ラズワルドたちに荷物を届け、土産をもらい帰国の途についたハスドルバルは、無事にネジド公国に帰国した。
「ハーフェズはどうだった?」
「立派にご成長なさってました」
命を果たして帰国した部下ハスドルバルを労い、また話を聞くためにサラミスは小さな宴の席を設けた。
席にはハスドルバルの他、サラミスにアサド、キヴァンジュの四名。
本当に小規模だが、サラミスはネジド公国の軍の重鎮。アサドはネジド公国を治める大公の血筋で政治を担当している人物。キヴァンジュはネジド公国を治める大公で、場所は王宮の一角。
彼らは異国にいるサラミスの妻子と、その主の話を楽しみにしていた。
ハスドルバルは土産の品々を、宴の部屋に運び席に付く。大公のキヴァンジュから労いの言葉を貰い、酒が注がれた杯を掲げて、無事に帰ってきたことを喜び合い ―― 杯に少し口を付けただけで、サラミスが息子の話を聞かせてくれと身を乗り出す。
「槍はどうだった? 少しは気に入ってくれた素振りを見せたか?」
ハーフェズが生まれる前に帰国したので、サラミスは息子ハーフェズを見たことは一度もないが、たまの手紙とハスドルバルからの報告を聞いては、息子の成長を喜んでいた。
「ハーフェズさまは、お喜びでしたよ、サラミスさま。槍を振るえるようになるために、早く成長したいとおっしゃってました」
「そうか、それは良かった。優しい子に育っていると聞いていたので、武器を嫌うかと思ったが、そうではなくて良かった」
公使としてペルセア王国から帰国したのち、元気な男の子が生まれたと、奴隷商のゴフラーブから報告を貰った際、サラミスはそれは喜んだ。
そのあまりの喜びぶりに、友人であるアサドはやや呆れながらも一緒に祝した。
サラミスは生まれた
普通ならば成人の祝いに贈るところだが、サラミスの身分は
「御主の息子だ、強くなるであろうよサラミス」
葡萄酒の杯を持ったアサドは、見たことのない友人の息子が、あの見事な槍を振るう姿を想像して ―― その武勇が大陸に鳴り響けば良いなと、心より思った。
「勇敢で芯の通った強さを持った男に育って欲しいものだ」
「お前の息子です。きっとそうなりますよ、サラミス。それにしても、お前の息子に会ってみたいものです」
「陛下……ありがたき御言葉」
ネジド公国の大公キヴァンジュは、吹けば飛ぶような小国ネジドを、大国間を調整して見事な手腕で大過なく治め、国内での評判は非常に高い。
既に高齢のため、跡取りが摂政として政務を肩代わりするべきなのだが ―― 後継者であるユィルマズは、あまり積極的に政務に関わろうとはしない。
このユィルマズはキヴァンジュの実子ではなく、キヴァンジュの弟の孫。キヴァンジュの家系で、唯一の男系男子のためユィルマズが選ばれたのだ。
アサドはキヴァンジュの妹の孫なので、後継者には選ばれなかったが、支配者としての評価は高い。
しばし息子ハーフェズの話に花が咲き、そして次に土産の品々に話題が移った。
ハスドルバル自ら立ち上がり、土産が乗せられている盆をサラミスの前へと運ぶ。盆は五つほどで、全てに青い布がかけられていた。
「サラミスさま。ラズワルド公柱より”自分のものにしてもよし、国家に収めてもよし”と、こちらをいただきました」
料理が入った器を避けて置かれた盆。その品を隠している布をサラミスはつまみ上げる。するとそこには、巻子本が積まれていた。五つの盆全てに巻子本が積まれており、サラミスは一巻を手に取り紐を解いて開く。
「これは……薫絹国の医学書ではないか!」
「本当か? サラミス」
「読むがいい、アサド」
「俺は薫絹国語があまり得意ではないのだが……たしかに医学書のようだな。他の盆に乗っている本にも目を通していいか?」
「もちろんだ、アサド」
薫絹国の最新の医学書の他に、ペルセア王国の薬学書。カルデアの占星術に関する書物など、どれも一級の書物が揃えられていた。
「これほどの本、持ち出して本当に良かったのか? ハスドルバル」
「許可は取ったそうです、サラミスさま」
「そうかありがたい……陛下、是非とも此方の書物をお収めください」
サラミスはこれらの本を個人で所有せず、国家に献上した。
「しかし、見事な本の選別だな」
