君想う[026]
帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[77]
 朝日が昇り、陽射しに肌が熱を感じはじめた頃、ヨルハ公爵は言われた通りにエルエデスの肩を揺すり起こした。
 深く眠っていなかったエルエデスは手が近付いてきたところで目を覚ましていたが、黙って揺り起こされるのを待ち目を開く。
 朝日を浴びた矢車菊に囲まれながら、
「朝食にしょうか、エルエデス」
「そうだな、ゼフ」
 ヨルハ公爵はバスケットを開き、エルエデスが敷物を広げる。
「バスケットは食べちゃいけないんだよね」
「驚かれるらしいからな。ナイフやフォークもな」
 エヴェドリットらしい会話をしながら皿を取り出し料理をのせる。バスケットに詰められていたのは小麦粉とそば粉、二種類のクレープ生地。スティック状に切られた野菜と、細かく切られた肉類に、溶かしバターや蜂蜜など。
 クレープ生地に具材を乗せ巻く。
「なかなか美味いな。野菜や肉にも下味が付いてるようだが、初めての味だな」
「そうだね、初めての味だ。今度は溶かしバターかけて食べてみる? エルエデス」
「もらう」
 温かいコーヒーに口をつけて、上る朝日を眺める。
「ねえ、エルエデス」
「なんだ」
「我のことヴァレンって呼ばない?」
「断る」
「そっか。残念だけど諦めることにするよ。話題を変えるけれど、エルエデスは冬期休暇の予定は?」
 ヨルハ公爵はこれ以降「ヴァレンと呼べば」とエルエデスに言うことはなくなった。
「冬期休暇か。始まってすぐにあるミステリーツアーにはホラー映画鑑賞部として参加しなくてはならないらしいから参加するが、それ以外は今の所白紙だが、領地に帰るのも厄介だから、デルシ様の邸に住まわせてもらうことにするつもりだ」
 帝国上級士官学校は季節で言えば初秋に入学し、最初の長期休暇は「冬期」
「へえ。我もそのミステリーツアーに参加してみようかな」
「参加者が多いほど喜ぶだろうな」
「それでさ、エルエデス。冬期休暇に我の自宅に来ない? まだ言ってないんだけど、シクやクレウ、ギュネ子爵なんかも誘って、サズラニックスに会わせたいんだよね」
 王子と会わせるとなると、様々な手順が必要で、その一つにシセレード公爵姫エルエデスが必要になってくる。
「……バベィラと顔会わせるのか」
「うん。嫌でも将来顔会わせる機会増えるからさ、今のうちに慣れておくのもいいよ!」
「まあな……我は特に予定はないから、サズラニックスと会えるのならロフイライシ公爵の所に行っても良い」
 ロフイライシ公爵とはバベィラの現在の爵位。ヨルハ公爵はサズラニックスを城から連れ出し、バベィラの居城で全員に会わせるつもりだった。
 ヨルハ公爵邸に招くとなると、今度はイルギ公爵を招待しなくてはならなくなるが、彼はサズラニックスが逃げ出したりしたら命の危険がある。
 下手にヨルハ公爵のもとで死なれたりしたら、かなりの問題になるので場所と会える人は厳選しなくてはならない。
 バベィラはバーローズ公女、エルエデスはシセレード公女。公爵家としては同格だが前者は次期当主なので、彼女の現在の城で。後者はイルギ公爵妃でもあるので、対角に存在するヨルハ公爵が控えて”王子を招く”
 問題は多々ある一族だが、作法上の問題はない。
「ありがとう! エルエデス! 我がずっと傍にいて、絶対に危害なんて加えさせないから」
「お、おう。……わ、我がそっちの領地で戦うと面倒だから、お前が戦え……よ」
 薄い骨ばかりの胸を拳で叩いて宣言するヨルハ公爵に《なにを言っているんだ、お前は!》そう言おうとしたが、口から出たのは意外な言葉だった。
「うん! 任せてね」
 目の回りの隈が濃いヨルハ公爵を前に、

