【後編】驢馬と林檎
 名は捨てた。
 名を捨てて驢馬となった。

《君を作り替えてあげたよ》

 私は背にマルティルディ王太子殿下を乗せて、瑠璃の館へと戻る。
 背後から聞こえてくるリュバリエリュシュスの歌う「想い出」を聞きながら。何時も彼女はこの歌を歌う。
 彼女を育てたランチェンドルティスを思いながら歌っているのだろうか。
 木の幹に括り付けられたレースのリボンの数々。
 ”ルサお兄さんに読んでもらったお話にね、お菓子を目印にしたら食べられちゃったのがあったから、これなら食べられないよね! 驢馬!”
 ルサ男爵。
 生きて死ぬしか無かった男爵は今、伴侶を得て、まだ見ぬが子を得て幸せのうちに過ごしている。
 あの時私が、この道を選ばなければ、私もルサ男爵のような人生を歩めたのであろうか?
「機会はあったかもね」
 背に乗る宇宙で最も美しい女性は冷たく言い放つ。
「ルサが今いる立場に、君がいたかもしれない。君が生きていたら確実にね。悔しいかい? 戻りたいかい? 驢馬」
 私の胴体に触れている美しい女性、マルティルディ王太子殿下。
《どれ程私が願おうと、貴方は戻しては下さらないでしょう》
「まあね」

 私は恐怖した。
 何に恐怖したのか。それは先細ってゆく、私の血。
 祖母にケシュマリスタ王女を持ちながら、私は立ち尽くす。ケシュマリスタ王家を継いだのは、私の祖母ではなく、マルティルディ王太子殿下の祖母。
 価値は薄れた。王にならない王族の血など、王になる血に連なっていない王族など、立場の弱いものだ。
 私は皇王族のなかでも特別に遇されることなく、ただ血を伝えて消えてゆく存在。
 それに恐怖した。
 私は恐怖して、マルティルディ王太子殿下に跪いた。

《考えている事が、触れている人に伝わってしまう、エターナ=ロターヌか。その能力、御す精神力はないのかい? 無いようだな、屑め》

 私はそして死ぬ。
 だがマルティルディ殿下は殺しては下さらなかった。私の死は ”存在の死” であり、私自身の死ではない。私は存在することを命じられた。
 死など選べぬその身に。
「脳の移植が上手くいったね。脳に核があるから、移植が上手くいったよ。良かったな、馬」
 私の脳は馬と入れ替えられた。
 いや、この馬には 《脳はなかった》 私の脳を入れるために、作られた馬。
 ただ一人、いや一匹で草原を歩き、草を食む。この日々が永遠に続くのは……苦痛だと思うも、馬の身では死ねず、気が狂うことは……
「”エターナ=ロターヌ” も ”ロターヌ=エターナ” も発狂しないように出来ている。知らなかったのか? 当然だろう? だって他人の精神を狂わせる異常な存在が、精神を壊すなんて、そんな慈悲あるとおもうのかい?」

 気が狂うことはなかった。

  唯一選べるだろう 《餓死》 だが私は餓死などしない。餓死しないように、マルティルディ殿下が全てを手配してくださったのだから。
 十二歳のマルティルディ殿下に跪き、九年が経過したある日、

 私は驢馬になった。驢馬に変えられた

「お前に使命を与えるよ」
 藍色の瞳の少女は馬に乗ることができないから、驢馬になれと。
 八年前も美しかった王太子殿下は、美しくなり続ける。どこまで美しくなるのか? 八年前はそれほど美しくなかったのか? 私には判断できない。

 地べたに座り、笑顔で私を見つめる愚かしい顔の子供。藍色の瞳を私は初めて観た。

「あてしの驢馬! あてしにも驢馬!」
 塩を取りに行く時、世話になったと言う。
「村にいた驢馬なのかなあ?」
 そんな筈はないだろうと……
 《私はその驢馬ではないよ》 と言い返してみた。恐れるだろうか? 思いながら。
「驢馬、あてしに話した?」
 子供は驚いた。
《そうだよ》
 子供は大喜びした。《ほぇほぇでぃ様がくれた驢馬は、あてしの村にいた驢馬と違うんだね! 貴族様の驢馬はお話できるんだね! すごい!》 何事も無く子供は受け入れた。

