藍凪の少女・おっさん……[05]

「エリュシちゃん? エリュシちゃん!」
 その日、母の叫び声で余は目を覚ました。
 今日も一日、一緒に遊ぶ筈だった相手は、居なかった。
 部屋中を探し回っている母は、もう涙が溢れていた。母も直感で気付いていたのだろう。彼女の不在が、所用で席を外しているものではなく、永遠であることを。
 ゆっくりと開かれた入り口から、困り果てた父が入ってきた。
「おはよう、グレス」
「おっさん! エリュシちゃん! エリュシちゃんは!」
「リュバリエリュシュス様は……海でお花になっちゃったかなあ……」
 言葉を選んで告げた父と、それを受け取った直後の母の表情。
「おっさん……」
「なあに、グレス」
「おっさんは……おっさんは……おっさんだけは! 今死んじゃえ!」
 何を言い出したのか、さっぱり解らなかったが、母は母なりに考えての言葉だったらしい。当時聞いていた余には全く理解できなかったが、泣いている母に理由を問い、言いたい事を父は寄りあわせ完成させた。
 その言葉は、余にも少々関係があったので、成長してから教えられた。
 母は父に向かい 《自分の見ていない所で死んで、処理されるのは止めてくれ》 と言ったのだ。
 思えば母は、身近な人間をいつの間にか失ってしまう事が多かった。仕事で出かけていた時に両親を災害で、出稼ぎへと向かった兄は事故に。そして彼女は目覚めた時、その存在が消えている。
「いやだよーいやだよーおっさん、居なくなったらいやだよー。だから、おっさん今死ぬんだ!」
 死ぬときは自分の前で死んでくれと、どこか知らない所で死に、遺体の欠片すらなく消えてしまわないでくれと。
「約束するから、泣き止んでくれるかなあ」
 首に抱きつき、
「絶対だよ! おっさん! 絶対だからね!」
「うんうん。おっさんは、グレスに手握って貰って死ぬから。大丈夫だよ。目覚めたら居ないってことは絶対にしないから」
 父から決して ”消えない” 約束を貰うと、再び襲いかかってきた彼女の喪失に泣き続ける。

「え゛りゅじぢゃん、え゛りゅじぢゃん……」

 妹を膝の上に乗せて、無言のまま涙を一筋流していた両性具有の美しい泣き顔と正反対の、顔中をぐしゃぐしゃにして泣き続ける母。
 本当に不細工だった。だが……両性具有の涙には胸が痛んだが、母の不細工過ぎる泣き顔とその声を聞いていると、余まで悲しくなってきて……
「うぇぇぇぇん」
 余も泣いた。
 すると余の泣き声につられて、
「ふぃぃぃぃ」
 弟も泣いた。
「待て、お前達。泣くな、泣くな」
 父親は慌てた。母が泣くことは想定内だったらしいのだが、
「ふぎゃあ! ふぎゃあ!」
「姫、泣くな。泣かないでくれ! 姫」
 余と弟妹が泣くのは想定外だったそうだ。

「え゛りゅじぢゃん、え゛りゅじぢゃん! え゛りゅじぢゃん……」

 朝日の美しさを、はっきりと覚えている。長い影が寂しかった。

 泣いている間に、マルティルディ王が館にやってきていた。何時来たのか、全く気付かなかったが……。
 ある程度母を泣かせた後、マルティルディ王は母に声をかけた。
 今にして思えば、母に泣く時間を与えるなど、あの王らしくもないが。それは 《グレスだから》 で全て片付くのであろう。
「行くよ、グレス」
「どこに? ほぇほぇでぃ様」
 母はマルティルディを上手く発音できなかった。余が即位する少し前にやっと「まるひぃるで様」となった。そして余が即位する年に「まるてぃるでぃ様」になった。
 正確な発音ができるまで、最も時間がかかった。不思議な物だが、そういう物なのだろう。
「僕の即位式典に参列させてやるんだよ。ありがたく思え」

 ケシュマリスタ王即位式典。
 王の即位式典には皇帝が参列するのが習わしで、その際に即位する王に属する正妃を伴ってゆく。
 ケシュマリスタ正妃はいなかったが、ケスヴァーンターン公爵のお気に入りだった母が選ばれた。母は父と、弟妹と共にケシュマリスタ主星へと向かうことになる。
 余は後継者故に残らなくてはならなかった。
 父である皇帝になにかあった時のためにも。なにより、マルティルディが即位し、今だ嫡子が ”いないとされている” ために、余は暫定皇太子の地位に就かねばならなかったのだ。
 母は後ろ髪を引かれているかのように、何度も振り返りながら宇宙船に乗り込んだ。ガルベージュスの護衛の元、四人と世話役のルサ、リニア、そしてハルテンビアも共に旅立つ。
 余は三人の正妃達と共に残った。

**********

 億の国旗が揺れ、宇宙で最も美しく、完全なる異形が即位する。
 僕は大宮殿から、即位を祝う。
 億には届かない、万にも届かない、だが千には容易に届く数の皇王族男爵を全て自らの手で殺害し、貴方に捧げる。
 血の海と蒼い海と、貴方と……
 死が二人を分かつことを願うのみ。