―― ゼフに気付かれた……か。もしかして気付いてデルシ様に聞いて……あの方は聞かれたことは包み隠さないだろうから……

 エルエデスも鈍くはないので、ヨルハ公爵の先日までとの態度の違いに気付く。特にエルエデスは好きなのだから、態度の変化には敏感だ。
「どうしたの? エルエデス」
「いや……」
「バスケット食べちゃ駄目だって、エルエデス」
「え?」
 自分の気持ちに気付かれたかもしれないという驚きに、思わず手元にあったバスケットを千切って口に運んでいた。
「千切っちゃったから仕方ない、食べちゃおうか」
「……そうだな。我等だからケシュマリスタたちも驚かないだろう」
 バスケットを縦に引き裂き半分を渡して、がさがさと食べ始める。
 クレープと同じ速さで食べ終えて、エルエデスは即座に立ち上がった。
「我は先に戻る」
「解った。もう少し時してから戻るよ」
「ああ」
 そして邸の正面から出ていった。見送ってからヨルハ公爵は立ち上がり、
「敷物どうしよう」
 自分の腹を見る。敷物の元の収納場所は己の腹。敷物も同じルートを辿るべきだろうか? と考えていると、来客があった、
「おはようございます、ヨルハ公爵」
「おはよう、ガルベージュス公爵。どうした?」
 いつもと変わらぬ”ぴしっ”とした格好でやってきた。
「少しここで時間を潰させてくださいね」
「構わないが」
 腹に入れようとしていた敷物を敷き直し、座るように促す。”ありがとうございます”と言いガルベージュス公爵は座り、なぜここに自分がやって来たのかと、これから何をするのかを説明した。
「メルフィも来てるんだ」
「そうですね。エルエデスは来週、イルギ公爵にピアノを習う必要があるのですよ。だから付いてきたようです、ガルデーフォ公爵が」
 イルギ公爵は軍人としても、エヴェドリットとしても才能は皆無だが、唯一ピアノだけは大の得意であった。もちろん得意というだけで、天才的ではない。
 むしろ天才的なピアニストは、骨と皮だけのヨルハ公爵やガルベージュス公爵など。
 ただイルギ公爵は天才ではないので、教えるのはそれなりに上手かった。
 エルエデスもピアノの関して才能はあるが天才ではないので、エヴェドリットの上級貴族の嗜みとしてイルギ公爵から手ほどきを受けていた。
 エルエデスは対外的には既にイルギ公爵妃扱いなので、定期的に会う必要もある。全てを排除しては衝突が起きてしまうので、決められた最低限の面会義務は果たしていた。
 不用意な面会で暴行などがあっては……と思われそうだが、イルギ公爵がエルエデスよりも強い、弱いを抜きにして、帝国上級士官学校は全に対応できるように学ぶ場所であるため、妊娠した程度では停学にはならない。普通に妊娠し出産ぎりぎりまで授業を受ける生徒も珍しくはないのだ。もちろん望めば休学もでき、産後休暇というのも普通に取れてしまう。当然のことながら学業優先と堕胎を求めればそれにも応じる。
「そっか」
「私がここを去ってから一時間後に戻ってくださいますか? ヨルハ公爵」
「それも構わないぞ」
「ありがとうございます。お礼と言ってはなんですが、一ヶ月後に対戦しましょう」
「解った。エルエデスにも伝えておく」
「はい」

 ガルベージュス公爵が去った後、ヨルハ公爵はのんびりと立ち上がり、一族を殺して以来に立ち入っていなかった邸に入り、部屋を見て歩いた。

※ ※ ※ ※ ※


 エルエデスはエヴェドリットの区画を抜けてケシュマリスタ区画を通り、あと少しでジベルボート伯爵の邸という所で、薄い色合いの金髪と大きめな瞳が特徴の男の姿を発見して足を止める。
「メルフィ」
「エルエデス」
 男らしさのない柔らかな輪郭、そして首から肩にかけての弱さを露わにしている曲線を持つイルギ公爵。
 優しげに微笑みかけてくるこの男に裏がないことは、エルエデスも良く知っている。強さがない分を補う狡猾さを持たない。 ―― 帰れ ―― そう言おうとしたが、口を開く前に危険を感じ身をかわす。音もなく近付き、エルエデスの頬に赤い一本の筋を付けたのは、
「リスリデス!」
 エルエデスの双子の兄、リスリデス。
 一目でエヴェドリットと解る黒髪と鋭い目に、薄い唇を兼ね備えたリスリデスは無言のまま構える。
「ガルデーフォ公爵!」
 居るとは思っていなかったイルギ公爵が、批難めいた叫び声を上げるが彼に許されている自由はそれだけ。下手に動くことは能力的にも立場的にも出来ない。
 三者三様に睨み、どう動くかを考えて”いた”

