ラズワルドとハーフェズ、散歩をする

 ラズワルドの歩みを止めることはできない ―― 好奇心旺盛なラズワルドは、野営地をよく散歩していた。
 お供はもちろんハーフェズとバルディアー。
 ラズワルドの姿を見ると兵士がみな手を止めて跪拝するので、仕事の邪魔になるであろうと、彼らに見つからないよう天幕の影に隠れつつ ―― 訓練を受けている生粋の武人たちなので、ラズワルドたちが幾ら忍ぼうとも、ほぼ隠れられてはいないのだが、ラズワルドたちは隠れて動いているつもりであった。

「跪拝なんぞ、しなくていいのに」

 隠れながら移動するのは楽しいので、跪拝されなくとも、この野営地内移動を止めるつもりのないラズワルドだが、跪拝そのものはする必要はないと考えていた ―― だが、それを止めろと命じはしなかった。

「顔の半分がメルカルト文様に覆われている上に、あんな奇跡・・・・・まで見せたら、跪拝せずにはいられないでしょう」

 ハーフェズにそう言われるも、ラズワルドとしては「あれのどこが奇跡なのだ?」としか思えず、

「ハーフェズはこう言っているが、そういうものなのか? バルディアー」

 一般的な視点を持つバルディアーに、意見を求めた。

「え、まあ。ハーフェズが言っているあんな奇跡・・・・・がどれを指しているのかは分かりませんが、この旅の間に俺が認識できただけでも六つほど御業を目の当たりにし、更なる畏敬の念を懐きましたので、慣れぬ兵士たちはそれ以上かと」

 ラズワルドについて一年ほどになるバルディアーも、今回の旅で神の子の能力と、その御業を見て「この方は、本当に神の御子なのだな」と深く感じ入っていた。
 ハーフェズはラズワルドが何をしても「ラズワルドさまですから」でほとんど驚くことはないが。

「六つ? ……まあ、人には出来ないことは幾つかしたが、神の御業と驚くほどのことをしたかなあ」
「人間に出来ないことをしている、すなわちそれが奇跡ですよ、ラズワルドさま」
「そうか? そうなんだろうなあ。だが、気合いを入れて、死ぬ気でやった! などという認識がないから、正直なにが神の御業として認定されているのか分からん」

 ラズワルドにしてみると、魔物を退かせる旅ではあるが、いままでこれ・・といったことをした記憶はない。

「廃神殿に忘れられた神を呼び寄せたこととか」
「あれ、神の御業扱いされてるのか? バルディアー」
「ええ。それはもう……御業の認識はないのですか? ラズワルド公」
「なかったなあ。あんなことでなあ」
「神にもお会いしましたよね」
「神……ああ、あれな。うん、会ったが。精霊王もあいつと会ったことあるらしいぞ。わたしの口の中を見て”あのじじい、随分と若い娘を妃に選んだものだな”となあ。見た目は廃神殿の神のほうが老けてたが、精霊王はあいつより年上らしい」
「精霊王って幾つなんですか? ラズワルドさま」
「当人に聞いたところ、人間の歳月で換算したことがないから知らんそうだ」
「そうですねえ」

 神と会っても驚くことのないラズワルドにとって、その程度・・・・のことを御業とされ、跪拝されるのは釈然としないのだが、人間にとってそれが神の御業と認識され、祈りを捧げる対象になるのであれば、黙って受け止めるのが神の子としての責務だと ―― それはそれとして、天幕の影に隠れながら、野営地の様子を窺う。

「うおっ!」
「おい! 気を付けろ!」

 良い香りがする方角から、いかにも「なにかあった」かのような声が聞こえてきた。ラズワルドは、何事だろうとそちらへ駆け出す。
 声を上げた兵士は、調理当番であった。

「なにがあったんですか?」

 ハーフェズが尋ねると、兵士は肉の塊を間違って火の中に落としてしまったのだと教えてくれた。

「誤って落としたところ、鉄板がずれて肉の塊がそのまま焚き火に入ってしまったようです」
「取らないのか?」
「いま薪を崩して取り出すみたいですけれど」
「取ってやるよ」