**********

 帰ってきた母は、笑顔で余に抱きついてくる。
「ただいま!」
「お帰りなさい、母上」
「あてしは、絶対に帰ってくるからね! だから、安心してね!」
 余を置いていった事を気にして母は即位式典から戻って来てからというもの、余と二人きりで居る時間をかなり増やした。周囲の者もなにも言わなかった。
「驢馬」
 母のお気に入りの驢馬。
 余は母の前に座らされ、
「驢馬……エリュシちゃんのお家に行ってくれる?」
 余は驢馬の背に乗り、自分の背に母の体温を感じながら泣いていた。
 母が帰ってきてくれて、とても嬉しかったのだ。母は余が泣いていることに気付き、驢馬を止まらせて余を抱きかかえた。
 暫く抱かれ泣き止んでから、再び驢馬に乗り目的地へと向かう。
 巴旦杏の塔は相変わらず蔦に覆われていた。中に誰もいないというのに。

 − ガルベージュスが余の両性具有を連れてきた −

「エリュシちゃん……」
 今度は母が泣きそうで、余はどうしようかと悩み、そして叫んだ。
「誰かいないか!」
「いるよ」

 艶やかな黒髪を持った 《あれ》

 ”煩いな” といった表情で現れた 《あれ》 に母は目を丸くして、大声で話しかける。
「ああ! 病気の子が! 病気! 病気大丈夫? 病気!」
 中にいた 《あれ》 は ”病気の子” と大声で言われて面食らい、何も言えなかった。
 母は塔に駆け寄る。涙はすっかりと止まっていた。
 駆け寄って来た母に気付き 《あれ》 は叫んだ。
「危ないぞ! 触れるな!」
 母は足を止めて ”そうだった!” と手を打った後、嬉しそうに自己紹介をする。
「あてしグレス! グラディウス・オベラ・ドミナスって呼んでね!」
 背後で聞いていた余と、塔の中で聞いていた 《あれ》
 互いにおかしな顔をしていたらしい。
 特に母と初対面だった 《あれ》 は、余よりも年上であったが言葉を紡ぐことができなかった。
「母上、逆です! 逆っ! ”グレスって呼んでね” が正しいんです!」
 余が気付き、叫ぶと、余を褒めた。
「ああ! そうだった! あてし間違っちゃった! あてし、グラディウス・オベラ・ドミナス! グレスって呼んでね! 教えてくれてありがと! ベルティルヴィヒュ」
「貴様面白いなあ。僕の名は」
「ドラ様と同じお顔なのに! ほぇほぇでぃ様と同じ言葉だ!」
「……」
 両性具有は再度言葉を失った。
「ドラ様とは、皇妃ルグリラド、テルロバールノル王女のことだ。ほぇほぇでぃ様はマルティルディ王のことだ」
 塔の中の両性具有の顔といったらなかった。

 あの時の崩れきった顔は、余が皇帝となってから会いに行きからかった。

 言葉遣いは「僕」で、顔立ちは「儂」で、性格は「俺様」な 《あれ》 に、口では勝てたことはまず無かったが、この話題だけは勝てたような気がする。勝負するものでもないがな。
「もしかして貴様は、藍凪の少女か?」
「うん! なんで知ってるの? あっ! お名前教えて!」

「ああ、僕の名前はな……」

**********

 食後、母は食器を片付ける。その間も、彼女は巴旦杏の塔を見続けていた。
 余はまた隣に座り巴旦杏の塔を見ていた。
「アルトルマイス親王大公殿下」
「何?」
「抱き上げてもよろしいでしょうか?」
「うん。高い高いは好きだ」
 余を抱き上げて微笑んだ彼女は美しかった。
「親王大公殿下は三歳になられましたか」
「三歳だよ」
「我は三歳の時、あの塔に入りました……殿下、お幸せになってくださいね」
「うん」

 ああ、あの時もっと色々な事が言えたなら……そして、今もそう思うよ。この想いの全てをイデールサウセラ、お前に伝えられたなら

**********

 巴旦杏の塔の傍にある家で、家族でよく過ごしたものだ。
 王太子婿や、王太子妃になった弟妹も、まだ何処へも嫁いでいない双子の姉弟と一緒に、母を囲んで楽しく過ごしたものだった。
 父は……必要なかったのだが、父がいると母の笑顔が違うので。

 満面の笑みを浮かべてもぎもぎと食事する。

− 美味しいよ。美味しいよぉ。みんなから貰ったケーキ美味しいよ
− グレス、ほら泣かないで
− おっさん、美味しいよぉ。アルトルマイス、美味しいよ。エルシュ……

 馬鹿で愚かでやっぱりもぎもぎな母は、余や弟妹達の自慢であった。
 何時までもそのままでいて欲しく、それが弟妹達の希望であり 《おっさんと旅行に行きたい》 と母が言っていたから、余は皇帝となることに決めた。

 行け、サウダライト。母を幸せにするために、自由にしてやる。ここから出て行け!

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