君想う[101]
帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[152]
 別大陸の対岸を目指して泳いだ二人は、無事に到達し引き返す。
 その途中、海深く潜る。陽光が届かぬ距離になっても、二人の視界は閉ざされることはない。巨大な生物たちが棲息できる深さよりも深く、体小さく、目が退化し、色もなくなった生物たちが住む海域へと到着する。
 ヨルハ公爵とエルエデスは互いに手を握り合い、くるりと回る。
 周囲には二人によく似た、酸素を必要とはせず、暗き海底でも生きて行ける生物たちがいたが、ほとんどの目が退化しており二人が回る姿を見ることはできなかった。

 陽光差さぬ海底に広がった、陽光を思わせるエルエデスの金髪。

 自然に抜け落ち海底に留まった一本の髪は、どんな生物も近寄ることなく、そこに在り続けた。

「楽しかったね! エルエデス」
 海面に顔を出し、ヨルハ公爵は手を高くあげて楽しさを露わにする。
「そうだな」
「巨大イカとか巨大タコとかと戦ってみたかったのに」
「そういう”生物”は危険を察知して逃げる力があるから、追わない限りは無理だろ……追うか? ゼフ」
「うん!」

※ ※ ※ ※ ※


 海水浴を終えて、各自が部屋へと引き上げた。
 何時もは女性だけ、男性だけの部屋割りであったが、今日はエルエデスの希望で、エルエデスは一人だけにしてもらった。
 一人になったエルエデスはすぐに部屋を出て、キーレンクレイカイムの寝室へと向かった。
 事前に連絡などしていないが、
「邪魔するぞ、フィラメンティアングス」
「さすがエルエデス。うちの警備じゃあ太刀打ちできないな」
 苦もなくこの国の王子の部屋へと侵入を果たした。
 キーレンクレイカイムは手元のグラスに酒を注ぎ、エルエデスに飲むように勧める。
 受け取ったエルエデスは、そのまま椅子に腰を下ろす。手の中の芳醇な香り漂う琥珀色の酒がはいったグラスを、掲げているキーレンクレイカイムのグラスへと軽くぶつけて乾杯をした。
「私の妃になるか?」
「ああ」
「そうか……ところで、良く言えば純粋な興味、普通に言えば下世話な噂好きなんだが、エルエデスはヨルハのどこが好きなんだ?」
「狂気」
 一言そう告げ、エルエデスは酒を口に含む。
「狂気……ねえ」
「我はゼフのことが好きだが、今の関係が最良だと……気付いた」
「最良? 絶対に許されない仲なのにか?」
「だからだ。ゼフが愛しているのは狂気だ。狂気がどれ程魅力的か、我もよく知っている。自分の狂気も他人の狂気も、どれも皆美しい。お前に分かれとは言わないフィラメンティアングス。我はゼフもゼフの狂気も好きだが……その狂気に嫉妬もする」
「そんな物なのか?」
 キーレンクレイカイムは空になったエルエデスのグラスに酒を足し、自分のグラスにも継ぎ足す。
「我の狂気は、女の嫉妬なのかもしれん。つまらんな……と思うが、仕方ない」
「あの大人しケーリッヒリラにも狂気はあるのか?」
「ある。あの二人の狂気は相性がいい。一生友達でいられるだろう」
「そうか」

 グラスをテーブルに置き、二人は立ち上がりベッドへと入り、肌を重ねた。

「じゃあな」
 契約としての一瞬を終えたエルエデスはすぐに起き上がり、キーレンクレイカイムの部屋を後にする。ベッドに残されたキーレンクレイカイムは、
「自信なくすな」
 余韻を感じるている素振りを見せずに立ち去ったエルエデスを、苦笑しながら見送った。

 また誰の目にも触れずに与えられている部屋へと戻ったエルエデスは、室内にヨルハ公爵の気配を感じ不思議に思ったものの、殺意もなにもないので扉を開けて入ってみた。
 そこには少し背が低くなったヨルハ公爵が揺れていた。
「なにを……」
「エルエデス、楽しんでくれるかな? と思って」
 何を思ったのかヨルハ公爵、部屋の床を自分の膝くらいまでの深さまで掘り返し、しなくても完璧なのに、ゾンビメイクを施して”知能が低下しているため、穴から抜けられませんゾンビ”を演じていた。
「ばーか」
 穴でゆらゆらと揺れているヨルハ公爵の側にエルエデスが座る。
「楽しんでもらえた?」
 ”ばーか”とは言っているが、エルエデスの声も表情も綻んでいる。
「ああ」
 揺れ続けているヨルハ公爵の顔を両手で掴み、額にキスをする。
「……っ!」
 骨と皮だけの顔から目が落ちるのではないか? と思えるほど目を見開き、驚くヨルハ公爵の顔から両手を離し、
「もうちょっと、揺れててくれるか? ゼフ」
「いいよ」
 嬉しそうに額に手を触れたまま、ゆらゆらと体を揺すり続けた。

「ところでこのゾンビが出た映画、タイトルなんだったっけ?」
「忘れた」

※ ※ ※ ※ ※


「ヨルハ」
「なに? ナシャレンサイナデ王女」
 ヨルハ公爵を呼びながら、ジベルボート伯爵の腕を引き、その胸で紅顔の美少年の横面を叩く。床に幸せそうな表情で崩れ落ちるジベルボート伯爵。
「私、お前の頬を今みたいに胸で叩くから、お前も崩れ落ちろ。いいな、ヨルハ」
「はーい」
 ヨルハ公爵は前傾姿勢になり、イレスルキュランの胸で叩きやすい位置に顔を出す。
「じゃ、いくぞ」
 イレスルキュランのはち切れんばかりの胸が、ヨルハ公爵の骨張った頬を捕らえ……
「派手に飛んでいったな」
 指示通りに崩れ落ちることなく、派手に飛んで行き、壁に激突。そのまま姿が消えた。
 自ら築いた瓦礫のなかから出てきたヨルハ公爵は、張られた頬を押さえ驚愕の表情を浮かべながら戻って来た。
「ごめん、ナシャレンサイナデ王女。びっくりして飛んじゃった」
 イレスルキュランは勝ち誇り、胸を更に前へと出して、
「お前は期待以上のことをやってのける良い男だ」
 ヨルハ公爵を褒め、今度は逆の頬を胸で張った。