 愚かな子供だと思いながら、私は話しかける。愚かだが話していて苦痛ではないことに気付いたのは……早い段階だった。
「あてし、驢馬とお話してるの!」
「それは良かった」
「グラディウスならお話できると思った」
「たくさんお話すると良いわ」
 誰もが愚かな子供を愚かと思い、話が真実だと思ってはいない。
 私はそれに腹を立てた。そして愚かな子供に、真実だと思われていないということを教えたが、
「うん、解ってるよ」
 返ってきた答えは愚かではなかった。
 私は悔しくはないのかと尋ねた。子供は言った。
「あてし、話すの下手だから……驢馬は良いなあ」
 何が良いのかと尋ねた。

「思ったこと、触ってる相手に全部解って貰えるって、羨ましいなあ。あてしも全部伝えたいけど、あてしは話すの下手で伝わらない。良いなあ、驢馬は」

 私は足を止めた。いいや、足が止まった。
 私は全てを伝えたいと思ったことはあっただろうか? 私は全てを伝えたい相手がいただろうか? 私は全てを伝えようと努力したことはあっただろうか?
 知っている、私は知っている。私が最もよく知っている。私しか知らない。

 私は伝えることなどしなかった。

 私はこの子供、
「驢馬もグレスって呼んでね!」
 この子供・グレスよりも私は上手く話すことが出来た。事実、マルティルディ王太子殿下に殺してくれと頼み、存在を消してもらった。
 だが……
 私はこれほどまでに、
「エリュシ様! あてしはね! あてし! お話読むから聞いてね!」
「楽しみにしてたわ」
「練習してきたの! じゃあ読むね! めでたしめでたし! ……あれ? 終わっちゃった」
「グレス、それは最後よ。逆よ逆。上下の逆じゃなくて、そうそう」
「そっか! 教えてくれてありがと! もっかい読むから聞いてね!」
 これほどまでに、何かを人に伝えようとしたことがあっただろうか?

「無かったに決まってるだろう。君は屑で、いなくても誰も困らない存在だ。いや ”だった” にしておいてやろうか。今の君は、皇王族の頃の君より余程、求められている。あの子にね」


 藍色の瞳と褐色の肌の子供。
 サウダライトが、私と祖を同じくする男が愛おしみ、そして肉欲に沈む存在。
 大きな瞳が特徴なだけの、美しさとは縁遠い顔だが、その表情は多彩。知識は多彩な表情を作らず、美貌はそれを美しく見せるためにより一層狡猾となり、血筋はなにももたらさない。ならば何故私は血筋による美貌を持ち、知識を得たのか。
 その表情の前には、何の色にもならない。


 私は無意味な存在


 私はあの子供のように、グラディウス・オベラのように、誰かと話し会話することを望んだことはなかった。そして私自身が望まれたこともなかった。
 私が誰かと会話することを、心より望まなかったから、誰も私に心から話しかけてくることはなかったのだ。
《驢馬ー驢馬ー驢馬とお話するの好き! 驢馬賢いね! やっぱり賢いね! あてしは賢くないけど、お勉強するの好きなんだ!》

 あの時も、
「あてし馬鹿だから、何言われてるのかわかんない! うわああん! こんな綺麗な人が、一生懸命お話してくれたのに、あてし馬鹿でちっともわかんない! うわああああん! あてしの馬鹿ぁぁぁ!」
 鼻で触れて、
《泣いているだけでは駄目だよ。ほら、立ち上がって。出来る事を考えよう》
 涙を流しながら私を見て、そして頷く。
「そ、そうだね! あてし考えるよ!」
《誰かを呼びに戻ろう。大丈夫だ、私はここまでの道を覚えた。もう、忘れる事はない》
「解った!」
 私に跨り、首にしがみつき、
「待っててね! おねえさん!」
 叫ぶグレス。
 しがみついている腕から必死さが伝わる。
「驢馬、なんで……おねえさんは、あそこにいるの?」

 私は嘘を伝えた。そう嘘を。

《彼女は病気だよ。あの塔から出てはいけない病気。あの塔にいると悪化しないけど、死ぬまであそこにいるんだよ》
 首に落ちてきた熱の正体は涙。
 初対面の 《彼女》 と、私のついた嘘に、グレスは泣いた。
「可哀想だよ……寂しいよぉ……」


