ゴシュターブスの弟でウルクの太守を務めているエスファンデル。彼らの元にいる神の子ホスローは、大きく切り裂かれた太守府の壁を見上げていた。
タイルで描かれたモザイク画で被われている壁が、近づくと全体が見えないほど縦にまっすぐ切り裂かれていた。ホスローはその切り口に手を添える。
「……ラズワルドの仕業でしょうね。もっとも本人は、こんなことをしたという認識はないでしょうが」
ウルクの太守府の一角が破壊されたのと同じ頃、サマルカンドの神殿も同じような破壊が起こった。
「フラーテス公。一体何が」
破壊されたのは神の子フラーテスの部屋。神の子が居る室内の、青大理石の壁が全て剥がれ落ちた。
慌てる若い側近に、フラーテスは少々楽しげな笑みすら浮かべて答えた。
「王家の者がよからぬことをしたのでしょう」
「よからぬこと? ですか」
「そうです。誰かを魔術で殺害しようとしたのでしょう。ですが、殺害される筈だった相手の側にラズワルドがいた。それだけです」
フラーテスは何事もないように言うが、若い側近は驚愕の声を上げる。
「魔術返しですか? 王都におわすラズワルド公が、この北のサマルカンドのフラーテス公がおわす神殿に」
魔術というものは、距離に阻まれるもの。対象からあまり離れていると殺害することはできない。よって魔術を使ったものは王都にいるのは確かで、殺害されようとしていた人物も王都にいる。その王都内で終わるはずだった魔術が跳ね返され、神が居る神殿をも貫いた ―― それはまさに人智の及ばぬ力であった。
「本人は意識していないでしょうがね。それにしても、サマルカンドまで返して寄越すとは、素晴らしいに尽きます。それに比べてあの娘は……
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
その日、病に伏せっているファルナケス二世の寝室の天井が砕け、ペルセアの国王は危うく壁の下敷きになるところであった。
同時刻
同じく同時刻、乳香が薫る部屋で明かりを灯し、政治関係の本を読んでいたアルデシール。彼の壁を飾っていた絹の絨毯が、見えない刃物で切り裂かれた。
「なんだ!」
アルデシールは剣を構えて辺りをうかがったものの、何が起こったのか分からなかったが、床に落ちた切り裂かれた絨毯を見て、人間の仕業ではないことを理解し、廊下に飛び出し、備え付けられている魔払香を焚いている香炉を掴み、急ぎ王宮内にある神殿を目指した。
異常事態を知らされた神官たちがやってきて、事件が起こった場所を調べたのだが、彼らは一様に困惑の表情を浮かべた。
「どうしたのだ?」
死が目前に迫っている上に、更なる見えぬ力に襲われ恐慌状態に陥っている国王ファルナケス二世。手の怪我の治療をしている王太子ゴシュターブスに代わり、アルデシールが指揮を執っていた。
この時アルデシール十七歳 ――
「非常に申し上げにくいのですが、これは邪悪なものではなく、怖ろしいまでに神聖なものにございます」
神官の一人がおずおずとアルデシールに告げた。
「神聖……だと?」
王宮にいた神官の誰一人として、その時邪悪な気配は感じなかった。
「人間には不可能なものでございます」
アルデシールは、国王が魔術で狙われたとばかり思っていたのだが、神官たちの言葉、そして切り裂かれた壁に対して跪拝する姿に、個人名は分からぬが存在には見当がついた。
「人間ではない……神聖……公柱の御業と申すか?」
「はい」
アルデシールは自ら神殿へと向かい、いきなり現れたシャーローンの神殿入りの準備で忙しい神の子たちに事情を話し、オルキデフに王宮へと足を運んでもらった。
もっとも被害の激しかった、ファルナケス二世の寝室を輿に乗ったまま見たオルキデフは、はっきりと告げた。
「ラズワルドの力ですね」
「ラズワルド公柱が何故」
「良くないことが起こったようね。そうね、ファルロフとジャムシドを呼んで頂戴」
オルキデフは神の息子であるファルロフとジャムシドを呼び ―― 事実は速やかに解明される。
「これは魔術返しです」
王家に説明するためにやって来たのはファリドの側近であるジャバード。
彼の説明によると、何者かがラズワルドの近くに居る者を魔術により害しようとした。