アサドがカルデアの占星術に関する本の一冊を読みながら、しきりに感心する。
「ラズワルド公柱の命を受け、ファルジャードなる青年が選んだそうです。アサドさまがご覧になっている、カルデアの占星術書は彼自らが写したとのこと」
「ほお。そのファルジャードとは何者だね?」
神の子から直接指示を受け、非公式ながら異国の要人に贈る本の選定を任されるような人物となれば、誰でも興味は湧く。将来重職につきそうな人物に対し、興味を持たない高官のほうが、むしろ問題視されるであろう。
「ペルセアの王立学術院において、入学して一年足らずで新進気鋭から、底知れぬ知性の怪物と称されるようになった、学問の徒だそうです」
ハスドルバルの問いに、質問した大公は満足げに頷く。
「あの王立学術院で、それほどまでと言われるとは。会話はしたか? ハスドルバル」
「はい、アサドさま。もっとも向こうの知識に対する貪欲さに、わたしは防戦一方でございました」
「どのような話をしたのだ?」
「サータヴァーハナやネジドの常識について、色々と聞かれました」
「常識?」
「以前陛下やアサドさまにもお話したように、サータヴァーハナ人は左手を不浄としているため、左利きの者は居りませぬ……といったことです」
この質問は、その少し前に盗癖のあるレイラと遭遇し、腕を切られたら……なる会話から「サータヴァーハナ人は右腕を切られ、餓死刑に処される」ラズワルドから聞き、なぜ左手で食わぬのだと会話が発展した。ラズワルドの言うサータヴァーハナ人ことジャラウカについて、知っている子どもたちに尋ねたところ「ラズワルドを抱えるとき、絶対右手しか使わなかった。左手は不浄だから、神に触れられないって言ってた」と教えられ、俄然興味を持ち、初めて会ったハスドルバルを質問攻めにした。
「それはまた」
「とにかく何でも知りたがる青年で、一度教えたことは、何でも覚えているようでした。本人は後々、薫絹国に留学したいとも言っておりましたな」
「ファルジャードですか。その名前、お前も覚えておきなさいアサド」
ファルジャードの薫絹国留学は、ラズワルドと「神殿に入ったら、使節団の学術院枠推薦してやるから、それまで薫絹国語を完璧にしとけよー」約束をかわしていた。
息子同様、見たこともないが才能ある青年の話題に花が咲き、大公は高齢ゆえ先に帰り ――
「サラミスさま。こちらナスリーンさまより、贈り物です」
次にハスドルバルが取り出した土産は、ナスリーンが仕立てたサラミスのゆったりとした上着であった。
「あの子が仕立ててくれたのか」
「はい。以前お持ちしたサラミスさまの上着を元に、仕立てたそうです」
前々回ハスドルバルがナスリーンのもとを訪れた際「サラミスさまの上着を一着いただけないでしょうか」と頼まれ、前回それを届けた。なんの目的で欲しがったのかまでは、ハスドルバルは聞かなかった。というよりも、未だに想い合っている二人なので、上着を欲しがったところでなんの不思議でもなかったのだ。
深い緑の色合いが美しい上着を、嬉しそうに撫でているサラミスを見て、
「ハーフェズが神殿に入ったら、ナスリーンを我が国に喚んではどうだろう、サラミス」
アサドがそろそろネジドに喚んで、一緒に生活しろと提案する。
「そうだな。ラズワルド公柱に、住居を移動させたいとお願いしてみようか」
「買い取らぬのか?」
「わたしの奴隷になるよりも、公柱の奴隷であったほうが、何かと良いであろうからな」
「まあ、そうか」
サラミスは軍人奴隷である。
貴族のように地縁や血縁などの柵がなく、また優れた才能を持つ者たちのみで構成されており、その彼らが国王のみに忠誠を誓うというので、非常に重宝されていた。彼らは本当に優秀で、国の中枢の半数近くは、国王直属の家臣たる軍人奴隷たちが占めているのが普通だった。
国政に携わり、厚遇されている軍人奴隷だが、奴隷としての一面もあり、財産や権力を子に相続させることはできなかった。そのため、結婚はできるのだが、実際にする者はほとんどいない。
また奴隷ゆえ、結婚相手も奴隷しか許されない。
サラミスがナスリーンと結婚し、彼女を残して死ぬと、彼女はサラミスの財産として国家のものとなり自由に売り買いされる。
それよりならば、
