ビルトニアの女
レクトリトアード【7】
―― 今まで力のない俺に従ってくれていてありがとう。今日からは力のある俺に従え。わかったな? ――

「なんだ?」
 セツはフォークを皿の上に放り出し窓へと駆け寄った。
「この力は」
 法王庁にまっすぐ近付いてくるドロテアとエルストの気配。だがドロテアの内側に昨日まで存在していなかった強大な力を感じ、無意味と知りつつも窓まで近寄り外を見た。
「いかがなさいました?」
 驚いているセツとは正反対の、落ち着いていると観るべきか、暢気と言うべきかまだ食事をしながらセツに声を掛けてきたレクトリトアード。
 彼に振り返り 《ドロテアの異変》 について尋ねる。
「あの女の力に驚かないのか?」
 気付かないはずはないだろう? そんな意味が込めて尋ねたセツだが、レクトリトアードにしてみると、さして気にする事ではなかった。
「ドロテアの力の……なんと言うのかは解りませんが、今までより大きな特殊な力を持ったことに関してですが、以前も同じようなことがあったので」
 ドロテアはレクトリトアードと別れてから ”シャフィニィの力” を手に入れた。
「シャフィニイの召喚か」
「あまり他人は気付いていませんでしたが」
 レクトリトアードの体その物を構成している 《神》 の力をドロテアは操っていた。それは見えなくとも、隠していたとしてもレクトリトアードには解る。
 正体ではなく、存在が。
「それは召喚能力であって、本人の持つ力とは根本的に違うが……驚くには値しないということか」
 召喚は召喚だが、人間が易々と召喚してよいものではない。
「力では驚きません、力その物でしたら私自身持っていますので。驚いたのは力を完全に使いこなすことのできる精神力」
 近付いてきたドロテアが法王庁に腕を掲げ、開いた掌に法王庁を乗せるようにして、口を動かす。

―― 決まったか?

「言い忘れていた」
―― 手前が真実を告げる気がないなら、
「なんでしょう?」
―― 直接レイに会った後に ”エルストに会いに行け” と言え。
「話があると言っていた」
―― 真実を告げたいのなら俺に会いに行くように告げろ。
「誰が?」
―― もちろん、手前が告げても良い
「……」
「?」
「エルストだ」

―― そのくらいはしてやろう ――

 食事の後、外付けの花で飾られた廊下を「エルスト」の元へ向かうレクトリトアードを見送り、セツはアレクサンドロス四世の部屋へと向かった。
「式典の用意は完了したか」
「はい」
 法王の私室前を守る衛士に声をかけて、一人部屋へと入る。
「セツ」
「面倒な着替えを終えるぞ」
 これから法王は 《一人では着用が出来ない》 と言われている儀式用の法衣を、自分一人で身に纏う。
 能力さえあればどれ程重くても、何枚も無理矢理重ねるような着方であろうとも、一人で着用が可能。
 この能力のお陰で法王は性別不明を保ち続け、本人の意志として最後まで性別不明のままで押し通す道を選んだ。
「仕事に関しては一通りの事は片付けた。面倒を処分して戻って来るまでは、なんとかなるだろう。全ての国に魔帝の襲来が通達されているから、表だった敵対行動はどの国も取らないだろう」
「ありがとう」
 法衣が意志を持って宙を舞い、袖に腕を通し、裾が折り目一つなく伸ばされる。
「これが俺の仕事だ……アレクス」
「なに?」
「皇帝から聞いた。だが直接お前の口から聞きたい。お前は何者だ?」
 宙に浮いていたミルトが揺れて床に転がりおちた。
「……」
 人生のほぼ全てを共に過ごした相手。
 忠誠を捧げたとは言わないし、従ったともセツは言うつもりはない。此処にアレクサンドロスがいて、そして自分がいた。

「俺はギュレネイスの北にある小さな村で生まれ育った。本名はレクトリトアード。勇者という意味の名を持つ、アレクサンドロス=エドの子孫で、名の通り ”勇者” としての使命を負っている四十歳になる男だ。お前は?」
 ”四十にもなって勇者などと名乗りたくはないが” 不機嫌そうにしか見えない表情だが、それはセツなりの苦笑でもあった。

 親愛の情でもなく、家族のような相手でもない。
 自分が引き留められた感情の根底にあるのが 《生まれつき植え付けられていた主従》 であったかも知れないが、今となってはそれも違う気がする。

