グラディウスの顔の状態を直接見たサウダライトは、
「愛妾にするから。その手筈を整えておくように」
　それだけ言って下働き管理を任されている娘、ビデルセウス公爵の前を去った。
　サウダライト帝は皇帝としてはなっていないが、貴族としてはほぼ完璧であった。特に不快感などを表に出すことは少なく、どちらかというと笑って全てを煙に巻くタイプだったが、
「相当怒っている」
　表情から怒りを感じ取れる父親を見て、ビデルセウス公爵は　《皇帝》　に従うことにした。
「兄を、シルバレーデ公爵を呼び出して！」
　妹公爵は怪我を負わせた下級貴族のレミアルの処遇よりも先に、全ての手筈を整えることを優先した。
　サウダライト帝の呼び出しが開始された後に、妹公爵はグラディウスの部屋へと向かい、残っていた同室のリニアをも連れて愛妾区画へと連れて言った。
　その後、男爵にも連絡が届いたことを確認したあと、目的地に向かう途中で侯爵と合流して、
「覚悟しなさい！　下級貴族！」
「殴り殺してやるわよ！　下級貴族！」
　捕らえられているレミアルの前で叫んだ。
　人を殺したりすることを良く思わないサウダライト帝だが　”グラディウスに怪我を負わせた下級貴族を守るような言動”　はなかった。
　娘やその他の性格を知っているサウダライト帝が最も重要な部分である　”そこ”　に触れなかった辺りに、彼の怒りが感じられるとも言える。

「落ちつけ！　ロメララーララーラ！　クライネルロテア！」
　この二人が来るだろうと待機していたザイオンレヴィは、必死に抑える。昨晩、侯爵一人ですら抑えきれなかったというのに、加害者を前にして二人を抑えるのは至難の業。
　前夜同様、力ではどうにでもなるのだが　《怪我を負わせないように》　となると、かなり力が制限されてしまう。
「退きなさいよ！　ザイオンレヴィ！」
「退いて下さい！　兄さん！」
「落ち着いてくれよ、二人とも！」
　二人に白銀の柔らかな髪を引っ張られ、その優美で慎ましやかな唇を引っ張られ、足の甲を踏まれ、胯間を蹴られながら（この二人の力くらいならザイオンレヴィの急所は痛むことはない）見渡す限りの大砂漠に如雨露で水を撒くかのような無駄な行為を続ける。
「落ちつけっての！　まだ殺害許可は頂けてないだろう！」
「ええ。殺害許可は下りていないけれども、それ以外は良いとのお達しよ！」
　”マルティルディ殿下も半端な許可を。わざとだとは解っておりますけれども……”
「駄目だって！　素人なんだから、間違って殺しちゃったらどうするんだよ！」
　《殺害許可》が出てくれた方がどれ程楽かとザイオンレヴィは思いつつ、マルティルディの笑いを脳裏に描き、必死に止める。
　二人は己の手で殺害したことはなく、殴ったことも殆どない。精々誰かの頬を平手で打つ程度。
　こんな人を殴り慣れていない二人が、身体的に　《自分達よりも》　弱い普通の人間に分類される下級貴族を怒りにまかせて殴ったらどうなるか？
「それは、貴方が止めてくれたらいいでしょう！　ザイオンレヴィ！」
　誰にでも解ることだが、簡単に死んでしまう。
　マルティルディは殺害する許可を出していないので、間違って殺害してしまっては二人の命も危なくなる。
　捕らえられ、椅子に縛り付けられて、正気を失いかけている下級貴族を救うことはザイオンレヴィにはできないが、
「そうですよ、兄さん。放して下さい！　大体、私の力程度では簡単には殺せません！」
「いや！　死ぬって！　僕の、私の妹なんだから、結構強いんだよ、クライネルロテアも！」
　この二人に関しては、重大な責任があると自負しているところだ。
「良いから腰から手を放してよ！」
「良くない！　良くないっての！　だから、後で私が殺害するから！　ロメララーララーラ！」
「退きなさいよ！　ザイオンレヴィ！」
　昨晩二人きりの時ですら止めきれず、最終手段に出たザイオンレヴィ。
　今は侯爵だけではなく、
「放してください！　兄さん！」
　愛人嫌いが高じて、やや接触嫌いになっている妹公爵もいる。
　それでなくても、実妹の前で性行為をするわけにはいかない。実妹が居る居ない以前に、この場でするような事ではないが。
「落ちつけよ！」
　必死に婚約者と実妹を抑えて叫ぶザイオンレヴィは哀れであった。

