ヒルダが国外研修を終えて帰国する当日。
「ヒルデガルド、それ持って帰るの?」
ヒルダは荷物をまとめた鞄の他に、焼き菓子が入ったバスケットを腕に下げていた。ヒルダの食べること好きはオロールも知っているので、尋ねたが不思議には感じなかった。
「違いますよ、オロール。姉さんの家に届けるのですよ。なんか、とっても怒っていたので」
だが答えは違った。
食に飽くなき探求心を持つヒルダの姉で、怒らせたら恐いと評判で、怒らせなくても恐いと噂されるドロテアに元に届けると。それも人々が死を覚悟する”怒り”を解きに向かうというのだから、
「怒ってたの?」
オロールは驚いた。
「はい、怒っていました」
「なんで?」
「さあ? 女心は良く解りません。私も女ですけれどね」
この時オロールは”ドロテア”という人は身内には優しいのだろうと解釈した。自らが直接接してもいなかったのに噂を真に受けて、相手を見ようとしなかった自分を恥じ、
「届けるのなら一緒に行くよ」
「良いんですか? オロール」
ヒルダに同行を申し出た。
ヒルダは滞在中、ドロテアの家に足を何度か運んだが、一人で向かったことはなかった。ドロテアか、食事にあぶれたエルストに同行してもらっていたので、家の場所が若干怪しくもあった。
だが瓜二つの顔のお陰で、尋ねた人誰もが行き先をしっかりと教えてくれた。ドロテアの家は立派で、他の家にとって目印になるが、ドロテアの家に行くための案内になるような家はない。それほど周囲に埋没することない家。
ヒルダが帰国する日、ドロテアは抜けられない用事があるので見送りはできないとあらかじめ告げていた。
その言葉通り店舗入り口には《閉店》の文字がかかっている。いないことは解っていたヒルダだが、念のためにと裏側に回りもう一つの入り口をノックする。
家主のドロテアは不在だが、
「ヒルデガルドか」
室内にいるジェダは扉の向こう側にいるヒルダを”透視”で見ていた。
片腕で抱くように持っているバスケットも透視し、中身を見て溜息らしきものを吐く。死体であるジェダは生命を維持するために呼吸をする必要はないのだが、他者と会話をするために呼吸があった。
死の息吹きは人が思うより、ずっと普通で、冷たさもなければ腐臭もない。
ヒルダは三度ほど姉よりも控え目なノックをしたあと、扉に耳をつけて人の気配がないことを確認し、あらかじめ書いてきたメモを僧衣のポケットから取りだし、バスケットの中に押し込んで布をかけ直し、
「待たせてしまいましたね! オロール」
少し離れたところから、ドロテアの家の全容を見ていたオロールの元へ駆け戻る。ヒルダはそのまま仲間たちと共に、厚い雨雲に覆われた空の下、ベルンチィア公国へと戻っていった。
―― 魔法の特訓してくれたお礼を兼ねて、私が法力治療で稼いだ……ではなく、寄付していただいたお金でプレゼントします。それじゃあ、また ――
ヒルダが置いたバスケットを無視しながら、ジェダは本を読み続けていた。それほど集中せず流すように読んでいるジェダの耳に、厚く空を覆い隠していた雨雲から落ちてくる雨音が届く。
フェールセンは晴れ渡ったまま雨が降る。雨が降る、雨が降る
**********
「ヒルダのヤツ、今頃どこを歩いてんだろうなあ」
所用でヒルダの見送りをしなかったドロテアは、その仕事を終えて縁に白のレースが縫い付けられている、オレンジ色の色鮮やかな傘をさして帰宅の途についていた。
濡れている石畳と重苦しいまでの水を含んだ空気、そして傘に叩きつけられる雨。時刻は雨雲さえなければ夕焼けが美しい時間帯であったが、薄くなることない雨雲が夜の暗さではない灰色の時間帯を作り出す。
灰色を深める世界のもと、雨水が跳ね返ることを気にせずにドロテアは大股で道を通り過ぎ、家へと戻った。
乾燥させた薬草を扱っているので、湿気をできるだけ排除するために、店舗ではなく裏に回る。玄関に入り傘を閉じ、
「帰ったぜ」
“ただいま”と空に声をかけた。
返事を期待しての言葉ではない。暗いままの室内と動く気配のない空気に、ジェダはどこかに出かけているのだろうと、入り口に用意しているランプを探す。
大きな家で一人暮らしの場合、玄関口には必ず用意されているランプ。暗くても解るように、手探りですぐに見つけられる場所に置いて置く物なのだが、最近は一人暮らしではなく、暗くなれば「人間は見えないだろう」と、住み着いたジェダが明かりを用意してくれていたので距離感を間違いドロテアはランプを落としてしまった。
「ちっ!」
音を立てて床に落ち、硝子部分が割れる音。傘を蹴り倒れる音に舌打ちをして、捜して壊すくらいなら、最初から室内に入っていればよかったと、腹立たしさを歩みに込めて、乱暴な足音を立てて居間へとむかう。
その途中、ドロテアは奇妙な物を踏んだ。
水っぽさと骨の感触はないので、昆虫や小動物でもない。柔らかいがしっかりと中身が詰まった物体。
「何だ?」
踏みつけた物体を掴もうと屈むと、オレンジと焼けた小麦の香りが届いた。
―― もー姉さん。オレンジマフィンがそんなに食べたかったんですか? 大人げないなあ、今度買って持って行きますよ ――
叩きつける雨と、暗い箱。世界を滅ぼすのは悪意ではない。
焼けた小麦粉の香り。それを嫌う男がいるはずの家の中にあるのか?
