ラズワルド、上昇する

「ラズワルドさま! 足下!」

 異変に気付いたハーフェズが叫び、ラズワルドに届いたものの、飛び退くような芸当はできず、ラズワルドはそのまま砂の中に消えていった ―― 人間の視点では、そうとしか見えなかった。

「ラズワルドさま!」

 ハーフェズは駆け出し、ラズワルドが消えた辺りの砂をかき分けるが、当然そこにはいない。

「一体なにが?」

 人間同士の戦いならば、後れを取ることはなく、どのような事態でも対処できるカスラーだが、人智の及ばぬ出来事に関しては、経験が極端に少ないので対処のしようがない。

「ラズワルドさま!」

 砂をかき分けながら、ハーフェズが叫ぶも、返事は返ってはこない。

「ラズワルドさま!」
「カスラー卿、皆さん下がって!」

 砂をかくハーフェズの隣にいたバルディアーが、この旅で初めて腰に佩いている剣を抜く。

「敵か?」
「敵じゃありません! 魔の山を取り囲んでいる炎のようなものが発する、ごくごく小さな衝撃です! 下がって下さい」

 この場にいる者で、バルディアーだけが唯一人、異様を目視で確認し、大きさによりけりだが、退けることが出来る。
 バルディアーはカスラーの前に立ち、両手で柄を握り機会を図る。

「ラズワルドさまぁ!」

 座り込み砂まみれになって地面をかくハーフェズの上、バルディアーの剣は空を切った ―― ように見えたが、その途中でなにか・・・と衝突し、バルディアーの剣に亀裂が走り、宙に薄い青と黄色の膜のようなものがかかり、

「切れ、ろ!」

 バルディアーは全力でそれを切り裂く。亀裂が入た剣は砕けて砂に飛び散った。

「カスラー卿。急いでここから離れて下さい。あの僅かな魔は、呼吸でもするかのように、規則正しく頻繁に襲ってきます。そして残念ながら、俺があれを防げるのは、あと二回が限度です」

 ラズワルドがいたから、目覚め掛けている魔王が眠る魔の山に近づくことはできたが、その庇護がなくなった今、彼らは死を待つだけである。

「ラズワルドさま!」

 周囲は緊迫した状況だが、ハーフェズにとってもっとも重要なのはラズワルド。どれほど砂をかいても、そのラズワルドの服の切れ端すら見つからず、名を呼びながら泣き出す。彼
 バルディアーが第二波に備えていると、砂漠のど真ん中に突如「人の姿をとったもの」が現れた。たしかに人間の姿形をしているのだが、あまりにも突然現れたそれ・・を人間だと思うものはいなかった。
 形は人間のそれなのだが、全てに違和感がある。黒髪なのだが、なぜか黒さを感じない頭髪。肌の色も、西側との混血による白さではなく、妙に作り物めいた色合い。瞳は青いがひび割れた硝子玉を思わせる。
 人間の姿を取るのに失敗したなにか ―― 獣の姿で言葉を喋っていたほうが、よほど違和感がないほど、それ・・の姿は異様であった。

「何者だ?」

 カスラーが柄に手をかけそれ・・に問うが、答える素振りは見せなかった。問うた方も答えがもたらされるとは思っていなかったので、激昂することもなく、それ・・を睨み続ける。
 バルディアーはしゃくり上げて泣いているハーフェズの腰から剣を拝借し構えるが、それ・・に対してではなく、魔の山から放たれる力に対して。

「この金髪の子どもを連れていけば、神の娘が封印されたことを信じるだろう」

 唐突に口を開いたそれ・・は、座り込んで泣いているハーフェズの腕を掴み上げる。

「ハーフェズ!」
「らじゅわるよさま!」

 無理矢理立たされそうになったハーフェズが、抵抗しながらラズワルドの名前を叫ぶ。
 次の衝撃波が飛んでくるのに備えているバルディアーは、ハーフェズを無理矢理連れて行こうとするそれ・・に、対処する余裕がなかった。

「?!」

 ハーフェズの腕を掴んでいたそれ・・の腕が切れた ―― 切られた側も驚きを隠せず驚愕の表情を浮かべて、切ったカスラーを睨む。

「人間の顔には到底思えぬが、驚愕の表情は人間に似ているな」

 敵に全く注意を払われていなかったカスラーは、部下から剣を受け取りそれ・・の腕を切り落とした。切り落とされた腕から血が吹き出すこともなく、それ・・が人の姿を模した何かであることが証明された。