 言うなれば 《二人はここに存在した》 それだけなのだ。

 共に苦難を乗り越え、信頼を深め合ったなどではなく、二人はこの場に存在し、最後の時まで確実に共に在る。なんと言い表して良いのか? 二人とも解らないが、最後を迎える前に自分自身を明かにするべきだろうと。
「私は廃帝エルスト。ネーセルト・バンダ王国の王族であり、オーヴァート=フェールセン殿の従兄弟であり皇統に属している。三十七……そろそろ三十八歳かな? 母の名はランブレーヌ、彼女もまた廃帝だった。どうして今まで言えなかったのだろう」
 自分達が誰であったのか? 今まで話した膨大な会話と比べれば、飲み込まれてすぐに消えてしまうような短い言葉。
「さあな」
「言えて良かった、私もセツも」
 セツは転がっているミルトを拾い上げ、法王の頭上にかかげる。法王は支えている手に触れて自ら頭に乗せた。
 零れてくる笑いと共に、言わなくてはならないことが、両者共ゆっくりとせり上がってくる。
「セツは気付いているだろうけれど、私の人生は残り僅かで」
「五年だそうだ」
「五年……」
「オーヴァート=フェールセンが言っていた。俺や他の者達に言うのではなく、ドロテアに対して真剣に語っていたから、事実とみて間違いなかろう」
「そうか、五年かあ……後五年、よろしくね」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
 長い法衣の袖に隠れた手を差し出し、二人は握手をした。
 そして仕上げの体のほぼ全てを覆うヴェールをセツが持ち法王と向かい合う。
「アレクス、お前には関係のないことだが、聞いて欲しいことがある」
「なに?」
「レクトリトアード、あの火の勇者だが……あれは俺の実子だ」
「そうなんだ」
 もう少し驚けとセツは思ったが、法王の性格ではこの反応が辺り前だろうなと思い直す。何年一緒にいてもセツには慣れない反応だった。
「だが本人に真実を教えるつもりはない」
「解った」

 そしてセツは法王にヴェールを被せる。

「長かったな」
 楽しい人生ではなかったが、
「そうだね。でも短かったようにも感じるよ」
 悪い人生でもなかった。
「それは俺も同じだ」
 終わることが解った時になって、やっと気付くのだ。何に気付いたのかは解らないが、確かに気付いた。安らぎや友愛などではない存在に。

**********


「話とは何だ? エルスト」
「少し人気のないところで話そうか、レイ」
「そうだな。今日はなにかの式典か?」
「ファルケス様の枢機卿就任式だよ」
「話とは?」
「それね “アラ・エピランダ・ヒストクレウス・アッパールダルア・エセルハーネ・ロミア・レムネス・ライララナラ” の意味が解ったから教えようと思って」
「そうか」

**********


 掲げられる青と金の旗と、黒と金の旗。
 花環で飾り立てられた外壁と陽が辺り、目をくらませる全ての白い建物。ドロテアは少し離れた場所から、これから枢機卿就任式が行われる法王庁を、ポケットに両手を入れたままの状態で眺めていた。
 盛大に執り行われるファルケスの枢機卿就任式。
 ファルケスはオーヴァートは説得できなかったものの、ヤロスラフには ”選帝侯として” 列席してもらえるようにした。
 宗派は違うものの一国の国王であるミロは、同宗派の法王が並ぶ席でもあるので、王として他国の重鎮の式典に臨むことにした。バダッシュも同じ理由で並ぶ。
 セツは来賓としてクラウスを招き、未来の学長候補のミゼーヌも招待された。後二人「場違いです」という表情を隠さないビシュアとグレイも。
 セツはグレイの絵を高く買っているので、場所を取ってグレイに描かせてやることにした。式典を次々と記録してゆくのだから、助手が必要だろうということでビシュアが抜擢された。
 ビシュアは「止めろ! あの御仁で、エルストって御仁でいいだろうが!」叫んだが、セツとしては、エルストには重要なことを誤魔化して貰わなくてはならないので無視した。
 ファルケスとしてはドロテアやヒルダにも参列して欲しかったのだが、強制しても聞いてくれない相手であることも重々理解しているので、いない時点で潔く諦めた。


