帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[42]
 あの日は雨が降っていた。
 雨は止み雲の切れ間から日が差す。その光はステンドグラスを通り抜け、わたくしとあの方は無数の色に包まれた。森の中を切り開いて移築された歴史ある石造りの城。

 そのことを思い出した。
 聞こえてくる波の音。舞い落ちる花びら、その花びらに埋もれて美しいその身に分け入る。
 海にそびえ立つ、解放されし塔。

※ ※ ※ ※ ※


「終わったのならば、早く出ていけ!」
 本日はルグリラドの元へとやってきて「やること」を終えたサウダライトは、一息つく間もなく枕を投げつけられて、部屋から出て行けと叫ばれていた。
 何時もの事なので、
「落ち着いてくださいませ」
「出て行け!」
 サウダライトは全裸ながらも、ルグリラドを落ちつけようと必死に声をかける。
 言われた通り部屋から出て行けば良いようなものだが、
「あの、もう二度ほど」
「うわあああん!」
 サウダライトは本日、もう二回ルグリラドと性交渉に及ばなくてはならない。
 皇帝というのは正配偶者に対して平等でなくてはならない。デルシ=デベルシュは《子供が出来ない時期》なので、《現在は》性行為の事実だけで済むが、イレスルキュランとルグリラドは”どちらが先に皇太子を孕むか”が重要な問題であり王家の駆け引きでもあるため、性行為の回数も均等にしなくてはならないのだ。
「イレスルキュラン……うわあああ!」
 サウダライトはイレスルキュランの体は好みなので、ついつい手が伸びてしまい、昨日三度の性行為となり、
「申し訳ありませんが……」
 それらは確りとテルロバールノル側の監視員にカウントされているので、何としてでも今晩三度抱かなければならない。
 ちなみに監視員の部屋は此処にもあり、エヴェドリット側とロヴィニア側が確りと数えている。エヴェドリットは必要は無いようにも思われるが、デルシ=デベルシュが《妊娠可能な時期》になった際に《まとめて払わせる》ため、足りない分を数えて記録している。

 皇帝の結婚は、世間で言うところの結婚と全く違う。

―― 私のばか! こうなることは解っているというのに……でもイレスルキュラン様のお身体は、本当に。皇帝にならなければ触れられないお身体だからなあ……はぁはぁ。いや今はルグリラド様を

 懲りない皇帝サウダライトは、ルグリラドが投げつける枕がなくなり、シーツで体を隠して丸くなったところで、ゆっくりと近付いてゆく。
「失礼いたします」
「なんだね?」
 そんな間抜けな緊迫状況の中、伝令が入室してきた。
「ガルベージュス公爵が陛下に面会したいと」
 総司令長官が正装でやってきたので、通さないわけにはいかず、連絡も速やかに行わなければと伝令は躊躇わずに寝室へと踏み込んだのだ。
「ガルベージュス? どうしたと?」
 意外な来訪者に、サウダライトは侍女にガウンを持って来させ袖を通す。
『……』
 誰も気付かなかったが、ガルベージュス公爵と聞いたところで、ルグリラドの体が僅かに震えて、シーツだけではなく上布団まで自ら被り体を覆い隠した。
「用件は直接と」
「解った。ルグリラド様、ちょっとお待ちくださいま……ってガルベージュス!」
「失礼致します」
 扉の外で待っていたガルベージュスは、許可を得られてすぐに部屋へと入ってきて、
「おお」
「セヒュローマドニク公爵殿下、陛下とのお時間を少々お貸し下さい」
 ベッドには近付かず、だが頭を下げて《皇帝との時間を拝借させていただきます》と声をかけた。
「好きにせい! そこで話しておれ!」
 くぐもった声に再度頭を下げて、用件を話し始めた。
「畏まりました。陛下」

※ ※ ※ ※ ※


 誰のためでもない揃えられ磨かれた爪と、ハープを奏でるためだけに存在している指を自分の下半身へと伸ばす。
「銃の携帯?」
「はい。陛下のご寵愛に嫉妬するものが」
 自分の胸を強く揉む。
 下半身に残るものから逃れるために、前の敏感な部分だけを指で押し、撫で自分の声を押し殺し、

―― セヒュローマドニク公爵殿下

 その声を求める。

「排除はできないのか?」
「そういった部類のものではりません。まだ危害を加えておりませんし、危害を加える対象が愛妾殿とも限りませんので。小間使いも警戒対象であり、小間使いであった場合は……」

 先程の責務としての性行為では感じなかった熱が内側から溢れ出し、涙も溢れ出す。
 己の指は快感を求めて、強く爪を立てる。
 足が動き、シーツの裾に爪先が引っ掛かった感触。

―― わたくしはエンディラン侯爵を愛しております
―― 解っておる。解っておるから

 双子の弟とよく似た男と言われるが、彼女には全く違って見えた。
 頬にかかる髪と、上掛けの中での行為によって熱くなった吐息。背徳などはないが終わるまで、快感に達するまで会話していてくれと彼女は望む。

