帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[51]
 リニアが部屋へと戻ると二人は入浴を終える頃だった。
 急いで二人の着替えなどを用意し、上がってくるのを待つ。
「リニア小母さん! 楽しかった? あてしは楽しかったよ!」
「そう、良かったわねえ。小母さんも楽しかったわよ」
 言いながらグラディウスにタオルを渡しサウダライトの体を拭く。
「どうだったね? エステ」
「ありがとうございます」
「そうかい。では三人で夕食としよう。メニューは昨晩のものだ」

 湯上がりの良い気分に、大好きなメニュー。そして大好きなおっさんと、リニア。ルサ男爵がいないのは残念ではあったが、グラディウスにとって楽しい時間の始まりだった……筈なのだが、
「ふ……ふええ……」
 サウダライトに切り分けて貰ったハンバーグをフォークに刺したまま、泣いていた。
 その頭は大きく揺れ、テーブルに何度も打ちつけている。
「寝なさい」
「ふぇぇ……食べたいよーリニア小母さんに……おはな……」
 遊びと性行為で疲れ果て、グラディウスには睡魔がのし掛かってきていた。いつもならば睡魔に簡単に敗北するところだが、今日は久しぶりのサウダライトの訪問に、二人バドミントンをして遊んだことをリニアに教えたい! という気持ちと、大好きなハンバーグと空腹。
「なんで眠いの……おっさんと……お話した……」
 フォークを持ち泣きながら、ついにグラディウスはテーブルに俯せて眠りに落ちた。
「疲れちゃったのか……あらら。ベッドにこの子を移動させるから、着替えさせておいてくれ」
 サウダライトはフォークを握り締めている指を一本ずつ剥がし、涙とソースで汚れている顔にキスをして、抱き上げて寝室へと運んだ。
 ベッドに置いてからサウダライトは料理をそのままの状態にしておき、明日の朝食べると言い、別の料理と酒を用意するように命じる。
「食事は別の愛妾のところでとるかな」
 一人で料理を食べるのも味気なく、酒を自分で注ぐのもつまらないと、他の愛妾の部屋へとゆき楽しんでからグラディウスの部屋へと戻ってこようと決め、着替えを終えてもらい顔を拭かれたグラディウスの元へとゆき寝顔を観た。

―― おっさん! ――

「……なんか、ねえ。あれだねえ、疲れて帰ってきた父親が娘の顔を見て元気になれるような……違うか」
 不可思議な感情に、別の部屋へと行くことを止めて一人で食事をとる事にした。リニアの分も部屋に料理を運ばせるようにして。
 ソファーに腰をかけ、食事というより酒の肴を大量に運ばせ、銘酒を開けさせた。
「さてと」
 グラスを目の前に置き、自らの手で酒を注ぐ。その脇でリニアが”どうしよう”と言った顔で見つめていた。
 皇帝に手酌させるわけにはいかない。だがリニアは皇帝に酌をすることはできない。
「気にしなくていいよ。君に酌をさせるわけにはいかないから。それに悪くはないよ。手酌したくなければ、他の部屋へと行けばいいだけだ」
 リニアは侍女であり、侍女には侍女の領分というものがある。
 皇帝はたしかになにをしても良いが、全てが無条件に許されているわけでもない。
 ここでサウダライトがリニアに酒を注がせようとすると、リニアはグラディウスの侍女としての立場を失うことになる。
 ”主の仕事を奪った”と見なされるからだ。
 侍女の仕事に酌はなく、愛妾の仕事に酌はある。
 侍女に手を伸ばし愛妾として抱えることは珍しくないが、他の愛妾の部屋で侍女が愛妾の仕事を奪う形になるのは禁止されている。
 もしもここでリニアに酒を注がせようとしたら、まずはグラディウスの侍女としての立場を無くする必要がある。
「酌をしてもらいたいという気持ちはあるけれどね。私としてはあの子のことを頼める侍女は君しかいないわけだ。これからあの子のこと頼むよ。下がってよろしい」
 リニアは頭を下げて部屋を出て自室へと戻り、朝まで部屋からでることはなかった。

