繋いだこの手はそのままに −133
ゾイはロガと何を話したのかほとんど覚えていない。
皇帝との出会いが自分が用意した 《肝試し》 だった事だけは解ったが、その他のことは全く耳に入ってはこなかった。
治療された顔と、貴族の中では目立つショートカット。
「本当は伸ばさないといけないんだけど、頭皮も治療されて髪の量が増えるから、一度短く切って調節するんだって」
被っている花で飾られた帽子に触れながら微笑むロガの後ろに見える、ボーデンが乗っている台。ゾイには見覚えがあり過ぎる、ボロボロの布。まだロガの家に引き取られる前、ゾイがボーデンの寝床にと用意してやった、端切れを縫い合わせた物で、大宮殿の一角にあって非常に目立っていた。
「ボーデンこれじゃなきゃ、寝てくれないの。ゾイが作ってくれたの、すっごく気に入ってるんだよ」
「家にいた時は、ベッドに乗ってきて、それにあんまり寝なかった癖に」
ロガの家に引き取られたゾイは、一つのベッドに一緒に寝ていた。ゾイを引き取るまでロガは両親と一緒に眠っていたが ”ロガも大きくなったことだし” と、ビハルディアと近所の人達が二人が一緒に寝られるベッドを作ってくれた。
最初はとてもぎこちなかった。
ゾイは実父がロガの家に刃物を持って殴り込んで来るのではないかと怯え、夜中に何度も目を覚ましてロガが起きていないかを窺ったが、背中を向けているのでゾイには起きているのかどうかを判断することは出来なかった。
何度も悪夢と恐怖に怯えて目を覚ましていたゾイは、徐々におかしな事に気付く。
《ロガは決して自分の方を向い眠っている事がない》
眠る時は仲良く顔を見てお休みを言い、朝は悪夢にうなされ眠りの悪いゾイよりも、ロガの方が先に目覚め、起こしに来てくれる。
思い込みかと考えて、夜ベッドの中で眠ったふりをしてロガを見る。
ロガもゾイを窺い 《ゾイが眠った》 と思しきところで、背を向ける。偶然かと思ったが、自分が頻繁に目を覚ましていることを考えて、確認の意味を込めて何度か繰り返し、ロガが自分の方を向いて眠らないという結論がゾイの中で出された。
その意味は解らなかったゾイは、ロガに直接尋ねてやっとのことで理由を教えてもらう事が出来た。
「夜目が覚めた時、そっち側向いてるとびっくりしちゃうでしょ……」
ゾイが夜中に目覚めた時に、半分崩れた自分の顔が目に入ると、もっと怖がるのではないかと心配しての行為だった。
ゾイは腹を立てていいのか、申し訳ないと言えば良いのかも解らず、二人は暫く無言で向かい合っていた。
「驚かないと思うから……こっち向かなくても良いから、仰向けか俯せかで寝て」
「う、……うん」
ロガが背を向けている理由を知ると同時に、ボーデンに噛まれた傷が元で父が死んだと聞かされ、ゾイの気は晴れた。
自分の父親が死んで気が晴れた自分を醜いなどと思わない程に、晴れやかな気分だった。そして傷もすっかりと癒えたボーデンが二人のベッドに乗り込んで一緒に眠るようになる。
あの暴力的な実父はもう決して現れないと自らに言い聞かせて眠り、ゾイの依頼に応えて顔を晒して自分の方を向いて眠ってくれるロガと、目を覚ます都度、足下で眠っているボーデンは起き上がり手を舐めて再び足下へと戻ってゆく日々が繰り返され、何時しかゾイはゆっくりと眠る事ができるようになった。
他にも様々な人の支えがあったが、ロガとボーデンの存在が一番大きかったとゾイは思っている。
ロガの話を聞きながら、自分の眠る事ができなかった過去を思い出したのかゾイ本人も解らない。
「ロガ」
「何? ゾイ」
「トイレ何処? 一緒に行こう」
そして理由も解らないまま、ロガの腕を何時ものように引いて立たせ、腕を組み歩く。
「こっちだよ、ゾイ」
背後に人が付いてくる空気を感じて 《嫌だ》 と思うものの、ゾイにはどうする事もできない。だが、その空気は直ぐに消えた。
