帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[161]
 瑠璃の館の全体を一望できる距離まで離れたガルベージュスは、振り返り見つめる。ガス燈の淡い光と、カーテンを閉めていない窓から見える楽しげなグラディウスたち。
「キーレンクレイカイムに聞かれたのが、わたくしのことで良かった。ルリエ・オベラのことであったら……」
 窓から見えるキーレンクレイカイムの話に笑顔のグラディウス。
 温かそうなマグカップを持ち口を近づける。
「ルリエ・オベラ、貴女が”最後の少女”を上書きしてください。貴女を”継承”させ過去の記憶を、時間がかかろうとも構わないから書き換えてください。全ての者が解放されるように、そして今もっとも囚われているアディヅレインディン公爵を開放してください。貴女にはそれが出来るとわたくしは信じております」


「グレスはマルティルディのこと好きか?」
――   は   のこと好きだったか?
「あてし大好きだよ! ほぇほぇでぃ様大好き!」
―― はい。わたくしは大好きですよ。   さまのこと大好きですとも、いまでも変わらずに
「マルティルディもグレスのこと大好きだと思うぞ」
――   も    のこと大好きだろうな、いまでも
「本当? でかい乳男様! そうだったらあてし嬉しい!」
――   は父上のことも母上のことも、いまでも大好きだと思いますよ。弟のわたくしには解ります


 ガルベージュスは胸の下あたりに曲げた腕の肘から下を平行におき、館に一礼し楽しげな風景に背を向けてその場を去った。

 キーレンクレイカイムの話が楽しく、珍しく”普通に”夜更かししていたグラディウスの元に、
「もう午前零時を回ったぞ! 夜更かしし過ぎじゃ! グレスよ」
 窓からの訪問者。
「睫のおきしゃきしゃま!」
「ルグリラド……玄関から入ってきたらどうだ。テルロバールノル王女が窓からって」
「煩いわい! キーレンクレイカイム!」
 ルグリラドあの会場で「明日遊ぼう」と約束してから、気が漫ろで目の前の酷い状況もまったく気にせず、さっさと帰宅して用意を調え館の傍までやってきて、日付が変わるのを今か今かと待ち日付が変わった直後に顔を出したのだ。
「ああ、もうこんな時間だ。寝なくちゃ!」
「そうじゃぞ」
 泊まるつもりで。
 抜け駆けとも言えるが、ルグリラドの知ったことではない。
 それを見ていたキーレンクレイカイムは、
「私の寝室を用意してくれ」
「貴様泊まるのか! キーレンクレイカイム!」
「グレス、泊まってもいいだろ」
「いいよ。みんなで寝ようよ」
「それは儂も泊まってよいということか!」
「睫のおきちゃきちゃまも泊まってくれるの? 嬉しい」
「そこまで言うのなら泊まってやろう」

―― 若干会話おかしくないか?

 キーレンクレイカイムは思ったものの、些細なことに口を出して自らを窮地に追い込む趣味はないので黙っていた。
「変な真似はするなよ、キーレンクレイカイム」
「他の館ならば侍女に手を出したりもするが、グレスの館ではそんなことはしない」
「本当か?」
「信用ないな」
「あるとでも思ったのか? 貴様」
「あったらお前の精神を疑うよ、ルグリラド」
「貴様という男は……」
「これから少し仕事があるんで、それはない」
「仕事?」
「仕事というか明日の遊びの段取りだ。なにかしたいことはあるか? ルグリラド」
「別に儂はないぞ。儂は遊んでやるだけであって、積極的に遊びたいわけではなくてじゃな」

―― ルグリラドにしちゃ、随分と素直だなあ

 キーレンクレイカイムの人生の目的の一つ「ルグリラドに夜這い」の好機なのだが、
「睫のおきちゃきちゃまと一緒に寝る」
「儂は皇帝のベッドの寝心地を調べてるだけじゃ。もっと傍によって良いぞ、グレス……もう寝たのか……」
 グラディウスと一緒に寝たので止めることにした。
「グラディウスの隣でやったりしたら、あとで違う理由で殺されるだろうな……なにかの反逆罪とか」
 ルグリラドに対する夜這いではなく、もっと別の次元で殺されること確実だと。

