帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[206]
「お礼を言っておいてね」
「うん! あてしおっぱい様にお礼言うよ!」
翌朝楽しく二人で朝食を取り、着換えを手伝い、仕事へと向かうサウダライトを見送る際に ―― 昨日はイレスルキュラン様が帰っていいよって言ったから、グレスに会えたんだ ―― 教え、お礼を言うように伝えた。
グラディウスは大きな藍色の瞳を輝かせ”任せて”とばかりに自分の胸を拳で叩く。
サウダライトは手袋を外し、相変わらず分け目がぎざぎざのグラディウスの頭に手を置いて撫でる。
「グレスは良い子だもんね」
「おっさん」
大きな目を細めて撫でている手に自分の手を重ねる。
時間ぎりぎりまで頭を撫で、手袋を嵌めないまま外へと出て車にサウダライトが乗り込む。グラディウスは玄関まで出て、
「いってらっしゃい、おっさん!」
いつも通り、元気な声をかけ両手を振って見送る。車はゆっくりと走りだし、後部の窓からサウダライトが手を振り、グラディウスはもたもたと車を追いながら手をずっと振り続ける。
見えなくなるまで手を振り、
「入りましょうか、グレス」
「うん、リニア小母さん」
リニアに促されるようにして館に戻るのも、二人が館に入り見えなくなるまでサウダライトが館を見つめているのも何時ものこと。
サウダライトを見送ったグラディウスは、急いで「いりゃ……さまにお礼をいうのを忘れない」とメモをして、今日の勉強に使う教材の一番上に貼りつけた。
”いりゃ……”とはもちろん”イレスルキュラン”のこと。
これでお礼を言い忘れる心配がないと安心をし、その後はいつも通りの仕事 ―― グラディウスがする必要のない掃除 ―― をこなして、リニアが作った昼食を取る。
程良い甘さのチョコチップマフィンにゆで卵。砂糖をからめてフライパンで焼いた林檎、仕上げにバターをたっぷりと入れる。そして大きめに刻んだ数種類の野菜のコンソメスープ。
特別な調味料を一切使わない家庭料理をグラディウスはリニアと共に笑顔で食した。
「リニア小母さん」
「なあに? グレス」
「あのね、リニア小母さん」
「ゆっくりでいいわよ」
「うん! あのね、リニア小母さん。あてしね、ほぇほぇでぃ様の秘密のお誕生日会をしたい」
「……え?」
グラディウスは必死に身振り手振りで説明をし、リニアはその説明を聞いて”皇帝陛下に……”と言おうしたとき、
「それはいい考えだ」
イレスルキュランが間に割って入ってきた。突然の正妃の登場にリニアは驚き椅子から立ち上がるが、座っていろと手で指示を出す。
そこでリニアはもう一つの椅子を引きイレスルキュランに頭を下げてから、自分の椅子に座り直した。椅子に腰を下ろしたイレスルキュランは、
「グレス、マルティルディに秘密にしたいんだろ?」
「うん!」
「分かった。協力する」
「ほんと?」
「ああ。でも私一人だけじゃあ無理だ。私の兄にも頼もう」
「ひ、秘密」
「大丈夫。マルティルディには絶対に気づかれないようにするから。そうだな……今日は残念だが勉強している時間はないな。今から兄の所にいって、マルティルディの秘密のお誕生会の計画を練ろう」
「ね、ねる?」
「計画を立てることだ」
「そうなんだ!」
「リニア。ルサに今日は勉強なしだと伝えるように。理由は秘密だぞ」
形のよいアーモンド型の瞳でウィンクし、細い人差し指を同じく細めの唇に軽く乗せて”口外無用”と伝える。
「畏まりました」
イレスルキュランは兄キーレンクレイカイムに連絡を入れるよう連れてきた召使いに指示を出し、グラディウスが昼食を食べ終えると、
「最後の一個持って行く」
「そうか」
すぐに館を出た。
※ ※ ※ ※ ※
「どうした? ファロカダ」
キーレンクレイカイムは本日は休みで、お約束のように女を侍らせて性行為を楽しんでいた。余程のことがない限りは取り次ぐなと副官のファロカダにいつも通り命じていた。王子という立場のものが「余程のこと」となると「皇帝からの要請」か「王からの要請」の二つしかない。後者は他国の王が他国の王子に直接命じることは滅多にありはせず、キーレンクレイカイムの姉であるイダ王は弟の大事な休暇を潰したりはしない。
前者の皇帝はサウダライト。彼もキーレンクレイカイムの休暇は把握しており、けっして邪魔をしたりはしない。
「イレスルキュラン殿下が大至急来るようにとのことです」
「イレスルキュランが? 用件は?」