――　おや？　寝てしまったのか。グラディウスらしいと言えば、らしいが　――

　サウダライト帝がグラディウスのいる部屋へと戻り、クロチェルとディレータがグラディウスとリニアがいなくなった部屋に戻った頃、
「落ちつけ！　落ち着くんだ！」
　何時終わるのか解らない、夜空に響く悲痛な叫びをまだ上げていた。
　諦めてしまえば楽になれるのに、諦めないその叫びの終わりは花びらと共に訪れた。
「放してやれよ、ザイオンレヴィ」
「マルティルディ殿下！」
　何時も通り輿に乗ったマルティルディが「足を運び」軽やかに降りる。
　風に吹かれた木の葉の一枚が水面に音もなく舞い降りたようにも見える姿。実際の体重は全く感じさせない。
　”主”　の登場に、今まで騒いでいたとはとても思えない程二人は静かになり、ザイオンレヴィは命令通りに二人を解放し、三人は膝をついて頭を下げる。
　マルティルディはこの時点では、グラディウスを殴った下級貴族に対し、特に腹立たしいとは感じていなかった。
　精々　《僕より先に玩具を叩いた》　程度。
　確かに腹立たしいが、あくまでも　《玩具》　に対してであって、グラディウス・オベラという存在に怪我を負わせたというものではない。
「殺せよ、ザイオンレヴィ。殺すだけでいいよ」
　よってレミアルは幸せであった。
　死ぬ程の不幸はないと言うが、死ぬよりも苦しい状況に置かれずに済んだことを。彼女を殺害した者や、後のマルティルディの態度の変化を感じ取ったものは、彼女の幸運を思った。もちろんこの場で殺害されてしまった彼女は知らないであろうが。
「御意」


　現ケシュマリスタ王ラウフィメフライヌが知ったら、彼女と自分の立場を入れ替えてくれと叫んだであろう。


　ザイオンレヴィはマルティルディの気が変わらないうちにと、一切躊躇わずにレミアルの首を落として処刑を終える。
　少しでも遅れて　《あ、やっぱり鼻を削げ》　や　《手足を切り落としてからがいいなあ》　などと言われる恐れがあったからだ。
　傍に実妹が居なければ処刑方法を尋ねることもしたが、
「きゃっ！」
　血など殆ど出て居ない、首だけが床を転がった　”程度”　の処刑シーンでも叫び声を上げて、実妹は目を逸らしてしまう。
　その事を知っていたので　”これが最も精神的ダメージが少ない処刑方法なんだよ”　言い訳するように思いながら。
　ザイオンレヴィはいつの間にか侯爵に抱き締められている実妹をちらちと見ながら腰に剣を戻して、切り落とした首をマルティルディの足元に置き、自分も頭を下げる。
　マルティルディはそれ程乱れていない髪に覆われた切り落とされたばかりの頭の天辺を一瞥して振り返る。
　そこにはマルティルディが降りた時から一切動かず、膝を折り身を屈めて輿を担いでいる者達がいた。
　彼等を踏みつけてマルティルディは輿へと戻り、鞭で叩き進めと命じる。
「行くよザイオンレヴィ」
「はい、マルティルディ殿下。二人とも、死体の処理はジベルボード伯爵に依頼するんだ。マルティルディ殿下！　どちらへ？」
「寝るに決まってるだろう。部屋まで従えよ」
　主と従が去って直ぐに、連絡を受けていた伯爵がやってきた。
　侯爵の腕にいる妹公爵はまだ震えていたが、本人の立場を考えて侯爵は素っ気なく腕を解き押し返す。
「お願いするわ、クレッシェッテンバティウ」
　伯爵の主である妹公爵が　《処刑されることが決まっていた下級貴族の死体》　を前にして震えていては示しがつかない。
　伯爵も妹公爵が苦手なのは知っているが、そのまま震えていてもいいですよとも言える訳もなく、妹公爵も震えているわけにはいかない。
　たとえ震えが収まらなくても、顔色が青ざめているとしても、何事も無かったという態度を繕う必要がある。
「お任せください、エンディラン侯爵。それと次いでのようになって失礼ですが、奥方様……ではなく、元副王妃様からお話があるので連絡が欲しいとの事で」
「解ったわ」
　侯爵は妹公爵の背中を叩き、挨拶もせずにその場を立ち去った。