当然のことながら、魔術はラズワルドにはじき返され、術を行使した者は死より怖ろしい目に遭い、更に魔術を依頼した者とその血縁にまで、術が跳ね返ってきたのだ。
「おそらく、ウルクとサマルカンドにもその被害は及んでいると、ジャムシド公は仰いました」
アルダヴァーンが未来を視る能力があるように、ジャムシドはほんの僅かな時間だが国内であれば、何処までも見ることが出来る能力を持っていた。そのジャムシドの力によってサマルカンドとウルクにも、同じ「返し跡」があることが判明しており、確認のため王都から早馬が出ていた。まだ返事は返ってきていないが、事実であることは、ほぼ確実であった。
「王家の者が、公柱の身近な者に危害を加えるなど。……まさか、かつてラズワルド公柱の養父に濡れ衣を着せた輩が?」
アルデシールの脳裏に没薬の横流しをしていた犯人たちのことが脳裏に過ぎり、鋭い目元を怒りを込め、険しい表情を浮かべたが ―― 根本が違っていた。
「狙われたのはメフラーブ殿ではなく、ファルジャードという青年です」
ラズワルドは魔術を跳ね返したその日、神殿入りの初日に行われる地下神殿踏破についてあれこれ話し合い、そのまま下宿に泊まっていた。
もっともラズワルドの周囲五百軒範囲ならば、誰に向けられた魔術であろうと、弾かれ今と同じ状況を作っていたことだろう。
「公柱のお側に居ることを許されているファルジャードとは、あの学術院で名を馳せている男か?」
アルデシールの側近でもあるラフシャーンの友人。その関係で、アルデシールはファルジャードのことは聞き及んでいた。
「その青年です。そしてその青年とラズワルド公の関係を、知らぬ王族がいたのです」
「まさか! 陛下も父上もラズワルド公柱とその男の関係はご存じだ。エスファンデルの叔父上はどうかは知らぬが、あの叔父上は魔術の類いは嫌っておる。アシュカーンは知らぬが……」
ファルジャードは優秀さもそうだが、ラズワルドが身元を保証しているということで、国王の耳にもその評判と関係は届いていた。
「シャーローン公柱のお供を務めたサマルカンド諸侯王、彼の妃が依頼者です」
王都の遙か北、サマルカンドにもその評判は届いており、その内容は人の噂にしては珍しく「ファルジャードとは先代サマルカンド王の相談役だったイマーンの弟子。イマーンの学友サームの門下生は神の子の養父。師が学友同士であったよしみで、神の子がファルジャードの身元を保証した」と、概ね正しいものであった。
「陛下の叔母にあたる女か……ああ、知らぬかもしれぬ。だが、なぜその者が、ファルジャードなる青年を魔術で害しようとするのだ?」
王族と言われ、男しか数えないのは当時の認識ではごく普通のこと。さらにアルデシールが生まれる前に王宮を出た王女など、知らなくてもおかしいはなしではない。
「諸侯王と妃の間には三人の娘しかおりませぬ。そしてファルジャードという青年は、先代諸侯王に仕えたイマーンが育てておりました。彼は両親の名は知らぬようですが、フラーテス公はご存じで、もっとも信頼していた武装神官グーダルズまで付けてやった……ここまで言えば殿下もお分かりでしょう」
先代サマルカンド諸侯王亡き後、他の誰にも仕えなかったイマーン。そしてフラーテスの信頼が篤かった武装神官グーダルズの二人によって秘匿され、養育された青年。
「ファルジャードという男は、サマルカンドが妾に産ませた子か」
サマルカンド諸侯王の妃であるペルセア王女が、自分から全てを奪う存在となるファルジャードを排除しようとしたと考えるのが、最も理にかなっている。
ジャバードはアルデシールの疑問にはっきりとは答えなかった。
「当人が王都におりますので、直接お聴きになるのが確実かと。それとファリド公より”委細が分かったら知らせよ”とのご命令が」
「もちろんだ。詳細は御主を通せば良いのだな、ジャバード」
「はい。それとファルジャードに伝えるのは、身元を保証しているラズワルド公がなさるので、それまで彼の耳には入れないように」
「分かっている。それでなくとも王家の恥部だ、できる限り真実を知る者は少なくする」
