サズラニックスの変死体が神殿前庭に置かれていたという報告を受け取った、ロヴィニア王とテルロバールノル王は、急いで公文書の最高決裁者名を確認した。先日まではマルティルディが代理とされていたが、
「やられた！」

　第二十三代皇帝サウダライト

　既に変更されていた。
「おはよう。みんな早いねえ。僕は夜遅くまで遊んでて、ちょっと眠いな」
　皇帝の執務室の画面を食い入る様に見ている三人が気付かない間に、マルティルディが入り口に立っていた。
「何時の間に書き換えた！　マルティルディ！」
　ロヴィニア王の叫びに耳元の髪をかき上げる。
　大きなエメラルドが目立つ、細かい細工のイヤリングが音を立てて揺れる。
「言う必要なんてない。君達が無能で無力な存在だっただけさ！　さあ！　新皇帝を発表だ！」
「マルティルディ……」
　マルティルディの決定には逆らうことはできない。こうして皇帝までもが決定してしまった以上、何を言っても無駄で、大人しく手を引くしかなかった。
「ダグリオライゼを使って変更させようと思っても、無駄だよ」
「その程度、解っている。お前の下僕が、お前の意志に逆らうわけがない。自らが拷問殺害されようとも、一族皆殺しにされようとも、あの下僕はお前に絶対服従だ」
　マルティルディは王の言葉を聞き、自らのマントを両手で開き、首を傾げて叫ぶ。
「さあ、扉の後ろにいるダグリオライゼ、皇帝として登場しな！」

※　※　※　※　※

愛しているイデールマイスラ。君は僕を愛している？
もちろん、愛している。誰よりも愛していますよ。マルティルディ


――　でも、そろそろ戻りましょう　――

※　※　※　※　※

「皇帝サウダライト……か。だが、誰もまだ認めてはおらぬようじゃな」
「別に彼等が認めようが認めまいが、関係なんかないね。誰も僕の支配下から、抜け出せないんだ」
　互いにテーブルを挟み向かい合っているマルティルディとイデールマイスラ。
　間にあるテーブルは小さいものだが、意志と過去によって、二人は大きく隔てられていた。テーブルに手を乗せれば、触れ合うことのできる距離だが、二人とも腕を組み顔は互いに斜め横を向いている状態。
「マルティルディ」
「なんだよ、イデールマイスラ」
　イデールマイスラは謝罪したかった。
　だがそれを言葉にするのに苦悩していた。躊躇っているのではない、苦悩だった。”御免”　で済むものではなく　”生涯をかけて償う”　という物でもない。そもそもイデールマイスラの生涯は、未来のケシュマリスタ王マルティルディに付随するものであり、今更かけるものでもない。
「……」
　”許して”　は軽すぎて意味が無く　”もう一度だけ機会をくれ”　は過去に言ったが拒否された。ただ過去の棘に絡まりながら、近寄ることなく向かい合う。
「ああそうだ、君に一番に教えてやるよ」
　マルティルディは正面を向き、テーブルに両肘をつけて指を組み、顎を乗せて嬉しそうに口を開く。
「なんじゃ」
「僕のザイオンレヴィは今日から皇位継承権はないけど、皇王族公爵シルバレーデになったんだ。皇帝が父親だから、最低レベルだけども僕の夫になる権利はあるんだ。ねえ、君と僕のザイオンレヴィを取り替えたいと思うんだけど、どう？」
　イデールマイスラの世界は暗転し、だが彼は立ち上がりマルティルディに手を伸ばす。
　触れた所で何ができるわけでもなく、何が伝わるわけでもないが。そして当然ながら、その手ははね除けられ、自らの首元が握られていた。
「君は自分が王太子の婿になる重圧に耐えてと言うけど、僕は未来の王の重圧に耐えてるんだ。取り替えのきく君程度の重圧と、僕だけが継げる王家と、僕だけが継承できた皇帝の座。この二つを持っている僕と、たかが王子で王太子婿の君の重圧、比べてみるか？」
「……」
「君程度の重圧なんて、無いに等しい。この程度が重圧というなら、去れよ。僕は追わない、多分誰も追わない。だって代わりになる王子はたくさんいる。僕の代わりは、僕が決めなければ決まらないけど、君の代わりは僕以外の人でも決めてくれるさ」
　マルティルディが二年ほど前に与えてくれた　”大きな機会”　彼はそれを逃した。嫉妬のために。その　”大きな機会”　は嫉妬を乗り越えるためにも存在したというのに、彼は逃した。
　首元を締め上げる、細い指。
　その細い指にゆっくりと触れようとしたときに、
「失礼します。マルティルディ殿下」
　再び彼の妬心を沸き上がらせる存在がやってきた。
「ザイオンレヴィか。入れ」
　首元から手は離れ、マルティルディは上機嫌で入り口を向き声をかける。その上機嫌な声は自分に対する嫌がらせだと、彼は思いたかった。
　彼に対する嫌がらせではなく、本心から周囲を気にせずに、楽しそうな声を上げているとは考えたくなかった。
　彼の前で取られるザイオンレヴィに対するマルティルディの行動は、全てが自分に対する嫌がらせでなくては、彼は己の存在を立脚する術がない。
　扉を開き月光のような風情で、足音も控え目に部屋へと入ってくるザイオンレヴィに、
「はい。お呼びと……っ！」
　彼は殴りかかる。
「なにやってるんだよ、イデールマイスラ。これは僕の物だぞ、君が勝手に壊していいもんじゃない」
　ただ殴りかかっただけで、殴ることはできなかった。
　マルティルディがいつの間にか自分の隣に立ち、腕を掴み阻止したために。振り払われ、壁にぶつけられて頭を強かに打つ。
「あの、なにが……」
「行くよ、ザイオンレヴィ」
「は、はあ」