　血の匂いはせず、マルティルディが撒いた花びらの香りだけが充満しているそこに死体などないかのように、香りが空間を支配する。

「ビデルセウス公爵閣下も、お戻りになられた方が」
「……」
「閣下が見る物ではありませんよ」
「……」
　伯爵に言われて妹公爵は部屋を出て、廊下に用意されていた長椅子に腰を下ろして溜息をつく。
　妹公爵と入れ違いに伯爵が連れて来た処理班が部屋へと入り、作業を開始した。

　妹公爵は自分がマルティルディに好かれていない事は理解している。マルティルディは弱い人間が嫌いだ。そして卑怯な人間も嫌いだ。
　卑怯にも様々あるが、妹公爵のように　《殺害を命じることが出来ても、死体を直接見ることが出来ない》　ような人間を特に嫌う。
　父のサウダライトも似たようなものだが、そこは長年の経験と公爵家の跡取りとして育てられているので、嫌々ながらも見ることは可能だった。
　勿論進んで見ることなどしないが　《目を逸らすな》　とマルティルディに命じられれば、そしてマルティルディが命じた殺害であれば、サウダライトは目を逸らすことはない。
　”だが自分は目を逸らしてしまう”
　そうなるように育てたのは父親だった。自分が嫌いで、出来れば一人くらい自分と同じ感性を持っている子供が欲しかった……というのが理由で。

　だが慣れるわけにもいかなかった。
『マルティルディ殿下のご意志というか、お前は嫌っているといい。お前が嫌わないと、それはお前の存在意義がなくなることだ』

　嫌われている部分が、自らに最も必要なことであり、嫌われない理由でもある。それは嫌われるや好かれないなどという単純な理由でもない。
　殺される程に嫌われない、だが嫌われる。遠ざけられることはないが、嫌われる。
　妹公爵はそんな立場におかれる存在だった。

※　※　※　※　※

　マルティルディはビデルセウス公爵が嫌いだった。
　何が嫌いかと問われれば、
『僕に理由を問うとは良い度胸だね』
　マルティルディはそのように言い、答えはしない。
　マルティルディが他人を嫌うことは珍しくない、むしろマルティルディは自分以外は好きではない。
　だから誰も問うことはない。

　ザイオンレヴィは実妹を庇う。
　苛烈な性格で父親の愛人を追い出すような彼女だが、人を殺害したりするのは好きではない。そんな彼女を彼は　”そのままでいて欲しい”　と願い、代わりに殺害する。
　様々なことはあるが、双子として兄と妹として存在していた。

　マルティルディが彼女を殺害することはない。
　もしも彼女がマルティルディに殺害されるとしたら、それは兄であるザイオンレヴィが　”マルティルディに断りもなく死亡”　した場合のみだ。

　マルティルディは　《自分の代わりであるエンディラン侯爵の婚約者であるザイオンレヴィ》　を気に入っているのと同様　《実妹を大切にするザイオンレヴィ》　も気に入っている。
　ザイオンレヴィに対し何時も相反する感情を抱いているマルティルディは、彼女を大切にする彼に腹を立てながら、彼女を守る彼を気に入っていた。
　”彼女”　ことビデルセウス公爵は双子の兄の助けなしに生きていってはいけないのだ。
　彼女はあくまでも兄であるザイオンレヴィの庇護下にあり、姫君らしく守られ、マルティルディに僅かばかりの不快と喜びを捧げる。マルティルディにとって、ビデルセウス公爵はそのような存在であらねばならない。

　だから彼女は決して死体に慣れることはなく、感情のままに死から目を背ける。

※　※　※　※　※

「私は兄ほど無神経ではないから……」

　妹公爵は何故双子の兄が、マルティルディの向ける好意にあれ程まで気付かないのか？　不思議で仕方なかった。それに関してサウダライトに尋ねたことがあった。
　サウダライトは少しばかり困った顔をして、兄に　《初めてマルティルディ殿下の前に出る際の注意事項としてかけた言葉が効いたらしい》　と答えた。
　その言葉は王家に忠誠を誓う父親なら、誰でも言った言葉であり間違いではなかった。

「マルティルディ殿下が綺麗過ぎたのが……」

　あの頃は素直にそれを受け入れていたが、今は複雑な気持ちなのだろうなと考えると同時に、マルティルディが　《兄に対して》　何を望んでいるのかを考えて、少しだけ恐怖した。