他の客ならば取り次がない家令だが、相手の身分を考慮すると、勝手に断ることも待たせることもできない。普段は取り次がなくても入っていいとイズカニディ伯爵が明言しているものの、本日は来客もいる。その来客は貴族ではなく、然りとて平民とも言い難い。なにせケシュマリスタ王国の王太子婿の側近も含まれている。
　なので珍しく取り次いだ家令だが、
「勉強で分からないところがあるので、教えてほしいのじゃ」
　そんなことは気にせず、シュルティグランチ公爵エゼンジェリスタは何時ものようにやってきた。
　眩しいと言って良いほどの光沢ある榛色の髪。癖はないが柔らかな膨らみがあり、長さは太股の中程まで。瞳の色は右が緑で左が赤。頬は丸みを帯びており、瞳は大きく、それらが実年齢よりも幼さを感じさせる。背は年齢の平均からするとやや低めで、先日まで軽やかにはしゃいでいたジベルボート伯爵とは違い、やや”おっとり”としている雰囲気がある。
　その”おっとり”の大きな原因は洋服。
　紺色で膝丈のパニエで膨らませたドレス。襟と袖は白くやや大きめに編まれたレースで飾られ、胸元には緋色のリボンが揺れる。
　頭を飾るカチューシャも白のレース。彼女が属する王家の花、蒲公英が小さくあしらわれている。昔を思わせる格好と、初恋を素直に表に出す少女の笑みは懐かしさを与える。
　皇太子妃を初めて間近でみた平民たちは、食事の席から急いで立ち上がり部屋の隅へとぎこちなく逃げてゆくが、エゼンジェリスタは気にしない。なにせ彼女は大貴族の姫君、平民が遠ざかることは当然のものとして受け入れる。
「礼儀作法は気にしなくていいと言ってはいたが、今日は来客があるから、ちょっと我慢して欲しかったな、エゼンジェリスタ」
「……」
　イズカニディ伯爵にそう言われたエゼンジェリスタは、先程までの嬉しそうな笑顔が消えて、悲しさが浮かびあがる。それは”嫌われた、嫌われた”と不安を感じていると一目で分かる。
「そんなお顔なさらないでください」
　一人椅子から立っただけで、離れていなかったクレンベルセルス伯爵が礼をして、エゼンジェリスタを慰めた。
「お主誰じゃ？　……貴族は全部知っておるが、皇王族は代が絶えることが多いから……聞けば分かるのじゃ！　公爵、いや！　侯爵までならば網羅しておるのじゃ」
　貴族の中の貴族。全ての貴族を網羅し、貴族王とまで揶揄されるローグ公爵家の次女としては”皇王族だから分からん”は出来れば言いたくはない台詞。
　自分が分からないことと、顔の雰囲気から皇王族と踏んで言い返す。
「クレンベルセルス伯爵バルデンズと申します。このたびゲルディバーダ公爵の婿に選ばれたヴィオーヴ侯爵の側近となりました」
「クレンベルセルス伯爵……おう、ブロベロンゼ侯爵の子じゃな」
「はい」
　正解した！　安堵し、イズカニディ伯爵の方を見る。
　視線を向けられたイズカニディ伯爵は”さすが”と褒めるのだが、その態度には嫌味が一切なく、本当に褒めていることが周囲にも伝わり、素直に認めることができるものであった。
「お主も知っておるじゃろうが、自己紹介してやろう。儂はシュルティグランチ公爵じゃ。してグレスの婿の側近とな」
「はい。私もゾローデもイズカニディ伯爵の二年後輩に当たります」
「ということは、儂の先輩か」
「はい。それと、あそこの少尉ウエルダはヴィオーヴ侯爵の友人にして側近に選ばれた青年です」
「平民か。こちらへ来い」
　エゼンジェリスタは手招きすることもなく、振り向くこともなく「その者」を呼ぶ。
「はい！」
　呼ばれたウエルダは、失礼ないようにと行進するかのように腿を高く上げ、手を機敏に振って近付いた。イズカニディ伯爵は近くまでやってきたウエルダの隣に立ち、肩を抱くようにする。
「俺、ウエルダの側近になった」
「……本当か！」
　他に聞こうと考えていたことがあったエゼンジェリスタだが、イズカニディ伯爵の言葉に全てが消えてしまった。
「ああ」
「なんでまた？　リディッシュ、お主、側近とかあまり好きではないと言って、王族から側近要請をもらっても拒否しておったのに」
　肩を抱かれているウエルダの背中を冷や汗が伝う。
――　王族の側近拒否……伯爵さまの祖先は皇帝の側近も務めて……！
　側近を務めた人物の兄を祖先としているので厳密には違うが、王族の側近を拒否したのは本当のこと。
「ウエルダの側近がキャスだって聞いてな。こりゃまずいと」
「ジベルボートを側近にしたのか？」
　エゼンジェリスタは長い睫を震わせながら目を見開く。
「側近になりたいと言われたので」
「了承したのか……くっ、お主……嫁が欲しかったら儂に言え。テルロバールノルの強きおなごを……くっ、儂等の王しか思い当たらぬ……お主、結婚してたら離婚してやれ。キャスに耐えられるおなごなど……あ、キャス性格は悪くはない……悪いが悪くない。あいつの性格は治らんし、あれで良いのじゃが」