　イデールマイスラは今自分に出来るのかこれが精一杯だと感じることはできたが、自分自身の限界が近付いていることには気付かなかった。

　叩き付けられて立ち上がれない彼は、ザイオンレヴィと共に去っていたマルティルディの後ろ姿を思い出して、自らの思考の深み堕ちてゆく。
「言ってはならない事を、言ってしまった報いなのだろうな」
　イデールマイスラ本人としても、己の失言は無かった事にできるものではないと理解していた。消せない失言と、失態。
　失態が失態であり、失言が失言であると気付いた時には、手遅れだった。
　その失言を取り消し、関係を回復するようにとイデールマイスラは求められる。それが今の彼の重圧だった。何より　”マルティルディ”　に一切の非がないがないので、身動き取れない。
　彼の意識は徐々に深みにはまり、いつの間にかベッドに横たわらされていた。
　傍にいる父王や兄王太子が語る言葉が、他人事のように、そして遠くに感じられて不思議だった。

――　もちろん、愛している。誰よりも愛していますよ。マルティルディ

　その言葉を囁くことが出来たならと思う彼の体は、自由に動かなかった。彼は動かないことに気付くが、それが何故なのかを考えることを放棄してしまった。
「暴れたら、直ぐに近衛を呼べ。さて、儂は即位式典に参列してやるか」
「即位式典は良いのですが、儂一人でがルグリラドを説得するのは。父上も同行してくださらぬか」
「貴様も王太子なれば、妹王女の説得くらい……暫くは寝室を別にするように、あの傍系皇帝に強く命じておく。それを条件にだな……」

　彼は彼自身の中では酷く穏やかな時間を過ごしているが、自らの預かり知らない部分では、外には不満をぶちまけて暴れて絶叫し、人前に出せない状態となっていた。

※　※　※　※　※

　二十三代皇帝　サウダライト

　示された結果に人々は驚くが、
「イネス公爵ダグリオライゼ様って、母君が先代皇帝の実妹だったような」
「祖母がケシュマリスタ王女だった筈」
「ああそうか。ああ、そういう事か。確か子息も令嬢もいらっしゃったし」
　人々は提示された事実に納得する。