「なっ!」

 エルエデスは自分の鼻先を巨大なエネルギーが「擦った」ことに気付き、後ろに飛び退いた。彼女が後ろに飛び退いた時に兄は既に立ってはおらず、道路に俯せになり背中にはこのエネルギーの出所である女が立っていた。
「僕の靴の下で藻掻いている虫けらに名前があるのなら、教えてくれるかい?」
 重力に押し潰される道路、そして塀。音もなく剥がれ、そして砕けてゆく。
「マルティルディ!」
 朝日を浴びた黄金の髪はいつも以上に輝き、エルエデスは避けるようにして頭を下げる。
「虫けらの名前はマルティルディって言うのかい? おかしいな、僕と同じ名前の生き物なんて、この時代には存在していないはずなのに。そうだ、存在してはいけないから殺してしまおう」
 ”穴という穴から血が噴き出す”というのをエルエデスは目の当たりにした。人間なら死んでいる圧力だが、リスリデスはエルエデス同様の回復能力を持っている。その力が稼働し、口から同じ臓器を延々と吐き出し続けている。
 このまま名を言わず放っておけばリスリデスは間違いなく殺される。
 だがそれは別の厄介毎を引き起こす。
「……リスリデスだ。ガルデーフォ公爵リスリデス=エスケデスだ」
 ケシュマリスタの王太子は殺しても罰せられはしないが、エヴェドリット側も黙ってはいない。ここで兄を助けなければ、エルエデスの最大の庇護者であるデルシがマルティルディと衝突する可能性も出てくる。そこまで話が大きくなってしまっては、エルエデスにはどうすることもできない。
 同属同士で殺し合っている分には問題は内輪で片付くが、他属が絡むと邪魔者であっても助ける必要がある。
 マルティルディはエルエデスの声に圧力を消し、リスリデスの体から降りる。
「なにをしているんだい? このケシュマリスタの屋敷が並ぶ通りで。何してても良いけど、弱いねえ。君たちイルギのこと弱いって馬鹿にするけれど、僕からみたら君もイルギも変んないね」
 マルティルディの言葉に、イルギ公爵の存在を思い出した形になったエルエデスは彼を捜す。マルティルディが破壊した通路の瓦礫に足を挟まれ、必死によけているのを見て、すぐに視線をマルティルディに戻した。
 どうして良いのかは解らないが、逃げるためにも視界に捕らえておく必要はあった。

―― マルティルディは強いが動作が出るまで時間がかかる。その隙をつけば!

「マルティルディ様!」
 だが逃げる必要はなかった。
 異変に気付いたジベルボート伯爵とザイオンレヴィ、そして子爵が邸から急いでやってきた。マルティルディはザイオンレヴィを見て、苛つきからくる殺意を収めて小首を傾げる。あまりの空気の変わりように、エルエデスは悲しくなった。
 なにが悲しいのかは解らないが、エルエデスはとにかく悲しくなった。胸を掻きむしり、頭を乱暴に振り回し、意味のない叫びをあげて走り回りたい程に。
「ザイオンレヴィ。僕ね虫踏んじゃった。この靴気持ち悪いから脱ぐ。だから僕をおぶってよ」
 少なくとも兄が殺されそうになったことが悲しかった訳でもなければ、自分が力で叶わないことでもない。
「は、はい」
 急いでザイオンレヴィが背を向けて膝をつく。
「クレッシェッテンバティウ、マルティルディ様の靴を」
 ザイオンレヴィの背中に腰掛けたマルティルディの笑顔に、エルエデスは耐えられなくなって頭を下げた。血が幾筋も流れており、エルエデスの足も血に染められていたがそんな事はどうでも良かった。
「は、はい! お靴を脱がせてもよろしいでしょうか」
「許してあげるよ、クレッシェッテンバティウ」
「大丈夫か? エルエデス」
 声をかけてきた子爵に、
「あ……あ……」
 やっとの思いで返事をする。
「僕ね、虫踏んで気持ち悪くなったから陛下のところ行かないって、ダグリオライゼに連絡しておいて」
「マルティルディ様」
「行かないったら行かないの。クレッシェッテンバティウの邸に連れて行ってよ。早くしろよ」
 ザイオンレヴィと靴を持ったジベルボート伯爵が”おさきに”と子爵に目配せして血濡れた道路から遠ざかる。
「どうする? エルエデス」
「……ジベルボート伯爵の邸に戻る。ケーリッヒリラ、悪いがあいつの足の瓦礫を除けてやってくれ。その後は任せたぞ、メルフィ」
 エルエデスは血の足跡をつけながら、ジベルボート伯爵の邸へと向かった。
 子爵は急いで足の瓦礫を除けてやり、
「立てますか? イルギ公爵」
 手を貸してやった。
「あ、ああ……なんとか」
「良かったら大宮殿まで付き合いますよ」
「いや……いい。あの、できることなら、マルティルディ殿下のご機嫌を」
「それは無理です。そんなことしろって言われるくらいなら、二人を担いで大宮殿まで行かせてもらいます」
 子爵はマルティルディのことを詳しくは知らないが、どう考えても無理なことだけは解っている。
「いい……」
 口からはみ出していた臓器を引きちぎり、口がきけるようになったリスリデスが立ち上がる。
「お前も戻れ」
「あ、はい。ガルデーフォ公爵閣下」
 下手に関わっては危険だろうと、子爵はリスリデスの指示に従い急いで邸へと引き返した。


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