レクトリトアードの手にあるグラスは底に僅かに酒が残ったまま、もちろん酔ったわけではないが、レクトリトアードは音もなくソファーに崩れて眠りに落ちていった。
セツは手を伸ばしグラスを手から取り上げ、テーブルに置いてベッドから掛ける物を持ってきて被せようとする。
”この体” 睡眠時に掛けるものなど必要無いことをセツは良く知っているが、掛けて悪い事が起こる訳でもないので青く透き通っているかのような薄手のシーツを掛けてやった。
掛ける際に見下ろした形になったレクトリトアード。
長い白銀髪に、男性のわり細い顎。首もにも無骨な太さはなく、自分の腕と比べてみると細く、とても人を凌駕する腕力を持つとは思えない。
「全く似ていないな」
主語はなく、そして卑怯だと思いながらセツは敢えて声に出した。
セツは眠っているレクトリトアードの中に自分自身を見つけ出したくなかった。本名かもどうかも解らないが、自分の前に「ユメロデ」という名で現れた女の「子」であって、自分と似たところなど観たくもない。それがセツの正直な気持ちでもある。
卑怯であり醜悪であり無責任であろうが構わないと、酒瓶と肴が並んだテーブルの向こう側で瞼を閉じた男に、自分はなく覚えていない女を求める。
「記憶の片隅にもない女の面影を求めてどうする」
自分の脳裏に白っぽい女が甦りつつあることに驚き、己の記憶をも無視するために、さきほど脇に投げ捨てた明日行われるファルケスの枢機卿就任式に関する書類を手に取り再度目を通す。
だが何度読んでも頭に入らず、気付くと書類を眺めているだけで読んですらいない。
酒精に嫌われている身であことを知っているために酒のせいにもできないセツは、酒瓶と空になった皿が積まれスペースが出来たテーブルに書類の束を投げ捨てる。
一枚一枚が硬く厚みのある紙の束は投げ捨てられた際に、その存在を誇示するかのように大きな音を立てた。
その音にレクトリトアードが目を覚ますだろうかと様子を窺ったセツは、
「そっちに持っていくから、待って、ドロテ……」
表情の少ない男の夢がもたらす苦悶の表情。レクトリトアードの夢を垣間見て、額を手で押さえる。
「夢の時くらい、もう少し……無理か」
不用意に立てた音に目を覚まさず、この状態が変わらないことに少し気分を良くした。
気分がよくなったので、書類の綴り紐に使われている布がかつての賄賂で、女と共に献上されたことは思い出さなかった。
その代わりに思い出したのはドロテアの言葉。
―― 手前が真実を告げる気がないなら、直接レイに会った後に ”エルストに会いに行け” と言え。真実を告げたいのなら俺に会いに行くように告げろ。もちろん、手前が告げても良い。そのくらいはしてやろう
「今夜は何も考えられそうにはない」
目の際を指で撫でてから、エド法国の象徴が彫刻された銀のタンブラー挿し入っているグラスに酒を注ぎ入れて口元へと運ぶ。
**********
ファルケスは聞き慣れた「死んだ方がまし。殺して下さい」なる懇願を血と共に舌へと上に乗せ、丹念に味わいながら見下ろしていた。
闇夜に現れた灯りに誘われるように、大人の掌よりも大きい、様々な模様の羽を持つ蛾が次々と集まりいつのまにか大群と化す。
数匹の吸血蛾が、ファルケスの持つ人を削ぎ血糊が付いている剣を飾るように足を降ろして翅を止める。
吸血蛾でもあるので馬に結界を張り、自らに結界を張り ”残り” は吸血蛾にくれてやることにした。
「騒いで悪かったな。詫びだ、受け取れ」
ファルケスが言うよりも前に吸血蛾は、夜盗達の傷口から流れ出す血に吸い寄せられて、その傷口に口付ける。
吸血蛾には毒もあり、血を吸われる時に激痛が走る。
「魔法で殺されなかった理由、解ったか? それと、できるだけ顔に傷を付けなかったのは、この有様をしっかりとみせてやるためだ。ありがたいだろう?」
顔の近辺に流血させると、毒性のある鱗粉を大量に吸い込みすぐに意識を失ってしまうので、絶叫は楽しめない。
「さあ、喚け。ルクレイシア、周囲に結界を張れ。さあ、宴会の準備だ」