※ ※ ※ ※ ※


「フィラメンティアングス公爵」
「朝か」
 ケーリッヒリラ子爵に起こされて、服を着替えて朝食の席につく。
「おはよう、でかい乳男様!」
「おはよう、グレス。おはよう、ルグリラド」
「朝の挨拶としては甚だ不適切じゃが、貴様から正式な挨拶を受けてやるほど儂は寛大ではないので、その挨拶で許してやろう」
「そりゃどうも」
 ルグリラドとキーレンクレイカイム、そしてグラディウスがテーブルを囲み朝食となった。丸テーブルで席はグラディウスの隣にルグリラド、二人の向かい側にキーレンクレイカイムという形。
 隣にグラディウスを座らせて、それはご満悦そうなルグリラドなのだが……
―― ルグリラド化粧しても……隈濃いな。寝不足か?
 目の下の寝不足を表す隈が、キーレンクレイカイムにははっきりと解った。
 ルグリラド、隣で眠ったグラディウスの幸せ一杯な寝顔を見ることができ嬉しくて……気付いたら朝になっていた。

 何時も一緒にサウダライトが居ない朝、一緒に食べているリニアとルサ男爵が席に付いていない、二人に昨晩のうちに「明日の朝からこれらの用意を」とキーレンクレイカイムが今日の遊びの用意を以来したため。二人は準備に取りかかっている。
 三人が食事をしている部屋は、給仕の他に当然警備も立つ。今日の警備は当然、ケーリッヒリラ子爵と賭けという拷問途中で抜け出し、休養を取ってきたザイオンレヴィ。
 二人とも立って食卓ではなく、周囲に注意を払っていた。
 食卓そのものに注意を払っても仕方がない。食卓にのぼる前に危険を排除する必要があるので、最も毒を混入させやすい飲み物を持っている侍女などを《気付かれるように》かなり露骨に見る。
 さりげなくみて気付かれていないと思わせて毒を入れたあとに「いま毒を入れただろ」などという趣味は彼らにはない。
 騒ぎを一切起こさないように何時でもお前たちを見張っているとあからさまにして、最初から悪事に手を染めないように威嚇するのが彼らの手法だった。
 その最たる理由は処分の仕方。
 主の飲食に毒を盛ったとなれば処刑されるが、持っているだけではよほど違法な物でもない限り処罰の対象にはならない。
 内部に毒を持ち込む際は持っていても罰せられない類が主流だ。
 《毒を盛ると即刻処分》なのだが、これは言葉通りで、その場で殺されることが多い。死人に口なしで、殺された後に持ち物を検査となり、覚えのない証拠品が出てこようとも弁明できずに犯人とされ《背後関係は自白がなかったので》解らず終いで片付けられてしまう。
 この方法を使って気に入らない者を陥れて殺害した者もいる。
 利用する者がいれば、見抜くものも当然現れる。それがルサ男爵の祖先でもあり、賢帝と名高いオードストレヴ。
 かの賢帝はここで《発見したと同時に殺すこと》を認めない方向には動かず、毒を盛らなければ持っていても罰しないという《慣例》で明文化されていなかった部分をはっきりと定めた。貴族たちは毒の持ち込みが楽になったと喜んだという。
 賢帝は当初、事実関係が判明しないうちに殺害した場合は殺害した者も罪に問われるようにしたかったのだが、当時の家臣であり後の軍妃ジオが反対意見を出した。
『殿下、それでは今度は警備が殺害対象になるだけです』(この法を考えていた頃、オードストレヴは皇太子)
 要するに「事実関係が判明するまで殺してはならない」のだから、言い換えれば「生かしておかく」必要があり、生かして捕らえるためには殺害するよりも相当な技量が必要となる。
 最初に「即刻処刑」が許されたのは、犯人の自爆による被害の拡大を恐れてのことで、
『警備する側としてはこの手段を潰されては、警備することができません』
 被害が拡大する上に、責任を取る者の数も賠償額も増える。
『そうか。だが私は罪人に仕立て上げられてしまう者を減らしたい……ではこのような案はどうだ?』
 そこで賢帝は現在採用されている形の概要を軍妃に語った。
『かなり個人の資質に左右されますが』
『解って入るが、これで減らせるとは思わないか』
『警備が育ちさえすれば殿下のお望み通りとまでは行かなくとも、相応な結果を出すことはできると思います』
 話が逸れるのでこれ以上の詳細は割愛するが、それからも試行錯誤が繰り返され、現在のような食堂の形となった。
 部屋の中心にテーブル、入り口の反対側は窓で、入り口から見て右側の壁はテーブルが映る大きさの鏡。その反対側には飲み物を持った者とそれを監視する者が立つ。飲み物を持っている者の後ろに監視が立ち、鏡越しに見ているのだ。
 この鏡が最大の問題だった。
 今日もグラディウスの向かい側にキーレンクレイカイム、隣にルグリラド。グラディウスが隣のルグリラドの方を向くと鏡に顔が映る。
 その顔が飲み物を持っている侍女の目に入ってしまい、侍女は笑いを堪えるのに必死になる。
―― 気持ちは分かるがな……
 必死に堪える侍女だが、手が震えて中の液体が零れる。本日は牛乳を持っていたので、黒い床に落ちるとそれは目立った。
 ケーリッヒリラ子爵は一度しか使われない雑巾を持ち、零れた牛乳を拭く。
 飲み物を注ぐ侍女は決まった動き以外許されず、それ以外の動きをした場合は即刻解雇となる。
―― 零すのは仕方ないよなあ……
 床を拭く専門の者も居るのだが、それらも近寄ることが許されないので、必然的に警備の一人が拭く。
 そしてもう一人が鏡越しに見張る。視線の先には、
「睫のおきしゃきしゃま美味しいねえ」
「そうじゃなあ。横を向いて食べるのは行儀が悪いが、今日は儂が許す。正面のキーレンクレイカイムなど見ずとも良い」
 もぎもぎなグラディウスが鏡に映っている。