「なんにせよ、まだ先の話だがな」
「そうか? あと二年ほどで喚べるであろう」
「そうだが、あまり急かしてもな」
また
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ラズワルドは塩茹でされた葡萄の葉を、ファルジャードたちの下宿で食べていた。
「いろんな所で食べたけど、やっぱりドルメはマリートのが一番だな」
料理を覚えたいというセリームの希望により、最近ではマリートが下宿の台所で料理を作り、セリームが手伝っていた。
下宿には料理を作っているセリームとマリート、葡萄の葉を食べているラズワルドの他に、学術院で使う試薬を乳鉢ですり潰しているファルジャードと、それを興味深く眺めつつから煎りされた
「ラズワルド公にそう言っていただけるなんて、幸せでございます」
ラズワルドはマリートの料理の料理が大好物だった。ラズワルドが物心ついた時にはすでに中年だったマリートは、いまでは老年に差し掛かろうかという年になっていた。
「もう一枚、葡萄の葉を食べていいか」
「多目に茹でておりますから、気になさらず、どうぞ好きなだけお食べください」
葡萄の葉を食べながら、年を取ったマリートの横顔を見つめ、いつか死んでしまうのだな……不思議な気持ちになりながら、ラズワルドは葡萄の葉の味を噛みしめた。
「マリート。奴隷の身分から解放して欲しいか」
「今のままでも充分でございますよ、ラズワルド公」
「そうか。そういうものなのか?」
「そうですねえ。解放された奴隷たちの話を聞いたことございますが、あまりいいものではありませんのでねえ」
「悪いことがあるのか?」
解放されたら幸せなのだとばかり思っていたラズワルドは、羊の挽肉と炒め玉葱、ハーブを混ぜた米を手際よく葡萄の葉で包むマリートを、不思議そうに見つめた。
興味深げな黄金が散りばめられた群青の瞳に、答えをもたらしたのはマリートではなくセリームであった。
「実は俺、ファルジャードに買われる以前に、二回ほど解放されているんです」
「おや? セリーム、奴隷だよな」
葡萄の葉を食べ終えたラズワルドは座り直し、セリームは料理の手伝いを止めて、自分のような奴隷にはよくある「解放事情」を語り出した。
「俺、目が
セリームの左目は濁り目で、こういった疾患を患っている奴隷は普通の奴隷よりも値引きされて売られるが ―― あまり買い手はつかない。
それでもセリームが十歳の時、やっと買い手がついた。
「買われて良かったと胸をなで下ろしたのもつかの間、幾ばくかの金を渡されて奴隷の身分から解放されました」
「なんで?」
「人間が天の国に行くためには、善行を行わなくてはなりません」
「あーなんか聞いたことある」
「ラズワルドさまは、天の国がご実家ですもんね」
アーモンドを食べ終えたハーフェズも、話に混ざる。
「そう言われているな、ハーフェズ。それで?」
「奴隷を解放するのは、善行の一つとされています」
「そうらしいな」
「俺を買った家の主は、死の床についていたらしく、天の国に行くために善い行いをしたいと、奴隷を解放することにしたらしいんです。そこで安く買える奴隷を購入して、解放したんです」
「…………それが一回目か」
「はい、一回目です。一回目の後、結局また奴隷に逆戻り……俺としては、奴隷に戻れてほっとしました。そして、それからしばらくして買われたのですが、その家も”善行のための解放用奴隷”としての購入でした」
「また解放されたのか?」
「はい。そのまま解放奴隷として、自由民として生きられたらよかったのでしょうが、無理でした。そもそも、俺には自由民として生きられるような知識はなにもなかったので。そして、そういった知識がある奴隷は、あまり解放されません」
二度目の奴隷落ちをしたセリームは、奴隷仲間と話をして、どうして自分が買われたのか理解する。
奴隷の解放は天の国に行くための善行だが、残された者たちは資産価値のある読み書きや計算ができたり、料理や裁縫に長けているような、手間暇かけて育てたり、高値で購入した奴隷は解放したくない。