ロガに腕を引かれながらゾイが振り返ると、メーバリベユ侯爵が軽く頭を下げて両手を広げていたのが視界に映る。
ゾイの望みを理解したメーバリベユ侯爵が周囲の警備を押しとどめ、二人きりにしてくれたことで、やっとゾイは自分が 《人目のない所で、ロガと本当に二人っきりで話をしたい》 そう考えていたことが解った。
「え、これ……トイレなの……」
ロガと腕を組んで入ったトイレは、ゾイの感覚としては家くらいあった。
ゾイは知らないが、自分が話しをしていた場所はボーデンの部屋で、このトイレはボーデンの元に通うロガと、一人ではかなり心許ないシュスターク二人のみが使用するもので、それ以外の者の使用は原則禁止である。
「びっくりしちゃうよね。これでも、小さい方なんだよ」
ロガはそのことを知らないので案内した。それによってゾイが罰せられるということはないが、声を失わせてしまうことになった。
壁の部分は開放的な大きな窓のある、普通の家のような間取り。一般的な四人家族なら生活できるくらいのスペース。
家具や調度品も揃い、大きな花瓶には溢れんばかりの花が生けられている。
花の束の中心にあるのは一輪の白い秋桜。トイレに秋桜を飾るなど、帝国に住んでいる者には考えられないが、この大宮殿の主が足を運ぶ場所であったならそれも頷ける。
「ゾイ。トイレはあっちだよ……」
まだ先があり案内しようとゾイの腕をロガがひく。その手をふりほどき、驚いているロガにゾイは抱きついた。
「ごめん」
皇帝の正妃の座についたロガに対してかける言葉ではないと思いながら、どうしてもゾイは言いたくてたまらなかった。どうしてこんな気持ちになったのだろうと、自分に対して疑問を持ちながら、もう一度すっかりと治療された頬に、自分の頬を寄せてゾイは呟いた。
「ごめん、ロガ」
重ねられたゾイの言葉に、ロガは困ってしまった。
頬を寄せているゾイに、その表情は見えないだろうが、伝わってしまっただろうなと思い、いつ見ても慣れない豪華な部屋を眺めながら返事をした。
「心配かけちゃったみたいで、ごめんね」
「こんな事になるなんて、思わなかったの!」
ゾイはロガを抱き締めている腕に力を込め、ロガはその腕に優しく触れる。
「誰も思わないよ。私だって思ったことなかったもん……お邸で働けたら良いなとは思ったけど。帝国宰相閣下がお出でになった時、びっくりしちゃった」
”とんでもない事に巻き込んでしまった。でも自分には、もうどうすることも出来ない”
その大きな氷塊のような事実が胸に”すとん”と落ちた時、ゾイの停止していた思考が動き出した。
「怖くない? ロガ。怖いことない? ロガ」
「……怖いよ」
ゾイはゆっくりと抱き締めていたロガの体から離れて、その表情を見る。
怖いと言ったロガの表情は、曖昧と困惑に嘖まれていた。
「現実味がなくて、怖いんだ。もしかしたら、私……知らないうちに死んじゃって夢みてるのか、それとも大怪我して眠りにおちてるんじゃないかなあとか……って思っちゃうんだ。夢みたいなんだ、顔も治してもらって、皇帝陛下のナイトオリバルド様はとっても優しくてね」
「ロガ……」
「なに? ゾイ」
「ロガは妊娠してるの?」
ゾイが見た事もなかった曖昧と困惑を浮かべていた表情は一転し、良く見慣れたロガの表情に戻る。顔を少し赤らめ全力で否定する。
「してない、してない! だって、ナイトオリバルド様とそんな事一回もしてないもん」
「そうなんだ」
ロガが妊娠していたのなら、ゾイはまだ一緒に引き返せるような気がした。本当は一緒に戻ることなど出来ないのだが、余地がある気がした。《奴隷が身籠もった》 ことによる皇帝としての責任や、各王家の利害関係が少しでも発生していたら、ゾイは自分を責めながらも納得することも出来た。