―― 終わりのある戦いの、人々が気付かぬ序章 ――


 《選帝侯やギュレネイス神聖教徒が参加する、最後の式典》 それを理解しているのは、誰でもないセツであり、主役であるファルケス。
 ぎりぎりの均衡を保っている世界は、あと少しで崩れる。
 ドロテアはその崩壊を瞼の裏に描きつつわらい、ゆっくりと目を開いて視線を動かす。
 聖騎士として警備に携わっているマリアをみつけて目を細め背を向けた。少しの間どこかで時間を潰そうかと歩き出した時、
「あ、姉さん」
 決着をつけなくてはならない相手と対面した。
「どうした? ヒルダ。お前式典に出ろって言われなかったのか?」
「言われましたけど、断りました」
 ドロテアはヒルダの判断を聞き、腕を組み口の片方を釣り上げる得意の姿勢をとった。
「話があるんですけれど」
 ヒルダは姉が《自分がなにを聞こうとしているのか》解っていることを知り、引き返せなくなる。
「昼飯の献立とか、晩飯の店はどこにしたら良いかとか? そういうヤツか?」
 ドロテアは《ヒルデガルド》と世界について正面から話し合う日がくるとは思ってもいなかった。それはヒルダも同じことだった。

 なぜ自分達が世界について語るのか?
 
「違います。それも凄く聞きたいんですけど、今話したいのは、私の改派についてです」
 ヒルダは不思議だった。
 ヒルダの人生は姉ドロテアとは違う。
 平坦なもので終わることしか考えておらず、それを信じていた。だがその平坦な世界が終わろうとしていることに気付いた。終わろうとしている原因は、他でもない自分の意志であることに驚きつつ、不安になりながら。
「解った、少し場所を移動しようぜ」

 開始合図のラッパが鳴り響き、驚いた鳥たちが一斉に空へと飛び上がる。

「はい」
 その音にかき消されることなく声は通った。
 二人は大きな道から逸れてアーケードで覆われた小径に入り城壁へと向かった。両脇にも家が建ち並んでいる小径は暗く、ひんやりというよりは寒い。
 アーケードの切れた先に見える陽光に照らされた城壁の元に辿り着き、ドロテアは城壁に背中を預け、ヒルダは来た小径に背を向け向かい合う。

 遠くから響く聖歌を聞きながら、ドロテアは尋ねた。

「話ってのはなんだ?」
「昨日、神学校時代の友人と会いまして。 ”改派するの?” と皆に聞かれたのですよ。その周囲にはザンジバル派の方々も居て、どう見ても聞き耳を立ててました」
「それで?」
「誰にも答えませんでした。それで本来なら自分で決めるべきですが、姉さんの意見も聞きたいのです」
「意見な……その前に一つ、俺の予想というのがあるんだが、聞くか?」
 ドロテアは髪をかき上げて、質問の答えではない事を語ると言いだした。
「はい?」
 単刀直入に答えを返す姉には珍しいことだと思うと同時に、非常に厄介なことでもあるのだろうとヒルダは思った。
「言っておくが、何一つ救われる要素がなく、高確率で現実のものとなるが、誰も止める事は出来ない。それでも聞くか?」
「……はい」
 暖かい日差しから熱が消えたような気がしたヒルダは、姉の目を確りと見て話をきく姿勢をとった。
「解った。セツは近いうちに俺に依頼するだろう。どんな依頼をするとお前は考える? ヒルダ」
「え? 依頼ですから……依頼? セツ最高枢機卿が姉さんに? なんだろう? 全く思い浮かびません」
 ”この二人が、依頼する人、される人なら普通のことじゃ済まないよな”
「”センド・バシリア共和国から派遣された兵士達を殺害してくれ” セツという最高枢機卿、エド法国の実質的支配者として依頼してくる筈だ」
 大まかには当たっていた。
 だがそんな答えは考えたこともなかった。
「何故ですか?」
「宗教戦争が起こるだから」
「……」
 宗教戦争に最も加担しないように見えるドロテアの言葉に、意識せずにヒルダは首を傾げた。
「俺は宗教戦争に直接加担してくれと依頼される訳じゃねえぜ」
 ドロテアはヒルダの意志をくみ取り、首を振り否定する。
 その時ちょうど吹いた風がドロテアの髪を軽く舞い上がらせた。風踊るのトルトリアのそのものの女は、白亜の壁の向こう側には砂漠が広がっているのではないかと思わせる程。
「ではいつ殺すのですか?」
 髪が揺れただけで世界の色が変わる女。
 それは世界を変える女には備わっていて当然とも言えよう。
「トルトリアで。世界規模で軍隊を派遣してくるだろうから、そこで殺害する」
 大砂漠を思わせる女は故郷で人々を殺害すると、楽しげに語る。その桜色の唇が微笑む様に狂わされて人が多数いるのだろうと、ヒルダはこの時初めて実感した。
「まさか……魔帝を討つために?」
「その通り。無駄に殺される存在だけどよ、ここで間違い無くセツは頭数を減らして欲しいと依頼してくるだろうよ」