 私はマルティルディ王太子殿下にやり取りを伝えた。
「あの子らしい解釈だね」
 蔑んでいるような声だが、美しい顔は……私には解らなかった。


「僕は巡回に戻りますが、任務ですから僕は何の葛藤もなく男爵達を殺害する指揮を執りますよ。ですが一つだけ、はっきりとさせていただきたい事がある」
「何だ? ザイオンレヴィ」
「ルサ男爵の処遇です。彼を供物にするのか? しないのか? しない場合は、陛下が責任を持ってくださいね」
「あれは抜くよ。グレスの教育に必要だからな」
「お名前は?」
「イデールサウセラ・アグディスティス・エタナエル」

 その存在は聞いていた。
 あの公爵、ガルベージュスは私が[私]であることを知っているかのように、私に話しかけてきた。
「イデールマイスラと不仲になった原因だが。私にはどうする事もできないな」
 私はガルベージュスの馬の一頭だった。
 シュスター特有の容姿を兼ね備えている男は、私に乗り遠出しながら呟く。
「血が細ってしまうことも原因だ。両性具有の寿命は……」
 あの男は本当に良く語った。一人青空の下、草原で語った。
 私なら逃げたくなるような全てから、あの男は逃げようとはしなかった。

 そして私は驢馬になった。驢馬に変えられた

「マルティルディ王太子殿下。驢馬ですか」
 驢馬になった私をのぞき込むガルベージュス。
「そうだよ」
 不機嫌さを露わにして通り過ぎるように輿を持つ者達に命じるマルティルディ王太子殿下。
「良き驢馬だ。そう、私の愛馬であったリグライザル伯のように」
 あの男は気付いていた。
「気持ち悪い男だなあ。なんで馬に伯爵なんて付けるんだよ」
 私は伯爵ではない、侯爵であった。
 だが私にもしも子供が生まれたら、それは伯爵であり、その子はリグライザル伯爵の位を受け取ったであろう。
 私が人間であったならば、だが。
「何故でしょうね。ところで私の愛馬リグライザル伯を知りませんか?」
「知らないね。邪魔だ、ガルベージュス」

 ルサ男爵が下級貴族との間に子を成した。
 その子をグレスは喜んだ。それだけで、二人は子を産む権利を得られる。
「ザイオンレヴィ、ルサ男爵をどこまで引き上げるんだ?」
 独身を表明している子爵は、全てを ”上手く片付けることを” 命じられた公爵に声をかける。
「リグライザル伯爵がいいかなと思っている。父親に当たる人物は私の父、現陛下の従兄に当たる人物だ」
 私はダグリオライゼの従兄にあたる。
「八年前に亡くなられた方か。独身だったが……そうだな、ルサ男爵を二十一歳にすると、無理はなくなるな」
「二十一歳くらいが良いか。僕は二十三歳にしようとしたのだが」
「思い切って二十一歳にしてしまおう。それと、名前はどうする? エルセ・テル・ラーは使えないだろう」
「もちろんだ。それで第一名エルセだが、それをルサにしようと思うのだが」
「そりゃ良いな」

 彼は私の子になった。

「やっと館が見えてきたね。グレスをからかってから、仕事に戻るか」
 マルティルディ王太子殿下は私の背から軽やかに降り、洋服の裾を払いのけて歩き出した。
「マルティルディ殿下!」
 館からヴェールも被らずに駆けだしてきた彼女。
「どうしたんだい? ロメララーララーラ」
「グレスが妊娠して!」
「へえ、父親はもちろんダグリオライゼだろうね」


 そして全ては無になり、そして全てが始まる。


 名は捨てた。
 名を捨てて驢馬となった。
《どうしたんだい? グレス……それは寂しいねえ。そうだ、前に言っていたお兄さんにお礼を言いに行ってきたらどうだい? 荷物を持って。出口までは私が連れて行ってあげよう》

 私はここから出ることを選ばなかった。選ばずに私は驢馬となった。
 門は何時でも開かれていた。私は愚かだった。歩いてバゼーハイナンから遠ざかる


 ”藍凪の少女” 


 それは本当に愚か者なのだろうか?
 藍凪の少女は振り返り、私に手を振って叫ぶ。
「お土産買ってくるからねえ」
 そして少女は歩き出した。
 その背に向かって私はなくことしかできない。私は大宮殿に囚われた驢馬。私はなくことしかできない。
 私のかつての名は……

− あてしグラディウス・オベラ! グレスって呼んでね!

 嗚呼、もうなくことしかできない
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