だが実際は、一度も触れられることなくロガは此処にいて、ゾイは再会した。《皇帝はロガだけを欲している》 その事実は、二人を引き合わせてしまったゾイにとって重くのし掛かる。利害も裏もない、権力も血筋もないロガが求められた。
ゾイはそこに幸せを見ることはできず、嫉妬という考えなど存在しない。ゾイが結婚に夢を持っていない以上に、帝国のことを学んでいたのが原因だ。ロガのいる場所が夢と幻想、あるいは幸せの中にだけ存在する世界ではないことを、ゾイは 《この時点では》 ロガ以上に知っている。
だが同時に引き返せないとも痛感したゾイは、ロガの顔を両手で掴み、額を近づける。
「もしもさ、これがロガの夢だったらビハルディア小父さんも、ニー小母さんも居る筈だよ」
「……そうだね、夢だったら絶対に……うん。ありがと、ゾイ」
”夢だったら良いのに” それはゾイの方が強く思った。あの日のように、ロガとその両親と共に、まだ若かったボーデンと暮らす日々が戻って来たらいいのにと思いながら ”自分が何故此処に連れて来られたのか?” やっと理解できたゾイはロガを励ます。
「ありがとうなんて……ね。あのさ、正面から初めて見たけど、ロガ綺麗になったね。顔もむくんでたんだね。全然気がつかなかった」
腫れが引き輪郭がすっきりとしたロガの顔。
「見慣れないでしょ」
額を離し、その顔をまじまじと見つめる。こんなにもバランスがとれた顔だったのだとゾイは、やっと驚いた。
「うん……でも、何時か見慣れるよね。后殿下なんだから」
目や鼻など顔のパーツ一つ一つが柔らかで、派手ではないが印象深い。慎み深いが決して地味ではない。
「……うん」
「あっ! 何時までもトイレに居ちゃ駄目だね。こんなに長いこといたら心配されちゃうね! 出よう……どうしたの? ロガ」
「大丈夫だと思うよ。ナイトオリバルド様はもっと長いから」
「?」
だがゾイはロガの手を引き、直ぐにトイレを後にした。
トイレにしては長い時間だったが誰も何も言わず、ただ一匹ボーデンだけが億劫そうに近付いてきて、呆れたように二人に頭を擦りつける。
「あのね、ゾイ」
「なに?」
「あのね……もしも、ゾイがボーデンを飼いたいなら、官舎で飼えるように取り計らってくれるって」
ゾイは自分を見上げているボーデンと視線を合わせる。
どうしたい? と尋ねる前に ”お前の好きにしろ” と言っているボーデンの眼差し。
しゃがみ込み、視線を合わせて何時ものようにボーデンの鼻先を人差し指で軽く弾き、
「ロガのこと頼んだよ。大丈夫だよね、ボーデン」
話しかけると、擦れた声で一鳴きし、その指を舐めた。
そんな話をしていると、ゾイは戻る時間になった。庭園前の出口まで見送りに来たロガと、その後ろを歩いてきたボーデン。
ゾイは手を振るロガと、尾を振り続けるボーデンに見送られ、次に直接会える機会は無いのかもしれないと、名残惜しく何度も振り返った。
ゾイはそのまま帰宅することを命じられ、従った。官舎に戻ると部屋の前に夕食が届けられていた。
その豪華な夕食をテーブルに放り投げて、ソファーに俯せになり泣くわけでもなければ、叫ぶわけでもなく、ロガのことを思い出しながら目を閉じる。
翌朝仕事に行くと、ゾイとそりが合わなかった貴族女性などが居なくなっていた。
「昨日、君が書類を取りに行った後に人事異動がかかってね」
貴族や王族の我が儘で動く貴族省は、突然の人事異動も珍しくはない。
「ゾイ。君は総務省の方に」
「はい」
姿が見えなくなった元の同僚達は総務省にはいないのだろうと、荷物をまとめて新しい部署へと向かった。
**********
「怖がってなければ……無理か」
皇帝陛下の初陣に、后殿下が従ったことを聞きゾイは驚き、心配していた。
ロガが自らの意志で付いていったのか? 皇帝が連れて行くと言ったのか、ゾイには解らない。
「……」
