帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[41]
「しゅしゅ……しゅ……すたーべれー」
「シュスター・ベルレーです」
「したーべれー」
「シュスター・ベルレーです」
 男爵は久しぶりに《初代皇帝》の名を連呼していた。
 男爵たちは幼少期、起床後と睡眠前に歴代皇帝の名を叫ぶ。全ての皇帝の名を完璧に覚えるまで、それらを欠かすことはない。
「したー・べうれえー」
「シュスター・ベルレーです」

 グラディウスがやっと 《しゅすた・べるれ》 と発音できるようになった頃、昼食を取ってもおかしくはない時間になっていた。
 ちょうどその頃に 《今晩陛下のお渡りはありません》 との伝令を受けるも、グラディウスは、
「渡りってなに? なに?」
 理解していないことを隠さずに尋ねる。
 勝手に言葉を変えるわけにはいかない伝令の困惑を感じ取ったリニアは、
「今日は陛下、忙しくて来られないそうよ」
 グラディウスに解り易いように言葉をかえて話しかけた。
「……そ、そうなんだ……うん、わかった。お、おっさんに! おしごと頑張って! って言ってね」
 そのやり取りをつぶさに観察しながら男爵は「会話を成立させるための会話例文」を自らに蓄積させていた。
「畏まりました。それでは失礼いたします」
 少し寂しそうに肩を落とすも、すぐに笑顔を取り戻す。
「今日はリニア小母さんとルサお兄さんと一緒に食堂で晩ご飯の日だね!」
「そうね。じゃあまずはお昼ご飯を食べに行きましょう」
「うん!」
 リニアは皇帝から命じられている通りにグラディウスの髪を一本に束ね、三人で食事へと向かった。

※ ※ ※ ※ ※


 昼食後、リニアは部屋へと戻りグラディウスとルサ男爵は二人で探索に向かう。
「じゃあねえ! リニア小母さん! あとで帰るからねえ」
「ゆっくり見てらっしゃい、グラディウス」
 普通こんなにも案内に時間がかかることはないのだが、そこはグラディウス。施設の一つ一つに引っかかり、理解するまでに膨大な時間を必要とするので、説明がなかなか終わらない。
「ルサお兄さん、これはなに?」
 本日訪れたのは、トレーニングルーム。
「運動して汗を流すところです」
「運動ってなに?」

