帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[162]
 あの状況、最早”どうにもなるまい”とルグリラドが判断を下し、風呂に入れと命じた。
 リニアが大急ぎで浴槽に湯を張り、キーレンクレイカイムは一人、廊下の壁づたいに歩いて浴室へとやってきた。
 笑いすぎて疲れ果てつつも上衣を脱ぎ出したところに、ケーリッヒリラ子爵が謝罪にやってきた。
「あの雑巾を下げなかったのは我の失態です」
「確かにな。個人的には気にはしていないが、体面的に謝罪を受け取る必要がある。寵妃の館警備の給与を一ヶ月分私に支払え」
「寛大な処置ありがとうございます」
「金は受け取る。受け取られたのだから、後を引かないように」
「はい」
「では下がれ、ケーリッヒリラ」
 ケーリッヒリラ子爵を下げたキーレンクレイカイムは服を脱ぎ捨て、まずは自ら顔と髪を石鹸で洗い流す。
 専門の者もいるのだが、さっさと自分の手で洗い終えたかったので浴室には誰も立ち入らせなかった。
 キーレンクレイカイムのケーリッヒリラ子爵に対する処置は一般的なもの。丁度良い金額そのものだった。
 キーレンクレイカイムは金で解決する一族と言われていることもあるが、自分の能力と生き方から、この解決方法を取れることがとても幸せだった。
 自らが才能溢れ、男気にも溢れるような人間ではないと認めている。”失態を取り返すために仕えろ”などと言えるような性質ではないということ。そもそもケーリッヒリラ子爵は自分の配下でもなんでもないので、過度な温情や精神的な許しなどを与えて良い相手ではない。
 基本の関係をふまえて処置をすると「給与一ヶ月分を献上」それが最も無難。給与という面ではかなりだが、ケーリッヒリラ子爵の一ヶ月の総収入で考えると問題にならない。大貴族というのは普通、領地からの収入のほうが大きいためだ。
 金が大好きなロヴィニアなのだから、一ヶ月分の総収入を取り上げるのではないかと思われそうだが、これも元々違う一族に属している相手なので、そんな無茶はしない。とくに領地からの「あがり」は属している国の税収に関係するので、一ヶ月分程度であろうとも手出しはしない。
「朝から楽しんでしまったな。姉上やイレスルキュランに知られたら……羨ましがられるだろうな」
 普通なら”それは災難でしたね”だが、こればかりは。なにせ先程キーレンクレイカイムが笑いながら食堂を出る際、あの潔癖症ルグリラドが「楽しそうじゃったな」と、羨ましさを隠さずに耳元で囁いてきたくらいだ。
 とにかく楽しんだが、それは個人的な事であり、普通の場合は「失態」なのでそれ相応の処置をとる。グラディウスも失態だが、それは個人の失態ではなく背後についているサウダライトとマルティルディ。この二人が交渉し、それなりの金額を寄越すことは洗い終えて湯船に浸かったキーレンクレイカイムは心配していなかった。
「ま、牛乳噴き出した私が悪いだけだなのだが、貰わないわけにもいかないしな」
 グラディウスが”もぎもぎ”していることは知っているのだから、あそこはぐっと我慢しなくてはならないのだ。
「嫌味言われながら、受け取らないとな」
 湯船に浸り、設置されている冷凍庫から半凍果物を取り出して口に運ぶ。
「このオレンジ、うまい……ぶほっお! ぐはっ!」
 グラディウスに対して”ぐっと我慢”しなければならないと誓いを立てた傍からこの有様。だがキーレンクレイカイムが悪いわけではない。湯船の向こう側に現れたグラディウス。
「でかい乳男さま!」
 近付いてくるグラディウスはもちろん全裸。あのくびれが一切ない、もったりとした褐色の体が近付いてきて、その結果、キーレンクレイカイムの鼻の奥にオレンジ果肉が入り込み酷い有様に。
「大丈夫? でかい乳男さま」
「だ、だいじょうぶだ。どうした、グレス」
「あてし、でかい乳男さま洗いに来た」
 洗うのに全裸になる必要ないんじゃないか? とキーレンクレイカイムは思ったが、不器用そうだからとも思い直して湯船から上がり、
「そいつはどうも。じゃあ洗ってくれるか」
「はい!」
 グラディウスに背を向けて椅子に腰を下ろし、長い黒髪を掴んで右肩から流すように前に持って来る。
―― やれやれ。これは後が恐いな
 姉王や妹正妃、そしてルグリラドに色々言われるだろうなと思いながらも”帰れ”と突き放すような真似はしなかった。そんな事をしたら、これから遊ぶグラディウスが落ち込んでしまうのは火を見るよりも明らかなためだ。
 そうしていると、グラディウスが自分の背中に抱きつき、さすがにキーレンクレイカイムも驚く。
「あてしの特技、おっぱい洗い!」

―― ダグリオライゼもなあ

 何をやらせているのやら……と思うが―― ま、手を出せない年齢だから、このくらいは許してやるか ―― と男として、これに関しては不問にしてやることにした。
 キーレンクレイカイムはまさかサウダライトがグラディウスにあんな事や、そんな事をしているなどとは、想像もしなかった。

