授業の一風景 ――
「全員、爪は伸びたな」
爪の成長を促進する薬を飲み、ある授業に望む。
その授業内容は、剣で爪を切ること。閉ざされた空間で爪切りが失われた時の対処方法を学ぶのである。
どのようなシチュエーションなのかは甚だ不明だが、この帝国ならばそのような状況があったとしても不思議ではない。
子爵は指先が器用なので刃渡り150cmの剣を上手く使いこなし、切るだけではなく整えるまでした。
子爵ほど丁寧ではないが、ヨルハ公爵もかなり上手に爪を切りそろえた。
ガルベージュス公爵に関しては、説明する必要もない。
「あ……いた」
「いて!」
ケシュマリスタの二人は少し指を切ったものの、なんとか規定の短さまで切ることができた。
エルエデスは手を開き指ごと切り落とす。切った指がテーブルに落ちる前に指は元通りになり、爪も丁度良い長さに戻っていた。
「まったく……」
文句を言いつつ、注意深く切るイデールマイスラ。
ヒレイディシャ男爵は入学後、寮で髭の手入れを自分でするために専属の理容師に三年ほど習っていた。その際に爪の手入れ方法も習っていたので問題なくこなすことができる。
問題は……
「指ひどいことになったな」
赤点というべきか、赤指というべきか、爪を切り揃えることができず、指が血だらけになったメディオン。
傷そのものはもう回復しているのだが、指は血で染まっており、もちろん追試決定。
刃の当たった爪はまさに”ガタガタ”で、大貴族の姫君の爪には到底見えない。
「まったくじゃ。エディルキュレセは見事じゃな」
「褒めてもらえるとは思わなかった。ところで、メディオン。良かったら我が爪を整えようか?」
寮では身の回りのことは全て自分でするのが規則だが、必ずしなくてはならないというものでもない。メディオンは休日に帝星へと戻り、召使いたちに手入れをさせている。
「え……」
「休みまでまだ日数があるだろう。その間、その爪じゃあ過ごし辛くないか?」
「あ、あの……お願いする」
授業が終わって部屋へと戻り、爪を整えて貰った後に着用する手袋をどれにするか? 部屋中に広げ、それだけでは済まずヒレイディシャ男爵にまで尋ねに来る始末。
聞いているメディオンはばれているなど微塵も思ってはいない。メディオンが恋愛に関しては浮世離れしていることもあるが、ヒレイディシャ男爵の鉄仮面が完璧でまったく気付いていない人の態度そのもの。
「シャンパンゴールドのレースをふんだんに使ったのはどうだ? そうじゃ、ルグリラド殿下からお前がいただいたものじゃ」
メディオンは革製で象牙色地で手首から指先までびっしりと刺繍が施され、手首に何重もレースが縫い付けられている、テルロバールノル王家の代名詞に近い手袋を勧められ、
「……そうじゃな」
素直にそれに決めた。
「それにしても、こんな酷い状態の手を子爵に晒すことになるとは」
―― 酷い状態だから、ケーリッヒリラが申し出てくれたというのに……面白いことを言うものじゃな
ヒレイディシャ男爵は思ったが、言うのも野暮だろうと。
「それでは。儂はクラブに顔を出す」
なにより、メディオンが入部している美容部へ顔を出せば、爪を綺麗に整えてくれるだろうことは解っていたが、そんな下らない忠告をするような空気の読めない鉄仮面ではない。鉄仮面を保つために重要なのは空気を読めること。
次にどんな動きがくるかを予測し、力を込めてすべてを受け止める。
だからヒレイディシャ男爵は規定の動きがない、奇妙な動きをし続ける皇王族が大の苦手なのである。
メディオンは手袋を用意して人体調理部への部室へと行く。扉の前で”緊張などしていたら、エディルキュレセが変に思うにちがいない。さあ。行くのじゃ! 扉を開けるのじゃ!”心の中で自分を励ましていたところ、内側から扉が開かれ、
「メディオン」
子爵が招き入れてくれた。子爵はメディオンが扉の前に立った時から気配に気付いており、入って来るだろうと待っていたのだが、扉が開く気配がない。
「シク、ローグのお姫様は自分で扉を開けたりしないんじゃないかな」