 ―― エルセ・テル・ラー 本日も役立たず ――

 グラディウスの質問が予想できず、当然返答も用意できない。
「体を動かすことです」
「体動かしてなにするの?」
 グラディウスが送ってきた生活は、体を動かしてばかりで、栄養不足はあっても運動不足とは程遠い。
「汗をかいて……気分がよくなるのだそうです」
 そしてルサ男爵も言ってはいるが、あまり理解できていなかった。
 人間の体型維持や健康増進などの理由があるらしいことは知っているが、人造人間は特別そのようなことをする必要はない。
 不摂生と寿命に関わりはなく、体型維持と運動も繋がらない。
「気持ち良くなるの!」
「そのようです」
「あてしもやってみて良い?」
「勿論です」
 グラディウスは様々な機具を見回して ”これはなに?” とルサ男爵に使用方法を尋ねてくるのだが口頭だけでは理解できるはずもない。
 よってルサ男爵が動かしてみるのだが、ルサ男爵も初めて触る機具ばかりで上手く操れない。
 だがグラディウスは”ルサお兄さん、教えてくれるはず”と信頼の眼差しを向けて、その視線に焦るルサ男爵は教えられそうな機具を捜した。
「そうですね……全身を使うものではなく……」
 そして目に止まったのが、ルームランナー。
 走るだけで、転んでも絶対に怪我などしない作りとなっている、軍の体力維持と測定に使用されているもの。
「これなに? ルサお兄さん」
「走るのです」
「走る?」
 ルサ男爵はずらりと並んでいるルームランナーに乗り、
「ここにある紫のボタンは決して押さないで下さい。この黄色のボタンを押すと、このように下が動きます」
 説明しつつ両脇にある体を支えるための枠に掴まりながら、ゆっくりと走ってみせる。
「へえ! これが気持ち良くなるんだ! よおし!」
 グラディウスは解ったと隣のルームランナーに乗り、同じようにボタンを押し走り出す。軽やかは走りのルサ男爵に対し、グラディウスは”どった、どった、どった” という、凄い音。
「グラディウス殿。この機具は走っていると徐々にスピード……足元のシートの動きが速くなりますので、お気を付け……」
 グラディウスは必死だった。枠に掴まり、必死に足を動かしている。
「んーんーんー」
 歯を食いしばり足全面で力強く踏みしめ、蹴り上げて走る。
「無理だと思ったら、すぐに黄色のボタンを押して下さい。開始と停止が同じボタンなのです」
「んーーー! べちょ……」
 グラディウスはボタンを押そうと動いたところで躓いて倒れてしまい、安全装置が働いて床は停止。衝撃は吸収されるので怪我はない。
「大丈夫ですか?」
 ルサ男爵も停止して、急いで降りる。
「うん、平気。楽しかったよ、ルサお兄さん。あてし、初めてだ」
 遠くの柱の影からレルラルキスが”頑張って、モルミント”と見守っていることにルサ男爵は気付かなかった。
「然様ですか」
「それでさ、ルサお兄さん。押しちゃ駄目っていった紫ボタンは……なんで?」
 グラディウスは立ち上がり禁断のボタンを触れないように指し示す。
 《押してはいけない》と言われると、興味を持つのは人の常だ。
「この紫ボタンは普通の人では無理な速度で開始し、無理な速度まで……」
 軍で”紫”と言えば、初の平民出皇妃ジオ、軍妃と異名を取った彼女を表す。
「?」
「よろしければ、私が試してみせます。ク……クリアできる自信はありませんが」
 軍妃ジオを知らないグラディウスに口で説明するのは難しいと考えたルサ男爵は、まずスピードを見せることにした。
 紫のボタンを押すと《かの軍妃》が易々とクリアしたという伝説の速度が再現される。
「それでは始めます!」
「ルサお兄さん頑張って!」
 完全に純粋な人間であった軍妃の準備運動速度。
「……」
 だがルサ男爵は無言になるほど。
 ほぼ人造人間の彼が無言になり、必死になる速度が”準備段階”
「すごーい! ルサお兄さんの髪の毛、風で飛ばされてるみたいだよ」
―― 明かに人間の速度を超えている!
 ルサ男爵の息は既に絶え絶えだが、息が絶えたところで死なないのが人造人間。
 足がもつれて倒れそうになる。
 なんとか持ち堪えて、両腕を大きくふって速度を上げる。
「…………」

―― なぜ私はこんなにも、必死に走っているのだろう

「うわああ! うわああ! ルサお兄さん頑張って! 頑張れ!」
 足を止めようとしたところで耳に届くグラディウスからの応援に、何故か気持ちが前向きになり必死に走る。
―― 人間がこの速度をいとも容易くクリアできるのか? 私には解らない。
 ちなみに軍妃の運動能力は当時の学者も、現在の学者も解明出来ていない。
 ルサ男爵にも僅かながら軍妃の血は入っているが、能力は格段に劣る。だが軍妃に勝っている者の方が珍しい。
―― そして筋肉が悲鳴をあげるとはこのことか! 

 そしてルサ男爵の耳に「到達」という声が届く。
 ルサ男爵、彼はやっと軍妃の「初速」に到達したのだ。膝から力が抜けて、崩れ落ちてゆくルサ男爵。
 その姿はさながら、大昔のフィルムのコマ送りのようでもあった。

※ ※ ※ ※ ※


―― ペロシュレティンカンターラ【人名】・2 ――

 宝飾品を作る者が《これは……才能が違うなどという次元ではない》と自らの才能に限界を感る。それが”ペロシュレティンカンターラ”の作品である。

 卓抜したデザインと色彩感覚。立体の美しさ繊細さ、そして正統。軍妃ジオの婚礼衣装である軍服を飾った類い稀なるその宝飾類は博物館に飾られて、誰でも見ることができる。
 ペロシュレティンカンターラ本人は《軍妃が身に付けていない、ただの抜け殻にすぎない。美しさなどなにもない》そう言うも、余人には決して辿り着けない境地であり、それだけで人々を充分に納得させ、絶望させてくれる。