アルデシールは王太子である父ゴシュターブスと共にサマルカンド諸侯王を引き出し、事情を聞き ――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ラズワルドはファリドに話があるので、ファルジャードとセリームを連れて来るよう言われた。そこで言われた通り、真神殿にファルジャードとセリーム、そしてハーフェズを連れて、遊ぶつもりで訪れた。
水が湛えられた長方形の池に、青い尖塔が綺麗に映り込む。その景色を眺められる二階の露台にあつらえられた席にラズワルドは座り、ハーフェズはファリドの隣にいるジャバードを真似て立ち、ファルジャードとセリームは、敷かれている絨毯から外れて平伏した。
ラズワルドが薔薇水の入った杯を口に運び ―― ファリドから、ファルジャードが知らぬ間に魔術で殺害されかけていたこと、それを自分が跳ね返したこと、それを命じたのがサマルカンド諸侯王の妃だったことを告げられた。
「……」
「……」
そして、ファルジャードがサマルカンド諸侯王の息子であることを知らされた。
「サマルカンドはあなたを息子として認め、侯領に連れてゆくそうです、ファルジャード」
ファルジャードの全く預かり知らぬところで、全てが決定してしまったことも教えられた。
「あー……ファルジャードに魔術をかけた奴はどうなったんだ? ファリド」
「最上級の魔術返しを食らって、無残な姿を晒していたそうです。嘆かわしことに、魔術を使ったのは神官だったそうですよ」
かつてメフラーブが疑われた際、説得力があったのは、彼が賢かったに他ならない。魔術とは無学な人間には到底手が出せぬもので、魔術をものにすることができる程の知識人となると、学術院で知識を深めた者か、神官としてあらゆる術を知っている者くらいしかいない。
ファルジャードに魔術をかけた神官は、サマルカンドから諸侯王の妃が連れてきた者で、シャーローンのお供で王都に向かう一団に混ざってもおかしくはない立場であった ―― かなりの報酬に目がくらんでの凶行だったのだが、ラズワルドによりその魔術が跳ね返され、二目と見られぬ有様であった。
魔術を使用した神官は、皮がはげ、肉も
実際その堕ちた神官は死ななかった。ぶちまけられた内臓は、どれも鮮やかな色つやで、心臓は鼓動を刻み、肺は空気を取り入れ、胃は元気に動いていた。
屍食鬼よりもおぞましいその姿に、誰もが近づこうとはせず、誰もそれを苦痛から救うために祈ろうともしなかった。
食べものも水も与えはしなかったが、元神官が死ぬことはなく、諸侯王の妃の処刑後、サルヴェナーズという神の娘が、聖なる炎で浄化して事態は収拾した。
「魔術で殺害するよう命じた、サマルカンド諸侯王の妃は?」
「処刑されたそうです」
「そっか」
ラズワルドとしては魔術を行使した元神官も、サマルカンド諸侯王の妃も、死んだところで何とも思わないが ―― ファルジャードの将来は気になる。
「ここからはわたしの独り言なのですが、サマルカンドには存命な弟が二名おります。どちらもサマルカンドとさほど違いのない暗愚な男だと、他の諸侯王たちの間で評判です。この暗愚は兄であるサマルカンドの地位を狙っているそうです。とくに諸侯王に男児がいないので、いずれはと暗い期待に胸を弾ませていた……そんなところに、サマルカンドの息子が現れたらどうなるか。ラズワルドの友人であるファルジャードがどうなるか? わたしは心配でなりません」
ファリドは明言こそ避けたが、はっきりとこの先も暗殺の恐れが付きまとうと告げた。
「ファリド」
「ラズワルド。わたしたちは、ファルジャードのサマルカンド行きを止めることは可能です。ですがファルジャードは諸侯王となり敵を排除しない限り、安心して生きて行くことは難しい」
「ペルセア王国を離れたら?」
「どうでしょうね。権力というのは、人を狂わせるものだと言われておりますから」
ラズワルドの前に置かれていた、薔薇水が入った杯に浮かんでいた氷が、涼しげな音を立てる。
「ファリド公。詳細を教えてくださり、ありがとうございます」
ファルジャードは平伏したまま、感謝を述べる。
「あなたは詳しく知っておく必要があります。なによりあなたは、詳しく知って、最良の道を選べる人ですから。それで、あなたはどうするのですか? ファルジャード」