「教えてはくれませんでしたが、早く来ないと大変なことになるとのことです」
「それはまた」
キーレンクレイカイムは立ち上がり服を着せるように召し使いに促す。
「向かわれるのですか?」
「イレスルキュランがそこまで言うのならば余程のことだろう。ついて来い、ファロカダ」
「はい」
指定の場所に二人が到着すると、そこにはおかしな動きをしているグラディウスがいた。グラディウスを初めて近くで見たファロカダは両手で顔を覆い膝を折った。
「このくらいで笑ってたら身が持たんぞ」
グラディウスは空いた時間をも無駄にはせず、ダンスの一つチャチャチャの練習をしていたのだが、
「あてし、ちゃちゃちゃちゃの練習してた」
「チャが一つ多いぞ、グレス」
ファロカダにはあの動きからチャチャチャを推察するのは不可能であった。ならば何が近いか? そう問われたら……舌が標準で五枚と言われる詐欺師王国の上級貴族ファロカダでも口籠もる。要するに、いままで見たことのない動き ――
グラディウスは汗を拭き手を洗い、持参したマフィンを二つに割った……ところで、
「お兄さんは誰……じゃなくて、あてしグレス! グラディウス・オベラ。グレスって呼んでね!」
見たことのない人が立っていることに気づき、ルサ男爵に日々丹念に教えてもらっている挨拶をなんとか成功させた。
「グリンディジュルス伯爵ファロカダと申します。……グレスさん」
サウダライトのお気に入り程度ならば”グレス”と軽く呼び捨てることもできるが、マルティルディのお気に入りとなれば呼び捨てはできない。
だが、
「グレスだけでいいよ! お兄さんグリ……グリー」
グレスはいつも通り。
「グリンディジュルス伯爵ファロカダ。ファロカダをお好きなように省略してください、グレス」
「ありがとう! アロお兄さん!」
脇で聞いていた兄妹は”アロお兄さん”に笑いをこらえつつ、グラディウスの動きを見ていた。グラディウスはキーレンクレイカイムだけが来るとおもっていたので、一つのマフィンを二つに割ったのだが、もう一人いるとなると彼にも食べさせなくては! となり、半分に割ったマフィンを真ん中よりも少し小さめに割り、不格好ながら三等分して三人に渡した。
「どうぞ」
「どうも」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
三人は受け取ったマフィンを食べながら、嬉しさを滲ませているグラディウスの顔を見つめる。
「美味しいぞ、グレス」
キーレンクレイカイムが食べ終えて頭を撫で、同じくイレスルキュランも、
「美味しかったぞ、グレス」
頭をぐりぐりと撫でる。さすがにファロカダはグラディウスの頭を撫でようとは考えもしなかったが、なんとなく期待されているような気がしたので、恐る恐る撫でてみた。
「ありがと、アロお兄さん!」
その表情は一目で馬鹿だと解るが、同時に本当に裏表がないのだろうなと、
―― ケーリッヒリラ子爵も大変ろうな。こんなに精神障壁がない人間の護衛をするのは
ある種の感動を覚えた。
王族兄妹は椅子に座り、グラディウスとファロカダは立ったまま、話が始まった。グラディウスは本来ならば座っても良いのだが、話を伝えるのに子供のように全身を使うので立ったまま。
「あてしね、とうちゃんがね、昔ね、誕生日をびっくりさせてくれてね。だからね、内緒でね……」
話は遅々として進まないがそれでも辛抱強く聞き、イレスルキュランからも説明されて、
「マルティルディに秘密で誕生会を開きたいんだそうだ。兄上協力しますよね」
考える時間を与えることなく、断らないでしょうと断言までされた。
「……分かった。時間と場所と予定は任せておけ。あのな、グレス」
「なに? 乳男さま」
―― 乳男さま……たしかにキーレンクレイカイム殿下、女の乳大好きですけれども
「秘密の誕生会に参加するのは私と妹、それにグレスとサウダライトだけでいいのか?」
”こう”語りかけたら、グラディウスが考えて参加する人が増える。そうなると大変になるのだが、キーレンクレイカイムは敢えて尋ねた。
やるのであれば楽しく、悔いなく、とことんやる。
「あの、あの、白鳥さんとルサお兄さんと……えっと、大きいおきちゃきちゃまと……」
太くて短めな指を折りながら必死に考えるグラディウス。最初にザイオンレヴィの名が出たことを、
「白鳥って誰ですか? 殿下」
「ザイオンレヴィのことだ、ファロカダ」
「……あー白鳥。まあ……白鳥らしいといえばらしいような。白鳥ねえ」
少々不思議に感じたファロカダだが、深くは追求しなかった。
