藍凪の少女・下働きとおっさん[09]

「今日から一人で掃除に向かってください」
 そう言われてグラディウスはレミアルの部屋へと向かっていた。
 エルメリアが何処に行ったのかを職員に聞こうとしたのだが、言葉になる前に職員は背を向けて去っていってしまったので尋ねることはできなかった。
「お掃除に来ました」
 グラディウスが部屋に入ると、不機嫌なレミアルが居た。”ちらり” とグラディウスの方を見て、すぐに顔を背ける。
 何故怒っているのか? どころか、怒っている事にも気付かず、グラディウスは掃除を開始する。

《昨日、おっさんとっても楽しかったよ》
《良かったね。あてし、途中で寝ちゃったけど……楽しいのかな? あてし頭悪いから楽しいのか何か解らなかった》
《段々と楽しくなるよ。おっさんが絶対に楽しくなるようにしてあげるから》
《解った》
《それとね、グラディウス。昨日のことは内緒だよ。誰にも言っては駄目だよ》
《うん! あてし、絶対誰にも言わないよ!》
《うんうん。じゃあ今日はお菓子を食べて、掃除はおっさんも手伝おう》

 午前中に四阿でのサウダライトとの会話と、貰ったお菓子の味を思い出し笑いを浮かべながら床にモップをかける。
 その幸せそうな、微笑みではなく 《笑顔》 を見て、レミアルは腹を立てた。
 自分がこんなにも気分が悪いのに、下働きが間抜けな程幸せそうな笑顔を浮かべていることに腹を立て、自分の不機嫌さや貴族男性に相手にされない自分の存在を嘲笑われているような考えに陥り、飾り燭台を掴むと真っ直ぐグラディウスの方へと進み、握っているそれを振り下ろした。
「?」
 顔を殴られたグラディウスは、ショックでモップを手から落とすが、何が起こったのかは理解できず燭台を持ち、怒りの形相で震えているレミアルを見つめた。
「何なの、その馬鹿面! 早く出て行きなさいよ!」
 その態度も気にくわなかったレミアルは、持っていた燭台をグラディウスに投げつけ、床に落ちたモップの柄を掴み上げて、グラディウスの顔をそれで押しつけて部屋から追い出した。
 部屋から出たところで尻餅をついたグラディウスに、室内にあった掃除用具を投げつけ、
「医務室なんて行くんじゃないわよ! 行ったらただじゃおかないからね!」
 驚きで動けないグラディウスを高いヒールの靴で蹴った。
 不条理な理由で暴力をふるわれたグラディウスは、掃除用具を持って指定の場所に返し、レミアルに言われた通りに医務室に行かずに部屋に戻った。
 こめかみの辺りから頬にかけて、殴られた箇所が痛むので、グラディウスはタオルを濡らして一人で頬を抑えていた。そうしていると、
「…………」
 大きな瞳から涙があふれ出してきた。
 一生懸命仕事をしていたのに、突然殴られてしまった事が悲しくて涙が止まらなくなってしまった。
 部屋に戻ってきたリニアは、昨日の幸せそうな寝顔とは正反対の、殴られて腫れている顔に濡れタオルをあてて一人で涙を流しているグラディウスを見て大慌てで近寄る。
「どうしたのグラディウス!」
「わかんない」
「医務室行きましょう!」
「行っちゃ駄目って言われた。行ったらただじゃおかないって言った。あてし行かない」
 リニアは医務室に連れて行きたがったが、明日も仕事に向かう先の 《主》 がそう言ったのなら、医務室に連れて行ったことで余計に怒りを買い、もっと殴られてしまうかもしれないと考えて諦めた。
 暴力をふるわれた申し立ては医務室で判断され、それから届け出が出るので力のない下働きであるリニアにはどうも出来ない。
「なんでなのかなあ」
 泣くというよりは、静かに涙を流し続けていたグラディウスは、殴られた理由が解らないとリニアに言うと、彼女は表情を曇らせた。
「……理由なく暴力をふるう人もいるから。私には……」
 彼女自身、理由なく暴力をふるう夫から逃げる為に宮殿の下働きになったので、グラディウスの怪我に胸が塞がる思いだった。
「誰か頼りになる知り合いでも居れば良いのだけれど」
「頼りになる知り合いって?」
「そうね……貴族の方に知り合いがあれば頼りになるのだけれども……」
「ふーん」
 グラディウスは殴られたせいで食欲はなかったが、リニアがスープだけでもと、即席スープを作り渡した。
 口の端も切れているので痛むが、グラディウスはそれをゆっくりと飲んだ。その間にリニアは街の薬局で氷嚢と氷、そして鎮痛剤を買って部屋に戻った。
 リニアが部屋に戻ると、同室のもう二人も戻ってきていて 《大丈夫……じゃないよね! どうしよう!》 必死に声をかけていた。
 買ってきてもらった薬を飲み、ベッドに入ったグラディウスの顔に氷嚢をあて、
「痛くなったら言ってね。今晩はずっと私が付いているから」
 リニアはグラディウスを安心させるために笑顔で言う。その彼女をグラディウスは母親を見る子供のような眼差しを向けながら感謝をする。
「ありがとね」
「私がしたかっただけだから。……自己満足だから気にしないでね」
「自己満足ってなぁに?」
「……私はグラディウスのことが好きよ」
「あてしもリニア小母さんの事好きだよ」
 鎮痛剤が効いて眠りに落ちたグラディウスを見ながら、リニアは一晩中グラディウスの枕元にいた。
 他の二人が途中で交代すると言ったが ”大丈夫。明日も腫れがひかなかったらお願いね” と言って一晩中付いていた。