　ウエルダはこのとき、生涯独身を覚悟した。

「イズカニディ伯爵、私たちは帰ります。シュルティグランチ公爵殿下、失礼いたします。さあみんな！　私と一緒においで！　お礼は明後日にでも！」
　ウエルダと平民たちもぎこちなく挨拶して、イズカニディ伯爵の自宅を後にした。
　帰る途中、クレンベルセルス伯爵が全員を急がせた理由を説明する。
「殿下がいられるのは、ほんの僅かな時間だ。明日は皇太子殿下と会わなくてはいけないしね」
「かなりお邪魔だったと」
「そうだね。それに前線に向かうからしばらく会えなくなるからね」
「前線ですか？」
　ウエルダは突然のことに驚き聞き返す。
「そうだよ。ゾローデは帝星に到着するや否や准将位を陛下より授与されてて、そのまま異星人戦役へ。エイディクレアス公爵殿下元帥の副官に任命されるそうだよ」
　王族と結婚するというのは、こういうことなのか……みな、呆気に取られつつも、妙に納得していた。

　ゾローデは帝星に帰還するまで、この事実を知ることはない。彼は今、ケシュマリスタ王から驢馬に乗った少女の歌を繰り返し聞かされている。

「そうそう、ウエルダ。キャスは性格悪くないからね。ただ女性が苦手な女性……いやある一定の女性には人気あるんだけどねえ」
「あ、はい……そう言えば、クレンベルセルス伯爵はご結婚なさっていらっしゃるのですか？」
　あまりにも結婚できないと言われたウエルダは、ふと考えた。この二十五歳になる皇王族の伯爵に妻子がいるのではないかと。話題を振られたほうは”君たち知らないよね”とばかりに、かいつまんで説明をする。
「私は結婚してたけど、昨年奥さん戦死した。あ、気にしない、気にしない。私もあの人も結婚したという実績を作っただけだから。私たち皇王族は貴族や王族の政略結婚とはまた違って、血筋を上手く残すことを最優先に組み合わせを決められるんだ。私とあの人の間に子供はいなかったけれども、あの人以外の女性で私と合う人がいないので、しばらくは結婚することもないだろう。私たち皇王族は恋愛結婚なんて稀というか、誰も考えないね。結婚したくなったら用紙に記入するんだ。希望の年齢や髪の色や肌の色、文人が軍人か、芸術などの好みも入れてもいいね。貴族庁が両者の望みに合う、血筋的にも才能的にも釣り合うのを組み合わせてくれるんだ。……御免よ、ウエルダ。平民の特権である恋愛を邪魔するようなことして。でも！　私だけなら無理だが、イズカニディ伯爵も付いてくれたから、なんとかできるさ！　頑張って恋愛するんだ！　全力で応援するよ！　恋愛結婚とか楽しみ！」
「あ……はい」
　もてない訳ではなく、忙しいわけでもないのだが、二十三歳になるまで彼女らしきものに恵まれなかった自分の人生を振り返り、ウエルダはかなり困った。クレンベルセルス伯爵の期待に応えるためにどうしていいのか？　だがその解決方法は見つけ出せない。焦って簡単に見つけられるのであれば、ウエルダは二十三歳まで彼女なしなどという状況に陥っていない――

