繋いだこの手はそのままに −28
屋根の隙間から入り込んでくる雨が、室内の地面を濡らしてゆく。
小さな水溜りがあちらこちらに出来てきた。ロガも余の傍に立ち、二人で天井を見ておった。
雨音に耳を傾けながら、無言のまま水を含んだ空気を吸い込む。濡れた土の匂いと共に。
「寒くはないか」
「平気ですよ。ナイトオリバルド様は?」
「我輩は平気だ。我輩の服は多少の気温変化は物ともせぬ」
余が着ておる服は寒さや熱さに適応できるようになっておる。
外気温と着用しておる者の体温から最も適した温度を割り出し保つ機能を持つ布……らしい。どんな仕組みなのかは解らぬが。
皇帝の着用する服は制御され過ぎておるので何時も快適。快適過ぎて汗腺が退化し、皮膚感覚の鈍い者が現れる事もあった。
それを阻止すべく、皇帝やそれに類する者達は一日二回の水風呂と熱湯風呂に交互に入る事が政務の一つとなっておる。
服による体温の自動制御を使わねば良いような気もするが、皇帝などは暗殺の恐れもあれば、簒奪の危険もある。それから逃れる為の通路も存在し、その避難通路は煩雑、且、危険。
外敵を排除するシステムも多数避難通路にあって、その中には気温兵器のような物もある。その為この体温を維持してくれる服を脱ぐわけにはいかぬのだ。髪の毛の方はその際に鬘を被るものであって、普段は装着してはならず……そんな事よりも……そうだな、
「ロガ、このマントを外してお前に……! しまった!」
「どうしたんですか?」
「我輩、自ら着脱せぬので、マントの外し方が解らん! 力一杯引張ってくれぬか?」
せめてマントくらいは! マントくらいは自分で外し方覚えておくべきだった! 二十三代皇帝サウダライトが侍女グラディウスと夜に人目を忍び愛語らった際、自分のマントに包んだと……あれは、その後そのままコトに及んだが、余は違うぞ。外したマントで包むのだ! そうボーデン卿に誓ったのだ!
そうだ! あまりにもロガに近寄りすぎ、それがあまつさえ他者の目に触れてはいかぬ! ぬぉぉぉ! 引張っても取れない!
「は、はい!」
二人で引張ったのだが、余の肩の止め具とマントの強さはそれ以上であった。
「やはり無理か」
「ご、ごめんなさい」
「謝る事はない。むしろ余は……我輩は! そなたが寒そうだったので包もうかと思ったのだが……よければ、そのこれに包まらぬか。変な事はせぬから、少し傍によれ。……無論! 嫌ならばよらずとも良いぞ! 強制ではない! 断じて強制ではなく! 寒そうであるからして! その! 良かったらであり、お前の意思を何よりも尊重させたい!」
目を閉じて力一杯発言したが……余、人を包んだことない……。
失敗しそう……である。
沈黙が痛い。
響き渡る雨音と、ボーデン卿の寝息……そして
「じゃあ、近くに寄らせてもらいます」
ロガはそう言うと、膝を折りそのまま膝で擦りながら近寄ろうとしてきた。奴隷が主に『近寄れ』と言われた時にする行動だが、何か違う。
「そうではなく、普通に歩いて隣に座れ。お前は余の奴隷ではない、ロガだ。ロガであって、奴隷ではない」
そうやって近寄ってきて欲しくないのだ。
「……あの……」
余ではない! 我輩だ!
「上手く言えぬが、我輩と共におる時は自分を奴隷だと思わずとも良い。そして我輩を皇……貴族だと思わずとも良い。奴隷や平民には見えぬかも知れぬが」
「はい、見えないです」
そうであろうなあ。奴隷や平民は鬘を被ったり、仮面をつけたりマントを身につけたりせぬからな。
「そうかも知れぬが、我輩もロガは奴隷に思えぬ。表現の仕方がわからぬが……とにかくマントの中に入れ」
「はい」
余に触れないギリギリまで近寄り座ったロガを包む。すっぽりと覆われたロガは、物珍しそうにマントを見ておる。
そして再び雨音だけの世界となった。何を言えばいいものか? 何を話したらよいものか? 十五歳の奴隷階級の娘との共通の話題……出てこない。
「……」
「……」
「……」
「……豪華な布ですね」
ありがとう、ロガ! そうだな、今現在目の前にある物を話題とすればよいのだ!
「そうかも知れぬな。これでも地味な方なのだが」
「硬い物ですね」
「す、済まぬな、硬くて! 今度からは柔かいマントを着用して参るから……あ、雨が降ったときは、その……その……マントに一緒に……マントの外し方も覚えてくるので貸してやろう!」
柔らかなマントにロガが包まる姿を想像した時、何故か……半裸だった! それも余自身が。何を想像しておるのだ! シュスターク!
「ありがとうございます。ナイトオリバルド様のご両親って、優しい人なんでしょうね」
おお! 無難な話題を提供してくれるな! ロガよ! ……だが! だが……余の両親、特に母親は無難な生き物ではないのだ。
「…………あ、あーああーああーあ、ああ、母はよく知らぬ、我輩が幼い頃に崩……死んだので。父達は…………」
「お父さんがたくさんいるんですか?」
そなたは本当に賢いな、ロガ。
「う、うあ……ああええーうーれれーえー、えーと、結構沢山おる。母の前夫や、前々夫などな。彼等も我輩の事を心配してくれているので、父として慕っておる」
嘘を付くのは心苦しいが、上手い説明が思い浮かばぬので。
それにしても、考える際に何故変な言葉を口走るな、シュスタークよ。もう少しぱっと気が利いた言葉は出てこないのか? まあ無理だが。自分で自分に即答……これに即答しなくてよいから、ロガの質問に即答できるようになりたい!
