ビルトニアの女 外伝2
塔の中 或いは 眠る魚 [12]
 それはある種自然の流れだったのか? 運命の指針の上の出来事だったのか?
 時計そのものを動かすようなドロテアが“時計屋”と結婚したのは、笑い種になるような出来事が発端だった。
 ヒルダが神学校を無事に卒業し、
「ビルトニアさん、姉さんと結婚するんですよね!」
 一切姉に問うことなく、実家に連絡して思いこみのままマシューナル王国のコルビロにドレスを持って訪れた。
 勘違いで猪突猛進してきた“不束ながらも、義理の妹になっちゃうヒルデガルドです”なる挨拶から始まる『自分の結婚なのに、自分も相手も知らない』状態に、エルストは最大限の努力をする。

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 プロポーズをする為にコルビロを走り回った。
 大変だったよ、ヒルダが『一週間後に結婚式です』とドレスを持って現れた時は。マリアもマリアで『良いじゃない、結婚する気はあるんでしょう?』と。
 でもそう言われた時でも実感が湧かなかった。自分がドロテアと結婚する事に関して……違うな、ドロテアが結婚する事に関してか。
 断られてもいいやと、花屋で大急ぎで包んでもらったゲンチアナの花束を持って街中を駆け巡った。ドロテアを“探した事”ってのはあの時だけだ。見つけて、ヒルダのことを伝えると、苦笑いしつつ
「で、どうする? 俺はオマエに任せるぜ、ビルトニア」
 およそ、受身とか他人の意見を参考にするとかそういう人間じゃないと思っていたドロテアが、そう聞いてきた。
「珍しいな、そんな喋り方するの」
 探して探してもう夕暮れ時になっていた、ドロテアは右手で左手の甲を叩いて、此処を見ろと言った。それがないのは知っていた、初対面であまりにも印象深かったそれ
「はまらないぜ」
「それを気にしているだけなら、時計でも贈らせてもらうよ」
 なんだろうな、俺は気付いていたんだけど気付かないつもりでいた。クラウスが俺に対する感情を封じ込めたのと同じように気付いていたんだと思う。小金を貰って手伝っていたドロテアの薬屋にあった、決して売らない薬の存在。

「俺と結婚しても子供は望めねえぜ」

堕胎薬は売りさばいていたけれど、妊娠薬は決して売らなかった。ただ、小瓶に入っているのを見ているだけで
気付いていたんだと思う。ドロテアに子供ができない事を
ただ、俺が思っているような単純な理由じゃなくてオーヴァートが絡んでいた事は気付かなかった
妊娠薬が手元にあるのも全く違う理由で、真実ってのは聞かないと解からないもんだな……と。


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 その夜ドロテアはベッドから起き上がり、裸のままソファーに腰をかけ足を組んで話しかけた。
「なあ、ジェダ」
「なんだ?」
「俺が結婚すると言ったら、お前は俺になんと言う?」
 ジェダはドロテアに近付き頬に触れる。
「なにも言わんな。祝福の言葉でも欲しいのか」
「いいや。全く欲しくはねえ」
 ドロテアもジェダの頬に触れる。
「新婚家庭に邪魔なら、どこかに沈めてくるといい。確実に処分するなら、皇帝のもとに廃棄だな」
「邪魔にはならねえよ。この家に住んで、一生二人きり、すぐに一人になるかも知れねえが」
 互いに口を小さく開き、唇を重ね合わせて舌を絡めて離れ、
「いつ結婚するんだ?」
 ジェダは笑いを浮かべて問い、
「明日」
 ドロテアは笑いを含んだ声で返した。
「そうか。……こんな不誠実な女にひっかかるとは、運の悪い男だ」
「俺もそう思う」

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 急場しのぎのようなプロポーズの花束を渡しながら俺は
「気にはしないよ」
 そう言った。その言葉に嘘はなく、夕日が最後の輝きを地平線に残して沈んでいくまで二人とも動く事はなかった。最後の光が消えた時、ドロテアは俺から視線を外して続けた

「言い直す。俺に子供ができるが生むことはない」

どのくらい使えばその“元”が“亡くなる”か

 邪術は体の力を能力に替える。持って生まれた力に左右される事はなくて、己の体の何かを犠牲にしてその力を得るんだそうだ。
 多いのでは爪や髪の毛、そういえばドロテアも髪と爪は短かった。でも、その程度じゃあドロテアは満足できなかった。


