グィネヴィア[32]
 ジアノールは帰宅したかったのだが――既に帰ることができなくなっていた。
―― 明日……いや、もう今日か。御大の婿候補たちの……あぁ……あっ

 クレスタークから紹介状を貰ったので、顔を潰さないためにも男娼の元を訪れ一回寝て帰ってくるつもりだったのだが、予定というのは往々にして狂うものである。
―― 疲れているのに全身が……

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「……」
 トシュディアヲーシュ侯爵に負けじとバーへ行こうとし、途中で迷いジアノールを発見した ―― ジアノールを窮地に追い込んだ張本人でもあるイルトリヒーティー大公は、レティンニアヌ王女が落とした薔薇の花を拾い集め、水に挿した。
 薔薇が挿された花瓶を乗せた机に俯せ、色々なことを考える。―― 自分の生まれ。試験対策。明日グレイナドアとどのように過ごすか。帝国の未来。ゾローデについて。そしてレティンニアヌ王女に関して ―― なにを考えても答えは出ず、次々と思い浮かんでくるが、何時ものイルトリヒーティー大公からは考えられないほど集中力が続かず、まさに浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返す。

 王女は美女ではない。不細工とは縁遠いが、帝国の王侯貴族の中では、美しいとされる顔立ちではなく ――

「考えてもどうしようもないな」
 なぜこんなにも王女のことが気になるのか? イルトリヒーティー大公は出来るだけ考えないようにして、ただ薔薇の花を見つめた。

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「お背中、流さなくていいの?」
 帰宅したウエルダと侯爵は、先に戻っていたマローネクス家の面々に出迎えられ、そして浴室へと案内された。
 浴室は当然ながらこの住居に住む人間を前提に作られているので、大貴族にとっては狭いが、そこは寮生活で技術を培った侯爵。
 浴室内を見回して、シャワーを浴びることができることを確認し、体を洗うことにした。
 ユシュリアが ―― バンディエールと王女はいつの間にかいなくなっている ―― 着替えの入ったケースを渡した。
 ”それじゃあシャワー浴びさせてもらう”と侯爵が浴室へと消え、広くはない室内にくぐもったシャワー音が響く。
「いや……流したほうがいいかな?」
 大貴族が平民の狭い浴室で一人で体を洗っているなど、貴族の習性を詳しく知らない平民であっても”おかしい”と感じる。
「あんた、習ったんでしょ!」
「習うってか……まあ」
「流さなくても、側にいてすぐ応えるべきじゃないの?」
「あの狭さはどうすることもできないだろ」
「そうじゃなくて!」
「シャンプーや石鹸は新品にしたから……従僕やったことないけど、頑張ってみるか」
 妹のパールネに言われたこともあるがウエルダ本人も、大貴族をを狭いにも程がある浴室(家族の中でもっとも体格がよい185cmのウエルダですら、若干手狭である)に一人きりにするのは、かなり気になっていたので、パールネにも背を押されたので浴室へと向かった。
 もっとも向かうといっても、シャワーの音が聞こえる程度のすぐ近くなのだが。
 浴室入り口の七十センチ三方をカーテンで囲っている脱衣所。そのカーテンを持ち上げると、着換えが入っていたケースが蓋を開いた状態で置かれていた。
 ケースは下側に着換えが、蓋側はポケット状態になっており、脱いだ洋服がきちんと畳まれ収納されている。
―― 俺より、洋服畳むの上手いなあ……
 ちなみに対僭主銃と軍刀は、侯爵がリビングに持ち込んだ反重力椅子に乗せられている。民間住宅の床や壁を破壊する恐れがあるので、扱いにはそれなりの注意が必要なのだ。
 侯爵の着換えの鮮やか過ぎる赤にやや恐れをなしつつも、カーテンを開けて出入り口のすりガラスをノックし侯爵に声をかけた。
「ラスカティアさん」
 長い黒髪を慣れた手つきで洗っていたラスカティアはシャワーを止めて理由を尋ねた。
「どうした? ウエルダ」
「髪洗いましょうか?」
「……」
 しばし空白の時間が続き、
「ラスカティアさん?」
「あーウエルダ。ありがたいが、その……ちょっと浴室が狭くてな。流してもらうには」
「やっぱりそうですよね。じゃあ、明日か明後日でも、おみ足でも洗わせてくださいね」
―― そうだよ、うち、狭いんだよ! ラスカティアさんに気使わせたなあ……
 ウエルダは浴室から離れた。侯爵はウエルダが扉の向こう側に消えた音を聞いて、シャワーのコックを捻り顔を上げて正面から浴びる。

