君想う[036]
帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[87]
「それじゃあエルエデスさまと一緒に行ってきます!」
 また休日が訪れ、ジベルボート伯爵はエルエデスと共に帝星へと向かった。
「クレウのことよろしく頼むよ、エルエデス」
 ジベルボート伯爵以外の二人はクラブ活動に勤しみつつ、子爵はヨルハ公爵に追試の勉強を見てもらうことになっていた。
「心配する必要はない、ゼフ」
「クレウ、気を付けてな。なにかあったら、逃げるんだぞ。とにかく逃げるんだ」
 前日から”とにかく逃げろ”を繰り返す子爵の言葉を心に刻んで、すっかり忘れてジベルボート伯爵は、自分の音痴を治してくれかもしれない相手の家を訪問した。
「初めまして。イルギ公爵メルフィ=メルレだ」
 イルギ公爵は”優しげ”あるいは”脆弱そう”な容姿と言われるが、それは周囲が飛び抜けてがっしりとしているせいで、
「こちらこそ、初めまして。ジベルボート伯爵クレッシェッテンバティウです。このたびは、ご迷惑をおかけしてしまいまして」
 ジベルボート伯爵と向かいあうと、普通の体の厚みも幅もある大男である。
 顔も瞳が大きめで、形が柔らかく彼の弱さを強調する形になっているのだが、目つきの悪いことではロヴィニアと競う一族だからこそであり、永遠に紅顔の美少年の前ではそれほど柔らかくもなければ弱そうでもない。
「先に我がレッスンしてからだ。それまで、ピアノを聞きながら待っていろ」
「解りました、エルエデスさま」
 だが妃であるエルエデスは豪奢な菩提樹蜂蜜色の髪に、エヴェドリット男と並んでも見劣りしない肩幅に、柔らかさを排除した戦う体を持っている。そのためイルギ公爵が隣に立つと非常にひ弱そうに見えてしまう。
 レッスン室に通され、ソファーに座り紅茶を勧められたジベルボート伯爵は、砂糖ポッドの半分ちかくをカップに投入し必死にかき混ぜる。
 実はジベルボート伯爵は紅茶やコーヒーが苦手である。カフェインの入った苦いものが大嫌いなのだが、コース料理は最後に登場することが多く、その際は砂糖もミルクも入れてはいけないことになっているため、食後はいつも涼やかさを気取りつつ苦闘していた。
 鬼執事は気付いてはいるが、行儀が悪くはないので指導はしていなかった。少しでも”苦そう”な顔が表に出れば、その時は容赦はしない。
 グランドピアノに向かうエルエデスと、その隣に立ち教えているイルギ公爵。