 だが皇帝に手酌させることに耐えられない面々もいる。それが隣室で監視していたゾフィアーネ大公だ。

「陛下、お邪魔いたします! そして私が注ぎましょう!」
「……いや、あのな、ゾフィアーネ」
 ゾフィアーネ大公は”侍女”ではなく”愛妾”でもない。だが彼は酒を注ぐことが出来る。彼は軍人であり「皇帝の従卒」という立場も所持しているからだ。
 一般人でもそうだが大まかに分けて、付き合いで飲む緊張した酒と、ゆったりとした気分で楽しむ酒がある。
 グラディウスはゆったりと楽しむ酒の席用。ゾフィアーネはまさに緊張する場面で酒を注ぐ男。軍事国家なので皇帝は出陣前に乾杯をしたり、将校を集めて皆でグラスを空けたりする必要がある。その際、当然皇帝の口に入るものなので、酒やグラスには細心の注意が払われ、用意する者は責任重大な立場に置かれる。それらを取り仕切るのが先代皇帝の従卒でもあったゾフィアーネ大公。
「シャイランサバルト帝も褒めてくださった私の技! いまここで陛下にお見せいたします!」
「いや……君が陛下にお酒注いでたのは、見てたから……見てたか……」
 ゾフィアーネ大公は生まれた時から、シャイランサバルト帝のガニュメデイーロ(酒を注ぐ軍人)になることが決められており、そのように育てられた。
 年の若いのでシャイランサバルト帝の次の皇帝の御代でもガニュメデイーロを務めることになっていたので、サウダライトに注ぐのは当然なのだが……とにかく煩い。
「あの空のガニュメーデースのように。鷹よ! 鷹よ!」
 その上脱ぎ出す。
 露出狂の気があるのではなく、ガニュメデイーロとは基本的に神話のガニュメーデースのような格好、すなわち腰に布を巻いただけの格好が正装とされているのだ。
 毒などを所持していない、そして皇帝の傍に近付く際に武器を所持していないということ場にいる者たちにはっきりと見せるのが目的。
「脱がなくていいよ……」
 いつ、いかなる時でも皇帝に酒を注ぐことができるよう、ゾフィアーネの最後の一枚はいつも腰布。それがガニュメデイーロという存在だった。
 元は上級貴族だったサウダライトは、シャイランサバルト帝の酒宴に参加したことは何度もある。その時に、このゾフィアーネの奇行一歩手前の酌を見ていた。
 伝統なのだから仕方ないのだが、極限まで鍛えられた男の筋肉の盛り上がりを見ながら酒を飲む趣味はサウダライトにはなかった。
 ……が、そうも言ってはいられないというか、他の愛妾の部屋へと移動しようかと思ったが、断り切れずに結局酒を注いで貰うことに。
「量を指示してください。言われた量を注ぎますので! リットルでしょうが、ミリリットルでしょうが、モルでしょうが、全てに私は対応しております!」
「二百ミリリットルずつお願いするね……」
「畏まりました! 陛下! ガニュメデイーロとして、陛下に酒を注ぐことが出来る喜びを、ここで数で語りたいとうぅぅ!」

―― シャイランサバルト陛下は偉大であらせられた。はあ、私にはこの人たちは理解できないよ……

※ ※ ※ ※ ※


 ルサ男爵の射撃の専任教官を任せられていたケルディナ中尉は、愛妾区画の警備から配偶者候補(寵妃)「館」警備の小隊長に昇格した。
 隠しごとではないので、知り合いで寵妃館の周辺警備をしている友人と会って食事をしながら、これからについて尋ねていた。
「同じところで仕事になりそうだ」
「そうか。今度の寵妃はアディヅレインディン公爵殿下のご指示だから楽だろうな」
 友人のガラード中尉はつい先日まで寵妃イデルグレゼの住む館の周辺警備部隊の小隊長をとつめていた。
 イデルグレゼの警備ではなく、住んでいる館の「周辺」の警備。イデルグレゼの館をザイオンレヴィが強襲した際には遠巻きに見ていることしかできないような警備だ。
 彼らが悪いのではなく、彼らは武器を持った相手ならば問答無用で対応できるが、丸腰の貴族の場合は武器を構えることができない。
 だから無手でやってきたザイオンレヴィを迎え撃つことも、暴れている彼を撃つこともできなかったのだ。撃ったところで当たる筈もないから撃たない……という面もあるが、彼らが抵抗できる相手は、自分たちと同じくらいの強さの相手であり ―― 決して本気では戦わないですむ相手 ―― のみである。
 大貴族同士の諍い巻き込まれて命を失っていたら、今頃は帝国貴族など死に絶えているだろう。