 ラズワルドは腕まくりをすると、焚き火に手を入れて肉の塊を掴み上げ、本来ならば竈に乗せられている鉄板の上に置いた。

「脂でぎとぎと」
「美味しそうですけどね」
「ははは、そうだな」

 楽しそうに笑っているラズワルドとハーフェズ。驚きと混乱で声を失っているバルディアー。そして、

「ラズワルド公!」

 少しばかり怒ったかのように声を荒げ駆け寄ってきたカスラー。

「どうした? カスラー」
御手みてでかのようなことをなさるなど! 失礼つかまつります」

 カスラーはラズワルドの手首を掴むと、煮炊き用の水が入った桶に腕を浸した。

「手ぐらい自分で洗えるぞ?」

 何をされているのか分からないラズワルドは、険しさを浮かべているカスラーの横顔に、暢気に声を掛けた。カスラーは指を絡めてしばらく水にラズワルドの手を浸す。

「痛むところはございませぬか?」
「なんで痛むんだ?」

 自ら上げた手を絹で優しく拭き丹念に確認しながら、カスラーは「火傷はしていませんか」と尋ねたのだが、残念ながらラズワルドにそれは通じなかった。

「火の中に御手みてを入れられましたので」
「まあ確かに焚き火に手を突っ込んだが、それでどうして手が痛くなるんだ?」

 ラズワルドは黄金が散りばめられている瑠璃の瞳で、まだ自分の手首を掴んでいるカスラーを見つめた。厳しい表情を浮かべていたカスラーは、ラズワルドの心から不思議そうな視線に戸惑いを覚え、冷静沈着な彼の心に揺らぎが生じる。
 しばらくラズワルドが困惑気味なカスラーの表情を見つめていると、ハーフェズが手を叩き、両者の疑問を解消した。

「思い出した! ラズワルドさま、人間は・・・火で火傷を負うんですよ!」

 カスラーを見上げていたラズワルドは、視線の高さがほぼ同じハーフェズのほうを向く。

「なんだ、それ」
「俺もこの前、王宮が焼けたことをバルディアーに教えてもらった時、初めて知ったんですけれど、人間は火で火傷を負って、死んでしまうこともあるんです!」
「煮炊きに使っているのは、普通の火だろ?」
「そうです。人間は、普通の火でも焼けちゃうんです! ラズワルドさまとは違って」

 ラズワルドの手首を握っていたカスラーの手から力が抜ける。

「普通の火で焼け死ぬのか?」
「はい。ラズワルドさまには魔火や邪火は近づけず、精霊火普通の火もその身に害をなすことはありませんが、人間は聖火を含めてどの火でも焼かれてしまい、場合によっては死ぬんです」

 ハーフェズが元気よく言い切り、ラズワルドはバルディアーに視線を向ける。「本当か?」と問う瞳に、バルディアーは確りと頷いた。

「ああ、そうなのか。悪かったな、カスラー。それは驚かせてしまったな。わたしは炎で怪我をするということはないのだ。もしかして、水に浸すというのは火傷をした際の対処方法なのか! ありがとう!」