「なぜ、その剣がお前の手にある」

 まるで彼らを見ていなかったそれ・・は、自らに鋒を向けているカスラーに問いだたした。

「答える必要はなかろう」

 カスラーが握っているのは、いたる所にエメラルドが散りばめられている細身の曲刀。そして風が強くなり砂が舞い上がり、それ・・人間の姿らしきものが保てなくなってきた。


エメラルドをちりばめシャムシール・エ・ゾモロドネガルた剣を、どうやって手に入れた! 」

 カスラーは怒りを露わにしているそれ・・の問いを無視し、踏み込み切りかかる。それ・・はかわしきれず、上半身に薄い傷を作った。
 特殊な力がなければ見えず、切り裂けぬようなものには、対処法の一つも思い浮かばないが、実体があるものであれば、カスラーとしては恐れずいくらでも対処できる。まして手元に神の子ラズワルドが、忘れられし神に強請ねだり、貰ったという ――

「ほう。この剣はエメラルドをちりばめシャムシール・エ・ゾモロドネガルた剣というのか。まあ、そうではないかと思っていたのだが」

 ラズワルドは剣の名称には何ら興味を持たず、ただ「心技体に優れている奴しか使えないそうだ。残念ながらわたしのハーフェズもバルディアーも、まだまだ未熟なので、お前が使え」と、五年前のお礼としてカスラーに渡してきたものである。
 それ・・は舌打ちをし、腕が自由になったハーフェズは泣きながら、再び砂をかき分ける。
 魔の山を取り囲む炎が、呼吸でもしたかのように大きく揺れ、衝撃波が放たれ、

―― この大きさは、無理……

 自分の力では無理だとバルディアーは悟ったが、逃げようもないので、最後までやれることはやろうと、剣を構えた。
 その直後、一瞬にしてそれらが消え去った。

「あ……」
「無事か!」

 突然北側の砂丘から、彼らの安否を気遣う声が聞こえ、誰もがそちらを向くと、矢をつがえた金髪の男が立っていた。

「ジャファルさま」
「頑張ったな、バルディアー。……で、ハーフェズが泣いているのに、ラズワルド公がいないということは、シアーマク公の読み通りか」

 ラズワルドは自分が封印されたことに、シアーマクが気付かないのではないかと考えていたが、彼はラズワルドほど雑ではなかったので、近くにいた筈の妹が突然遠くに移動したことにすぐ気付き、砂漠をものともしないジャファルに先にいって時間を稼ぐよう命じた。
 主の命で、人ではない強者と戦えることに喜び勇んで、ジャファルは砂漠を駆けそれ・・に矢を放ち、砂に足を取られる気配なく駆け寄ってきた。

「ひっく、ひっく。らじゅわるよさま、じめん。じめん」

 矢はそれ・・に簡単に払いのけられたが、その隙をつき、ハーフェズの側へと近づき頭を撫でる。

「ラズワルド公、地面に消えたのか」
「ひっく、ひっく。うん」
「そこにいる、気持ち悪い精霊が、おかしなことしたんだな……って、あんた、随分と良い剣を持っているな」

 カスラーが構えているエメラルドをちりばめシャムシール・エ・ゾモロドネガルた剣を見て、ジャファルはこの状況下に相応しくない、ごくごく普通の笑顔を浮かべる。その気負いなく、本当に楽しげな笑みは、この場では異様なものに映った。

「ラズワルド公より、拝領いたしました」
「ラズワルド公は、気前良いからな」

 砂まみれで泣いているハーフェズを小脇に抱え、ジャファルは距離を取る。

「半分魔物で、半分精霊か。どっちつかずとは、無様だな」

 前線に出ることを好むシアーマクについているジャファルは、武装神官の中でも、飛び抜けて完全に魔物になりきっていない精霊と遭遇することが多く、その対処にも自信があった。

「きさま……」

 それ・・は切られた腕をはやすこともできず、シャムシール・エ・ゾモロドネガルを構えたカスラーと、ハーフェズ同様神の加護で守られているジャファルを前に、一度引くことにした ――