「ジェダ! いるんだろ!」
ドロテアは雨音を消すような足音を上げながら部屋にぶつかるように歩き、明かりを灯すことなく声を上げて部屋の扉を次々と開く。
壁にぶつかる扉の音と、ドロテアの怒鳴り声。
「居るなら部屋に明かりを灯せ!」
―― 当たり前のことだが、無事卒業おめでとう。それとオレンジマフィン、ありがとさんよヒルダ ――
世界は焼き菓子が詰まったバスケットが持ち込んだ、善意により消えていった。
「……」
覚えのない軽い音を蹴飛ばしたなと思った後に、ドロテアは何かにぶつかり、その衝撃で倒れそうになった所を腰に手が回り支えられる。
「ジェダか?」
自分を支えている腕に触れながら、もう片方の手で顔をある場所を探った。
指先は冷たい皮膚に触れた。冷たいながら弾力のある唇、その切れ間から暖かい吐息を感じる事はない。
「ずいぶんと焦っているな」
ドロテアの指が口にたどり着いた時に語りはじめた。
「……ああ、焦ってたようだな」
口元へと伸ばした腕の手首を握りしめて、ジェダは尋ねる。
「私は最初から死んでいたのか?」
―― ジェダの記憶がよみがえる切欠は解らない……おや? ドロテアその顔だと見当が付いているようだが……聞かないでおくよ ――
世界に無数にある菓子。その一つが一つの世界を滅ぼすなど、誰が思うだろうか?
ドロテアは自分が全てを知っていたことを『知られた』ことに気付き、体の力を抜いて暗闇に沈むジェダに答える。
「さあな……お前はフェールセンが何を言っても信用しないんだろ?」
「私は生きていたことは無かったのだな」
否定したらどうなるのか? そう考えたドロテアだが、ジェダ相手にもう嘘をつき続ける気力が残っておらず、勝手に判断しろとばかりに言葉を濁す。
「知らねえよ。お前の過去なんて」
「私は生きていたことは無かったのだな」
同じ質問を二度され、知るまで永遠に聞き続けてくるのだろうと、
「オーヴァートはそう言った。俺にはそれが真実なのかどうかを確かめることは出来ない」
ドロテアはなにも見えぬ暗闇の中で目を閉じた。目蓋の裏側の暗さは、壊れた世界を閉じ込めた箱庭よりは明るかった。
「私が怖くはないのか?」
―― なぜ、私達は死ぬのですか? ――
何処から来たのかも解らぬ《完全なる迷い子たち》は、死してもこの世界に溶け込むことはない。だから自分達で消し去るしかない。
―― それは私達を作った際に、死を半分混ぜて作ったから ―
”自分たち”がこの世界で死に地に溶けてゆくことが出来るのは、この世界が《半分だけ》存在しているから。
「怖がるような女だと思ったか? 溶けたオーヴァートに抱かれるのも悪くはないと言いきれる女だぜ」
ジェダはその掴んでいる腕を、自分の首にまわさせドロテアを抱いた。
深夜に寒さに身を震わせて目を覚ましたドロテアは、仄暗い室内灯を眺め自分が床の上で寝ていたことに気付いた。
室内灯が乗っているテーブルに体重をかけて立ち上がる。
部屋の隅に転がっているオレンジマフィンの入っていバスケットをみつけ、裸のまま近寄り籠を抱えて中に残っていたオレンジマフィンを口に運ぶ。
一口だけ飲み込み、テーブルに置いて室内灯を持ち部屋を出る。
小降りにはなったが雨はまだ降り続いていた。雨音を聞きながら口の端から溢れるほど酒を飲み、飲み飽きた瓶を床に捨てて再びジェダの元へと戻る。
**********
翌日も、その翌日もコルビロには雨が降り続いた
ドロテアはなじった
そんな物、軒下に置きっぱなしにしておけば良かっただろう? 俺が回避していたのに、お前が持ち込んでどうするんだよ
ジェダもなじった
雨に濡れぬように取り込んでやったのに、礼の一つもないのか
脂染みのついたメモ用紙を見つけた日、コルビロは久しぶりに快晴となった
**********
捩れたシーツの上で煙草をくわえて、隣で眠っているように目を閉じているジェダの横顔を見る。
死体と寝るのは宗教的に禁忌、法律的に違反。
視覚的にも嗅覚的にも普通の人間であれば躊躇する、だが死体とは、生きていた時間が存在してこそ死体。
《造られた時から死んでいた》存在。
それには“死”という言葉をつけることが出来ない存在。
まさしく“不死”
だが不死と言いきって良いのだろうか? とドロテアは悩んだ。
行為に意味はなく、思考にも意味はない。不死に焦がれることなく、不死を欲したこともないドロテアにとって、考えたこともなかったもの。
―― これが“この世界の不死”か
「ベッドの上で煙草はやめろ」