 ラズワルドにとって火傷とは邪悪な火や、聖火のような特殊なものによって「人間が」負うものだという認識しかなかった。

「申し訳御座いませぬ!」

 ラズワルドに感謝されたカスラーは、手首を放して地面に額をこすりつけて平伏した。

「いや、気にするな。知らなかったのだろう」
「御身に無礼を働いたこと、お詫び致します」

 カスラーは神の子の体が人間と同じだと思ってしまった自分を、ひどく恥じた。

「無礼もなにも、こっちも教えてなかったからな。ファリドから聞いてなかったんだろう? 気にするな。そうそう、見せてやるよ。顔を上げろ」

 ラズワルドはそう言って、顔を上げたカスラーの前で焚き火に手を入れ、燃えさかる薪を一本取り出し、赤く燃えているそれを鷲づかみにしてから、

「この通り。熱いのは分かるが、負傷はしないのだ」

 カスラーの前に手を差し出した。彼の前に差し出された爪をヘナで染めている手には、どこも赤い箇所はなかった。

「心配をかけてしまったな」
「神の御子と人を同じと考えるなど。己のこの愚かさ、死して詫びるしか御座いませぬ」
「いや、死なんでいい」

 ラズワルドは少し面倒なことになったな……と思いつつ、薪を焚き火に戻した。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 死んで詫びなくてはと言っていたカスラーに、なんとか死を思いとどまらせ ―― 炎に焼かれることのない、その偉大なる力を発揮し、兵士たちに更なる畏敬の念を懐かせたラズワルドだが、野営地で隠れながらの散歩は止めてはいなかった。
 その日ラズワルドは、他の天幕から少し離れたところに設営されている、天幕に気付いた。

「危険回避のために、固まって天幕張るんだよな」
「そう聞いていますけれど」
「なんだろうな!」

 ラズワルドとハーフェズは、本当にその天幕の意味が分からず、興味津々であったが、バルディアーはすぐに理解した。

「……」

 あの少し離れた位置に設営された天幕は、性欲解消のための離れであると。行軍中、男性同士で性欲を解消するのは、ごく普通のことである。

「探りに行くぞ!」
「分かりました、ラズワルドさま」
「ぎょ、御意」

 男性の性欲に関して充分な知識のあるバルディアーに対し、ラズワルドとハーフェズは無知そのものである。知識人メフラーブに育てられた二人が、なぜこれらに関して知識をなにも持たぬのか? それは育ての親メフラーブが、完璧なまでに枯れている男だからである。
 ラズワルドの実父バーミーンから神の子ラズワルドを託されたバーヌーが、メフラーブという変わり者を養父に選んだ理由は二つ。一つは神の子に知識を与えることができるため。もう一つは、まったく性欲を持っていなかったためである。
 この時代、余程のことがない限り、誰でも結婚する。メフラーブより稼ぎの悪い男であろうが、容姿の優れていない男であろうが、酒癖悪く女房子どもを殴るような男であろうが、面倒見のいい人が見合いの話を親族に持ちかけ、なんとなく所帯を持つのが普通であった。
 その普通に属していないメフラーブ。彼は女にも男にも全く興味がなく学問一筋で、彼の両親ですら結婚相手に悪いと、持ち込まれた見合いを断り今に至る。
 たしかに神の子を育てるのには、最適な人物だが、普通の少年ハーフェズまで、神の子と同じように育てられたため、一柱と一人は性的なことに、限りなく無知であった。

―― 天幕が空でありますように。せめて、普通の性行でありますように。乱交とか強姦なんかと遭遇しませんように

 男の性欲がどのように発散されるかを知り尽くしているバルディアーは、心の中で主神に祈りながら付いていった。

「あっ、あ……ああ」

―― やってる! ラズワルド公とハーフェズが不思議そうな顔してる!

 バルディアーには漏れ聞こえてくる男の声が、行為中のものであることは直ぐに分かった。

「なんか、苦しそうだな」
「そうですね、ラズワルドさま」

―― たしかに苦しいには苦しいでしょうけれど、喘ぎ声というものでして

 性行為中なので、そんな声が聞こえても気にする必要はないのですと言いたいような、言いたくないような、バルディアーの心中は複雑であった。

―― 言ったところで、ラズワルド公には意味が分からないだろうし、分かるように説明できる自信もない

 「性行為を行っています」と告げたところで、ラズワルドは意味を解さないのは明らか。更に興味を持ち「見れば分かる」と天幕に飛び込む可能性すらある。
 神の娘に男性同士の性行為を見せたとなれば、今度こそカスラーが自害しかねないし、見せるつもりはなかったのに見られた兵士も、間違いなく処刑される。
 ちらりとハーフェズを見るバルディアーだが、神の子の奴隷は、主と同じくまったく何が起こっているのか理解していなかった。

「おい、大丈夫か!」

 恐れを知らない無知なるラズワルドは、天幕を叩き中にいる「苦しそうな声を上げている兵士」を心配し声を掛けた。
 天幕内から漏れていた喘ぎ声と、湿った音は完全に停止し、驚愕の空気が辺りに漂う。