**********


 青地に金で紋様が刺繍されたカーペットの上を歩く
 赤い髪が揺れる。風にたなびく黒地に金で縁取られた海賊国家の旗
 歩いてゆく先には法王 アレクサンドロス四世がいる
 彼には決して近付くことができない
 その手前に立ちはだかる男が一人。次の法王、セツ

**********


「自分達の住んでいる場所を守るんだ。軍隊くらい派遣されてくるだろうよ。それは当然だろうし、それ以外軍隊なんか使い道はねえ」
 軍の使い方としてはヒルダも間違ってはいないと思うが、なぜドロテアがそれを引き受けるのかが謎だった。
「姉さんは引き受けるのですか?」
「引き受ける。なあ、ヒルダ」
 ドロテアは組んでいた手を放し、右手でヒルダの頬に触れた。
「はい」
「この前イシリア教国で戦った時、楽しかっただろ」
「……」
 突然の話の ”移動” にヒルダは驚く。ドロテアの意図が分からずに口はこわばり、視線は逸らす事が出来ない。
 解ったのは陽光の温かさを自分は今、全く感じてはいないと言うことだけ。
「エド正教徒もギュレネイス神聖教徒もイシリア教徒と一緒に楽しく過ごしただろ? 飯作ってみんなで食って、一緒に作戦行動して。足手まといがいたり、裏切り者がいたりしたが、それは個人で、ほとんどの奴等は必死に協力しあってエビオスを倒したよな」
「はい」
 言われてあの時のことを思い出す。
 死人が歩き、生きた死人が苦笑し、少女が差し出した玄色の骨壺。
「心地良かっただろう?」
 全てを信頼していたわけではないが、いつもならば信じないだろう相手をも確かに信頼していた。苦難は去り、最良ではないが納得出来る結果だった。それを思い出したとき、ヒルダの胸には肌には感じない陽光の温かさにも似た ”もの” が現れる。影などはなく、柔らかいそれは幸せに近い。
 だがどこかが違う。
「言われてみれば、とても楽しかったです。たしかに治安も良くはなく、人々は疲れ果てていましたが、あの時ほとんどの人達の心に宗教の垣根は無かったと」
 胸にある優しい光を言い表せないもどかしさと共に、ヒルダは答える。
「俺だって楽しかったぜ。強大な敵に心を一つにして立ち向かう。最高じゃねえか」
「そうですね。今まで感じた事がない程に一体感を覚えました」
「俺も感じた。それと同時に、二度してはいけないと知った」
「どうしてですか?」
 その優しい光を放っていた ”もの” が消えた。
「楽なんだよ。支配者にとって、為政者にとって、これほど楽な統治方法はねえんだよ。どこかから現れた強大な敵に立ち向かう為に、人々は心を一つにして、己の命をも省みず、大切な人を守るために戦う。一人一人は弱いけど、みんなの心が一つになった時、人は力を生み出す……ってね。体の良い洗脳だ」
 ヒルダも気付いた。
 あの心の中にあったものは、優しく幸せな気がするのだが、決して幸せではないのだと。何故か? 忘れていたのだ、あの時どれ程の犠牲があったかを。
「強大な敵に皆の心を一つにして立ち向かうのは……間違いですか?」
 無力な人々の死の上にある幸せは真の幸せではない。
 それを教えられてきたヒルダですら ”酔った” あの時の気持ちに。
「構わねえよ、構いはしねえよ」
 心の中にあった ”それ” はヒルダの体で弾けて、酔わせてゆく。
「なにが問題なのですか?」
「問題は山ほどあって解決はしねえが、今最も問題視しなけりゃならねえのは、今俺達が倒す魔帝が最後の最大の敵だってことだ。あのイングヴァールの野郎を倒したら、人はあれ以上の敵と対峙することは二度と無い」
「良いことではないのですか?」