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 ドロテアはジェダと身体をつなげた後の表現し難い寒さを拭うために、温められたミルクが注がれているカップを両手で掴み湯気を吸い込む。
「最近ゴルドバラガナの贄にしていた男か?」
 ミルクを温めたのはジェダ。
 いつ頃からジェダがミルクを温めて差し出すようになったのか? ドロテア覚えてはいない。解ることは今夜が最後になることだけ。
「そうだ。生粋のフェールセン人だ」
 だがそれを覚えておくつもりはない。
 初めてジェダから渡されたミルクは熱すぎて、持つことすら出来なかった。特殊な《死体》で熱で火傷を負うことなく、料理を口にする必要もなかったためだ。
「お前は皇帝から離れられない女なのだな」
 ジェダは誰かになにかを作ってやったことは一度もなかった。
 かつての記憶が人々に傅かれる王であったこともあるが、料理を作る記憶など、ゴルドバラガナの実験には意味が無かった為に与えられなかったと判断したほうが”近い”
 初めてミルクを手渡したとき、ドロテアの指はあまりの熱さにカップ越しですら火傷した。その指先を己の冷たい掌で包んだ時、ジェダは己の記憶にある大切な妃たちが僅かながら霞がかかったことを感じた。
 ドロテアを抱く都度、記憶の中にある自分をここまで生かした妃たちが、朧げになってゆく。
 いつか消えてしまうことを解りながら、ジェダはその感覚と事実に恐怖を感じることはなかった。
「そうみたいだな。フェールセン人の男の名前はエルスト=ビルトニア。最後の廃帝と同名の青空を薄めたような色合いの瞳の持ち主だ」
 ジェダが渇望していた、小窓の向こうに「見えていた」と信じていた世界。
 それが偽りであったと知ったことを、ジェダは後悔していない。そしてどんな形であれ、いままで己を支えてくれた妃たちが自らの辛い記憶の中から消えてゆくのに、ジェダは誰にも、ドロテアには絶対に言えない喜びと安堵を覚えていた。
 妃たちの存在はジェダの中にしか存在しない。ジェダの中にあることにより永遠に苦しみ続ける。その苦しみから救う方法は唯一つ、ジェダの記憶から消えること。
「私が見ていた青空も、この世界の青空とは少し違う。もっと薄い。そうフェールセン人の瞳のように」
 ゴルドバラガナが与えた「永遠に忘れることのない記憶回路」
 ジェダは存在していなかった、自分の中にだけ存在する小窓の向こう側にあった、故国にかかる薄い青空を思い出して自分を作ったゴルドバラガナを嘲る。
 永遠に忘れることがない記憶回路は、彼の目の前に居る女の存在によって小さな綻びが生まれた。フェールセン皇統歴代においても群を抜く性能を持っていた八十五代皇帝が、造ることに失敗したこの世界に人間と、捨てておいた”ただの人間”に負けたのだ。
 他人には見えない、ジェダの中にしか存在しない皇帝ゴルドバラガナの完全なる敗北。
「お前の中で出来上がった青空が、あいつらの瞳に移植されたのかも知れねえな」
 ゴルドバラガナの末裔であるオーヴァートですら知ることのできない敗北。
「その男の瞳に見惚れるか?」
「全然」
「お前はそう言うと思った」

―― 意図せぬところで叶った復讐と、それを与えてくれた女の将来に、私が尽きるまで続く祝福を ――

「もう、お前と寝ることはないだろうな」
 ミルクを飲み終えてテーブルにカップを置いたドロテアは、羽織っていた毛布を脱ぎ捨て裸体を晒し挑発する。
「気が向いたらどうぞ」
「この娼婦が」
「俺は大陸でも誰も並べねえ娼婦を自負してるぜ。お前は一人で寝る必要あるだろう、ジェダ。寝るなら俺の家で眠れ」
「フェールセン人になんと言う?」
「お前が気にする必要はねえだろ、ジェダ。さよなら」
 煙草を持った指と微笑む淡い桜色をした唇。鳶色の瞳に、瑞々しい肢体。
「ドロテア」
「なんだ?」
「目の前で故郷が”本当に”滅ぼされるというのは、どんな気持ちだ」
「明日にでも教えてやるよ」
「それは楽しみだ」 

 ジェダはその夜、棺に水を満たして身を横たえた。全く狂う兆候なく動くことを止めたのはこの時が初めてであったが、死に似た眠りが訪れる。慈悲にも思えたその眠りに身を委ね、深く夢も見ないほどに深く眠りに落ちた。

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「詳しく教えてくれるか」
「仕方ねえな。ついでに教えてやるとな」
「なんだ?」
「この花束、メリッサの所で買っただろ」
受け取った花束を抱きこみながら、苦笑いを浮かべる。
「よく解かったな」
 包装紙やリボンで見分けたのか? それとも珍しい色の竜胆だからか? とか思ったんだが
「黄色いゲンチアナの花言葉は“あなたは不公平”もしくは“恩知らず”。俺に向けてが不公平ならオマエに向けては恩知らずだろうよ。好きだったんだろ彼女はオマエの事」
俺らしい間違いだと、今でも思うよ。
「買いなおしてくる!」
その俺の情けない声にかかる笑い声、コルビロに響くかのような声の後
「いらねえよ。滅多にねえモンだし、薬草として使えるからな。とっとと乾燥させるか」
サラリとかわされた。