―― いや! なにびっくりしてるんだよ。ウエルダは普通に……なにを、驚いて……落ちつけ、俺

 シャワーのコックを捻るも侯爵は動かない。
 驚き平常心ではないときは、動かない ―― そんな状態で自分が動くと周囲を破壊してしまうことを、侯爵は熟知しているからだ。
 シャワーを浴びているのは、動揺して動けないでいるのを水音で隠すためである。
―― 足とか。でも、あの……おい!
 なにが何だか分からない動揺は、

「ラスカティア、シャワー室でも壊したのか?」

 外で一応警備している、スナック菓子が入った袋に手を突っ込んでいたユシュリアが、殺意とは違う気配を感じ、独り言を呟くくらいにだだ漏れしていた。

 ウエルダが声をかけてから三十分後、侯爵が困ったような顔をして浴室から出てきた。
「どうなさいました? ラスカティアさん」
「済まん、ウエルダ。ついつい湯量が……ちょっと使い過ぎた」
「いえ、気にしないでください」
「それとシャンプーも……空にしてしまった」
「いえいえ、それも気にしないでください。買い置きありますから。ラスカティアさんくらい髪長いと、使い切ってもおかしくないですから」
「そ、そうか。だが……」
「本当に気にしないでください……あの、ラスカティアさん、格好いいですね!」
 シャワーを浴びた侯爵は、軍用の黒いアンダーウェアに赤いシルクのガウンを羽織り、ウエルダが用意した黄色地に青い大きめな水玉の模様がついたタオルで髪を拭いていた。
―― なんで俺、柄物用意しちゃったんだろう……
 自宅にあった新品のタオルの中で、マシな柄だったのだが、こうしていざ使われているのを見ると”ごめんなさい”と謝りたくなるようであり、
―― でも美形だから、似合うよな。うん、凄いなあ
 ”さま”になっているようでもあった。
 侯爵と入れ違いにウエルダは浴室へと向かい、買い置きのシャンプーをボトルに補充しシャワーを浴びた。
 侯爵とは違い、それほど時間をかけず、だが洗い残しなどないように ―― 急いで上がると、
「なにを……」
 兄弟姉妹が侯爵に支えてもらいながら、軍刀を握っていた。
「触ってみたいと言ったら、触らせてくださったんだ」
「おま……」
「気にするな」
 軍刀は鋒が少し反っている片刃で、剣ではなく刀というものに分類される。この軍刀は帝国の近衛兵のみに与えられるもので、
「いや、でも。それ……ラスカティアさんが良いんでしたら」
 侯爵は帝国近衛兵団副団長でもあった。
 ウエルダの家族はすっかりと打ち解けた ―― というのには語弊はあるが、想像していたよりもずっと穏やかな侯爵に徐々に心を開いて、普段では決して見られない、触られないものを堪能し、
「本当にここでよろしいのですか?」
「構わん」
 両親が地下室に寝所を作り、挨拶をして去っていった。
「……本当にいいんですか! ラスカティアさん」
 荷物を放り込んだ地下室の僅かな残りスペースに、外で菓子を食べていたユシュリアから渡された簡易ベッドを持ち込んで床に広げただけ。
「ああ」
「それじゃあ、俺もここで寝ますね」
「……いや、体痛いだろう」
 侯爵は地下室で一人寝しようとしたのだが、
「ラスカティアさんを一人地下室に残して戻ったら、姉さんと妹に蹴られるー」
 善良なる平民ウエルダには、そんなことはできなかった。
「そ、そうか。じゃあ……寝るまで話でもするか」
 無理矢理部屋へと戻して、家族仲が悪くなって殺人まで発展したら大変だろうと ―― こんな理由では滅多に殺人に発展しないのだが、侯爵の家はわりと簡単に殺人に発展するので……かみ合わないが上手く纏まった。
 侯爵は持ち込んだ、着換えが入っていたケースを開き、
「……ラスカティアさん?」
「俺は寝顔が怖いことで有名でな。意識がない顔のほうが怖いそうだ」
 メタリックな仮面を装着した。
「え、あ……お心遣い、ありがとうございます!」
 ゾローデから”侯爵の寝顔は怖いよ……いい御方なんだけどさあ”と聞いていたので、否定するわけにもいかず、取り敢えず感謝を述べる。
 侯爵が仮面を持参したのは、万が一寝顔を見られ殺してしまったら困るので、念には念を入れて昨日のうちに作らせ持参したのだ。
 仮面を装着した侯爵とウエルダは、地下室の荷物を少し引きずり出して遊んだり、あまりにも安定の悪い荷物を整えたりしてから眠りについた。