―― 試練だよなあ……エディルキュレセ
―― そうだな、ザイオンレヴィ

 ケーリッヒリラ子爵はまた牛乳が零れるだろうと手に雑巾を持ったまま、監視を続けた。

 キーレンクレイカイムはグラディウスの食事風景に耐えるべく、上手く食事をしていた。もぎもぎしているときは下を向き、口が空になったあたりで顔を上げる。
 判断するのは「ほれ、口の物を入れたまま喋るな。それは行儀が悪いぞ」とのルグリラドが教えと、グラディウスの言葉がはっきりとした所で顔を上げることで高確率で回避していた。
 もちろん下を向いたままの食事は行儀悪いので、顔を上げてグラディウスの「ぷくっ」と膨らんだ頬を見ることになるが、ある程度慣れてきたので”それなり”にやり過ごすことが出来ていた。
 ”慣れている範囲”では。
 食事をしていると上手く食べ終わらないもので、最後の一口が普通よりも大きくなったり、小さくなったりする。
 このくらいなら入るかな? という気持ちで口放り込んで、酷い目に遭うこともままある。
 グラディウスは朝食のメインであるウィンナーの最後の一本を口に詰め込み、一緒に食べると美味しいロールパン半分も突っ込んだ。
「まったくお主は」
 何時もの1.5倍ほどの頬、そして不細工ながら良い笑顔。
 ”ぼうっ”としていたキーレンクレイカイムは牛乳を飲みながらそれを見て、一気に臨界点を突破した。
―― なんで”ぼうっ”としてたんだ!
 五秒前の己の浅慮を呪いながら、制御出来ない笑いと、口内の牛乳をいかにするべきかを考える。
―― 牛乳を飲み下すこと不可能! 笑いを留めることは不可能。首を動かすか、それとも!
 結局キーレンクレイカイムは手に持っていた牛乳のはいったコップをテーブルに投げ両手を顔の前に遭わせて壁を作った。
 噴き出した牛乳が跳ね返り、そして笑い出す。
「何事じゃあ! キーレンクレイカイム」
 引き笑いでももう少しマシだろというくらいの笑い、そして牛乳まみれの王子。いち早く反応したのは意外にもグラディウス。
「いま拭くよ!」
 口の中の食事を飲み込み、椅子から飛び降りてケーリッヒリラ子爵の元へと近付き、
「貸して!」
「ああ」
 雑巾を受け取った。そしてケーリッヒリラ子爵は十五秒後に後悔する。
 雑巾を持ったグラディウスは急いでキーレンクレイカイムの元に駆け寄ると、床に零れた牛乳を拭いた雑巾で、
「顔拭くよ!」
「ひひゃ! ふひゃっ!」
 キーレンクレイカイムの顔を拭きだした。
 衛生観念が低くて、食堂に配置されなかった……それがグラディウスである。
「殿下のお顔を!」
 雑巾手渡したケーリッヒリラ子爵の叫び。
「で、殿下! 牛乳雑巾五秒ルール適用お願いします!」
 同じく混乱したザイオンレヴィの叫び。
「それは、帝国軍上級士官学校寮内ルールで、ロヴィニア王国軍に……って、五秒どころじゃねえ! ザイオンレヴィ」
「うわああああ! 衛生兵早くうう」
「でかい乳男さまのお顔が綺麗にならない」
「ひやっ! ふひゃ! ふひゃひゃひゃひゃ……」

 朝食は騒ぎのうちに終了することとなった。


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