―― そんなこと想像したら、笑い死ぬわ

 後日彼はそう語り、多くの者が頷いた。
 ”特技・おっぱい洗い”と止めさせて向き直り、
「これは偉い人だけにしかしちゃ駄目だぞ」
 グラディウスに注意を促す。誰彼構わずこれをしていたら、後々問題になるだろうと。
「でかい乳男さまも偉いよ」
「いやいや、サウダライトの方が私より偉いから。それ以上の人だったらしてもいいぞ」
「……解った!」
「それと、でかい乳男じゃなくて”乳男”にするといいぞ。長いだろ、名前」
 フィラメンティアングス公爵キーレンクレイカイム。かつて「カムイ」と呼ばれていたこともあった王子は「乳男」も呼び名として受け入れた。
「乳男さまの背中、すごい強そうだ」
 その後、普通に背中を流し始めたグラディウス。

―― あれ? 私はたしか、顔を拭かれたのであって背中は……

 だが元気よく背中を流しているので、特に何かを言うことはしなかった
「そうか?」
 キーレンクレイカイム、体にはかなり筋肉がついている。仕事が一応軍人、それも国軍最高位なので、それ相応の筋肉がないと式典の際に軍服が「さま」にならないので、鍛えることは怠らない。
「うん。とうちゃんとか、にいちゃんの背中みたいだ」
 この鍛えるという部分が、人間に近いロヴィニア特有のもの。
 人造人間たちは鍛える必要がないものや、鍛えてもまったく筋肉が付かないものがいる。
「サウダライトの背中は、こんなにボコボコしてないだろ」
「うん。おっさんまっすぐだよ」
 筋肉があるのかないのか解らないようなのがケシュマリスタの肉体。
「ケーリッヒリラ。”おじ様”の裸、見たことあるか?」
「ないよ」
「こんど上半身だけでも見せてもらってみろ。あいつらの体は凄いから」
「凄いの?」
 そして鍛えなくても筋肉がついてゆく体はベルレーヌとエヴェドリット。
「ああ。凄いだろうな。私が知ってる中で最強なのは、ガルベージュスとデルシ=デベルシュだな。あの二人は”別物”だ」
「?」
「でもまあ……私の背中は格好良いだろ」
「うん! すごく、うん! そうか、格好良いって言うんだ!」
 人間とは違う筋肉を持つ人造人間の体より、人間に近い体を持つロヴィニア。
 父や兄よりも遥かに美しい筋肉の付き方をしているキーレンクレイカイムの背中だが、サウダライトの背をながしている時には感じない郷愁がグラディウスの胸中に沸き上がった。
 それは久しぶりにみた「人間の肉体」だから。
「……グレスにはお兄さんがいるのか?」
「うん、兄ちゃんいるよ。やさしいんだよ、あてしの兄ちゃん。元気にしてるかなあ」

※ ※ ※ ※ ※


 何事も無ければ余裕で帝星に到着して 《グラディウス・オベラ》 と遭遇することが出来る筈だったが、
「フィラメンティアングス公爵殿下、救援信号を受診いたしました」
「どこからの信号だ?」
 キーレンクレイカイムは 《彼》 が存在した場所へと向かい、その機会を一時的ながら失う事となる。もちろん、キーレンクレイカイムは自分が 《彼》 と遭遇したことは知らない。
 何故なら、彼は父親の性を名乗っていたので 《オベラ》 ではなかった為だ。彼の父違いの妹は 《グラディウス・オベラ》 と言う。
「H−M−502158から、第一次救援信号が」
 副官と顔を見合わせる。 
「ヒルメニウム鉱山採掘惑星の一つですね。この鉱山で第一次となると、惑星崩壊も間近でしょう」
「行路を変えて、救出へと向かう。急げ!」
 キーレンクレイカイムは ”ほぼ救出不可能であることを知りながらも” 進路を変えた。

※ ※ ※ ※ ※


「……そうか。兄ちゃんとやらに会わせてやることはできないが、大宮殿にいる間は、この乳男がグレスの兄ちゃんの代わりになろうか」
 グラディウスの兄が死んだことは、まだ本人には告げないことになっていた。
「え?」
 両親の死の傷が癒えていないグラディウスに、追い打ちを掛ける必要もないだろうと。そしてもう少し精神面が成長してからと。

※ ※ ※ ※ ※


「これは……適合した。エルターズ28星の男だ」
 ブラックボックスに記録されていた姓名と出身惑星と、キーレンクレイカイムの手元にある書類の一人が完全に一致した。
「念のために、後二、三人は合致させる必要はあるが、まず間違いないだろうな。衛星に付着している鉱石の解析も進めろ」


―― 親父、お袋。そしてグラディウスの親父さんよ。俺まで此処で死ぬみてぇだ……どうすりゃいいんだよ……あいつ馬鹿なんだぞ。独りぼっちになったら、どうやって生きていくんだよ……ああ、この金があいつの所に届けば……頼むよ……頼むよ……


「管理者以外の生存者は無し。一応最後に調べてから投下するとしようか」

※ ※ ※ ※ ※


「乳男さま。あてしとっても嬉しいけど、あてしの兄ちゃんはやっぱり兄ちゃんだけだ。会えなくても……」
 もしかしたら一生「精神的に成長していない」とされ、真実を告げられないかもしれないが、
「そうか。でもまあ、近所の兄ちゃんくらいには思っていいぞ」
 それはそれで良いかもなあ……キーレンクレイカイムはそんなことを思いながら振り返る。
「ふふふ……乳男さま」
「なんだ?」
「あてし、乳男さまのこと大好きだよ。でかい乳男さまのこと、兄ちゃんみてえだと思ってるよ」
「ありがとう。グレスといると楽しいから、私も好きだよ」
「あのね……乳男さま」
「なんだ」
「あのね……乳男さま、あてしに解るお話してくれるから、聞いてもいい?」
「いいぞ」

「死んだらどうなるの?」


|| BACK || NEXT || INDEX ||
Copyright © Iori Rikudou All rights reserved.