―― 格好いいですけれども、シクのほうが格好良く立てそうな気がします。顔は悪くはないですが……でも、なんか足りない

 美の一族に属する美少年は、アッサムティー味の砂糖を食べながらそんなことを考えていた。

 エルエデスの一回目のレッスンは一時間もしないうちに終わった。
「お上手ですね、エルエデスさま」
「まあな。上手いだけだがな、才能が奏でる音ではないのが残念だが」
 エルエデスは教本通りにピアノを弾くのみ。
 力強さのある音だが、同時にピアノが好きではいことがありありと解る音でもあった。運び込まれたミニグランドピアノの前に座って楽しげに、自分自身が最も楽しいのだと語るように奏でるヨルハ公爵の音とは全く違う。
「それは。でも上手いだけでも凄いじゃないですか」
「そうか。それで、次はお前だジベルボート。まずは国歌を歌ってみせろ。聞け、メルフィ」
 黄金色の少し癖のある髪。細い眉に二重まぶたの大きめな瞳。少年らしさを強調するように、やや顔の重心が頬のラインも同年代の少年よりも柔らかく、少女のものにちかい。
 色といい形といい、どれもが美しく上品にバランスよく収まっている美しい容姿、その容姿に似合う透き通る清らかな声。それなのになぜか人の不安を誘う。
 聞いていると気分が本当に不安になるのだ。
 理由無き不安が襲いかかってくる。もちろん真の理由は解っている、ジベルボート伯爵の歌。だが声を聞いているときは感じなかった不安を歌でどのように発揮しているのか? 皆目見当がつかない。
 歌い終えたジベルボート伯爵の期待に満ちた眼差しと、正体のない不安が残ってしかたないイルギ公爵。
「あのね、伯爵」
「はい」
「伯爵は歌わないほうがいいんじゃなかな」
「音痴はやはり治りませんか!」
 力尽き床に崩れ落ちるジベルボート伯爵。
「最後まで聞いてくれ。伯爵は音痴だ、これは治せそうだ。でも伯爵は歌うと声が大きく変質する。声質の問題は学校で聞いたほうがいいだろう。キルティレスディオ大公がいいだろうな。そちらで声質を治すことができたら、歌ってもいいと思う」
 イルギ公爵はあまり帝国軍や皇王族の内情に詳しくはなく、表面上のキルティレスディオ大公のことしか知らない。酒癖が悪いことは聞いたことはあるが、見たことがないので噂だけが先行しているのだろうと、ごく一般的な解釈に留まっている。
「わ、わかりました! あの、僕知らないんですけれど寮母閣下は歌とか上手いんですか!」
「上手いというより、音を”ならす”ことができるはずだ。伯爵も入学式のときに歌っただろう? その時はどうだった?」
「周囲の声に紛れた感じでした」
 エルエデスも入学式の時に、こんな変な声は聞かなかったことを思い出した。
 あの時もっとも聞こえたのはガルベージュス公爵の声だったので、今まで気にならなかった。
「キルティレスディオ大公の声で平定されたんだよ」
「中和じゃないのか? メルフィ」
「違うはずだ。中和だと声が消えてしまうからね。あの人の声は不協和音を力尽くで平定するらしい」
 『音痴』と『声質』という二重苦だが、前向きに対処することで一定の解決が見られそうなので、基本の基本から始めることにした。
「伯爵は音階が定まってないね」
「音階?」
「伯爵、まずはドの音を出してみて。そこをしっかりとさせよう」
「《ド》ってなんですか?」
 そもそもケシュマリスタは歌を含む音楽の才能を持った者の集まりである。
「まて、ジベルボート。お前等歌を覚える時どうやって覚えるんだ?」
「相手の歌を聞いて覚えますよ」
 初期の彼らは文字を書くことが苦手であったこともあり、伝達はすべて口伝。歌もその一つであった。
 彼らは書面に認められた文章を読んで記憶する能力は普通だが、人から聞いた場合はほぼ完璧に暗記する
「楽譜は?」
「……ああ! あの五本線が引かれて、区切られたり、最初のほうに渦巻きがあったり、棒付きの白い丸や黒い丸が並んでるあれですか! シクがピアノ弾くために貸してくれたの!」
「それだ」
「見たことありません。国内にはあると思いますが、上級貴族は基本口伝です」
「……」
「ああ、そんな顔なさらないで、エルエデスさま」
「解った。とにかく《ド》を覚えろ。話はそれからだ」

※ ※ ※ ※ ※


 音痴の治療は三十分ほどで終了となった。
 なにせ声そのものが不安を煽るので、教える方にかかる負担も並ではなく、精神面を考慮すると三十分が限界だった。
 すこし早い昼食を三人で取りながら会話をかわす。
「学校生活はどんな感じなのかな」
 イルギ公爵とエルエデスだけの場合は無言のまま食事は終わってしまう。ジベルボート伯爵はそんなことは知らないので、軽快に会話をする。
 十二歳だが名門伯爵家の当主歴九年で、イルギ公爵よりも長い在位を誇る当主は会話に困ることはない。
「楽しいですよ。授業は難しいですけれども、追試はありますし補習が充実しているのでやっていけてます」