「そうだな。普段は注意して扉を自分で開けているようだが」
「あ! 僕、見たことありますよ。メディオンさまが扉にぶつかったところ。やっぱり扉開けるっていう認識ないみたいです」
二人に言われて子爵は、やや不安になった。
―― すぐに扉を開かなかったって怒られたらどうしようかな。普通に謝るだけで許してもらえるものかな
そんなことを考えながら扉を開いたところ、メディオンが笑ってくれたので、気分を害していなくて良かったと爪の手入れを開始した。
メディオンの手入れが終わったら、赤点ぎりぎりであったジベルボート伯爵の爪の手入れをする約束もしている。
「手袋無しで触らせてもらうぞ」
「おう」
メディオンが思っていたよりも子爵の手は大きく、指がしっかりとしていた。軍人の手にしては見た目から繊細だと思っていた手だが、実際に自分に触れている子爵の手は、軍人のそれであった。
「エディルキュレセ、本当にお主は上手いのう」
あまりに手際よく終わってゆくので、もっとゆっくりとして欲しいと思う反面、これ以上触れられていたら、顔が赤くなって酷いことになるに違いない、あまりに酷い顔は見せたくはない! というどちらも子爵に対する気持ちで、心の中がまったく落ち着かなかった。
子爵はメディオンの顔が赤くなったことに気付いてはいた、理由が手を触れていることであることも充分に理解していた。それに自分個人に対する感情が含まれているかどうかまでは解らなかった。精神の障壁を作り、あまり触れずに手際よく。
ただ障壁を作っても、伝わってくる《感覚》というものはある。いま子爵がメディオンから感じている感覚は、とても柔らかく僅かな棘があるが、それは傷つけようとするようなものではなかった。
「それは良かった……はい、完成だ」
今までに似たような感じは何度か経験したことはあるが、今回はその中でも特につかみ所がなく、それでいて手を離しがたくなる、そんな感覚であった。
「手袋を……」
「これは……見事なものだな」
箱から取り出された手袋に、子爵が驚きの声をあげた。エヴェドリットではお目にかかれない、芸術品の域に軽く到達しているその手袋。
「ルグリラド様からいただいたのじゃ。見事であろう」
「いや、本当に見事だ。この刺繍糸、イドロゴレード(テルロバールノル王族専用製糸工房)のものか」
「良く解ったなあ」
「ここまで発色が豊かで奥深いのは初めて見た」
「エディルキュレセは刺繍などが好きなのか?」
「好きなのは宝石類だが、刺繍のような装飾品も興味がある」
「そうか。では今度儂が持っておるネックレスなどを披露してやろう。ローグ家伝来のものなども見せてやるぞ」
「それはありがたい。だが、いいのか?」
良い雰囲気の二人を隣の部屋から見守っていたヨルハ公爵とジベルボート伯爵は当然の展開に頷く。
「やっぱり美形って強いですよね、ヴァレン。おまけにシクはエヴェドリットとしては意外性がありますし」
”大人しいこと”が意外性というのならイルギ公爵も同じなのだが、彼の場合はエヴェドリットの必要条件である「強さ」が足りず、エヴェドリットの部類には入らないので、意外性以前の話になってしまう。
「まあね。ガウ=ライとナザールが仲良しに見えて、とっても不思議な気分だよ……二人はあのままにしておいて、我とクレウで菓子をつくろうか」
「ヴァレン、今日は菓子ではなくパンなどどうでしょう。菓子を作るときはやっぱりシクとも一緒に作りたいので」
幽霊部員宣言していた筈の子爵だが、毎日真面目に顔を出してマジパン細工の技術を磨いている。天才のヨルハ公爵にして”シク! 飲み込み早いぞ! 素晴らしく上手いぞ!”そう褒められてすらいた。
「そうだな。じゃあ食パンでも作ろうか、クレウ」
「はい。いいですね!」
※ ※ ※ ※ ※
「というわけで、作った食パン」
ジベルボート伯爵と二人で作った食パンを持って帰ってきてエルエデスに見せびらかすヨルハ公爵。
顔の辺りにもってきて、自慢げに披露するその様を見て、
「お前の顔がいつもよりも骨っぽくみえるぞ、ゼフ」