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊

　クレンベルセルス伯爵たちが去り、
「……」
「……」
　イズカニディ伯爵とエゼンジェリスタは互いを見つめ合う。
「どこが分からないんだ？　エゼンジェリスタ」
「あのなあ、ここが分からんのじゃ！」
　鞄から分からないところをメモしたノートを取り出し、万年筆のキャップを外す。
「この問題か。これはなあ……」
　イズカニディ伯爵は問題文を黒い手袋で隠された長い人差し指で軽くノックしながら、説明を始めた。
――　エゼンジェリスタのほうが俺より頭いいんだけどなあ
　身体能力で劣る分を学科で補っているエゼンジェリスタは、身体能力特化で学科は補習の繰り返して卒業したイズカニディ伯爵よりも、よほど出来が良い。
　だが、この場でそれを言うのは無粋。
　二人ともこの空間を楽しんでいるのだ。そうしてしばらくの間、いつものように雑談混じりの勉強をしていると、
「閣下」
　二人が会話をしている最中、滅多に話しかけてこない家令が書状入りの箱を掲げて礼をする。
「なんだ？」
　イズカニディ伯爵は受け取り、書状の中身を確認する。
「……」
「どうしたのじゃ？　リディッシュ」
　渋い顔になってしまった彼に、万年筆のキャップをして”見せてくれ、見せてくれなのじゃあ”と瞳を潤ませながらエゼンジェリスタは耐える。これがジベルボート伯爵ならば、彼の背後から首に手を回して”僕もみたい”と言うところだが、エゼンジェリスタはそういったことは出来ない性格であり、そのように躾けられている。
「これ」
　質問が書かれたメモ書きの上に広げ、彼は問題の部分を指さす。
「……なんという場違い感。このリストの中で異彩を放っておるぞ」
　それはオーランドリス伯爵の婚約者候補のリストで、該当者に全員の名と経歴と職歴が書かれている名簿が、皇帝印つきで送りつけられたのだ。
「そうだなあ」
　エゼンジェリスタが言うように、リストの中で唯一の軍人イズカニディ伯爵。他はデオシターフェィン伯爵やフィラメンティアングス公爵など、軍とは違う場所に位置している人物が並んでいる。
「儂のせいじゃろう……」
　この面々の中でイズカニディ伯爵はあからさまに浮いており、なんらかの悪意が働いたとエゼンジェリスタが考えるのも当然であった。
「そうとも言えないだろう。これでも一応はエヴェドリットの名門貴族の端だ。シセレード公爵姫の婿候補に名を連ねてもおかしくはない」
「じゃが、他は皆……」
「カーサーが俺のことを選ぶとも限らないしね」
――　カーサーは綺麗で強いから、心配なのじゃあ……
　エヴェドリットは相手に強さを求める。それは内面の強さなどではなく、圧倒的な戦闘力。そして強さという面では、エゼンジェリスタは到底イザベローネスタに及ばない。軍帝をも越える、歴史上最高の帝国最強騎士。黄金色の柔らかく波うつ髪がふくらはぎまであり、陶磁器のような肌に、皇帝眼を兼ね備えた少女。だから心配になるのだ。
「そうじゃが」
　”この婚姻の決定権はオーランドリス伯爵にある”との明記されたその文章をなぞる。
「そうだ、エゼンジェリスタ」　
「なんじゃ？」
「しばらく会えなくなる」
　エゼンジェリスタは休み毎に訪れており、イズカニディ伯爵もその時間を取っていたのだが、
「なんでじゃ？　領地にはこの前帰ったばかりではなかったか？　なにか問題でも」
「ファティオラ様の夫ゾローデが、エイディクレアス公爵殿下の幕僚に任命されることが内定した。帰還後即日任命で、即日エイディクレアス公爵殿下と共に出陣する。当然俺も随行することになる。聞くとゾローデがソイシカに滞在するのは三日ほどだとか。往復の日程を考えても準備に……」
「前線に行くのか……そうかあ……」
　テーブルの上に置かれていたエゼンジェリスタの手が固く握りしめられ、俯き加減になる。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だ、俺は機動装甲には乗れないし、全員の警護するくらいだからな」
「オルドファダン大会戦のときは、白兵戦闘員のほうが危険であったと」
　おおよそ十六年前に起こった異星人の大侵攻で、一時期前線が崩壊した大会戦。あのゲルディバーダ公爵の両親もこの大会戦に赴くために産まれたばかりの公爵を残して出陣し、途中で事故に遭い帰らぬ人となった。
　この二人が出陣する前に、軍人の枯渇が深刻なものとなり、帝国において二度目になる帝国上級士官学校生の「学徒動員」がかかった。一度目は後に暗黒時代と呼ばれる、いまから千五百年ちかく昔のこと。この学徒動員も帝国滅亡の一因であり、千年以上過ぎているが反対意見も多かった。だが動員せねば帝国が滅亡する状況でもあった。
　そこで折衷案が採られる。一度目の動員は六年生から一年生まで、全生徒にかけられたが、今回は「現時点で六年から四年までの三学年」だけで「現時点で三年から一年は絶対に動員しない」ことで意見がまとまり、動員が開始された。
　当時十六歳であったエゼンジェリスタの父であるヒュリアネデキュア公爵やクレスターク、イザベローネスタの兄であるサロゼリスなど、十二歳で入学した彼らは四年生で動員にかかり、学舎に戻って来ることなく卒業した。
　イズカニディ伯爵は当時十一歳で、来年に受験を控えていた。
――　このまま行けば、動員されるかもな
　実情は彼が考える通りであったが、当時のケシュマリスタ王妃が反対し、王と共に前線へと赴くも届かず。生徒の誰もが覚悟した、覚悟があっての入学であった。だがそれでも動員はかからなかった。
　先に動員された上級生たちが、耐えに耐えた。後輩達に”卒業したお前たちを待っている”と言い。オルドファダン大会戦が終わった時、動員された六百人の将校予定の生徒たちは三十五名にまで減っていた。
「そうだな。でも……エゼンジェリスタのお父上もいらっしゃるし」
　三十五名は大会戦後、上級大将や元帥の地位を授かり、自らが望む場所に赴任するもよし、退役して自由に生きるもよしとされたが、誰一人前線を離れることはなかった。現在はそれから十五名が戦死しており、生存者は二十名。彼らはここから離れることなく、最後の一人まで戦争を続ける。誓ったわけではないが、全員の意志は同じ。
「うん」
　軍人になったからには、そのような事態も想定しなくてはと言われるが、それでもエゼンジェリスタはただの少女のように、恋した相手が心配で行って欲しくはないと　――　それが素直な気持ちであった。