 思い直さなくても色気もなにもないプロポーズだった。“らしい”といえばらしいけど。


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 ドロテアは結婚式当日、ウェディングドレスに着替え化粧を施され、式が始まるのを待つばかりになったとき、初めてエルストの両親と会い、涙ながらに両手を握られ『息子をよろしくお願いいたします』と頭を下げられた。
「大事な一人息子の結婚相手に、これ程嫌でも断れない相手はねえだろうなあ」
 エルストの両親を見送りながら呟くドロテアに、
「気にすることはないさ。俺、両親に二度と会わないだろうし。会う気もないし」
 花嫁に両親を会わせるために連れてきたエルストが、本気なのか気休めなのか解らない返事をする。
「お前が両親に会う会わないはどうでもいいが、俺は気にはしちゃあいねえよ」

 花嫁は本当に美しかった

 式後エルストは宿へと戻り、まとめておいた荷物を持って「お世話になりました」と主に挨拶をした。
「戻ってくるのは歓迎しないが、死ぬなよ」
 宿屋の主から激励の言葉をもらい、軽く頭を下げて宿を後にする。ふらりふらりと街中を歩いて、ドロテアの住んでいる家へと辿り着く。
「お邪魔します。そして荷物どこに置けばいいかな?」
 両手に持った荷物の置き場を訪ねるエルストに、
「そこら辺に置け。使えそうな部屋ならどの部屋を使ってもかまわねえ」
 ドロテアは気のない返事を返す。
 何度か訪れたことのある家だが、隅々まで見て回ったことはないので”どれどれ”と、これから住むことになる家を見て回る。
「ドロテア、あの部屋の水槽に入ってる赤い髪の人って誰?」
「ジェダ」
「ふーん。生きてるの? 死んでるの?」
「死んだまま生きている」
「そうなんだ」
 部屋を見て回ったエルストは、なにも置かれていない部屋を使わせて貰おうと、居間に置きっぱなしであった荷物を運ぶ。
「エルスト」
「なに? ドロテア」
「オーヴァートの野郎が旅行を手配したから、旅支度をしろ」
「行き先は?」
「センド・バシリア王国」
 ドロテアはエルストに“名前以外”教えることなく、エルストもそれ以上は聞くことはなかった。

―― 皇帝の造った箱に住み、腹に生まれぬ胎児を飼い、家に不死を飼う ――

 その家は異質であるが、そこに住む二人と水で満たされた棺に眠る死体にとって居心地が良かった。異質であるが故に居心地が良かったのかもしれない。

 ドロテアはその居心地の良さに微睡むと、決まって過去に揺り起こされる。
 一瞬にして首だけになった弟。魔物から逃れる過酷な旅の途中で流産してしまった母の作った血溜まり。叫び声よりも人が慌てる足音、人が物と同じような軋みをあげて崩れてゆく音。銀の砂舞う砂漠、十二の鐘、そして子守唄。
 頭を軽く振り微睡から自分を引き上げ、視線をジェダが眠る部屋の扉を凝視する。「目の前で故郷が”本当に”滅ぼされるというのは、どんな気持ちだ」「明日にでも教えてやるよ」「それは楽しみだ」
 そんな日々を繰り返して、ついにドロテアは旅に出た。

「じゃあな、ジェダ」

 ドロテアが見た崩壊は現実であり、ジェダの見た崩壊は現実ではない。一切の現実に関係することなく、脳内に作り上げられた存在しない現実、悪夢としか呼ぶことの出来ない偽造記憶を抹消する方法をドロテアは知らない。
 ジェダの悪夢を振り払うことは出来ないが、ドロテアは自分の過去を清算することができる。たとえそれが復讐の果てであろうとも、その手で終わりを掴むことができる。

「久しぶり。そして、ただいま。お前はまだ気が狂ったままみてえだな、ジェダ」

 帰宅しても変わらない、棺に入ったままの赤髪の男にそれだけ言ってドロテアは扉を閉じた。
 ジェダが狂わずに寝たことをドロテアは知らない。真実を知ったところで、ドロテアが何かすることもない。ジェダはそれを知っているからこそ黙って眠りに落ちた。
 ジェダはオーヴァートとは違い、ドロテアの夫の存在を一切認めたくは無かった。それが存在する間は、世界に戻らないと決めたのだ。
 結果としてドロテアと永遠に会うことが出来なくなるとしても。
 愛する女を激情により殺害し、共に死体として生きることだけは望まなかった。ジェダは何よりも生きているドロテアが愛おしかった。

―― 私はこんなにも嫉妬深い男だったのだな、ドロテア ――

 この世界はドロテアという存在を愛し続けるために「存在」することを選んだ

塔の中 或いは 眠る魚 【終】







 俺が生きている間に、目を覚ますことはないのかも知れねえな
 このまま俺が死んでオーヴァートが残ってこの箱を壊す時
 共に壊れるのも悪くはねえと、俺は思う
 オーヴァートがお前を壊さない可能性もあるが
 大陸にフェールセンが残り続ける限りお前は生きていくのか?
 大陸からフェールセンが消えたら、お前はどうする? ジェダ




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