人か持っておりますので、食事選びには協力できるかと」
「カスラー、頼んだ」

 こうしてワーディの食事は、少々のヨーグルトを加えた麦粥と豆の煮物となった。

「料理はともかく、そんなもんでいいのか?」

 麦粥も煮物も椀一杯に入っているのだが、成人男性にそれでは足りないのでは? と、羊の挽肉が詰めヤーリチョリョクられたパンにかぶりつき、塩を入れた駱駝の発酵乳を飲み、泊夫藍サフラン小荳蒄カルダモンに生姜、西洋茴香アニス桂皮シナモン姫茴香ヒメウイキョウ、唐辛子などの香辛料をすり潰しふるいにかけ、皮を剥き種を取り除いた桃やプラムや梨や林檎などを、何度か煮て水を替えるを何度か繰り返した甘橙の皮とともにすり潰し、塩胡椒と酢と共に煮立てる。果物が酢を吸ったら、別に沸騰させていた酢を加え、そこに一口大に切り塩を振り、しっかりと水気を切った胡瓜や花椰菜カリフラワーや人参、大蒜などの野菜を加えて作られる、付け合わせの酢漬けトルシーを摘まんでいるラズワルドが、量は足りているのかと心配そうに尋ねる ―― ちなみにラズワルドが食べている酢漬けに使われている酢は、葡萄から作られた高級品である。
 だがカスラーから返ってきた答えは、

「現段階でこれ以上食べさせますと、腹を下してしまいます」

 これまた「腹を下す」と言われて ―― どうしたものか? これはメルカルトにワーディが腹を下さぬよう祈るべきなのだろうかと、ラズワルドは生まれて初めて”そう”考えた。

「それで腹下すと死ぬのか、カスラー」
「全員が死ぬとは申しませぬが、死ぬ者も大勢おります」

 ラヒムの不敵なつらが浮かび、あれはあれでいいものだと ―― ペルセア一の奴隷商ゴフラーブの品揃えとたしかな選定に、ラズワルドはいたく感じ入った。

「そっかー。分かった。何時くらいになったら、普通にこういうの食べられるんだ?」

 ハーフェズが取り分けて運んできた花椰菜カリフラワー甘藍キャベツ、そして香草がふんだんに入った卵焼きククを受け取り、ラズワルドが尋ねる。

「時間がいただけるのでしたら、一月ひとつきほどかけてゆっくりと慣らしたく」
「ゆっくりのほうがいいのか?」
「はい。なにせこの者、二十年以上牛肉や卵を食べたことはないようですので」

 匙で最上級の麦で作られた粥を掬い、感動しながら食べているワーディを上から下まで眺めたラズワルドは、細さに納得した。

「……むしろ、それ、一月ひとつきでどうにかできるものなのか?」

 一月ひとつき経って牛肉の甘酢煮込みシクバージに、羊肉に脂、干し葡萄に香草を加えた??ポロウ、牛酪や羊酪をたっぷりと塗り焼いた羊肉、ほうれん草のヨーグルト和え(ボラニェエスフェナージ)、野菜と香草で作るヨーグルトスープアーシュマーストゥ、ヨーグルトに水を加えて撹拌、乾燥させて作る癖の強い乳製品キャシュクをかけた茄子の煮込みホラーケバーデンジャーン、お湯で溶かした?夫藍サフランに塩胡椒、ヨーグルトに卵黄を混ぜ、そこに子羊の肉を加えて数時間おき、芯を残すように米を炊きザルにあげ、子羊の肉を浸しているヨーグルト液に橄欖油オリーブオイルと、先ほど炊いた米を少々混ぜ、それを鍋に注ぎ平らに平らに均し、漬けていた肉と炊いた米を交互に重ね、あとはじっくりと焼いたタフチーンなどを食べさせ、ワーディが腹を壊したら、その時はメルカルトに祈り取りなしてもらおうと、ラズワルドは心に決めた ―― もっとも今上げた料理を一度に食べさせたら、ワーディどころかバルディアーでも腹を壊す。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 処刑されそうになった後、神の子に救われ、いい香りの洗剤で体を洗われ、美味しい料理と杯二杯の麦酒を飲み ―― ワーディは安心して眠りに落ちた。

 彼とは違い眠気が訪れていないラズワルドは、

「とくに食わせてはいけないものとかあるか?」

 ゴフラーブを通さず、思いつきで奴隷を買う場合覚えておかねば、善意のつもりで食事を与えたら殺しかねないことを知り、それを避けるべくカスラーに尋ねる。

「乳製品と蜂蜜はいけませんな」

 この二品は一度に大量に摂取すると下痢を引き起こすことが知られている。

薄荷ミント木の実ナッツ漿果ベリーの蜂蜜漬けなんかも駄目なのか?」
「蜂蜜そのものが、慣れぬ者にはあまりよくありません」
「そうか。あとは乳製品か。さっき、ワーディの麦粥にはヨーグルトを少し混ぜていたな」
「少しずつ取って、体を慣らします」
「そうか。複数の料理を作るのも面倒だろう。わたしもワーディと同じ食事でいいぞ。麦粥好きだし、豆の煮物も好物だ。麦粥には乾燥ゼレシュクを散らしてもいいよなー」