 帝国でもかなり特異な部類に入る名だが、幼児用の絵本にも登場するので、広く知られ多くの人が間違わずに発音できる。
 特に軍妃ジオとペロシュレティンカンターラは切っても切れない存在なので、軍妃の伝記には必ず登場している。

 エヴェドリット属フレディル侯爵家の第二子ケーリッヒリラ子爵は子供の頃、歴史の一環でこのペロシュレティンカンターラを知り、軍妃よりも興味を持った。
 そして帝星へと向かい博物館でその作品を見て圧倒されると同時に触発されて硝子で細工を開始したのだ。
 数多の軍事的功績を持つ軍妃ではなく、職人ペロシュレティンカンターラに惹かれてしまった時点で子爵は軍人ではなく別の方に素質があったのだろう。

※ ※ ※ ※ ※


「ルサお兄さん! はい、飲み物!」
 ルサ男爵は天井を見上げていることに気付いた。
「……はっ! ありがとうございます」
 グラディウスが持って来たスポーツドリンクを受け取り、頭を軽く叩いてみる。
「痛い所ある?」
「いいえ、ありません。ちょっとばかり……変わった回想? らしいものが頭を過ぎったので」
「?」
「覚えていないのですが、軍妃に関するようなことが」
 なぜその様なものが頭を過ぎったのか? それ以上の物も過ぎったような気がしたものの、思い出せないのでルサ男爵は釈然としないながらも諦め、二人でスポーツドリンクを飲み、部屋へと戻った。