 そしてあり得ない速さでヒルダを二日酔いにする。

「一度覚えた蜜の味を忘れるのは大変だぜ、ヒルダ。強大な敵に立ち向かい心を一つにする方法を覚えてしまった為政者は、その味を忘れられない。強大な敵に立ち向かう時、国は一つになれる。自分の支配している国が強固な結びつきをもち、一つの敵に立ち向かう。その姿、崇高と讃えるだろうよ。そして人々も熱に浮かされる、ああ俺達は一つになった時、あんなにも強かったじゃないか! 僕たちの心が一つになれば、全ての敵を滅ぼせる。滅ぼす敵はもういない? もういない? いや、居るじゃないか! と」
 今、ヒルダも酔った。
 蜜よりも甘く、そしてすぐに酩酊を覚える味。優しく穏やかな表情で肢体を満たすそれは、危険だった。
「その結果……」
「宗教戦争だ。長い間燻っていたところに風が吹き込まれ、炎が立つだろう」
 あの気持ちのまま「皆で立ち向かおう」と号令をかけられたら、自分も従ってしまっただろうとヒルダは身震いする。
「回避するのは無理ですか?」
 背を伝う冷や汗と、乾いた口内。
 いつの間にかドロテアの後ろに広がっているように感じていた砂漠は消え、その壁の向こう側には大地などなく白いだけの世界が広がっているかのように感じた。
「しても良いが、出来ないだろうな。人はいつだって、心を一つにするために敵を作らなければ生きていけない。過去にエド正教から分離したブレンネル正統聖教もそんな流れの一つだったんだろうよ。でもな、今までは人以外にも存在した。だから滅びるまではいかなかった。だが魔帝イングヴァールを倒した時それは終わりだ。それ以降、人は自ら強大な敵を作らなけりゃならねえ。その敵は戦ってくれなけりゃならねえから、やっぱり人以外にいない。そして人は思い出すんだ、ブレンネル正統聖教とエド正教の争いを」
「……」
 分裂後、確かにエド正教は規律を引き締める。そして他教との戦線が膠着状態になった時、急激に腐敗してゆき、再び腐敗を排除したのはやはり ”争い”。魔王の存在だった。
「ギュレネイス側は傭兵を蓄えてやがる。俺がやるのはその蓄えを狩って、宗教戦争が起こる時期を少しだけ遅らせることだ。混乱に乗じて戦争ふっかけられたら、みんな困るだろう? 戦争用意してた奴等以外はよ」
 それを必要悪というのは簡単だ。
 自分さえ無事であれば、必要悪だろうが受け入れられるものだ。
「どの程度、殺害するつもりなのですか?」
「約五年分の兵力を削ぐ。アレクスが死んで、セツが法王になる程度の期間。それ以上はセツの野郎が望まねえよ。戦って勝つのが目的なんだから、必要以上に削がれても困るんだよ」
 ドロテアはヒルダの頬から手を離して、自信に満ちた笑いを浮かべた。セツが絶対に宗教戦争を起こすことを信じて疑っていないその表情に、そのセツが重なった。
「敵を作らず争い事を起こさずに、人々を導くことはできないのでしょうか?」
 似ていると言われる所以がここなのだろうとヒルダは俯く。
「出来るんだろ? ヒルダ。お前は”そう”習ったんだろう? ヒルダ。このエド正教の神学校で、教えられて信じたんじゃねえのか?」
 遠回りであり、ドロテアの意見はなかったが、ヒルダの意志は決まった。
「確かに”そう”教えられましたし、信じて……私は信じて……信じて……」
 自らの聖印に触れて顔を上げて、

「信じています」

 明言した。
 敵を作らず争い事を起こさずに人を導くことを信じる為には、必要悪として敵を作り争いで勝利して統治する方法を選ぶセツとは同じ道は進めない。
「答えは出たようだな、ヒルデガルド」
「はい」
 深呼吸したヒルダのは ”次へ” 向かう為に笑って頷いた。

 ラッパが鳴り響く。ファルケスが枢機卿になったことを知らせるラッパが。

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