「……」

 眠ってから二時間以上過ぎたころ ―― 目を覚ましたウエルダには、そんな時間の経過は分からないが、ふと目が覚めて、しばし見覚えのない天井を眺め、左脇にある大きな熱源に徐々に意識が覚醒……する前に、視界の隅に白いものが紛れ込んできて、顔をそちらへと向けた。室内は常夜灯に照らされてほんのりと明るい。
 そして熱源の主である侯爵は、ウエルダの隣で胎児のように丸くなっていた ―― 体格が大きいので、丸くなっていても大きいのだが、とにかく丸くなっており、顔は仮面と黒髪で隠れている。
 脱いだ赤いガウンは上腕二頭筋を鍛える道具が入った箱に駆けられ、白いものが一際目立っている。
「……?」
―― 猫……耳?
 侯爵の頭から白い猫の耳のようなもの ―― 事実猫耳なのだが、そんなこと今のウエルダは知らない ―― が生えているように”見え”それが”ピクピク”と動いている。
 ウエルダの意識は”それ”を見て、覚醒することを拒否し、その不釣り合いというか不似合いというか、夢幻的な光景をしばし見つめた。
 目を擦るような気は起きなかったが、触って欲しそうに動いている猫の耳にも見えるそれに手を伸ばす。だがつまむのは避けて、人差し指で内側と外側の縁を撫でる。髪の毛などとは違う獣の毛の感触と暖かさ。胎児のように丸まっている大男が、ウエルダが耳を撫でるのと同じタイミングで”びくり”とする。
「……」
―― 寝よう。いや、寝てるんだ。夢だなこれは 
 ウエルダは呟きながら、自分が目覚めたことを自覚しないまま再び眠りに落ちた。

 事実耳が生えて、ウエルダに触られていた侯爵はというと、これも彼らしくはないのだが、目覚めることなく、心地良さと共に深い夢の世界で柔らかな眠りについていた。

**********


「グレイナドアはどうなっている?」
 デオシターフェィン伯爵とクレンベルセルス伯爵の所から、自宅へと戻った帝国宰相がもう一組の不安材料について部下に尋ねた。
 先程まで二人の所に訪問していたのは、それなりに様子が気になっていたからである。
「帝国騎士ジアノールと性行中です」
「あの元僭主は、クレスタークからの紹介状を持って外に男娼を買いに行ったんじゃなかったのか」
 帝国騎士の性的嗜好から予定や動きは、全て帝国宰相の手の内。
「それが、途中で……」
 ジアノールがグレイナドアの寝室に引きずり込まれた経緯を聞き、
「好きにさせておけ」
「かしこまりました」
 面倒なので触らないことにした。グレイナドアは帝国宰相などとは違い、害意や悪意をほとんど持たない。
―― 凶悪なまでに馬鹿だがな
「それで、クレンベルセルスの所に大挙していたパスパーダ率いる皇王族たちは?」
「ケシュマリスタ王の所へ」
「そうか。もう良い、下がれ……なんだ?」
「大皇陛下から”時間があれば酒の相手をせよ”との」
「そうか。では兄上の元へと行くとするか」
 帝国宰相は着換えもせず、そのまま兄ナイトヒュスカ大皇の元へと馳せ参じた――

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