そこで資産価値の低い、年を取って体が不自由になった奴隷や、なんの特技もない奴隷、見た目に疾患がある奴隷など、安値で買える奴隷を購入し解放し善行を積む ―― セリームは顔も名も知らない誰かが天の国に行くために、そして同じく顔も名も知らない誰かの資産を守るために買われ、そして解放されていたのだ。
買った者たちはセリームたちを解放した時点で、主ではなくなるので、体の不自由な奴隷たちがどこでどうなろうとも関係のないこと。それこそ死んでしまったところで、彼らには何ら関係がない。
そして解放という名目で僅かな金だけ持たされ捨てられたセリームたちは自由民として生きるか、奴隷に戻るかしなくてはならないのだが、前述の通り特技はなく、体が不自由な元奴隷に出来ることなどない。
「ファルジャードに買われた時も、また善行用なんだろうなと思ってたんだけど……ちゃんとした主に買ってもらえて良かった……」
「うわーん! わじゅわるどしゃま! 解放しないでー!」
セリームのしんみりとした話を、台無しにするハーフェズの泣き声が、粗末な下宿に響き渡る。
「突然なんだ、ハーフェズ」
「解放いやー! はーふぇず、じゅっと、らじゅわるどしゃまと、いっしょにいゆー!」
緑がかった黄色の大きな瞳から、涙をこぼしながら大声で叫ぶハーフェズ。その頭をいつものようにラズワルドは撫でる。
「分かってる、ずっと一緒にいる。絶対に売らないし解放しないから、心配するな。ハーフェズが煩いだろうから、連れて帰るな。セリーム、教えてくれてありがと。ほら、帰るぞハーフェズ」
「らじゅわるどしゃまあ」
「泣き終わったら、一緒に晩ご飯食べような」
ラズワルドは腰にしがみついているハーフェズを引きずりながら、隣の自宅へと帰っていった。
マリートも出来上がったドルメの半分ほど持って、メフラーブの元へと戻った。
往来の声が聞こえてくる、静けさの戻った下宿で、ファルジャードとセリームは向かい合っているのだが、違いに視線を外し ――
「その、買ってもらって感謝してるんだよ……当たり前のことだけど」
「俺も身の回りの世話をしてもらって、感謝している。まあ主だから当然と言えば当然だが、当然ではなく」
改めて言うとなると互いに気恥ずかしく、ファルジャードの腹の虫が鳴るまで、何とも言い難い空気が流れた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「奴隷の主として、ラズワルド公にどうしても頼みたいことがある」
「なんだファルジャード、改まって」
セリームが解放された経緯について知ったあと、ファルジャードは色々と考えて、下宿に大家であるラズワルドにハーフェズを招き、奮発して買った橙花水を木の杯に注いで差し出し、居住まいを正してセリームのことに関して重要なことを依頼した。
「俺になにかあった場合、セリームを買って欲しいのです公柱」
「唐突にどうした?」
「先日、セリームが語った解放奴隷の話を聞き、主が不慮の事故で死亡した場合、奴隷がどのような扱いになるのかなどを調べました。俺の場合は身内がいないので、セリームは奴隷商に買われることになる。その先が問題です」
「前回のように善行のために買われ解放されてしまうのは避けたいのか」
奴隷の身分から解放されることは喜ばしいことなのだが、解放された先にある未来が幸せだとは限らない。
「セリームは以前とは違い、読み書きが出来るようになったので、付加価値がついたとは思うのですが、濁り目ということで買い手がつかず、結局以前と同じになってしまう可能性が高いのです」
「多分そうだろうな。なるほど、それでわたしにセリームを買って欲しいと言う訳か」
「はい。それと、以前公柱に薫絹国に留学したいと申し出て、推薦を約束していただけました」
「そうだな」
「推薦が叶い薫絹国に留学した際、セリームのことを預かっていただきたい」
「分かった。セリームもそれでいいのか?」
「そんな恐れ多い」
「気にするな。なによりファルジャードに何事か起こらない限り、お前がわたしの奴隷になることはないし、留学中はどうしても誰かの所に身を寄せなけりゃならないんだから、そんなに深刻に考えるなよ」
「ありがとうございます」
橙花水の爽やかな香りを楽しみながら、ラズワルドはセリームのことは任せろと請け負った。