帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[186]
 驢馬の背に揺られ、青空の下、グラディウスはリニアやケーリッヒリラ子爵が待つ館へゆったりと。
―― どうしたんだい? グレス ――
 いつもひっきりなしに話しかけてくるグラディウスが無言なので、驢馬は珍しく自分から声をかけた。
「……」
 驢馬には心当たりがあった。
 楽しい時間が終わると、悲しくなる……と、驢馬は聞いたことがある。驢馬は今も昔も体験したことはないが、グラディウスならそうなのではないか? と。
「あのね……驢馬」
 驢馬の耳に届いた声は泣き声ではなかった。
―― なんだい? グレス ――
「あてし、あてし……嫌いな人が……嫌いな人なんていままで居なかったのに!」
 手綱を握る手に力がこもる。それを感じながら、驢馬は尋ねる。
―― 誰のことが嫌いになったんだい? みんなに内緒にするから教えて ――
「ほぇほぇでぃ様のお料理捨てた人。酷いよ、ほぇほぇでぃ様が一生懸命作った料理を捨てたって……誰か知らないけど、誰か知らないけど……大嫌いだ! あてし、あてし……」

《イデールマイスラな……》

 グラディウスは自分を殴った相手を恨むことはなく、馬鹿にした相手を嫌うこともない。鈍いということもあるが、自分が直接傷つけられても相手を恨むことはなく、嫌いもしない。どんな扱いも耐えることができる。だがそれは自分に対してだけということを、グラディウスは今日初めて知った。
「いままでみんなが、大嫌いって言ってるの聞いてもわかんなかった……でも、今日分かった……どうしたらいいんだろう」
 驢馬は歩きながら、グラディウスに伝わらないように謝罪する。
 この年まで人を嫌うことを知らずに生きて来た少女に、名も知らぬ嫌いという感情を植え付けてしまったことを。
―― そうだね……マルティルディ様が相手を許したら、グレスも好きになったら良いんじゃないかな? できるだろう? ――
 そんな日が来るかどうか? 驢馬には分からない。
 和解したら、それは自分の耳にも入るだろうが……期待はしていなかった。
 なにより、
「そ、そうだよね! ほぇほぇでぃ様がその人と仲直りしたら、あてしも……うん!」
 嘘をつけばいい。
 マルティルディとイデールマイスラは仲直りしたと、自分が嘘をつけば収まる。マルティルディの耳に入るだろうが、咎められないだろう……ことも驢馬は知っているが、なぜか嘘をつく気持ちになれなかった。
―― グレスは優しいな ――
「? どうして。あてし人のこと嫌いになったのに」
―― 分からなくても大丈夫だよ ――
「そう?」
―― 心配したんだよ ――
「なにが?」
―― グレス泣いてるんじゃないかな? って。マルティルディ様と遊んで楽しかったことを思い出して、悲しくなって……グレス? ――
 驢馬に言われてグラディウスは昨日、今日と楽しかった時間を思い出す。
 体をシートでくるんで転がり、ちょっと悲しいが美味しい手料理を作ってもらい、合奏をし、土産を喜んで貰い、一緒に砂漠滑りを楽しみ、風呂に入り、目覚めて……と、微笑むマルティルディと共に蘇ってきた記憶。
「ふ……ふ……ふぇ……」
 驢馬は足を止め、

《蛇足だった……》

 グラディウスの泣き声を聞きながら、己の迂闊さを反省する。
 驢馬が人間であった頃、こんな失態はしなかった。もっと用心深かったこともあるが、こんな話をするような友人がなく、そんな友人を作る気持ちもなかった。
―― グレス、グレス。泣き止んでくれ、グレス ――
 楽しかったことを思い出しながら泣くグラディウスを泣き止ませようと、驢馬は必死に慣れない言葉を重ねる。
 焦ると人間であった頃のように言葉が華美になり、グラディウスに伝わらなくなってしまう。それに気付き、また言葉を単純で平易な物に直し努力する。
 言わなければこんな苦労をしなくて済んだのに……昔の自分ならばそう考えただろうなと思いながら、この困った状況を驢馬は少しばかり楽しんでいた。
―― グレス。楽しかった想い出が涙と一緒に流れ出してしまうよ ――

※ ※ ※ ※ ※


「驢馬、内緒だよ」
―― ああ、約束するよ ――
 驢馬の説得と青空の美しさが功を奏し、グラディウスは泣き止んだ。楽しかったのに泣いてしまったことと、それを知られたら恥ずかしいと、グラディウスは顔を洗って帰ることにした。
 驢馬は近くの噴水に向かい、
―― この水は綺麗だよ ――
「ありがとう! 驢馬」
 グラディウスが噴水に顔を突っ込んでいる最中、落ちないようにと服の端を噛んで支える。
 そんな寄り道をして館に無事辿り着いた。
「ただいま! 楽しかったよ!」
 驢馬は顔を上げて、グラディウスを待って居た館の面々の顔を見て笑う。誰も彼も心配していたと一目で解る表情であったため。