大地に突き刺された剣に、吸血蛾が何匹も集まる。流れ出す血よりも濃い血の匂いを放っている剣の周りから吸血蛾が離れることはなかった。
**********
法王庁街に朝の賛美歌が響き渡る。人々に聞かせる為の、声変わりしていない少年達などの歌ではなく、信仰の一つとして歌われるそれは、擦れている声もあれば、低すぎる声もあり、音程を外している物もある。
「……」
美しさを競うものではない聞き慣れない歌声に、レクトリトアードは目を覚まし、歌声が流れ込んでくる方を見る。
聞き慣れない歌は遠くから聞こえ、美しく王宮などでも歌われている声の様な物は近い場所から届いていることを聞き分けた。
まだ目を閉じているセツに気付かれないように、気配を消して窓の近くへと近付き耳を澄ます。
五層からなる街は層ごとに、そして宗派事に、男性と女性の区別もある。それら全く性質も歌詞も違う賛美歌の洪水に”目を見張る”
吸い込まれそうな青空と神を讃える歌。その神こそ……
「煩いだろう」
声を掛けられて驚き、少しばかり飛び退いて振り返る。
「セツ最高枢機卿閣下」
「驚かせ過ぎたようだな。それと、セツでいいと昨夜も言ったであろうが」
「は、はい」
驚いた ”失礼” に対する恥ずかしさに顔を赤らめ、驚きさめやらぬ鼓動に早く落ち着けと話しかける。
セツは窓を開きバルコニーへと出て手すりに肘をつき、
「普通の人間には最外層の賛美歌など聞こえないのだが、幸か不幸か聞き取れてしまう」
風が前髪を撫でるのをそのままに、青空の下に広がる ”近い将来” 自らの支配下になる街を眺めた。
斜め後ろからその表情を見たレクトリトアードは、鐘の音を聞きながら言葉を失う。 ”元々の顔” は自分と同じだとアードやクレストラントから聞かされているが、精悍で自信に満ちた男の表情は、全く同じ物には見えない。
レクトリトアードがセツを見ていると、太陽が大地から昇ってくる。
眩しい光がセツの顔の影を寄り濃くし、レクトリトアードはそこに自信以外の物が見えた様が気がした。
―― 神の代理人、子孫としてこれを受け止めてみると、鬱陶しいことこの上ない。歌い鐘を鳴らし、聖典を読むなんて行為を捧げて、なんの意味がある
純粋な賛美は青空と鋭い痛みを感じる朝日、打ち鳴らされる鐘の音と共に、確かに ”神” の元へと届いている。
”純粋な賛美” それを彼等の神が望んでいないことを歌う者達は誰も知らず。
「朝食にするか」
振り返り前髪をかき上げて微笑んだ目尻に現れる、微かな笑い皺。
「はい」
笑う事の少なかった人生を物語る。
冷酷で残酷だと誰もがそのように評価する男は、一時の勇者であることよりも、永遠の神の代理人である道を選んだ。
自らが ”そのもの” であっても、代理人として即位するのだと、賛美歌と鐘の音を聞き、自らは目を通すことがないに等しい聖典を朗読する声を聞きながら決意した。
一時の勇者を終えたら、永遠で ”唯一” の代理人となることを
酸味のきいた野菜スープ。旬の野菜の煮込み。サルマーレ。
「あとはハムとチーズが六種類に、パンが十種類。ヨーグルトにコンポートだ。客人の前では、聖職者らしい質素な食事を取っておこうかとおもってな」
「はあ……これで、質素……ですか」
レクトリトアードの想像する質素は ”野草” や ”木の新芽” や ”精肉店の裏にある新鮮な骨” などである。
幼少期から流離った男の質素は、質素とは言わない。
「ああ、でも新鮮な骨は質素ではないか。豪華だったのかも」
「新鮮な骨とはなんだ?」
「はあ。マシューナル王国に辿り着い直ぐのことです。闘技場に行く前に、腹が減りまして。盗賊から奪った金は登録料なので手を付けてはいけないと思い、周囲を見回したところ精肉がぶら下がっている店舗が目に入ったので ”ただで食べられるものありませんか?” と尋ねたのです」
薄汚れた子供だったレクトリトアードに、店主は牛の大腿骨を二本投げて寄越した。店主はそれをどこか ”料理” を扱っている店へ持って行って、おこぼれに預かれと言おうとしたのだが、レクトリトアードはかみ砕いて食べた。