「諸侯王となり、メルカルトの子である皆様がたに、今までの恩を返させていただこうと思っております」
真神殿に招き、行かないで済むようにすることも出来ると伝えて尚、ファルジャードは障害多き諸侯王の道を選ぶと断言した。
「そうですか。あなたならきっと良い諸侯王となることでしょう。諸侯王として困ったことがあったら、わたしに言いなさい。父であるクテシフォンや、兄に口利きをしますので」
「ありがとうございます。ラズワルド公、頼みがあります」
「なんだファルジャード」
「セリームを買っていただけませんか?」
危険な場所に飛び込むことを覚悟したファルジャードは、セリームまで道連れにはできないと、王都に残すことにした。
「……分かった」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ファルジャードがサマルカンド諸侯王の息子だという噂は、下町に直ぐに広がった。そして彼が学術院を辞めて侯領に向かうことも。
王太子ゴシュターブス立ち会いのもと、ファルジャードは王宮で父親であるサマルカンド諸侯王と対面した ―― 彼にはなんの感情もわき上がらなかった。
「ラフシャーンともお別れできないままか」
ペルセア王国では新年を迎える行事は、なによりも大事にされており、侯領を治める諸侯王は新年を迎える前に帰国せねばならない。本来であれば既に帰国の途についているはずだったのだが、正妻による息子暗殺未遂が判明し、事態の収拾に時間がかかったため ―― そろそろ帰国せねば間に合わない時期となっていた。
「ラフシャーンさんが帰ってきたら、伝えにいきましょうね、ラズワルドさま」
「そうだな、ハーフェズ」
ラズワルドたちはセリームと一緒に、下宿を
「ラフシャーンさま、ご無事だとよろしいのですが」
「大丈夫だってセリーム。あいつ、強いからさ」
ラフシャーンはデルベンド王国との国境沿いにある城に、駐留していた。もっともデルベンド王国とペルセア王国は、偶に小競り合いのような事態は起こるものの、国力の差から、近年は戦争になるようなことはなかった。
下宿の片付けを終えたラズワルドは、いつものように自宅前に置かれている木箱に、ハーフェズと並んで座り、プラムの果肉を煮詰め乾かしたラヴァーシャクを食べながら、往来を行く人たちを眺める。
「ラズワルドさま」
「なんだ、ハーフェズ」
「なんでもないです」
「そうか」
「ファルジャード、明日の朝出発でしたよね」
「らしいな。バームダードやカーヴェーも、休みを取って見送りに来るらしい」
「ラズワルドさま」
「なんだ、ハーフェズ」
「……なんでもないです」
「そうか」
「サマルカンドって王都から遠いですね」
「そうだな」
「いつか行きましょうね」
「もちろん。わたしのお供を務めろよ、ハーフェズ」
「はい!」
「マリートが作ったラヴァーシャクは、やっぱり美味いな」
翌朝、ラズワルドとハーフェズは、ファルジャードたちと三年前に出会った城門のど真ん中に立っていた。市井では手に入らない、夜の闇よりも黒い、漆黒の黒の着衣を纏い、同じく黒いヴェールを被り、腕を組んで城門の先の平野を見つめているラズワルド。人々は端を通り ―― サマルカンド諸侯王の一団がやってきた。
一団は止まり馬車から、絹の服を着て白いクーフィーヤを被った、生まれた時から貴公子でしたと言わんばかりのファルジャードが降りた。
他の馬車に乗っていた者たちや、騎士も馬から下り、一団全員が平伏する。
ファルジャードはラズワルドの背後まで近づき、膝を降り頭を下げた。ラズワルドは動く気配がなくなったのを確認して、どこまでも続く平原を見つめながらファルジャードに話し掛けた。
「ファルジャード」
「はい、公柱」
「お前が行く道は平坦なものではないらしい。命が危険に晒されることもあるだろう。だが、お前は何が何でも生き延びろ。生き延びるのに手段を選ぶ必要はない。卑怯であっても問題はない。幸いお前は頭が良いから、魔術を覚えることも容易かろう。例えお前が魔術に手を染めて堕ちて、わたしと一緒に食事を取れなくなろうとも、会話ができなくなろうとも、わたしはお前の友人だ。覚えておけファルジャード。お前が道半ばで死ぬということは、わたしを裏切ることであることを」