招待客はイレスルキュランと一緒に考えることになり、二人は準備のためにすでにその場を後にしていた。
「どうなさるおつもりですか?」
「偽の軍事演習を組む」
「……え?」
「要するにこちら側の不備で軍事演習ができませんでした。御免なさいアディヅレインディン公爵殿下。お詫びと言ってはなんですが……パーティーです! といった感じだ」
「はあ?」
ファロカダはキーレンクレイカイムが言いたいことを理解できず、詳しく説明してもらうことになった。
わざわざ説明したのは、キーレンクレイカイム一人では準備ができないからである。
「この計画のメインは、マルティルディすら知らないうちにマルティルディを予定を確保することだ。私とマルティルディが直接関わるのは王国軍事面のみ。よって帝国近領で軍事演習をしようと持ちかける」
「持ちかけるのはかまいませんが、帝国軍から演習場を借り上げなくてはなりませんよ」
どちらかの王国内で行われる場合は演習場を借りる必要はないが、帝国近領、この場合は帝星のすぐ側を指すのだが、そこで演習をするとなると帝国軍に使用許可を取る必要がある。帝星付近での演習は安全を確保するために、帝国軍も当然出撃するので、その分の料金が演習場使用料に組み込まれている。
「借り上げる」
「演習しないのにですか?」
「そうだ。騙すためには実際借り上げる必要があるだろう。ガルベージュスには事情は話す。あいつは口外するなと言えば口外しないだろう」
場所を借りるだけならば帝国軍を預かる男ガルベージュス公爵に話を通すだけで足りる。
「そうですか? あの男は皇帝に忠実ですし、皇帝はマルティルディに忠実ですよ」
「そこなんだがな……あの男、割ともぎもぎを気に入っているから」
キーレンクレイカイムの憶測……とも言い切れない。
ガルベージュス公爵はグラディウスが巴旦杏の塔へと足を運ぶことを全面的に許可している。サウダライトが命じたことではないことは、王族たちは知っている。マルティルディが考えたとしても、ガルベージュス公爵の許可が下りなければ、あの場所へは決して立ち入ることはできない。ガルベージュス公爵が許した理由、それを考えた時”気に入っている”と ―― そう考えるのがキーレンクレイカイムには最も正しいような気がした。
「もぎもぎってなんですか?」
「グレスのことだ。今度グレスが食事している姿を見るがいい。もぎもぎだ」
「イレスルキュラン様が医者を悩ませた”もぎもぎ”ですか?」
「そうだ」
「なんだかよく解りませんが。ですがこちら側の不備で演習できませんでした……となると全額ロヴィニア持ちになりますよ」
軍を動かすとなると、莫大な金がかかる。それは演習でも同じこと。騙して祝いをするのと、軍費は別々に考えなくてはならない。お祝いをしたから差し引きゼロになるなど、キーレンクレイカイムも考えてはいない。
「払う」
「えええ! 王は絶対に払ってくださいませんよ!」
「まあな。とくに今回は姉上は参加できないから、恨み辛みを込めて払っては下さらないだろう。だから自腹を切る」
二国の元帥同士の演習に使われる費用。大体相場は決まっているので、ファロカダは金額を思い浮かべて、自分の金でもないのに冷や汗が噴き出す。
「殿下がマルティルディに持ちかけるとなると、大演習以外は怪しまれますよ」
「もちろん。大規模演習だ」
「うわ、ちょっ……大丈夫ですか?」
ファロカダの言っている「大丈夫ですか?」は”払えるんですか?”ではなく”頭大丈夫ですか? 気が触れてるんですか?”という意味合いが強い。
「お前が言いたいことは良く解っている。だがな……私は女に頼まれたら嫌とは言えんのだ」
「嘘だ! 金がかかる女は嫌いじゃないですか!」
キーレンクレイカイムが言い終える前に、ファロカダは否定を被せる。
「嫌いじゃないぞ。その女に見合った金額であれば払う。身の程知らずが嫌いなだけだ」
「あの寵妃には二王国元帥同士の帝国近領軍事演習費用を使っても惜しくはないと」
「グレスだけではなく、マルティルディにもな。確実に喜ぶだろう」
「……殿下がそこまで言われるのでしたら。ですがお祝いに直接関わらなくていいのですか?」
「そこはいい。そこはグレスとイレスルキュランに任せる。イレスルキュランも楽しむだろうよ」
「本当に女絡みだと頑張りますね」
「当然だろう。さてと、まずはガルベージュスと会うとするか」
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