「ごちそうさまでした、そう言った時の彼の顔は……驚いていましたね」
闘技場で初戦を圧倒的な力で制し、次の試合にエントリーすると、闘技場併設の仮宿で一部屋を与えられる。
だがそこには料理を出すようなサービスはなく、酒などの持ち込みも禁止されていた。血の気の多い参加者が宿で暴れないようにするための措置。
当然食事は外食になるのだが、小さな村育ちで、山中でうろうろしていたレクトリトアードは外食という文化を知らなかった。
「お金を持って ”骨下さい” と言っては囓り ”肉下さい” と言ってはそのまま食べていました」
外食を知ったのは、その店主がずっと生肉と骨を囓っているレクトリトアードに話しかけ、生い立ちを聞き、料理屋で食事できることを知らないことに気付いて、店に連れて行ってやるまで続く。
無口なレクトリトアードの生い立ちが広く知られているのは、店主が料理屋で喋ったことが始まりだ。
話を聞きながらパンをくわえたまま硬直したセツは ”なんかコレに似たものを見た事がある” と、敢えて正答から遠離ろうとした。
”似たもの” それは、アレクサンドロス四世。
「如何? しましたか?」
強大な力を持ちながら ”ふわふわ” とした雰囲気。
「気にするな」
”アレクスもこの男もフェールセンに繋がる……あの系統はこうなのか? 俺は違うだろう? 違う……ヤロスラフも……”
自分ももしかしたら ”ふわふわ” している所があるのだろうか? そう考えて、セツは空恐ろしくなった。
**********
ドロテアとエルストが並んで朝日に照らされ、輝いている純白の街を歩いている。
「鐘がやっと鳴り終わったな。朝から煩せぇなあ」
まだ入り口が開く前なのだが、どこかから帰ってきたと思わせる雰囲気を誰にも感じさせる。事実ドロテアとエルストは朝帰りだった。
「お勤めだから仕方ないよ。俺も二日酔いの日に鐘を鳴らす当番だった時は、苦しかったもんだ」
「当番って当日に言われるもんじゃねえだろ? 決まってんだから、その前日は二日酔いになるほど飲まないとかは考えねぇのか?」
二日酔いになるまで酒を飲むような相手に、これほど無意味な問いかけもないのだが、これ以外の問いかけようもない。
「これがさあ、前日仕事終わった帰り道になると、きれいさっぱり忘れてるんだよなあ。それで、忘れてることに気付いている、当時の隣に住んでいる上司が、怖い顔で迎えに来るの ”時計屋の息子が時間にルーズなのはおかしい” とか言ってね。お陰で罰金も始末書も数回で済んだけどさ」
「そいつは良かったな。上司ってのは毎日毎日明日のこと考えて、大変なもんだな」
「それはそうと、昨晩のあの子、驚いてたね」
娼館で帰り支度をしていたエルストのことろに、突如ドロテアが現れた。いきなり部屋に現れたドロテアに女は悲鳴を上げて部屋を飛び出し少々騒ぎになったものの、金と法王の名前を出してその場を去った。
騒ぎが落ち着いたかどうかは、二人とも知らないが、エルストとしてはもう二度と足を運ぶことはない相手なので気にもならない。
「普通は驚くだろうな」
悪いことをしていること解りながらドロテアは全く悪びれない。
「……見慣れないな」
「なにがだ? エルスト」
「肩に学者と薬学者を表すのが付いてないのが」
ドロテアは出かけた時と同じ、何時も通りの黒が目立つ服を着ている。
ズボンは足にぴったりとしていながら、伸びが良く蹴りやす素材。足がどこから ”出てくる” のか解り辛いようにする為の膝丈までの上着。
袖はこれも握り拳なのか? 武器を持っているのか簡単に判断できないような幅広で少し長目。
この格好にいつもはショールを丈の短いマントのように巻いて、身分証で留めていたのだが今はそれがない。
「家にいるときは、付けてなかっただろう」
「そうだけどさ」
ドロテアは全ての肩書きをおいてきた。肩書きはいつも《皇帝》により与えられ、そして自ら《皇帝》へと返す。
「もう返すものはねえ。あとは……」
Copyright © Iori Rikudou All rights reserved.