ファルジャードは下げていた頭を上げる。
「公柱。このファルジャードをそこらの人間と一緒にしないでいただきたい。わたしは魔術に縋るほど弱くはない。人に後れを取ることなどない。武術の腕前も人並み以上……わたしはわたしのままで在り続けることを誓い、わたしはわたしのままで、あなたを決して失望させませんよ、ラズワルド公柱」
「そうか」
ラズワルドは振り返り脇にいるハーフェズに向かって手を振る。
「待ってください、ラズワルドさま」
ハーフェズは下宿人募集の札をかける掲示板の裏側に入り、使徒の服を着たセリームを連れてやってきた。
「わたしの奴隷を一人付けてやる。くれぐれも、傷つけたりするなよ、ファルジャード」
ファルジャードは王都に残すつもりで売ったのだが、ラズワルドその意図を知りながらセリームに希望を聞き、奴隷の希望のほうを優先した。
「御意にござります」
往来のど真ん中に立っていたラズワルドが脇に避け、ファルジャードは立ち上がり、見送りに来てくれた顔見知りたちを見て笑い、セリームを連れて馬車へと乗り込む。
彼らの乗った馬車とそれを取り囲む一団が王都から遠ざかり ―― ラズワルドは姿が見えなくなってもしばらく、地平線を眺めていた。
「そろそろ帰るか、ハーフェズ」
「ラズワルドさま。下宿人募集の札です」
ハーフェズは持ってきた下宿人募集について書かれた札を差し出す。
それを受け取ったラズワルドは、掲示板の側に近づいたが、
「しばらく募集しない」
「そうですか」
札を持ちハーフェズの手を握り、家へと帰る。そして下宿人募集の札が城門入り口にかけられることは、二度となかった。
ファルジャードとセリームが王都を去り ―― ペルセア王国歴三二○年が終わる。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
王都がうっすらと雪に被われた日の朝、ラズワルドはメルカルト神の文様が一切象られていない青の神官服を着て、青の長いヴェールを被る。ヴェールの縁には瑠璃が吊るし飾られている。爪は整えられヘナで赤く染められている。
部屋にいるのはラズワルドとメフラーブだけ。
「ラズワルド」
「なんだ、メフラーブ」
「こいつはお前が我が家にやってきた時、養育費が詰まった革袋の中にひっそりと入ってやつだ」
メフラーブはラズワルドに瑠璃の首飾りを手渡した。美しく染まった指で手の込んだ房飾りが目を引く首飾りをつまみ上げた。
「付けていくか?」
「持っては行くけど、付けはしないよ。後で届けてくれ」
「分かった。じゃあそろそろ行くか。外で待ってる奴らも大変だろうからな」
「そうだな」
ラズワルドはメフラーブにおぶわれる。
「大きくなったな」
十年前メフラーブに突然手渡された赤子は、すっかりと大きくなった。だが、それでもまだ子どもの顔をしていた。
「そりゃまあ。色々とありがとうな、メフラーブ」
「この先世話をかけないみたいな言い方すんな。どうせ、ちょくちょく帰ってくるんだろ」
「もちろん!」
しっかりと締めていなかった入り口の扉を足で押し開けると、いつもは殺風景な外階段が鮮やかな青色に染まっていた。
壁には青と白を基調にした絨毯が飾られ、階段をたるみ一つなく飾られているものと遜色ない絨毯が貼られている。
「なんか、家っぽくないな」
「そうだな」
「メフラーブに背負ってもらって、階段降りるなんて、何時以来だろう」
「さあな。お前は、階段を駆け下りるのが大好きな子どもだからな」
「過去になってない」
「まだ子どもだろ」
「ま、そうかもな!」
階段を降りると、天蓋のついた輿を肩に乗せ、膝を折り頭を下げている十二名がおり、その周囲をラズワルドの旗を持った騎兵が取り囲んでいた。
メフラーブは輿に近づき、背中を向けてラズワルドを降ろす。
この儀式中、輿に乗ったら声をかけてはいけない決まりになっているので、メフラーブは軽く頷くだけ。ラズワルドも同じよう頷く。メフラーブが離れると、輿を担いでいる男たちが一斉に立ち上がり、騎馬隊を引き連れ輿に乗ったラズワルドは下町を去っていった。
ペルセア王国歴三二一年一月、ラズワルドは十歳になり、ハーフェズを連れて神殿に入る。