 そのようなことをハーフェズと話し出したラズワルドだが、

「さすがにそれは……ラズワルド公柱の命といえども、お許しいただきたい」

 カスラーが絨毯に額を付けて、いつも通りの食事を取ってくださいとお願いしてきたので、麦粥と豆の煮物だけの生活はする前に止めることになった。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 ファルジャードの初陣は終わり、諸々の後始末を終えから、ラズワルドたち一行は侯都へと戻った。
 まずファルジャードは神殿に勝利報告をし、フラーテスに礼を言い、神の子たちに挨拶をした。
 神の子たちはファルジャードが息災なのを喜んだ。
 またラズワルドのことを頼まれ、無事に役目を果たしたカスラーに対しても労いの言葉をかけた。

「色々と迷惑をかけたな、カスラー。本当に感謝している」

 アルダヴァーンから労いの言葉を貰い、

「ありがとうな、カスラー」
「勿体ない御言葉にございます」

 ラズワルドからも同じく感謝の言葉をかけられ ―― アルデシールの護衛でサマルカンドに来たバーミーンと合流すべく、ファルジャードと共に侯城へと馬を走らせた。
 ラズワルドは久しぶりに会った神の子兄弟とその部下たちに、途中で拾ってきた巡回部隊と、買ってきたワーディを紹介した。

 サマルカンド侯領の巡回業務にあたっている一隊。隊長はファリドの最側近と同じ名のジャバード。
 ペルセア王国でもっとも多い色合いの黒髪で黒い瞳を持つ、上背のある三十過ぎ。顔にこれといった特徴はなく、唯一目立つのは無精髭。
 その他、部下の四名も紹介された。
 彼らは空を飛ぶ魔物に襲われ、手も足も出ず覚悟を決めた所をラズワルドに救われた。彼らは軽い怪我で済んだ者の、馬が二頭死んでしまった。
 巡回業務は広範囲を回るため、馬は必須。そこで新しい馬を用意してやると、ラズワルドは彼らを連れてきて、そしてこれからも連れてゆくつもりである。

「これがワーディ」

 次にラズワルドが紹介したのはワーディ。
 茶色の髪に灰色の瞳。身長はそこそこでかなりの細身だが、奴隷としては珍しいものではない。顔だちはごくごく普通で、目を引くような箇所はない。彼がなによりも目立つのは、半分しか存在しない左腕。
 生まれつき腕がない者は、前世で盗みを働いた者だという俗説があり、信じているものも多い。

「ワーディ、わたしはアルダヴァーン。神の息子です。困ったことがあったら、なんでも言いなさい」

 ”返事をしたら、叱られますから。無言ですよ、無言” ―― バルディアーがこっそりと教えてくれたおかげで、ワーディは失敗を回避することに成功した。

「ところでラズワルド、その巡回任務にあたっている彼らをどうするつもりなのですか?」

 買ったワーディの紹介は分かるが、巡回任務を担当しているジャバードたちを、わざわざ紹介してどうするつもりなのか、ファルロフが尋ねた。

「連れていってもいい?」
「それは構わないが、連れて行く理由は?」
「寄り道!」

 ラズワルドはワーディを伴ってサマルカンドまでやってきたのだが、ワーディは乗馬はできぬので、当然馬車での移動となる。荷物と共に運ばれたりもしたが、馬車移動で暇なラズワルドが同乗を命じ ―― ワーディとラズワルドを二人きりにするわけにはいかないので、カスラーも同乗することになった。
 ラズワルドは二人に話をさせ、

「サマルカンドからの帰り、ニネヴェに寄りたいんだ」

 カスラーからニネヴェの古代粘土板図書館について聞き、是非とも見たいと考えていたところで、巡回業務を担当している武装神官隊と合流した。

「この五人とハーフェズとバルディアー、そしてワーディを連れて、ニネヴェに寄り道する」

 アルダヴァーン隊と共に帰る予定であったが、ニネヴェに立ち寄るためには別行動を取る必要があるので、出会った彼らを同行させようと考えた。

「ああ、なるほど。わたしは構いませんが。アルダヴァーン、どうします?」

 ハーフェズとバルディアー、そしてワーディの三人だけを連れて行くよりならば良いが、充分とは言えない。

「ラズワルドが連れて行こうとしているジャバードが、ファリドのジャバードであったら、わたしも心配しませんが。どれ、一つ剣の腕前を見せてもらいましょうか」

 アルダヴァーンは立ち上がり、パルヴィズからシャムシールを受け取る。ジャバードは背の高い男だが、アルダヴァーンはその彼よりも少しだが勝っている。

「本気で打ち込んできなさい」

 先端がわずかに曲がった細身の片刃刀の鋒をジャバードに向けた ―― ジャバードはアルダヴァーンに言わせると軽く、人間の目からすると完膚なきまで叩きのめされた。
 床の上に大の字になって倒れているジャバードの脇に座ったハーフェズは、介抱しながら、当然の結果ですよと ――

「大丈夫ですよ、ジャバード。アルダヴァーン公に一太刀浴びせられる人間なんて、ジャバードさまくらいしかいませんから」

 ハーフェズは大体の人間は「さま」を付けて呼ぶが、この・・ジャバードはファリドのジャバードと名前が被るので呼び捨てである。