偽りの花の名[25]
 後宮を出たケシュマリスタ王は輿に乗り、
「寝室」
 夜明け間近に寝室に戻った。
 自分の輿を担ぐ者たちの押し殺した息と、足音と、輿から下がっている飾り布がこすれる音を聞きながら。柔らかくも鋭さのある目元に感情はなく、口元や頬も同様で、整っている姿は全てを拒絶している。
 色とりどりの花をが散らされた通路を進み、一段高い場所に輿を降ろし、担いできた者たちは頭を下げる。
 輿から降りたケシュマリスタ王は無言のまま、自らの寝室へと向かった。

 扉は自動ではなく開かせる形だが、それ用の人員は置いていない。王自ら扉を開けて、
「いたのか、ネロ」
 寝室の片隅で待ってくれているシラルーロ子爵に、分かっていながら声をかける。
「はい。部屋に戻ろうと思ったのですが、戻りそびれてしまって」
 声は低く落ち着いている ―― 普通に聞けばそうだが、王の耳にはシラルーロ子爵の怯えがはっきりと分かった。
 シラルーロ子爵は恐怖している。
「朝まで僅かだが、眠ろう。なにもしない、ただ隣に」
「はい」
 恐怖を与えているのが自分であることを、王は分かっていた。その理由も。
 ゲルディバーダ公爵が婿を迎えた。
 自らが決めたことだが、それに対する言いようのない感情。大切な者を手に入れられなかった、憎しみに最も近いもの。
 シラルーロ子爵は王がゲルディバーダ公爵のことを愛していることは、早くから気付いていた。それが本当の愛情なのか、失った実兄の代わりに対する者なのかまでは判断できなかったが、狂った愛情だがそれは確かなものであった。
 欲しいものを失った時、失いたくないものを手放した時、王がどのような行動を取るのか、シラルーロ子爵は身をもって、そして近くでずっと見てきた。
 一緒に寝ようと手を伸ばしてくる王。その美しい指先が耳と顎の境に触れると、子爵は身構えていたにも関わらず大きく震えた。
「……寝よう」
 王は何ごともなかったかのように、そのままシラルーロ子爵を抱きしめてベッドに倒れ込む。
 何ごともないことは分かっていても、何ごとがなくとも凶暴になることがある。それがシラルーロ子爵が知る王。

 王とクレスタークに無理矢理連れて来られて以来、見た目にも酷い状況には一度も置かれていない。最初はぎこちなかった優しさも徐々に滑らかとなり、今では充分過ぎるほどであった。だがそれでもシラルーロ子爵は怖ろしかった、王も同じく。
 黄金の髪を指で遊ぶ。触ったら溶けて消えてしまいそうなほど繊細な触り心地の髪。光沢があり瑞々しい肌。
「ん? 気に入った」
「昔から、気に入っていますとも」
 ケシュマリスタ王が退位した後、故国へと戻り普通の人生を送らせる。テルロバールノル王の言葉を聞いた時、子爵は自分の未来がまるで見えなかった。
 自分の人生はこの美しいケシュマリスタ王と共にあるのだと。だが一生側にいたいとは言えない。願いは叶うのだが……なにより、今更どの面を下げて故国に帰れるのだという思いがある。
 王としてケシュマリスタ王よりも優れているテルロバールノル王が、自国の貴族の誘拐を黙って見ていることなどなく、自ら乗り込み解決にやってきた。
 その時、子爵は自らの王の手を取らず、ケシュマリスタ王の元にいるといってしまった。テルロバールノル王は恐怖で正常な判断ができないとして、強引に連れろうとした。
「王」
「いまのお前に、まともな判断は出来ぬ。いまのお前はここに居たとしても役に立たぬ。まっとうな判断力が働かぬお前にはな」
 テルロバールノル王の言うことはもっともだと ―― だが子爵は残してくれと頼んだ。
 役立たずのままでもここに残りたいと願った。
 テルロバールノル王はもちろんそんな願いは聞き入れず、連れ帰る。

 しばらくの間、テルロバールノル王と他の王や皇帝との間で話し会いが持たれ、子爵はケシュマリスタ王の元へと行くことになった。テルロバールノル王は最後まで反対し、いまでも認めていない。

 王の判断は間違ってなどいないと、子爵は分かっている。自分がここに居るせいで、ケシュマリスタ王は先に進むことができない。
 消えてしまった幸せを求めていたのは、もしかしたら自分であったのかもしれない―― そして自分は離れた方が良いと子爵は考えた。
 その距離を置く行為が結果、自分の死に繋がるとしても。テルロバールノル王にそれらを伝えると、榛色の髪を揺らし王者の笑みで
「やっと分かったか」
 ずっと昔から分かっておったわ……と。