 胸で男子研修生を張り飛ばす楽しみを覚えたイレスルキュランだが、
「お前逃げるよな」
 最後の一人、子爵だけは張り飛ばせないでいた。
「はあ」
 逃がし屋の本領発揮とばかりに、それは速やかに華麗にまったく気づかれずに子爵は逃げ回っていた。
 将来の皇妃の胸で横面張られるのは、好き嫌いの問題ではないとして避けていたのだ。もちろん子爵も女性の胸は好きだが、それと、これは別である。
「どうしても横面張られたくないというのなら……口を大きく開いて見せてみろ!」
 サラ・フレディルとその他の映像を見たイレスルキュランは、実際にも見てみたいと考えていた。
「はあ……」
「お前も開くんだろ?」
「開きますが……」
「見せろよ。なんならズボンのベルトに」
 イレスルキュランは侍女が持っている財布から紙幣を取り出し、折りたたんで子爵のベルトにねじ込む。
 見せろ、見せろ! 言いながらねじ込んでくるイレスルキュランと、
「お、楽しそうだな」
 財布から紙幣を取り出して同じことをし始めるキーレンクレイカイム。
 離れたところから見ていたジベルボート伯爵は「ロヴィニアにお金を渡されている……これは危険」恐怖に震えていた。
 ベルトの周囲全部に紙幣をねじ込まれ、滑稽な格好になった子爵はざっと金額を数えてから、
「こんなにお金を貰うほどの見せ物ではありませんが」
 希望通り、口を開くことにした。
 一度口を閉じ、眦の側まで一気に亀裂を入れる。そして顎を上げるようにして「顔を」大きく開いた。
「うぉああ!」
「すげっ……」
「こんな感じですが、よろしいでしょうか?」
 顔が開いた状態なのだが、声も喋り方もいつもの子爵のまま。
「これ、どういう風になって……」
 好奇心旺盛なイレスルキュランが口の中をのぞき込込む。その有様は、今にも頭を食われそうな少女そのもの。
「歯の数が凄いが、これ普段はどうなってるんだ」
「いつもこのままですよ。歯の数は人間ではなく、どちらかというと鮫とかに近いですね」
「へえ、面白い。なあ、口に手を入れて触ってみてもいいか?」
「それは止めたほうがよろしいかと。口の中に幾つか閉じるスイッチみたいなのがありまして、触れると勝手に閉じてしまいます。我も分からないので」
「そうなのかあ……へえ、面白い」

 しばしロヴィニア兄妹に口をのぞき込まれ、子爵は無事、横乳張りから逃れることができた。男なのだから、横乳張りから逃れる必要があったのかどうか? そこは不明である。

 こうして研修は多少の殺人と、予期せぬ出来事があったものの、甚大な被害は出ずに無事終了した。

※ ※ ※ ※ ※


 研修を終えてロヴィニアを発ってから、メディオンの元にヒレイディシャ男爵から連絡が入った。
 ヒレイディシャ男爵はイデールマイスラとマルティルディとの間に両性具有が産まれたことを知っている、数少ない一人である。
 もちろんその事をメディオンに告げることはなかったが、
『楽しかったか』
「おう、楽しかったぞ」
 しっかりとした表情に”余計なお世話にならなかった”用意しておいた理髪セットを渡すことに決めた。
『メディオン』
「なんじゃ? イヴィロディーグ」
『儂はこの年で士官学校なんぞ……と思っておったが、いまは卒業するのが惜しいわ』
「イヴィロディーグ」
『残り一年とは……このままでは居られぬ事は解っておるが、善き時間を殿下から頂いた』
「そうじゃなあ。儂も入学して本当によかったと思うておる。お主とも仲良くなれたしな、イヴィロディーグ」
「そうじゃな、メディオン」

 寮で再会し、ヒレイディシャ男爵は理髪道具が入った箱を手渡す。

「使おうが使うまいが……それは主の自由じゃ」
「ありがとう、イヴィロディーグ。ところで殿下はどうなされたのじゃ? 随分と落ち込まれているようじゃが」
「……マルティルディとの仲がこじれてな」
「そうか……上手くいくことを願っておったのじゃがのう……」

※ ※ ※ ※ ※


 久しぶりに帝星へと戻って来たエルエデスは、イルギ公爵のところへとピアノを弾きに訪れた。
「フィラメンティアングスと正式に結婚するのは卒業後だ。それまでに、お前の子を孕んでおくようにとのこと。ただ産まないのが前提だ。そんな顔をするなメルフィ。お前の後継者は必ず産む」
「うん……エルエデス」
「なんだ? メルフィ」
「いや……なんでもない」

 イルギ公爵が奏でるピアノを聞きながら、エルエデスは目を閉じる。

 ソファーに身を沈め、足を組み、軽快ながらどこか寂しさを感じさせる曲と共に甦る五年間。

「メルフィ。我のこの五年間の学生生活の記憶に、僅かだがお前も混ざっている……ジベルボートがかつて言っていた通り、お前も入学出来たらよかったのにな。そしたらもっと楽しかっただろう」
「そう言ってもらえるだけで充分だよ、エルエデス」

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