―― 喋っている声は、鈴が転がるような心地良い響きなのに。なんで歌うと、あんな酷いことになるんだ

 エルエデスは可愛らしい口から紡がれる、容姿を彩り周囲の空気を明るくする声を聞きつつ、豪快にピラフをかき込んだ。
 大貴族の姫にして公爵妃にしては行儀悪いことこの上ないのだが、学校での食事マナーに若干ストレスが溜まっているので、寮外に出るとこうなってしまう。
 先週ヨルハ公爵と一緒に朝食を食べていたとき、普通であった理由は説明する必要もない。好きな相手の前ではやや照れて大量に口に放り込んだりしない。
 バスケットだって千切って食べるくらいには照れる。普段のエルエデスなら、片手で掴んで丸かじり状態。
「そうなのか。いいね、学校生活というのは体験したことはいが、本当に楽しそうだね」
「イルギ公爵も入学すれば良かったのに」
「……」
「……」
 ジベルボート伯爵の何気ない一言に二人の動きが止まるり、大皿を持ち上げて口に流し込んでいたエルエデスが、途中で皿をテーブルに戻してイルギ公爵が両手で顔を覆う。
「ええ? なに? 僕言っちゃ駄目なこと言っちゃった」
 他属の受験状況などジベルボート伯爵が知るはずもない。
「落ちつけ、ジベルボート。”言っちゃ駄目”ではなく、メルフィは試験を受けて落ちたんだ」
「あ! そうなんですか! 受験したこと知らなくて。えっとー」
「無理にフォローしようとするな、ジベルボート。下手に口を開くと傷が広がる。広げたいというのなら喋っても良いが、広げたくないのなら我が説明してやる」
「……エルエデスさま、説明お願いします」
 聞かないという選択肢もあるが、これから音痴を治してもらうために訪問する約束を取り付けたのだから、触れてはいけない箇所はしっかりと押さえておかなくてはならない。本人を目の前にして聞くのはやや気が引けるが、ここは引くべきではないだろうと判断した。
 陰で不仲な妃が色々言っていることを想像させるよりも、目の前ではっきりと言われた方が後を引かないだろうというものだ。
 エルエデスは口は悪いところはあり、性格も世間基準でいけばやや難がある。だがジベルボート伯爵からすれば《優しく悪口など言わない女性》以外の何者でもない。

 彼の女性の基準がどこから来たものかは触れないでおく。

「解った。メルフィは帝国上級士官学校を受験したが、まったく駄目だった。身体能力もそうだが、それよりも酷かったのが筆記。ほとんど答えられなかった」
 帝国上級士官学校の試験結果は一族の当主、即ち王や皇帝の元に一括で送られる。その後呼び出され通達される仕組みになっている。
 試験を受けたことも、合否を誤魔化すこともできない、公衆の面前で晒し挙げ状態。
「あー……確かに難しいですよね、筆記試験」
 合否通知を受け取ったときの緊張感をジベルボート伯爵は思い出す。
 マルティルディが通知書を取り出して名前を呼び、足元へとにじり寄り通知書が床に舞い落ちてくる。マルティルディが顔を上げてもよいと言うまで黙って待って、そしてあの美しい声でフルネームと合否が語られ、通知書を持ってそのままの体勢で膝を使って後ろ向きに下がってゆく。
「無理に同調しなくていいと言っているだろうが、ジベルボート。十二歳で一発合格したお前と、十二歳から十九歳まで繰り返し受験したが合格できなかったメルフィではまったく違う立場にあるから、何を言っても駄目だ」
「……」
「実技もそうなんだけど、筆記が駄目なんだ。問題用紙を見ると頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。本当は学校に行きたかったんだけど、どんな試験受けても真っ白でね」
 立ち直ったイルギ公爵が、気を使わせてしまったね……と話に絡んでくるが、伯爵としては返し辛い。大体イルギ公爵は”弱い”ことは有名だが”頭が悪い”とは聞いてはいなかったので、上手い受け答えが出て来ない。
 いつも一緒にいるヨルハ公爵は容姿はあれだが頭脳明晰な狂人。子爵は並(帝国上級士官学校においては)だが文句なく賢い。エルエデスも頭はよく、同学年で最高の頭脳であるガルベージュス公爵もエヴェドリットの血を色濃く引いているので、正直伯爵はエヴェドリットは全員頭が良い物だと思っていた。
「ああ、なるほど。あの、あのイルギ公爵程の身分ですと考えもしないことでしょうが、意外と帝国士官学校にも上級貴族の当主っているんですよ。そっちも選択肢に……」
 軍人の多くないケシュマリスタでは、上級ではない士官学校に貴族特典を一時的に返上して通う者もいる。
「残念ながら選択肢に入っていたし受験もしたが……あとは説明しなくても解るな? ジベルボート」
「はい……」

