ラズワルドとハーフェズ、俯瞰する

 最果ての王ファルジャード ―― 人類史上五指に入る繁栄を作り上げた、偉大なるサマルカンド諸侯王として名を残しているものの、彼自身はサマルカンドにはなんら愛着を持っておらず、帰郷することは稀であった。
 サマルカンドに滞在している際は、侯都の宮殿よりも最果てエスカテの砦にいることの方が多く、いつしか最果ての王と呼ばれるようになった。

 そんな彼、ファルジャードが初めて最果てエスカテの砦に赴いたのは、ペルセア王国歴三二二年の秋の終わり。彼が二十歳の頃。

「西側に三千の兵を展開している……か」

 約一年ほど前、突然「現サマルカンド諸侯王の息子」だと言われ、北の地につれてこられた彼の周囲は敵だらけであった。
 地縁や血縁がほぼ敵に回っているファルジャードが、この一年セリームと共に生きてこられたのは、フラーテスの加護があったからこそだが、血縁からの向けられる殺意で病むような男でもない。
 周囲が敵だらけでも、彼は精神が疲弊することなく、むしろ周囲が敵だけならばやりやすいと、その希有な才能を次々と披露し ―― 敵から早々に葬らねば危険だと思われるまでに至った。

 そんな全てを敵に回したファルジャードは、初陣の為に前線へと赴き、防衛のために築かれた砦の一室にいた。
 割り当てられた部屋は貴人用なのだが、室内に暗殺者が隠れられるような場所を作らぬよう調度品を全て外へと出し、牢獄かと見紛うような有様。

「初陣というのは、もう少し部下が付いているような気もするのだがな」

 ファルジャードは一人で、斥候から受けた報告と地図と照らし合わせていた。
 ペルセア王国の北東サマルカンド諸侯領と接する隣国、マッサゲタイ王国。複数の騎馬遊牧民によって構成されている国家で、サマルカンドともよく交易を行っているが、略奪を目的とした戦を仕掛けて来ることも多い。
 とくに厳しい冬が訪れる前に、生活に必要なものを力尽くで奪ってゆく ―― 彼らの認識では当たり前のことだが、奪われる側が黙って受け入れる必要はないので、こうして秋口に戦が毎年生じる。
 領地が接しているので、サマルカンドからも兵を出し、普段砦に駐留している国軍と共に防衛にあたるのが恒例になっていた。

「三千では少なすぎる。西からくるのもおかしいが……」

 斥候の報告をファルジャードは信じることができなかった。だが否定する材料もない。信頼できる部下からの情報は欲しいが、信頼できる部下そんなものをファルジャードは持っていない。

「信頼できる相手か……今そんなことを考えても仕方ない。負けても、単身逃げ帰ればいいだけだが」

 家臣という名の敵は、ファルジャードが勝利を収めるために、必死になって戦うと思っているが、彼は生き残ることを最優先にしている。

―― 見捨てても良い奴ばかりというのは、ありがたい

 彼は無事にサマルカンドで待つセリームの元に帰る為に、様々なものが必要なのだが、ほとんど持ち合わせていなかった。常人であれば、この状態では戦に勝てぬのは当然で、落ち延びることすら不可能に近いが、ファルジャードには余人にはない、明晰な頭脳を持っている。
 殺風景な部屋の扉を開けて、廊下に出てから入り口付近に小麦を撒き、扉を閉めて部屋を離れ、調理場へと向かい、食料庫から肉や野菜や果物を勝手に取り出す。
 砦を国王より預けられている将に次ぐ立場のファルジャードに対し、働いている者たちはなにも言わない。
 ファルジャードはサマルカンドを発って以来、毒殺を警戒し適当に食糧を選び、自分で煮炊きしていた。
 これらの行為に関して、防衛の為に派遣され砦を預かっているペルセアの将は、知らぬ振りをしている。
 ペルセアの将が不干渉を貫くのは、ファルジャードかその親族のどちらかに肩入れして、肩入れしなかった方が勝者となった場合、自分の地位や立場に影響が出るので、できる限り中立という名で手出しをしないようにしていた。
 場所柄サマルカンド諸侯王一族と、友好な関係を築いておかねば、最悪マッサゲタイとサマルカンドに挟撃されかねない ――