「離れろ!」

 ジャファルがやってきたのと同じ方向から、男の叫びが聞こえた。

「シアーマク公?」

 意味は分からないが、ハーフェズを小脇に抱えているとは思えない足取りで。砂で足がもつれたバルディアーをカスラーが抱えて距離を取った。

「シアーマク公、これは俺にくれるって」
「わたしとお前の間では、そう決まったが、ラズワルドにはそんなことは関係ないからな」

 黒髪をかき上げ砂丘の反対側から現れたシアーマクはそれ・・の内側で暴れ出し始めたラズワルドに気付いた。

「と、言いますと?」
それ・・はラズワルドを封印したつもりのようだが、黙ってラズワルドが封印されていると思うか?」
「らじゅわるよさま、らじゅわるよしゃま」

 ジャファルが小脇に抱えたままのハーフェズの頭頂部を見つめる。砂の上には微かなしずくの跡。

「もしかして、封印されてもラズワルド公には、ハーフェズの泣き声が聞こえていると?」
「おそらく聞こえたんだろう。貴様、早くラズワルドを解放しろ。封印を内側から破られたら、貴様も死……遅かったようだな」

 日差しを隠すほどの高さの、砂の壁が立ち上がる。

「一体なにが?」
「泣いているハーフェズを心配したラズワルドが、自力で封印を解こうと暴れている」
「……解けるんすか? シアーマク公」
「ひっく、ひっく、らじゅわるよさま、らじゅわるよさま」
「解くことは可能だ。だがその後が問題だ」

 人の姿を模していたそれ・・表面の至る所にひびが入り、そのひびは黄金に輝きだす。

「待て! 出してやる、出すから! 無理矢理出て来ようとするな! やめろ! やめろ神の子! やめでぐ……がみの……があああああ!」

 人間の姿を保てなくなったそれ・・。内側からそれ・・の世界を、怖ろしい力と速さで破壊しているラズワルドに声を掛けるが、封印されているラズワルドに届く声は『ひっく、ひっく、らじゅわるよさま』だけ。
 むろん封印しているそれ・・の声は届いているのだが、ラズワルドの耳には入ってこない。たとえその言葉を聞いたとしても、ラズワルドは無視し、暴れ続けるである。
 砂漠の至るところに砂の壁が立ち上がる。強い風が砂を毎上げるので、全員砂が目に入らぬよう、目蓋を閉じて目を手で覆い ―― 高いところから砂が落ちる音が、彼らの周囲に響き、砂の粒が彼らを襲う。
 小さな砂粒だが、速さがあるため、かなりの痛みを伴った。
 カスラーが何とか目を開くと、砂漠で四つん這いになっているラズワルドの姿を見つける。

「ラズワルド公!」
「近づくな、カスラー!」

 自分より先に動けるものがいるとは思っていなかったシアーマクが急ぎ制した。

「あれは力を出しすぎて、周りがほとんど見えてはいない」

 ラズワルドの体は一見すると、なにも変わりはないが、見えるものには全身が帯電したように光を帯びているのが分かった。
 先ほどラズワルドが封印されていた空間のように、死の砂漠から音が消える。
 そして徐々にラズワルドが帯びている光が、特殊なものが見えぬはずの人間の目にも映るようになった。

「いやいや、あれはさすがに。どうなさるんすか、シアーマク公」
「押さえ込む努力はするが、余波で魔王を吹き飛ばしかねん。ラズワルド! こっちだ、ラズワルド! 返事をくれ……聞こえていないようだな」

 発光する白い光を帯びているラズワルドは、シアーマクの声に反応することはなく、魔の山の方角を向いた。

「駄目だぞと言っても無駄か」

 シアーマクはそう言い、ラズワルドの周囲を自分の力で覆ったが、すぐにそれは砕け散り、地上から天へと雷光が駆け上るかのような現象が起き、空の色が変わる。
 ラズワルドを包む光は更に強くなり「捉えた」と言わんばかりの動きで、魔の山へ目がけて、白い光を放った。

「え? 水」

 それを阻害するかのように、死の砂漠のど真ん中で、水の球が無数に現れ、ラズワルドを取り囲む光景に、カスラーに守られるよう立っていたバルディアーが声を上げた。

「あれは?」
「ラーミンだ」

 誰が答えをくれたのか、バルディアーは覚えていないが、ラーミンが作った陽光を反射させている大きな水の球が、ラズワルドに襲い掛かる。だが水の球は次々とその形を失い、砂漠に落ちて吸い込まれていった。

「もう少し頑張ってろ、ラーミン」

 シアーマクはそう言い、魔の山を覆っている、魔王の拍動を止めるため、己の力を調整する。
 凄まじい力を発しているラズワルドが近くにいるため、彼自身の力が上手く定まらないのだ。だがこのままにしておけば、ラズワルドが魔の山を吹き飛ばすのは明らか。
 大きな水の球で効果がなかったためか、ラーミンは小さめの水の球体に変え、ラズワルドに攻撃を加えるが、放たれている天へと昇る光が更に大きくなり、空中で蒸発し、消え去ってしまう。
 次に巨大な水の壁が何層か、魔の山側から滑るように近づいてきたのだが、それもラズワルドに認識されると、すぐさま破壊されつくす。