「なるほどね。そういうことなら許可しよう」
「ありがとうございます。それとは別に……」

 涙の浮かぶ目蓋を固く閉じ、快感に体が震える。
 荒くなった息を整えて、自慰のあとの気怠さと共に、先程よりも遠くに聞こえる声を聞く。
 二度と望まぬと約束し、それを守るが、忘れてはいない。体ではなく心が。
 誰にも届かぬ吐息を漏らし、目を閉じる。
―― 貴様がガルベージュス公爵か
―― はい、初めまして! セヒュローマドニク公爵殿下
 出会ったのは四歳の時。彼女の初恋。
 彼がエンディラン侯爵に恋するより先に、彼女は彼のことが好きだった。
 だが彼女は彼に恋をする前に、結婚相手が決まっていた。誰も覆すことのできない存在となる”はずだった”男の元へ。その男が消えても、その存在は消えず、彼女は存在の元へと嫁ぐ。

 彼女は”誰か”に嫁いだのではない。彼女は”存在”と契約を結ぶための”物質”なのだ。

※ ※ ※ ※ ※


「それでは失礼いたします」
「よろしく頼むよ、ガルベージュス」
「セヒュローマドニク公爵殿下も、お時間ありがとうございました」

 ガルベージュスが部屋を去ってから、サウダライトはベッドへと近付き、ルグリラドの体へと手を伸ばした。
 ルグリラドは拒否することもなく、黙って体を預けた。
 上の空であったが、サウダライトは特に触れることもなく、その仕事を終えて二人は別々の寝台で夜を明かした。

※ ※ ※ ※ ※


 雨が上がり、輝かしいと表するのが相応しい朝。
 何時もより早く目覚めたルサ男爵は、着替えて部屋を出た。
「まだ朝食の用意が整っておりません」
「いいや、気にすることはない」
「昨晩はありがとうございました。とても美味しかったです」
 老人の笑顔に、ルサ男爵は困惑しつつも悪い気はしなかった。昨晩言われたら困惑しただろうが、昨日の運動による深い眠りはルサ男爵を落ち着かせた。
「そうか」
「散歩などなさっては、いかがでしょうか?」
 老人に言われて、ルサ男爵は散歩のために中庭へと向かった。
 葉に残っていた雨粒が朝日に照らされて、葉が輝いているかのように見える。そんな木の下に通っている小径を歩きながら……

「うわああ! みみず!」

 飛び上がった。
 雨上がりの朝は、緑豊富な小径には”みみず”が多い。
 生まれて初めて雨上がりの朝の散歩で、みみず回避能力を身に付けたルサ男爵は、疲労したといった表情で部屋へと戻った。
 戻る途中、最近なにかと敵視しながら声をかけてくるフォル男爵と遭遇したが、声をかけられても無視して戻った。
『みみず……』
 自分の部屋に戻ると、
「ルサ男爵、お客様がお見えです」
「来客?」
 今まで一度も訪問などなかった自分の部屋に、
「初めまして、ケルディナ中尉と申します」
 帝国軍の中尉がいた。
 朝早くから訪れたことを詫びる中尉と向かい合いながら、ルサ男爵は話を聞く。
 中尉はこれからルサ男爵に、銃器の扱いなどを学んでもらうと告げた。書類などは全て揃っており、テーブルに広げられたそれらを手に取りルサ男爵は目を通す。
「明日から、毎朝訓練したいただきます」
「中尉が教えてくださるのですか?」
「はい。正直申しまして、私も今朝書類を渡されて大急ぎで目を通して、こちらへやってきたのです。詳細は分からないのですが、明日までには全て整えておきますので」
「お手数をおかけしますね」
「いいえ。男爵専任教官を任されたこと、光栄でこそあれ、手数などとは思いません」

 差し出された中尉の手に記憶から呼び出した”握手”というものであろうと、ルサ男爵は手を伸ばしてしっかりと握った。

「それでは、明日」
 明るいオレンジ色の短髪に、黒と青のやや細めの瞳の持ち主である中尉は、笑顔を残して去っていった。
 中尉を見送ったあと、ルサ男爵は朝食を取りつつ、書類に目を通した。

 ケルディナ中尉は帝国軍に属する帝国貴族。上級ではなく通常の士官学校卒業して、有り触れた軍人生活を送っていた。
 人当たりが良く、身分的にもルサ男爵と同じ程度なので物怖じもせず、誠実である。
 現在の配置は愛妾区画の警備の一人で、ジベルボード伯爵クレッシェッテンバティウの部下の一人でもあるので《奇妙》なところは一切ないだろうということで選ばれた。
「射撃や体術の訓練か」
「ルサ男爵ならきっと大丈夫ですよ」
「ありがとう」


|| BACK || NEXT || INDEX ||
Copyright © Iori Rikudou All rights reserved.