「やっぱり優しいんですね、ナイトオリバルド様は」
マントに包まったロガは、満面の笑みで余を褒めてくれた。
……褒めてくれたのだよな? 優しいなどと褒められるとは思ってもみなかった! 余のこの性格は脆弱で柔弱であるとばかり……こういった性格でも良い階級もあるのだ……。
「そうか? 実父は健在でな、一週間に二度は個人的に会って話をする。母は……母は……あまり語れぬのだ。幼い頃に死に別れた事もあるが、人伝に聞いた話は良いものは一つもなくてな。それが真実であるかも知れぬが、その……知らぬ親を悪く言う必要は無いというか、向こうも我輩に向かって言いたい事もあるだろうが、死んでしまって言えないのだ。一方的に語るのは悪いだろうから、その、あまりな」
ディブレシアにしてみれば、こんな異性に情けない息子など息子ではないと言うに違いない。
息子である余に興味があれば、の話ではあるが。
「ごめんなさい」
「気にするな。父達が褒めていた事もあるぞ。スタイルが怖ろしい程良かったそうだ。胸は張り、足は長く美しく、肌も綺麗だったと語っておった」
何時も裸だったから、父達はディブレシアの裸しか記憶がないらしい、あと尻も素晴しく形が良かったと言っていたな。とても子供を十人以上産んだ女とは思えない程の尻だったとか。
どんな尻なのかは知らぬが……息子に母を、己の妻を語るのに、必死に記憶の底から探り出してきておきながら『尻』……それしか語るものが無い夫達というのも……大変だなあと。あまり尋ねてはいけぬことなのだろうなと、余はその時感じた。
彼等の思い出している時の表情、苦悶を余に気取られまいと必死で隠している姿。
お前達はよくやった、夫達よ!
あーそう言えば、デキアクローテムスと二人きりの時……ディブレシアは何時もピンヒールを履いたままだったとか聞いた。221cmの長身が18cmのピンヒールで240cm近くなり威圧感が凄かったそうだ。194cmの父は自分よりも50cm近く大きい母・ディブレシア帝の前では子供同然であったとかなんだとか。
今の時代、男より大柄な女性など珍しくは無い。だが元々背が低い事を気にしていた父は、その圧し掛かってくる母の高圧的にして攻撃的な身長がトラウマとなった。身長だけではなく、色々とあったのであろうがな。
そして余に言った。
『陛下はご自分より小さな娘を妃としてくださいませ。で、出来れば……願いが叶うのでしたら、私よりも小さい娘が。私くらいでも良いのですが……で、出来れば私よりも小さいと嬉しいのです!』
皇帝の実父が口にする、妃に対しての要望が『身長』……普通は “ロヴィニア縁の皇后を迎えてください” とか言うものだが、デキアクローテムスの願いは『小柄な娘』。それを思い出す度に、余の胸に去来するものがある。なんだかよく解らぬが、何かが訪れ去ってゆく。
そして実父あまりにも不憫なので、叶えてやりたいと常々思っておる。正妃達の身長は190cmくらいで良いかと……ロガはその条件に合うな……なっ! 何を考えておるのだ!
ロガをみると再び微笑んでくれた。
正妃か……すっかりと忘れておったな。余の今の仕事は正妃を……
「どうしたんですか?」
溜息が口から零れた。それもかなり大きかったような……溜息を小さく吐くのは得意だったはずなのに……
「いや、少しばかり仕事を……本当は仕事と言ってはいけないのであろうが。せねばならぬ仕事と……ロガの事を考えておった」
「お仕事、大変なんですか?」
「いいや、全く。ただ少し……ロガの所が居心地よくてな」
「不思議な方ですね、ナイトオリバルド様って」
「そうか……そうかも知れぬな」
屋根の隙間から落ちてくる雨が床板のない家に水溜りを作り続ける。今日此処で休むロガは、寒くはなかろうか?
元々集中力の無い余だが、正妃の事を考えようとする度にロガの事が浮かんでくる。何故であろう……そういえば、正妃選定はどうなった? ロガの元に通ってばかりではいかんだろうな。戻り次第デウデシオンに聞くか。
……ずっと雨が降って、此処で雨宿りしていたいな……
不可能なのは解っておるのだが、ずっと。
「雨、止みましたね」
そうこうしているうちに雨は止んだ。もう少し降ってくれれば良かったものを。
「そうだな、残念であるが……ロガ! この剣でマントを切るがよい!」
腰から使ったことのない剣を引き抜いて、脇の上あたりから斬るが良いと指示を出す。剣を渡されたロガは驚いた顔をしておった。
「え?」
「水溜りにこれを敷けばよかろう」
「とんでもないです! こんな高価なもの」
「気にするな、この辺りから切ってくれ」
ロガは頷き、余のマントを必死に切り離し、
「切りました……」
余に差し出した。
「これを絨毯代わりにしておくがよい。明日にでも絨毯を持ってこよう、午睡にもいいような柔かいものを持ってくるから。今日はこれで我慢してくれ。身体を冷やすな」
「はい。ナイトオリバルド様も帰ったら温まってくださいね。そしてまた、来て下さい。待ってます」
「ああ、明日も必ず来る」
もう少しだけ、正妃を迎えるのを待ってもらおう。もう少しだけ、此処に通いたいから
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