「シアーマク公。大厄災ラーミンが泣き言言ってる気がします」

 ラーミンの攻撃としてもっとも有名な三種類が、ことごとく容易に破られたのを見て、ジャファルはある種憐れみを持った。

「だろうなあ。削られ過ぎるなよ、魔王!」

 聖なる力の調整を終えたシアーマクが、魔の山へと向けてそれを放つと、蠢いていた赤い炎のようなものが消え、冷気が溢れる万年雪に囲まれる白い姿へと戻った。―― が、事態は好転していないどころか、悪化の一途を辿っていた。
 ラーミンは魔の山を水の壁で覆ったが、光の屈折から厚みがほとんど感じられなかった。

「自分のところの大将魔王、守る気ねえ大厄災ラーミンだ」
「あれが限界なんだろう」

 四つん這いだったラズワルドが立ち上がった ―― ように見えたが、実際は立ち上がるようにして浮かんだ。
 足は砂漠についてはおらず、着衣や髪は全く動かず。直立したラズワルドは、眩い光に包まれる。
 人間の本能敵に誰もが「これは危険だ」と感じた。それは大自然の猛威を目の当たりにした時に覚える感覚であり、そしてどうすることも出来ないことも理解していた。
 知らずに震えだしている体、それにすら気付かぬ人々。

「目は閉じていろ!」

 ラズワルドの体を包む光が一層強くなり、辺りは眩い光に包まれ、そして彼らの上空から、何かが裂ける音が聞こえた。
 周囲は気になるものの、目を開けて良しと言われていないので、彼らは必死に目を閉じている。

「らじゅわるよさま……ひっく、ひっく」

 静寂の中、先ほどの裂ける音すら気付いていないかのようなハーフェズの泣き声が聞こえる。

「目を開けて構わないぞ」

 シアーマクの指示に従い目を開くと、空中で横になった状態で浮いているラズワルドが、ジャファルの小脇に抱かれているハーフェズへとふよふよと近づいていく姿があった。
 ラズワルドはハーフェズの金髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるようにして撫でる。

「らじゅわるよさま!」

 泣いていたハーフェズが元気よく顔を上げるが、ラズワルドは宙に浮き、目を閉じたまま。だが手だけは、いつも通りに動かしていた。

「ハーフェズを、黙って泣かせておいて、よかったっす」

 赤子の頃から、ハーフェズが泣いていると、泣き止ませねばと使命感に燃えるラズワルドが、必死に近づいてゆく姿を覚えているジャファルは、今回もその通りになった良かったと ――

「あれは……」

 先ほどの音の正体はなにかと、周囲を見回していたカスラーは、切り裂かれた青空を見つけて絶句する。

「わたしの力を下からぶつけて、方向を変えるのが精一杯だった」
「えっと……シアーマク公。空、裂けちゃったんすか」
「そういうことだな」
「空って裂けるんですね」
「わたしも初めてだがな。空は精霊王かメルカルトが直してくれるだろう」
「直るもんなんですか?」
「……多分」

 青空の切れ間からのぞく闇夜。その光景に、怪異には慣れている武装神官たちですら、砂の上に崩れ落ちた。むしろ立っていられた者のほうが、少なかった。
 近くにいた彼らは、その時の光景を見ることはできなかったが、遠く離れた所にいたものたちは、地上から巨大な光が立ち上り、空を切り裂く光景を目の当たりにし、この世の終わりかと恐れ戦いた。
 それを作ったラズワルドは、眠ったような状態のまま上昇を始めた。

「まあ待て、ラズワルド」

 シアーマクが胸の辺りを押すと、すっと下がるのだが、またすぐに上昇を再開する。

「今日はここで休もうか」

 シアーマクの一言で、その日は武装神官たちと軍の混合で、その場で一夜を明かすことになったのだが、

「シアーマク公! ラズワルド公の天幕が」

 ジャファルに言われて天幕を出たシアーマクの目に飛び込んできたのは、宙に浮いている大きな青い天幕。

「天幕ごと神の国に帰るつもりか、ラズワルド」

 シアーマクが端を掴み、天幕を降ろして ―― その日は二柱一緒に休むことになった。