「グラディウスちゃん、可愛い……もう可愛すぎる!」
「レルラルキス、大学は?」


 部屋に戻るとリニアがお茶の準備をして、
「おかえりなさい、グラディウス」
「ただいま! リニア小母さん」
「おかえりなさいませ、男爵さま」
「あ、はい」
 二人を出迎えた。
 テーブルにはグラディウスの大好きなココアが注がれたマグカップと、六枚ほどのラスクが盛りつけられた皿。
 リニアとルサ男爵は冷たい緑茶で、ラスクは同じ枚数。
 グラディウスは教えられた通り、洗面所で手を洗い丁寧に拭いて椅子に座り、二人とともに午後のお茶を楽しむ。
「聞いて! 聞いて! リニア小母さん! あのね、ルサお兄さんがね! 凄かったんだよ! あのね!」
 体全体で説明しながら、溶けたマシュマロ入りのココアを飲み唇の上に白い痕がつき、リニアがそれを拭いてやる。
「まあ……それって、軍妃さまの速度でしょう?」
「軍妃さま?」
「とっても立派だった方よ」
「立派……」
 グラディウスの目が輝く。
 口を拭くために隣に座っているリニアと違い、向かい側に座っているルサ男爵はその輝きに、思わずたじろいだ。
 たじろぐ理由は解らないが、その藍色の瞳に尊敬の眼差しを向けられると、ルサ男爵はどうしてもたじろいでしまうのだ。
「さすが男爵さまね」
「うん! 凄かったよ! 足がね、見えないの。あてし見てたけど、足が凄く早く動いてね、見えなくなったよ」
 椅子に座ったまま、グラディウスは行儀は悪いが足を動かしてみせる。
「まあ、すごい」
「楽しんでいただけたのでしたら」
 グラディウスとリニアの楽しそうな会話に混ざることはないルサ男爵は、それだけ言って目の前のラスクを一口大に折って口に運ぶ。
「どうしたの? グラディウス」
「はい、ルサお兄さん」
 ルサ男爵の活躍をリニアに話し終えたグラディウスは、サウダライトに向けるのと同じ笑顔でラスクを一枚つかみ、ルサ男爵に差し出した。
「?」
「今日頑張ったご褒美」
「……ごほうび?」
「うん」
 差し出されたラスクをどうして良いのか解らないルサ男爵は、リニアに無意識のうちに助けを求めた。
「受け取って欲しいのですよ」
「はい。あの、ありがとうございます」
 ルサ男爵はラスクを受け取ったが、どうして良いのか解らずに呆然としたまま。
「グラディウス」
「なあに、リニア小母さん」
「グラディウスは男爵さまのこと、たくさん応援した?」
「うん! あてし、一杯応援したよ! ね! ルサお兄さん」
「あ、はい。応援していただきました」
 リニアは一枚のラスクをつかみ、
「一生懸命、男爵さまのこと応援したご褒美よ」
 グラディウスの皿に自分の分を乗せる。
「い、いいよ! リニア小母さん食べていいよ!」
 グラディウスはそれを掴み返そうとする。”要らない”とは言わず”食べて、食べて”と返す姿。リニアはそれを受け取り、
「じゃ、半分こにしましょうか」
「うん!」
 八対二くらいの不均等に割れたラスク、大きい方をグラディウスに渡して、リニアは小さい方を口に運ぶ。
 グラディウスは受け取ったラスクを暫く見て、
「お庭で食べてきてもいい?」
 それを持って部屋から駆け出して行った。
 取り残されたルサ男爵と、庭に出たグラディウスの背を優しい眼差しで見守るリニア。
「あの……」
「なんでしょう? 男爵さま」
「なぜ故意に不均等に割ったのですか? 半分にすると言ったのですから、半分になさればよろしいでしょうに」
 リニアの手の動きを見て、明かに違う大きさになるように割ったことがルサ男爵には不思議でたまらなかった。
「それは……」
「……おかしな質問をしてしまったようです。聞かなかったことにしておいてください」
 リニアの困り果てたという表情に、ルサ男爵は自分が間違ったのだろうと引き下がった。
「おかしな質問ではありません。答えるのは簡単なのですよ。私はグラディウスにたくさん食べて欲しかった、それだけなのです。でも言葉にできない感情も入り交じっていて、どのように説明して良いのか解らなくて」
 割って大きい方を差し出す。そこにあるのは答えではなく、感情。
「そうですか」
 ルサ男爵は立ち上がり、貰ったラスクを持ったままグラディウスへと近付いて行った。
「隣、よろしいでしょうか?」
「うん」
 ルサ男爵が傍に近寄ると、グラディウスは少しずつラスクを食べていた。
 既に食べ終わっていると思っていたルサ男爵は驚いたが、そんな驚きに気付きもせずグラディウスは少しずつ食べている。
「あの……」
「なに? ルサお兄さん」
「どうしてそんなに……あの嬉しそうなのですか?」
「リニア小母さんから貰ったから、嬉しくて勿体なくて、美味しくて」

 たかがラスク一枚。
 それがルサ男爵の世界にもたらすものは大きく、手に持ったラスクの処遇に困り果て、彼は持ち帰ることにした。
 部屋に夜着に着替えて寝室に入ると、ベッドを整えていた老人がいた。
 ルサ男爵は思い立ち、
「おい」
「なんでしょうか?」
 ラスクに手をかけて、リニアと同じように不均等に割り、考えて大きい方を老人へと渡した。
「いただいたものだ」
「ありがとうございます、ルサ男爵」
 老人は受け取り頭を下げて寝室をあとにした。
 ルサ男爵はベッドに腰をかけて、残りの欠片を見つめる。

―― どうして一枚そのまま貰わなかった? 与えると言ったのに。半分に割るといって不均等に割り、貰った物を庭で隠れて泣き出しそうな顔で嬉しいと言い……今のあれも、僅かながら笑顔で……あの老人、名は……

 降り出した雨が葉を打つ音を聞に立ち上がり、窓の外を眺めながらほんの僅かだけラスクを口に含む。

―― 時間が経過して味が落ちているのに……味は落ちているはずだ……

 何をどう思えば良いのか解らないまま、ルサ男爵はベッドへと入り目を閉じた。


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