「トヴィスニティア子爵さまは”無事”お帰りになられたか?」
 トヴィスニティア子爵とはイデルグレゼのこと。
「ああ。噂じゃあウリピネノルフォルダル公爵妃になるらしい。ものすごい条件付きで」
「そりゃあ大変だな」
 中尉二人は漠然としか条件は知らない。
 二人が解ることは、イデルグレゼの産んだ二人の子が処分されたことだけ。それだけでも、相当な条件なのだろうと推察はできたが、それ以上探るような趣味はなかった。
 中尉二人の興味は、次の主になる寵妃のこと。
「お前が射撃を教えている男爵さまが仕えている愛妾だそうだが、どんな人か聞いたことあるか?」
「ないない。男爵さまは真面目で無駄愚痴なんて一切言わない御方だ」
「そうか。どうなるかは解らないが、一緒に仕事をすることになっても平気そうだな、ケルディナ」
「ああ。えっと警備責任者はケーリッヒリラ子爵閣下。エヴェドリット名門フレディル侯爵家の第二子か。意外だな」
「そうか。ケーリッヒリラ子爵閣下はガルベージュス総司令閣下と同期で、寮も隣室だったはずだぞ」
「ああ、その方面での抜擢か。でもエヴェドリットが上司となると厳しいな」
「大人しい人だとは言うけど、あくまでもエヴェドリット内での判断ってのが恐いよ」

※ ※ ※ ※ ※


 美しいが凍りついたようなエンディラン侯爵、その隣に立っていた疲れ果てたようなウリピネノルフォルダル公爵。
 そして笑顔のサゼィラ侯爵と、目が虚ろで美貌も色褪せたトヴィスニティア子爵。その四人は並び、マルティルディの前に跪く。
「自分の子供を目の前で殺された気分はどう? イデルグレゼ。ねえ、教えてよ。教えてよ。愛していない、権力を得るためだけに生んだ子供だから悲しくはないよね。ねえ」

 イデルグレゼは「どのように答えたら、マルティルディの怒りを買わないのだろうか?」それだけを考えたが、なにも思い浮かばなかった。それが当主になれないイデルグレゼの実力。

 答えられなかったイデルグレゼの無能さを笑い、笑い終えたときに興味を失った。
「なんで君、ここに未だ居るの? もう良いよ。二度と会う事もないだろうけどね。じゃあね」
 ウリピネノルフォルダル公爵夫妻が人前に現れることは、この後はなかった。
 一生館から出るな、性行為をするな。二人きりで暗い部屋に閉じこもれ……等の条件とは到底思えないような「条件」に支配されることになる。

※ ※ ※ ※ ※


 グラディウスがドミニヴァスから買ってもらった洋服が切り裂かれ、ケーリッヒリラ子爵から貰った硝子細工は破壊される。

―― 帝星から連絡? 陛下だって? ……帝星に向かうぞ
―― 花の用意は出来たかい。じゃああの子の所へ行こうか
―― フォル男爵。本日からここの配置となる……精々足掻けばいい

 こうしてグラディウス・オベラは愛妾から寵妃となった。

 その後の愛妾区画だが、ほとんどの時代と変わらずに存在していた。レルラルキスなどのように生活の糧のために愛妾になっている者も多いので、一存で閉鎖するわけにもいかなければ、サウダライトは閉鎖しようとも思わなかった。
 ただ糧として考えて居る者たちは、皇帝がいつ崩御するか? その後の身の振り方を考えて置く必要がある。
 グラディウスが寵妃に選ばれたこともあり、愛妾たちは自分も! と色めきたった。その興奮はサウダライト帝は即位している間続くこととなる。

 サウダライト帝が愛妾区画に足を運び続けた為だ。

 様々なことのあったサウダライトの御代の愛妾区画。そこでもっとも気に入られたのが、レルラルキスだった。
 彼女自身は皇帝の本当の愛妾になるつもりなどなかったのだが、グラディウスを庇ったことで皇帝が通うようになってしまったため、仕方なしに相手となっていた。
 生活の糧なのだからあっさりと割り切ることは可能だった。
 ただ皇帝が来るという報告を受け取ると、机に飾っているモルミント用の車輪を片付けてサウダライトの目に付かないようにしていた。
 どうしてそのようにしたのか? 彼女自身も良く解らない。

《四章・終》


|| BACK || NEXT || INDEX ||
Copyright © Iori Rikudou All rights reserved.