 朝日が寝室にさし込んでくる。美しい夜明けを何度も共に迎えたことがある。
「もう、朝か」
「起きてください」
「寝ていないよ」
「分かっています。ベッドの上でゆったりとする時間はありませんよ。王が二名もいらっしゃるのですから」
 純白のシーツの上で、ケシュマリスタ王は長い、身長と同じほどもある髪を両手でかき上げた。
「ネロ……目覚めのキス」
「目、覚めてるでしょう」
 そう文句を言いながら、何度も何度も触れた唇に唇を重ねた。

**********


 ケシュマリスタ王族は食い意地が張っている。それも並外れて。
 開祖が空腹を覚えるがそれを満たすほど食べることのできない両性具有であったことが原因とされている。食べることができる個体は、自らも知らぬ過去を払拭するかのように食べ続ける。他人に食料を分け与えるなどという考えはない。

 自覚できぬ飢餓に一生支配されている――

 ゲルディバーダ公爵とケシュマリスタ王、どちらの食い意地が張っているかというと、前者である公爵の方である。
「ゾローデ、これ好きなんでしょ!」
「はい」
「じゃあね、僕の分あげるよ」
 おおよそ公爵らしからぬ行動であった。
 言われたゾローデの方は、そのような特徴と性格であるとは知らないので、ありがたく受け取り笑顔で食べて見せた。
 公爵はかなり無理をしていたと、子爵も分かったが、ゾローデは気付かぬまま礼を述べたことで、少し場が和んだ。

「テルロバールノル王」
 ゾローデとの会話を終え帰国のために旗艦へと戻る彼女に、
「ネディルドバードルグか。どうした?」
「あの……ゲルディバーダ公爵と彼の結婚をお許しになるのですか?」
 子爵は思っていることを尋ねた。本当はもっと色々なことを尋ねたいのだが、言えるのはこれだけであった。
「許してやる。あのグレスが食い物を分けてやるとはなあ。成長したのう」
「……はい」
「お前が気に病むことではない、ネディルドバードルグ」

 ゲルディバーダ公爵の”食い意地が張っている”は遺伝的な飢餓と、生後まもなくの飢餓の両方が合わさったのが原因。


 ケシュマリスタ王に殺されかけた子爵は、目を覚ましてしばらくの間動くことができなかった。周囲を窺うことができない土砂降りの雨音を聞きながら、看病してくれる奴隷の二人と、二人の息子。
「ノーツ……」
 まだ痛む自分の腹部を押さえながらノーツを見たとき、安堵と共にゲルディバーダ公爵のことを思い出した。
「誰か、食事を……与えたか」
 フォウベは首を振り否定する。両親が死去し子爵が気を失っている間、ゲルディバーダ公爵は何も与えてもらえず、廃墟王城の天井部分のない野ざらしに近い場所で泣きもせず黙っていた。
 口に入ってきたのは雨水だけ。息苦しくなるほどの雨水。

 人間とは違うため、ゲルディバーダ公爵は三日間食べずとも、雨で溺れようとも死ぬことはない。ただ苦しく、飢えに嘖まれるだけ。

 礼儀や勉強ならば分かるものの、生後間もない幼子を救う方法を子爵は知らなかった。まだ残る腹部の痛みに顔を顰める。主の大事に幼いノーツが近付いてきて、必死に腹を撫で ――


「あの娘の飢えを満たしたのは、お前たち。飢えさせたのはヴァレドシーア。あの娘はヴァレドシーアを許し、お前たちに感謝している。それだけだ」
 食料代わりになるものを携えて子爵はゲルディバーダ公爵のもとを目指し、ケシュマリスタ王は自らの至らなさに呆然とする。
 水で満たされ人間であれば水死していたであろうベッド。救出し床に置いて持って来た食料となりえる白い液体を口に注ぐ。
 濡れて冷え切っていた唇を温め、そしてゲルディバーダ公爵は泣き出した。飢えを満たすよりも重要だとばかりに泣き続けた。
 ゲルディバーダ公爵の生命に異常はなかった。健康状態も同じく。だが飢餓は刻み込まれた。

 上昇してゆくテルロバールノル王の緋色の旗艦カルニスタミアに子爵は頭を下げる。いまだに自分のことを気にかけてくれる王に悪いと心底思うも ――

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