 様々な人間たちの思惑が交錯する最果てエスカテの砦。そのような思惑などとは関係なく、砦の外回廊で巡回任務についていた兵士たちは「味方側」の方角から、騎兵が近づいてくることに気付いた。

「援軍が来るって話、聞いてるか?」
「聞いちゃいないが」
「十や二十じゃないよな」
「百は軽く越えている」
「……」
「……」

 様々な人間たちの思惑が交錯し、砦は非常に空気と風通しが悪い状態なので、末端への通達が遅れたのかと ―― 城壁塔の鐘が鳴り、何者かがやってきたことが、砦にいる者たちに告げられる。
 敵であることを考え、巡回していた兵士たちは弓に矢をつがえ、

「……」
「……」

 すぐに降ろして、巡回業務を放り投げた。
 城壁塔で鳴らされていた鐘も、彼らが業務を放棄した辺りで鳴り止み ―― 兵士たちはみな階下に降りた。
 彼らは風にたなびく、青に金でメルカルト文様が描かれた、大きな騎兵旗を掲げ馬を駆っているのが、サマルカンドにいるの兵士ならば誰もが知っているダリュシュであることに気付き、神の子の使者を見下ろしてはいけないと、全員急ぎ階下へと向かったのだ。
 兵士たちに職場放棄させた男ダリュシュは、正門前に到着すると、馬上から声を張り上げた。

「門を開けよ!」

 その声に門を守る兵士たちは急いで開く。
 詰め所を預かる兵長が、ダリュシュの前で平伏し、誰に取り次げば良いのかを尋ねる。

「ファルジャードを呼んでこい」
「ファルジャード卿をお呼びしろ。急げ!」

 兵長に命じられた兵士たち全員が駆け出し、詰め所は空になってしまった。

「邪魔だ、退け」

 平伏している兵長を除けさせ、後方へと合図を送り ―― 青い馬車が砦の正面へと入ってきた。
 付き人もいなければ、ファルジャード当人も行方を掴ませないよう腐心していたので、どこにいるのか分からず、見つけるのにかなり時間が掛かった上、全く兵士たちを信用していないので ―― 痺れを切らしたダリュシュが、連絡を受けて出てきた砦を預けられている将に怒鳴りつけながら、砦内へと向かった。

「ダリュシュ?」

 兵士の話を聞いても信用していなかったファルジャードだが、突然現れたフラーテスの最側近に、本当のことなのかと ―― 矢をつがえて構えていた弓を降ろした。

「ファルジャード、早くしろ! 神の御子をこれほどまで待たせるなど、何様のつもりだ!」
「神の子を待たせる? フラーテス公がお越しになったのか?」
「違う。ラズワルド公柱が、貴様を心配してわざわざ足を運んで下さったのだ」
「ラズワルド公?! ……本当か?」
「貴様、このわたしが神の御子がお越しになったなどという嘘をつくと思うのか!」

 ダリュシュが睨みつけ、語気を荒げるが、

「サマルカンドにいる人間は、みんな敵だと思っているんでな。大体、あんたを信用しろという方が無茶ってもんだ」
「……」

 気温だけではない凍えるような空気の中、二人はラズワルドの元へと急いだ。

「ファルジャード!」

 やっと現れたファルジャードに、ラズワルドは馬車の扉を開くと、踏み台など必要ないとばかりに飛び降り駆け寄る。

「ラズワルド公!」
「戦に混ぜろ!」
「……あ、なんだか分からないが、とりあえず御意と言わせてもらいます」

 ファルジャードの財産である類い希な頭脳は全く働かなかったが、しばらく表情がなかった顔には笑みが浮かんだ。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 ラズワルドが「戦に混ぜろ!」と言ったので、新たな作戦を立てるべく軍議が執り行われた。