　世界は平和で麻痺している。何も考える必要は無い、深く考える必要は無い。ただ存在する幸せに身を委ねれば良い。悪意ではなく善意で、そう言っているのだ。

※　※　※　※　※

　空は何処までも続き、雲はどこかからやってくる。
　果てというものを知らなくても生きてゆける。夜暗くなってからの生活用水を何時ものように、公共井戸から汲み淹れたバケツを持ってドタドタと歩いていたグラディウスは、向かい側から歩いてきた父親に気付いて声をあげる。
「とうちゃん！」
　声を掛けられた父親は傍まで早足で近付き、バケツを置かせて麻袋に入れてきた配分の　”祝いの品”　を見せた。
「とうちゃん！　こんなにいっぱいの飴玉！」
　グラディウスは雑貨屋でみたことがある飴玉と同じような包まれ方をしている、その丸い物体に手を伸ばして開き、口に放り込んだ。
「即位のお祝いだって聞いたな……こら、グラディウス。二個も口に入れるな。欲張るとろくなこと……」
　生まれて初めて二個を一度に頬張ったグラディウスは、喋ろうとして一個を地面に落としてしまった。
「あう……」
　父親は土の付いた飴玉を拾い、バケツから水を掬い洗ってから自分の口に放り込んで、新しいのを手渡す。
「一個ずつ食べるんだぞ、グラディウス。欲張っちゃだめだからな」
「うん、あてし欲張らない」
　手渡された飴玉を麻袋に返したあと、グラディウスは興味深く袋に頭を突っ込んで数え始めた。
「なんで飴玉こんなに……いっこぉ、にこぉ……」
「残りは二十個だ。五個よりも多いぞ」
「なんでそんなに一杯貰えたの？　買ってきたの？　とうちゃん」
「偉い人のお祝いだよ。貴族様からのお祝いの配分。みんなにくれるんだよ」
「お祝いかあ。そうかあ、お祝いなのかあ。貴族様はお祝いの時に、こんなに一杯飴玉食べるんだ。いいなあ」
　グラディウスの脳裏に　”貴族様”　という知らない人達が仲良く幸せそうな顔で飴玉を頬張り楽しそうに会話する姿が、ぼんやりとながら思い浮かんだ。
　こんな美味しいものを、お祝いの時に食べて、自分達にまで分けてくれる人がいるのだ思うと、やはりグラディウスは幸せになり飴が入っているというのにも関わらず、口が半開きの笑顔になる。
「グラディウスは貴族様になりたいか？」
「ううん……分かんない。あてしは、貴族様わかんないから、今みたいに、とうちゃんとかあちゃんと一緒がいい」
　配られた飴玉を持って、父親と二人口の中の飴玉の甘さに笑みを零す。
「さあ、帰ってかあちゃんにも食べさせてやろうな」
「うん！」
　グラディウスは麻袋とバケツを交換し、父親と手を繋いぎ　”晩ご飯はなんだろう”　と話をしながら、夕暮れに染まった大地を踏みしめ帰途につく。
　グラディウスはその後、飴の包装紙を毎日寝る前に数えて、十まで数えられるようになった。
「全部、あてし、数えて、数える！」
「とうちゃんも応援してるぞ」
　数えられる数が増えるたびに頭を撫でる父親。
「さあ、もう寝るよグラディウス。明日の朝ご飯は、とうちゃんの作ったベーコンが入ったスープだ」
　父と母に挟まれてたグラディウスは、明日の朝の食事が楽しみと言う前に、二人の温かさに眠りに落ちる。

　だが何時か知るのだ。空の果てを、雲のある場所を。そして　”平和な毎日”　が終わる時が存在することを。

《二章・終》