思考の迷路から抜け出ることが出来ない状態になっていたゾイだったが、入り口から足音が聞こえたことで意識を切り替え、仕事に戻ろうとパウダールームから出た。
「ここは女性専用ですよ」
足音の主は、顔は知っているが名前は知らない同じフロアで仕事をしている男性職員だった。
「君、后殿下の知り合いなんだって?」
この言葉を聞いて、ゾイは全く知らない相手に、ロガと自分の関係を不躾に言われたことで自分の怒りを覚える。
「知りません」
怒りの沸点が低いと言われようが、ゾイにとっては関係のないこと。
通路は離れて脇を通り過ぎることを可能にしてくれるくらいに広かったが、そこに立っていた男性が許してはくれなかった。
「確実な筋からの情報なんだ。独り占めすると、みんなに怨まれるよ」
実父に殴られて育った、男性に接触されることが何よりも嫌いなゾイの腕を掴み引く。たとえゾイが男性に触れられることが嫌いではないとしても、この態度は失礼以外の何物でもない。
「知りません!」
その男性が何か言おうとした時、ゾイは自分を掴んでいる腕が緑色の布に包まれたのを見た。そして砕ける音。
ゾイを掴んでいた男性の腕は突如力を失い、目の前に男性の靴先が見えた。
男性は鏡に頭を突っ込み、そのままスライドされてゆく。割れた鏡の鋭い刃に顔を切り刻まれ、血が鏡からしたたり落ちて、モカ色の台に”ぽつり”と血の滴を残して、出入り口から連れ出された。
呆気にとられているゾイの耳に、男性が床に投げ落とされたらしい音が聞こえて、なんとか足を一歩踏み出すことができた。血の付いていない側の壁を伝いながら出ると、出口を近衛兵が取り囲んでいた。
思わずへたり込むゾイと、その先にいる顔の皮が剥げてしまった男性。
元の顔など解らない有様になった男性は、痛みと恐怖に震えている。トイレに侵入し話しかけて来た男性の手首の骨を砕き、顔の皮を剥いだ女性に、ゾイは見覚えがあった。
ロガの女官長を務めているメーバリベユ侯爵と皇后の座を争ったとされる、エダ公爵バーハリウリリステン。
「女性トイレで暴行未遂」
彼女は振り返り、近衛兵達が体を僅かにずらして通り道を作る。その道から現れたのは、
「帝国宰相閣下」
帝国最高権力者として名高い帝国宰相パスパーダ大公デウデシオン。
彼は顔の皮が剥げて震えている男を無感情に僅かな間見下ろして、ゴミを払いのけるかのように手を動かした。
近衛兵達が両腕を掴み、男性を立ち上がらせる。
《殺される》 直感した男性は暴れようとしたが、両側の近衛兵が肩に手を置き、腕をぐるりと回す。先ほどゾイを掴んでいた腕が上げたのと同じ音がして、男性の体は一瞬硬直したが、その後は力無く崩れたバランスを失った体は、引き摺られるまま。
悲痛な叫びを上げている男性が去ったあと、ゾイの傍に数名の近衛兵が近付き、その一人が立ち上がるようにと手を差し出してきた。
その手につかまって、ゾイはゆっくりと立ち上がる。
「あの男に情報が漏れた経緯を調査する。結果がでるまで隔離」
帝国宰相の言葉にゾイはゆっくりと頷いて、自分を促す近衛兵達に従って歩き出した。数歩歩いた所で、立ち止まり振り返る。
「ロガは元気にしてますか!」
”ロガ” と呼び捨ててはいけないと知りながらも、どうしてもロガと呼び捨てたかった。
帝国宰相はゾイの叫びに対して、無言であったが、一般の人々が見た事もないような微笑みを浮かべて頷く。
それが返事だとゾイは考えて、振り返らずに案内に従い歩き出す。
ゾイの姿が見えなくなり、男性の声も聞こえなくなった後、その場に残った帝国宰相に、エダ公爵は首に腕を回して軽くキスをする。
「嘘をつくときの笑顔は、相変わらず素敵だ。帝国宰相」
「奴隷に前線異状など教える必要は無い」
自分に回された腕を払いのけ、帝国宰相はその場を去っていった。
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