「軍議が執り行われるのは、俺が来てから初めてだがな」

 初陣で砦にやってきたファルジャードに対し「素人なのだから、こちらに黙って従え」と、砦を預けられた将は、作戦会議などは開かなかった。
 ファルジャードには後見人として、諸侯王の地位を狙っている叔父が付けられており、兵士はこの叔父が用意したので、味方ではない。
 砦を預けられた将と叔父は、一応は話し合いをしたのだが「ファルジャードは、マッサゲタイに殺害されなくてはならない」叔父と「こちらの軍を巻き込まなければ、暗殺も自由に」という考えの将なので、作戦のすりあわせなど不可能であった。

 そんな彼らだが、ラズワルドに逆らうことはないので『軍議って見てみたい』とラズワルドに言われると、王族がやってきた際に使われる部屋を開け、もっとも地位の高い者が座る場所に青の神布を敷き、ラズワルドは輿で入り、そこに置かれることになった。
 
 彼らは幾分「下」の方で、ファルジャードの後見人である叔父、そして砦を預けられている将と、彼の参謀が並び、その向かい側に、戦に参加することになったカスラーと、彼の参謀にダリュシュ、そしてファルジャードが並び議論をかわす。
 内容はラズワルドにはほとんど馴染みがないもので、あまりよく分からなかったがそれを手元の紙に状況を書き記す。

―― アシュカーンの手紙に、軍議に出たと書こうと思ったが、なにを話しているのかさっぱり分からん。分かるのは、情報が正しいか正しくないか……

 この訳の分からぬ状態すら、ラズワルドは楽しんでいたのだが ―― ファルジャードを勝たせるためには「情報」が必要だと理解したところで、声を掛けた。

「ファルジャード」

 ラズワルドの声が響くと、全員が一斉にラズワルドの方を向き、平伏する。
 脇に控えているバルディアーは、こういうものだと分かってはいるが、それでも驚かずにはいられなかった。

「はい、ラズワルド公」
「お前たちの話を要約すると、どの方角からどれだけの数の敵が来ているか、正確に分かれば良いということだな」
「情報さえあれば、勝ちは確定です」
「なるほどなあ。それらの情報をもたらすと斥候部隊が信用ならないと」
「そうです」
「ふーん。わたしが視たところ、現在は太陽が昇る方角にいるが」

 ファルジャードが受けた報告は、太陽が沈む西の方角。だがラズワルドは太陽が昇る東側にいると言う ―― 誰か・・の命に従い嘘を報告した斥候部隊だが、一人残らず処刑されることが決定した。
 これはもしも斥候の報告が正しかったとしても、ラズワルドの”御言葉”が逆だと言えば、そちらが正しいものとされ、神の御言葉に叛いた者として処刑される。
 誰かにとって不幸であり、誰かにとって幸いだが、今回のラズワルドの言葉には間違いはなかった。

「ハーフェズ、東だよな」
「そうですね。えっと今は大体夕刻で、太陽の位置があそこにあるから……マッサゲタイの部隊は東側にいますね」

 視界を共有しているハーフェズも、東だと答える。

「数は、どう数えたものか。結構いるなあ」
「そうですねえ」

 敵兵をどのように数えようかと悩んでいたラズワルドは、ファルジャードは頭がいいからどうにかなるのでは? と考え、近くへ来るよう声を掛ける。
 ファルジャードはラズワルドがいる神座の下まで近づいた。
 ラズワルドは、それではなにもできないと、輿を降りてファルジャードの側へと行き、顔を上げさせた。
 ファルジャードは別れた時とは違い、金で細やかに上書きされた文様に圧倒されていると、それが近づき触れた。

