帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[168]
マルティルディに指定された場所へと急ぎながらも、
「陛下がお怒りになるところ、初めて拝見いたしました」
「そうかい? そうかもね。それを言うなら君も同じだよ。私も君が怒ったところを見たことがない」
二人は気負うことなく会話をしていた。
「四年ほど前にイデールマイスラに対して怒りをぶつけました。半分は私怨ですが」
「君ほどの男でも怒りに別のものを混ぜてしまうことがあるのかね」
「ええ。わたくしは、まだまだです」
「私はねえ、イネス公爵に叙爵された際に先代陛下よりお言葉をいただいてねえ。それがねえ……」
※ ※ ※ ※ ※
ダグリオライゼ、伯母として言っておこう。
お前は確かに怒らぬが、お前が怒らないのは未熟故のものだ。成熟し、怒りを知るものが堪えるのとは違う。
穏やかであろうと努力している、もしくは悟ったなどというものではない。
お前は自分の力を知っているが努力しない。努力しない代わりに怒ることをしない。
それも生き方だ。誰もが努力して高みを目指す必要はないと余も思う。
かの賢帝は怒りを、憤怒を自ら知り、それでも冷静であろうと務め、平静を持って宇宙を統治した。渦巻く怒りも哀しみも知りながらも、賢帝は穏やかであった。
知っている者が怒らぬのと、怒ったら面倒だからと逃げるものの怒らぬのは違う。
お前は生涯、賢帝にはなれぬ。逃げることを本能的に選び取ったお前はな。
お前がもしも怒ることがあるとしたら、それは未熟さ故の怒りの発露であろう。だがその未熟は未熟なれど成長したものである。
お前は頭が良いというよりも賢いゆえに余の言葉、理解したであろう。そして一生怒ることなどないと思うたであろう。余もそう思う。余はお前を怒らせることはできぬ。あの美しき完璧なるアディヅレインディンでもな。
だが、もしもお前は怒ったのならば ――お前はお前を怒らせた原因ではなく理由を大切にせよ。それが手に入るといいな。余には与えてやれぬものだが。そう誰も与えてはもらえぬものよ”それ”というものはな。
※ ※ ※ ※ ※
「君と話をしていたら、先代陛下のお言葉を思い出したよ。随分と昔の話だけれども」
「そうですか」
マルティルディは大宮殿内のケシュマリスタ属に与えられる区画の王の間にいた。まだ王ではないマルティルディがそこに「王」として座していても、誰も異論を唱えはしない。
ケシュマリスタの本城・アーチバーデによく似た廃墟。
全て大理石で作られた外部との明確が仕切りが一切ない、窓も存在しない場所。
朽ち日々割れた大理石の椅子、背後には大きく穴があいており、眩い光りに照らされている海が望める。
マルティルディの足元の大理石の床は割れ、その割れ目からは朝顔が芽を出し、地を這いながら蕾をつけていた。
海を背にしているマルティルディの両脇には大宮殿にいるケシュマリスタ貴族の当主全員が並んでいた。
左隣にはカロラティアン伯爵、右隣には腕を失ったライアスミーセ公爵。
「ダグリオライゼ」
何時もと変わらぬ笑顔のマルティルディの声。海風が吹き玉座から少し離れた天井に吊るされている花びらが詰め込まれた黄金の大きな鳥籠揺れて、中に詰められている花びらが舞い落ちてくる。
「はい、ここに」
膝をつき答えるサウダライトの前にも花びらが落ちた。
「あのさ、クロネスカータが”たとえマルティルディ様がアランを生かしてやると言っても、僕が殺せと命じるよ。僕は皇帝だからね”って君が言ったって。本当?」
マルティルディは小首を傾げて、目を細める。
「はい、本当です。一言一句間違いはありません」
「ふーん」
「マルティルディ様」
「ダグリオライゼ」
「はい」
「君、怒ってるね」
「マルティルディ様には隠すつもりはありませんので、怒りを持ったまま此処へとやって参りました」
「クロネスカータが君を怒らせたわけだ。なんで君怒ったの? 理由教えてくれるかい」
「もちろんに御座います、マルティルディ様。私が怒った理由はだた一つ。クロネスカータがグラディウスのことを”馬鹿”と繰り返し罵ったからです」
「それだけ?」
「はい、それだけです」
「本当みたいだね。君は僕のことも怒っているのかい? 僕もグレスのこと繰り返し馬鹿って言ってるよ」
「マルティルディ様もお人が悪い」
「そうかい? でも僕が”お人が悪い”こと、君は良く知っているだろう」
「クロネスカータはマルティルディ様の許可なくグラディウスを馬鹿と罵ったのです。グラディウスを馬鹿と罵って良いのはマルティルディ様のみ。グラディウスだけではありません、全宇宙の民を馬鹿にすることも、罵ることもマルティルディ様の許可なくして行ってはならないこと。故にこのダグリオライゼ、命と引き替えにでもクロネスカータの娘アランを処刑することに決めました」