エルエデスはそう言った。ふわふわの食パンの隣にあると、ヨルハ公爵の顔のがりがり加減が強調されてしまったのだ。
「そう? それでね、これ夜食にしようと思って。映画見ながら食べない? トーストにするよ」
「解った。ちなにみ我は3p程度の厚さが好きだ」
「そうなんだ。じゃあ3pで切るね。何枚?」
「まずは二枚で。ちなみにお前は何pが好きなんだ?」
「そうだね2.5pくらいかな」
ヨルハ公爵は慣れた手つきで食パンを切り別け、トースターに入れた。
「なに塗る? エルエデス」
「一枚はそのまま。もう一枚はバターでいい」
「解った。じゃあ我もバターにしよう」
焼きたてのトーストとバター、コーヒーを注いだカップをテーブルに置いて、二人並んでソファーに座り映画を再生する。
出だしから作り物の血しぶきが飛び、悲鳴を上げつづけるヒロインがいたり。
トーストを手に取ったエルエデスは、隣で同じようにバターを塗って口元にトーストを運んだ筈のヨルハ公爵の動きに違和感を覚えて勢いよく横を向いた。
「ゼフ……」
「なに? エルエデス。画面直視できないくらい怖いの」
「違わないが、違うわ! お前、バターを塗った面を下に向けて食べるんだな」
違和感を覚えた動きというのは、バターを塗ったあと指で”くるり”と向きを変えてから、いつものように両手で掴んで食べ始めたこと。
エルエデスはバターを塗った面を上向きにして食べる。いままでずっとそうだと信じていた。
「え? おかしい? だって食堂で食べるときってバター塗った面が下側むかないか? だからマナーとして塗った面は下向きになるものだとばかり」
「……そ、それはたしかに」
食堂で厳しく監視されながら食べる際は、トーストもナイフとフォークで口に運ぶので、今ヨルハ公爵が食べているのと同じような感じになる。
「……」
「……」
「あんまり深く考える必要ないよね、エルエデス」
「そうだな。もしかしたら、シセレードとバーローズの仲違いの理由は、こんな些細なことだったのかもしれんな」
この二人の諍いの原因は《アシュ=アリラシュ・エヴェドリットの取り合い》とされているが、その割りにどちらも王妃には選ばれなかったことや、明確な理由が残っていない。エルエデスやヨルハ公爵たち子孫は他の理由がはっきりとしないのでそのままにしているが、一般に流布している原因に懐疑的でもあった。
「トースト、どっちの面をむけて食べるか? ……でも、ありそうだね! 我等の祖先だしさ!」
「それはそうと、ゼフ。お前両手で掴んで食べるのは癖か?」
「うん。駄目かな?」
「駄目ではないが、気になってな」
「そう? じゃあさ、こうしていいかな?」
ヨルハ公爵は投げ出されていたエルエデスの片方の手のひらの上に、自分の手のひらを乗せて軽く力を込めた。
「……」
「エルエデスの手握ってたら、片手で食べられる」
「ばっ! 片手で食わなくてもいいんだぞ! いや、その! お前が両手で掴んで食べている姿はかわい……握ってもいいぞ」
「わーい。ありがとう、エルエデス」
「画面に驚いて、お前の手を握り潰しても知らんからな」
言いながらエルエデスは手のひらを返して、指の隙間に指を入れてヨルハ公爵の骨がきしむほど力を入れて握りかえした。
「それって、エルエデスも握ってくれるってこと」
「……」
「嬉しいな!」
「そ、そうか……まあいい、観るぞ」
エルエデスはトーストの味など分かるはずもなく、苦手な映画の内容もどうでもよくなりつつ「恐いシーンで握ると言ったのに、驚くポイントが見当たらない。驚け! 手に集中するな、画面に集中して!」画面のヒロイン以上にパニック状態に陥りつつ、
「え? エルエデス、今の所恐いの? 死体もなにもないよ」
「アングルが恐いんだ! アングルだ! お前には解らないアングルの恐怖だ! 解ったか、ゼフ!」
この日一日で、エルエデスは恐いものが大量に増えることになってしまった。
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