「ラズワルド公! 額を離してくださ……」

 神の子のまさに神たる部位に触れたファルジャードは、さほど信心深いほうではないが、恐れ多さに離して下さいと懇願したのだが、その言葉は最後まで言い切れなかった。

「見えたか?」
「……あ、あ……あ……」

 大勢の山賊に囲まれ際には、冷静に判断を下し、セリームに指示を出すことができたファルジャードが、いまは苦しげな声を上げるのが精一杯であった。

「ファルジャード、見えてないんですか?」

 ラズワルドと額を接しなくとも視界を同じくすることができるハーフェズは、目を見開いているが、なにを視ているのか分かっていないファルジャードに声を掛ける。

「あ、あ……ああ! あ、外の景色が。いや、これは、一体!」

 目を閉じたのに、見ているかのように広がる景色に、やっと驚くことができた。

「見えたか。では少し急ぐぞ…………到着した。これ、マッサゲタイだろ?」

 いきなりの高速移動に、体を大きく揺らしたファルジャードだが、徐々にその視界に慣れ感嘆の声を上げる。

「素晴らしい! 一瞬にして敵が丸裸に! ……敵には気付かれないのか?」

 言葉使いが感動で乱れているが、ラズワルドはそんなことは気にならないので、視界・・について教える。

「これは精霊王の力だから、向こうに精霊使いがいたとしても、分からないだろう。精霊王の力は、存在しない場所のほうが希有なんだそうだ」
「これは、精霊王の……ラズワルド公」
「なんだ?」
「視点を変えることはできないのか?」
「視点? どういうことだ」
「いまこれは、人間の目の高さだが、空から見下ろすことはできないか?」
「空から見下ろす? 上昇してから下を向けということか」
「ああ、そうだ」
「やってみよう」

 ラズワルドは意識として上を向き ―― 同時に視界も天空をあおぐ。そして空に近づき、下に向き直る。
 そこには虫のような小さな点が、大草原の一部で細々と動き回っているのが見えた。

「ラズワルド公、もう少し下がってもらえるだろうか?」
「分かった。この視点のまま下がる。見たい位置で声をかけろ。そこで止める」

 丁度良いところで止めてもらったファルジャードは、甲冑や馬などから将を数え、大まかな人数を割り出した。

「あの将の数ならば、兵士は五千はいる」
「兵は五千で方角は東。全部間違いだったなー。斥候、何処見てきたんだろうな」

 ラズワルドの笑い声に、軍議の場は凍り付き、

「東と西を間違う人に、数を数えろといっても無理ですよ、ラズワルドさま」

 視点の昇降で軽い目眩を覚えているハーフェズが、悪意無く追従した。

「それもそうか」

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 軍議の結果、ファルジャードの叔父の兵はダリュシュが借り受けるという名目で取り上げ、カスラーが率いてきた千の騎兵と共に、マッサゲタイを討つことが決まった ―― サマルカンドの兵にとって叔父は陰湿で嫌いだが権力者なので嫌々従っているのだが、ダリュシュは好き嫌いなどという俗な感情な抜きで、とにかく従わねばと恐れられている。

 作戦を聞いたラズワルドは、やはりよく分からなかったのだが、正しい情報が必要なことは分かったので、ダリュシュとカスラーにも、同じものを見せてやろうと、近づいたところ「恐れ多い。お許し下さい」と ―― 砦を預かる将を責めていた男とは思えぬほど小さくなり震えて拒否されてしまった。

 だがラズワルドは「勝つためには必要なんだろう」と詰め寄り、結局二人は身を清めてから、直接触れるのだけはお許し下さいと頼み込み、青い布を間に挟んで額を押し付け合うことになった。
 ラズワルドは「見えるかな?」と思っていたが、布一枚程度ならばなんの障害にもならず、

「これが神の視点……」
「かもしれんなあ、ダリュシュ」

 二人に無事、上空から敵がどこにいるのかを見せることができた。