《マルティルディ様がグレスを傷つけないことは知っているだろうに……それでも、心配するんだろうね》

 驢馬は一人、自分の部屋へと向かい、用意されていた水を飲み、餌を食べる。
 自分が餌を咀嚼している音が反響している耳に、聞き慣れた重たい足音が届いた。何ごとかと思いながら、耳をそばだてて水を飲みながら待つ。
「驢馬! 今日はありがとう!」
 グラディウスはそう言い、驢馬の餌桶の前に急いで書いてきたメッセージカードを置き、
「おやつ食べてから、みんながほぇほぇでぃ様からもらったプレゼント見せてもらうんだ!」
 元気よくどすどすと引き返していった。驢馬は食事する口を止めて、置かれたメッセージカードを眺める。
 メッセージカードは誤字だらけ。
 普段であればルサ男爵が訂正するが、相手が驢馬だと聞いたので自由に書かせて問題ないだろうと手を加えなかったのだ。
 だが文面から、意味は伝わった。

”今日はありがとう。こんど一緒に畑を作ろう”

 驢馬は自分が畑について知識がないことを悔やみながら、貰ったメッセージカードを山羊よろしく食べようと首を伸ばす。
「大切になさい」
 置かれていた筈のメッセージカードはそこにはなく、いつの間にかいたガルベージュス公爵が人差し指と中指にはさみ驢馬に語りかけてくる。
「専用のカードケースを贈らせてもらいますので」
 驢馬は心を閉ざし、言葉が伝わらぬようにガルベージュス公爵を見た。無駄な抵抗であることは分かっている。彼は自分が何者であるのかを知っている……だが、驢馬は驢馬で在り続けなければならない。
「ガルベージュス公爵」
「ケーリッヒリラ子爵」
 ガルベージュス公爵が来たと報告を受けた子爵は、なんの用事だろうとやって来たのだ。二人は驢馬の頭上で二、三警備について話をし、
「専用ケースを贈りますので、メッセージカードを収納してあげてください」
 メッセージカードの収納をも依頼した。
「はい。……畑作る? でしょうかね」
「そうでしょう。農耕具を驢馬に付けて、一緒に大地を耕そうという誘いかと」
「なるほど」
「農耕具、作れますか?」
「作れると思います。それほど複雑ではないでしょうから」
「そうですか。では作ったらまずわたくしに届けてください。わたくしがこの驢馬に農耕特訓をいたしますので」
「……は、はあ」
 ケーリッヒリラ子爵は驢馬に”大丈夫か?”といった眼差しを向ける。もちろん彼は自分の眼差しの意味が理解されるとは思ってはいない。
「よろしいですよね、驢馬」
 視線を向けられた驢馬は”大丈夫じゃない”と思いはしたが、驢馬であらねばならぬので、その特訓をすることになる。
「そうそう、卿はアディヅレインディン公爵からのプレゼントはもう見たのかな?」
「いいえ、まだです」
「卿にも届いている筈ですので、確認してください」
「は、はあ?」
 心当たりのない子爵は首を傾げながら驢馬の部屋を出る。
「見ていないことはわかっていますけれどもね」
 ガルベージュス公爵はそう言い残し去っていった。
 一人になった驢馬は、また水を飲み――

《ケーリッヒリラ子爵の叫び声か。あの老成した若人らしからぬ叫び声だ》

※ ※ ※ ※ ※


 リニアやジュラス、ルサにサウダライトに、
「バーゼお爺さん! 良かったね」
 ついこの間まで名すらなかった老人にも、マルティルディからの贈り物が届いた。
 このマルティルディからの贈り物、グラディウスの館で各人が与えられた部屋に、勝手に置かれたもの。
『私室に立ち入るなよ。グラディウスが帰ってきたら部屋に入っていいよ』
 事前通達があったので、彼らはグラディウスが出かけてから、ずっと退避していた。
 子爵も一応はその指示に従ったが、警備責任者を任されている男。自分の部屋に誰かが近付いたかどうか? 侵入したかどうか? もともとそれらの能力に長けていることもあるが、部屋に入らずとも判断はつく。
 ガルベージュス公爵が驢馬の部屋にやって来た時点で、まだ自分の部屋には誰も侵入していなかったこと――

「誰かが入ったみたいだな」

 ほんの僅かな時間で部屋に誰かが侵入したことに気付き、贈り物が届けられただけだとは分かっていても、届けたのが誰か分からないので、これから「ほぇほぇでぃ様からのプレゼントを見せて!」とやって来るグラディウスの安全の確保の為にも……他の部屋はいざ知らず、ケーリッヒリラ子爵の部屋は分類がエヴェドリットなのでなにをされるか、分かった物ではないのだ。
 注意深く部屋の扉を開けた子爵は目の前の光景に驚き、彼らしからぬ大絶叫を上げて立ち尽くす。
「どうした? エディ……」
 最初に到着したザイオンレヴィが、立ち尽くす子爵に声をかけながら室内を見て絶句する。そして次にやってきたジュラスが、
「これは、叫ぶわ」
 やはり室内を見て納得する。

 子爵の部屋にあったもの。それはペロシュレティンカンターラ・ヌビアが皇帝に作った五つの作品のうちの一つで、ケシュマリスタ王家に下賜された宝飾品。それが飾られていたのだ――


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