―― ご免なさい、でも俺には止められないんです。でも、止めないと

「苦しいのか?」

 ラズワルドの声は幼いながらに慈愛に満ちている。そして慈愛に満ちていればいるほど、天幕内で性行中の男性兵士たちを追い詰める。

「なかを確認しましょうか」
「ちょっと待って、ハーフェズ」

 ラズワルドの行動を止めることはできないが、ハーフェズならばバルディアーでも止めることができる。

「どうしたの? バルディアー」
「ラズワルドさまと、そこで待ってて。多分兵士さんたち……泣いてるんだと思うんだ!」

 神の子に嘘をつくわけにはいかないので、彼は必死に言葉を選び、室内に首を突っ込み、死にそうな表情を浮かべている兵士たちに「分かってる」とばかり頷き、すぐにラズワルドに向き直る。

「やっぱり泣いていました」
「どこか痛むのか?」
「そういうのではなく……偶に泣きたくなる時があるんです」
「なんでだ?」
「えっと……男は周期的に発散したくなるんです!」

 バルディアーは一切嘘をつかず、状況を説明した。

「発散が泣くことなのか?」
「泣いたり、その他色々。こ、この離れの天幕は、そういったことを発散する場所なのです!」
「泣くほど辛いなら、話くらい聞いてやるぞ。これでも信仰対象だからな」

 ラズワルドの大いなる善意に、少しばかり目眩がしたバルディアーだが、ここで自分が引いたら、王都に帰還した際、ジャバードに会わせる顔がないと耐える。

「え、あ、その、男って泣いているのを見られるのは、恥ずかしいので。だから、こうして離れで泣いております」

 きっと性行途中だった天幕の中にいる兵士たちは、いま泣いているだろう ――

「ハーフェズはとくに恥ずかしがらないが」
「ハーフェズは別ですよ。ラズワルド公に馴染みのない兵士たちは、恥ずかしいので……泣かせておいてやって下さい」
「そうか。分かった。誰かは知らぬが、泣いても気が晴れなかったら、気軽にわたしの天幕を訪れるがいい」
「ラズワルド公、あっちに行ってみましょう。今日は少し野営地から離れて遊んでみましょう! 俺がお守りいたしますので、そうしましょう!」
「そうか? じゃあ行くか!」

 バルディアーは兵士たちを守り抜いた。
 後日事情を聞いたカスラーから「兵士が迷惑を掛けた」と詫びられ、

「なにかお礼をしたいのだが」

 礼を申し出られた。
 本来ならば「要りません」答えるものだが、バルディアーはカスラーの天幕を一時ひとときだけ貸して欲しいと頼んだ。

「あの、大事なものには決して手を触れませんので」
「そのような心配はしていないが。理由を聞かせてもらえれば嬉しいのだが」
「こ、この前の兵士さんたちと同じ理由……です。ひ、一人で抜くの場所を……」

 バルディアーは非常に若く、性に関して望んだわけではないが早熟。側近として、天幕はラズワルドと同じなので、隠れて抜くようなことはできない。
 先日の離れた場所に設営されている天幕を借り、一人で処理しようとも考えたが、あの天幕に入ったことが知られたら、ラズワルドが心配して入って来るかも知れない。

「きっと、泣くなら天幕を貸してやると仰って下さるでしょうし……側近として行き先を告げないわけにもいきませんので」

 なによりラズワルドに余計な心配を掛けたくはないし、側近としてどこにいるのか分からない、などということは出来ない。そう考え、恥を忍んで指揮官であるカスラーの天幕の隅を貸してくれと頼んだのだ。

「気が利かなくて悪かった。隅などとは言わず、自由に使って構わない。嫌でなければ、わたしが相手をしよう」
「え、あ、……いや、あの、そんなご迷惑をおかけするわけには! 嫌ではありませんよ、はい」

 微笑んだカスラーに、最終的になんと返事をしたのか? バルディアーの記憶には残っていない。