 食後エルエデスは一人でピアノの練習に向かい、ジベルボート伯爵はイルギ公爵とレッスン日の調整などを行っていた。
 エルエデスと日にちをずらしたほうがいいのでは? 提案したジベルボート伯爵だが、イルギ公爵はむしろ一緒に来てくれた方が、食事の時も会話が出来るのでと言ってきたので「……それでしたら」と、出来る限り一緒に訪問することにした。
 計算された「漏れ聞こえてくるピアノの微かな音」を聞きながら、初対面同士話をする。
「先程の食事の際は、ほんとうに申し訳ございませんでした」
「本当に気にしないでくれ」
「ですが」
「我は良い立場にいるようには見えないだろうが、我自身は非常に満足している」
「そうなんですか?」
「さっきも言った通り、試験を受けると緊張のあまり回答できず、いつも落ちる。だが貴族の当主だから生活には不自由しないでいられる。だから……この地位にいることは嫌じゃないんだ。これが仕事だと思えば、普通の苦労だろう。試験も受けずに一流企業に終身雇用のようなものだから」
「はあ……イルギ公爵がそれでよろしいのでしたら」
「それに我は本当に頭良くないんだ。身体能力が劣っていることが目立っているから気付かれないんだが頭脳も並の下くらいで、頭の回転も良くない。事実一週間前にエルエデスから”ジベルボート伯爵を伴って行く”って連絡貰ってから伯爵の名前を覚えようとしたんだけれど、覚えられなくてね」
「人の名前覚えるの苦手な人はいますよ。特に他属の名前は覚え辛いでしょう。僕の名前エヴェドリット語や帝国語読みにしても構いませんよ」
「ありがたいが、その教養もなくてね。咄嗟に他属の名前を自国読みにすることができないんだよ」
「はい、そうですよね。ちなみに僕の名前のエヴェドリット語読みはエクリスティックバウトだそうです。どうでしょう?」
 マジパンを作りながら名前に触れ、その際に子爵が「こっちのほうが、我としては呼びやすいんだがな」と笑いながら言っていたことを思い出して教える。
「若干発音しやすそうだけれども……自信ないな」
「名前はそんなに気にしないでください。幸い僕は爵位が呼びやすいので、それさえ覚えていただければ。あとは紅顔の美少年ってことを抑えておけば、何処でも話は通じるでしょう」
「伯爵はなかなか面白いね」
「帝国上級士官学校では普通以下の面白さですよ。皇王族の皆さんの勢いには負けます」
 エルエデスに言わせれば「似たようなものだ」だが、自分のことは自分では案外わからないもの。
「彼らはねえ……伯爵はベリフオン公爵を知っているか?」
「はい、先週打ち上げでご一緒させてもらいました。普通に皇王族で、ちょっと切れ者な感じのする方ですよね。一昨日研修に向かう際にお見送りしましたよ」
「ああ……もう行ったのか。そうか……」
「どうなさいました?」
「いや、なんでもない。話が逸れてしまったな。とにかく私は覚えるのが苦手で。エルエデスはあんなにも簡単に覚えるというのに」
「エルエデスさんは、とても頭が良い人だと。僕もエルエデスさんの爵位覚えるのに苦労しましたよ」
「ははは、我はまだ言えないし、最近変わったマルティルディ殿下の爵位も言えないんだ。まずいよね」
「なんとかなりますって。僕は音痴でもケシュマリスタでいられるように」
「いやあ、君は綺麗だからね。見た目がケシュマリスタその物だから」
「あーでも! でも! 良く解りませんが、大丈夫ですよ! シク……じゃなくて、フレディル侯爵家のケーリッヒリラ子爵エディルキュレセも、イルギ公爵のように物静かで争いを好みませんから」
「ケーリッヒリラ子爵というと…………彼の、彼の……」
「落ち込まないでください! イルギ公爵! シク……シゼムの家族の誰のことをご存じなのですか!」
「ケーリ……のお兄さんの顔は解るんだ。エルエデスと一緒にいた時に見かけたことが」
「ネーサリーウス子爵オルタフォルゼさんですね」
「そうそう。彼もお兄さんと同じく美形なのかな?」
「お兄さんと同じく美形です。僕はオルタフォルゼさんの姿は画像でしか見たことありませんが。個人的にはオルタフォルゼさんよりもエディルキュレセのほうが美形だと思います。なにせナザール・デルヴィアルスそっくりですから」


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