 翌朝、腫れはある程度引いたものの、青痣がはっきりと残っている。
 口の端が切れているので、何時ものようにもぎもぎ頬一杯に物を詰め込んで食べる事の出来ないグラディウスだが、表情はそれ程暗くなかった。
 食事を終えて、四阿の掃除へと向かう。
「おっさん! 今日早いね!」
 その先には既に来ていたサウダライト。
 昨日の事に関してサウダライトが報告を受けたのは今朝になってから。
 サウダライトの想像以上に腫れている顔を見て、思わず表情が強ばりそうになったが、グラディウスを怖がらせてはいけないと何時も通りの笑顔を浮かべて出迎える。
「今日は早いんだよ。グラディウス、顔どうしたんだい?」
「殴られた。何で殴られたのか解らない。あてし馬鹿だから殴られたみたいだ。だから今日も殴られるかもね。あてし今日も馬鹿だから」
 サウダライトは視線を宙に泳がせ、先ほどまで 《保留》 にしていたことを 《実行》 に移すことに決めた。
 そんなサウダライトの高い所にある視線に気付かないグラディウスは、微かに痛む首を動かして見上げながら話掛ける。
「おっさん」
「なんだい? グラディウス」
「おっさんは頼りになる貴族?」
「頼りになると思うよ」
 サウダライトの言葉にグラディウスは顔が痛むのも忘れて笑みを浮かべた。
「この頼りになる貴族 ”おっさん” に何か出来ることはあるかな?」
 何かを望むとサウダライトは思った。
 殴った相手を遠ざけて欲しい等と言うのではないかと考えながら、膝を折りグラディウスに視線を合わせるが、
「わかんない」
「え?」
 痛む顔で笑顔を浮かべた 《田舎娘》 は何も言っては来なかった。
「んとね、リニア小母さんがね、”頼りになる貴族の知り合いがいたら” って言ったの。あてしには頼りになる貴族のおっさんがいるから、殴られても平気だよね!」
 グラディウスにはリニアが言った言葉の意味が理解できなかった。ただ言葉通りに取ったので、それ以上の望みなど無い。

 それが 《グラディウス・オベラ》

 サウダライトは腫れている頬に触れないように、撫でる仕草をしながら穏やかに微笑む。
「その通りだ。おっさんが居るから大丈夫だよ。なんの心配もない」
「ありがと、おっさんが居てくれるとあてしも楽しい」
「よぉし。明日からグラディウスはおっさんの傍で仕事をしてもらおうかな」
「え?」
「嫌かな」
「そんな事無いよ!」
「そう言ってもらえると嬉しいな。それでこれは秘密にしなくてはならないんだ」
「何が?」
「良いかい、グラディウス。今日の夜、同じ部屋の人が出かける。その時グラディウスは出かけないで持って来た荷物を纏める。そしたら迎えの少女……女の人が行くから、その人と一緒におっさんの所においで」
「……?」
 サウダライトは三回ほど同じ事を言い、グラディウスは復唱して、
「おっさんが良いと言うのだから怪我を治しておいで。なぁに、もうその部屋には掃除に行かなくても良いから。医務室でゆっくりと休んで来るんだよ」
「はい!」
 グラディウスはサウダライトの言葉に従い、医務室へと向かった。

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