黄金の鳥籠は海風が吹かずとも揺れる。
花びらの中に埋もれているのは、拘束されたアラン。
「解った……ダグリオライゼ」
「はい」
「グレスの所有権を僕に寄越せと言ったら君はどうする?」
アランが全身で助けを求める度に、花びらがひび割れた大理石の床に降り注ぐ。
「寄越すもなにも、最初からグラディウスの所有権はマルティルディ様に。このダグリオライゼ、持たされた宇宙は全てマルティルディ様に捧げております」
赤、蒼、紫、橙、黄、そして白の花びらが舞い落ち、ある物は風に乗り海へと出て波に漂う。
「本当にいいの?」
「あの子はマルティルディ様のことが大好きだそうです。ですから大好きになってやってください。それだけが望みです」
「へー。僕を大好きね。そうかい。それでさ、僕はアランのこと生かしておいてやっても良いと思ったけど、君は殺害することにしたんだね。じゃあ好きに殺害すると良いよ。君、皇帝だしね。たまには皇帝らしく好きにしな」
「マルティルディ様」
「デルシ=デベルシュから”白馬に乗って来るように”って連絡きてたよ。馬用意しておいたから行くといいよ」
「ありがとうございます」
サウダライトは礼をし、ガルベージュスも同じように退出の挨拶をして二人はマルティルディの前を去った。
「籠を降ろせ、サルヴェチュローゼン」
「御意」
波音だけが響く大理石の廃墟、美の頂点に立つ王太子と、美しき部下たち。
カロラティアン伯爵は降ろした籠をマルティルディの前に置く。
花びらが減って、アランの顔が露わになる。美しく艶やかであった栗毛は無残に刈られ、翡翠のような右目に恐怖をたたえ。
「花刑に処すよ。花びらに埋もれて、胃も腸も肺も血管の中も、すべて花びらで満たされればいい。楽に死ねない方法らしいけれども、僕には解らない。体験しようもないしね」
マルティルディは黄金の花とアランを詰め込んでいた鳥籠を、人差し指で弾く。それを合図に数名の貴族が取り囲み運び出していった。
「僕を処刑できるのは、あのガルベージュスだけだ」
マルティルディは誰もが答えることのできない言葉を発して、右隣にいるライアスミーセ公爵のマントを引っ張り床に倒す。
「君よりダグリオライゼの方が上だったのさ」
「マルティルディ様」
「ダグリオライゼは君が僕のところに来て、失言を報告することくらい見越してたんだよ。まあ失言じゃないね、あれは罠だ。君が僕のところに来て喚かなければ、ダグリオライゼは黙って僕の意見に従っただろうね。ま、そういうことさ」
―― ライアスミーセめ。陛下からいただいた折角の機会、無駄にしましたな ――
ガルベージュスの言葉はこれを指していた。
サウダライトは腹立たしくはあったが、逃げ道をギリギリの所で残していたのだ。ライアスミーセ公爵がサウダライトの発言をマルティルディに伝えなければ、娘のアランを助けてやろうと。元々サウダライトは積極的に人を処刑しない。怒りはあったものの、その姿勢は変わらなかった。
マルティルディがアランの命を助けることも、サウダライトは解っていた。性格を知っていることもあるが、他王家の王女と自王家に属する貴族との諍いから《守ってやる》のはマルティルディの権力を他王家に見せつけるのに丁度良い。
だがマルティルディはサウダライトの提案を受け入れた。
「マルティルディ様の側近を何年務めた男だと思っている」
カロラティアン伯爵が片腕で上手く立ち上がれないライアスミーセ公爵を立たせて、帰れと背を押す。
「僕たちはこれで」
サゼィラ侯爵が挨拶してライアスミーセ公爵に肩を貸してその場を立ち去ったのを合図に、他の貴族たちもマルティルディに挨拶をして戻っていった。
最後に残ったのはカロラティアン伯爵。
彼は先程のサウダライトと同じくマルティルディの前で膝をおり、様々な言葉を連ね機嫌を取ろうとするが、マルティルディの意識は足元の朝顔のつぼみに向いていた。
「サルヴェチュローゼン」
「はい」
「僕考えごとあるから、下がれ。今すぐ下がったら許してあげる」
「御意!」
廃墟の玉座から立ち上がりマルティルディは海を見る。
―― ほぇほぇでぃ様も明日みんなと一緒に遊びませんか?
「今度遊びに行ってやったら、喜ぶかな? 喜ぶよね、君馬鹿だから。僕のこと大好きだなんて、君は本当に馬鹿だねグレス。悪い気はしないし、嬉しいけどさ」
明け方に玉座へとマルティルディは戻って来て、咲いた朝顔を見つめて微笑み、萎んだあと根ごと引きちぎり、新しい朝顔を植えさせた。
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