「いいじゃねえか。もしも火事になったとしても、お前が焼け死ぬわけじゃねえし。死ぬのは俺だけだ」
かつて死体のようだと思ったオーヴァートに抱かれることに慣れ、いま不死であるジェダに抱かれることにも慣れていった。
死体のような男はこの世界の迷い子で、不死の男はこの世界に存在する者。死体のような男も、不死の男もこの世界で唯一人きり。
誰にも解らぬ孤独を抱えて存在し続ける二人に、ドロテアは背を向けることはしなかった。
“俺と寝るか? ビルトニア”
ドロテアは誘い腹に胎児を組み込み、それを殺して力を使う。
「そのゴルドバラガナの贄は」
「エルスト=ビルトニアという男のモノだ」
不死の男と死を飼う女の関係は、肉体関係というには滑稽で、性欲とも遠い情交を続けた。同時にドロテアは「力を得るために必要な相手」とも寝る。
「私はお前のような女は好きではない」
ジェダは言いながら、不快さを感じている自分に気付く。エルスト=ビルトニア存在により、ジェダはあることに気付いた。ドロテアがオーヴァート=フェールセンの愛人であったことも腹立たしく思っていたが、その理由がオーヴァートではなくジェダ本人にあることに。
ドロテアは煙草の端をかみながら天井を向き少しだけ笑い、いつものように言い返す。
「お前に好かれるつもりはねえよ」
ジェダは己の記憶の中に複数の存在が居ることを知り、それを黙って受け入れた。
ジェダが記憶を取り戻したことで、ドロテアにも少しだけ変わったことがあった。それはパンも焼き菓子も自宅で食べることが出来るようになり、オーヴァートの屋敷で食事をする回数が減ったこと。
「ドロテア、この頃ご飯食べに来ないわね?」
オーヴァートの屋敷から帰る時に見送りに来たマリアが声をかける。
「ああ。厄介なのがなくなったからな」
言われたドロテアは“あ、うん”といった感じに答える。
家にいる死体が全てを思い出し、不死となったので、小麦粉料理が食えるから……と語る気にはなれなかった。語ればマリアが信じてくれるだろう、だが信じてくれるからこそ語れなかった。まとめた黒髪と白いエプロンが似合うマリアに、ドロテアは曖昧な笑い顔を向ける。
「そう。厄介事が片付いて良かったわね」
マリアの笑顔に“また明日”と挨拶し、屋敷を立ち去る。人通りのない通りで足を止め振り返る。そこにある大きな屋敷の窓を一つ一つ見つめる。そこには誰も見えない事を知りながら窓の向こう側に誰かが捕らえられているかのような気がして。
―― ドロテア
多種多様な感情を振り払い、ドロテアは屋敷から帰る途中、以前ミゼーヌが働いていたパン屋へ立ち寄り、干し葡萄酵母のレーズンと胡桃のパンと、イチジクのジャムパン、そして鶏肉のささ身をほぐし、オリーブオイルと塩で味付けしたものをレモンスライスと共に挟んだバゲットを買う。
「切り分けるかい?」
「そのままでいい」
“一人暮らし”として知られているドロテアに、店主は四人分になるバゲットサンドを切り売りしなくていいのか? 尋ねたが、ドロテアはそのまま買っていく。
「あの」
「何だ?」
声をかけてきたパンやの主に振り返る。
「ミゼーヌは元気ですかい?」
彼の作った料理もパンも、ジェダはぼろぼろにしてドロテアは捨てる。
「あの養父に苦労はしてるけど元気にゃあ元気だ。今度顔でも見せておけって言っておいてやるよ。じゃあな」
紙袋を片手にこの世界の存在でありながら、この世界に存在する何も口にすることの出来ない男が住む自分の家。帰り道で《贄の元》であるエルスト=ビルトニア
「あっ」
「おう、ビルトニア。これ一個やるよ、ほら。じゃあな」
「ありがとう」
一人のフェールゼン人にレーズンと胡桃のパンを投げつけて帰途につく。
ドロテアは食べることのないジェダの前にパンを切り分けて並べる。
ジェダはフォークでほぐしたり、スプーンでかき混ぜたりはするが口に運ぶことはない。偶に顔を近づけて香りを楽しむことはあった。特に記憶を取り戻す切欠であったオレンジマフィンは気に入っている。
傍目から見たら料理を無駄にしているだけの行為だが、ドロテアもジェダも一切の罪悪感はない。
死を知らぬジェダが感じた死。
―― 私が狂っている間に死ねばいい
その望みを言えない程に、ジェダはドロテアの死を恐れた。名を残す皇帝ですら思い浮かばなかった、フェールセンを滅亡に導く女を……
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